「しまったな」
「どうすんの。先生のお願いたった数時間で破綻しそうなんだけど」
夏油と家入は結界を張った部屋で話し合っていた。此処は謂わば敵の本拠地。誰が聞いているのか分からないのだ。
数時間前、夜蛾にお願いされたのは彰人の逃走を手伝う事だった。
此の東雲家では長子がとても重宝され、その他の弟妹達は東雲家の名誉の為にその場で殺される事が決められている。然し彰人の場合は例外である。母親が五才になるまで待ってくれと泣いて懇願した結果、その日まで先延ばしにされたのだ。異例中の異例
それが今日だった。彰人はまだ四才の誕生日を迎えていない。本来なら11月12日迄の猶予がある筈なのに、何を考えたか本家は約束を無視して彰人を殺そうとしている。
何故その時縛りを設けなかったのかと夏油は難色を示したが、過去は変えられない。今ある現実だけが全てなのだ。
彰人が屋敷の中で異質だったのは三人も勘付いてはいた。然しそれを咎めて更に彰人の立場が悪くなる事を危惧した三人は何も言わずに自分達だけは普通に接しようと決めたのだ。
絵名も同じだ。絵名は本家では蝶よ花よと接されていたが、子供の勘なのか。絵名は其の対応に気持ち悪さを覚えていた。
だから此の二人だけは守ろうと。普通の子供の様に接しようと。普通の愛を与えようと。そう決めたのだ。
「傑!硝子!」
「来たか。よく此処がわかったね」
「如何言う事だよ。閉じ込められてるって」
五条は息を切らしながらそう言った。此処まで走って来たのだろう。額に汗が滲み出ており、髪が少しへばりついている。
「私も驚いたさ。でも捜索系の呪霊を何体か使って探したが皆此処にたどり着いたんだ。然し屋敷には彰人の影は無かった。だから使用人を少し
「で?彰人は何処に閉じ込められてるって?」
「地下の修練場にある牢屋だって。早く行かないとまずいよ」
五条は夏油と家入の説明を聞いて怒りが沸々と湧いてくる。
——あぁ、だから嫌なんだ。呪術界の上層部は。
「取り敢えずバレないうちに行こう。出来るだけ物音を立てない様に、悟」
「いや何で俺なんだよ」
「君が一番心配なんだよ」
「あ?」
「ほらクズ共。こんな時に喧嘩すんじゃないよ」
家入は喧嘩が勃発しそうな五条と夏油を窘める。いつもなら横目がちに面白がるかその場から逃げるだけなのだが今はそんな事を言ってられない。今は一刻を争うのだ。
若しかしたら彰人は一人で泣いているかもしれない。何処か怪我をしているかもしれない。そう思うと居ても立っても居られないのだ。
「絵名は如何した」
「大丈夫。絵名は灰原と七海が見てくれてる」
「なんか髪にリボンとか付けられてたけどね。後で写真あげる」
これは完全に極秘だ。屋敷の使用人は愚か、絵名や他の呪術師にもバレてはいけない。所謂裏切り行為だ。普通の人間なら頼まれたってしないだろう。
然し彼等は普通では無かった。
五条は己がしたいことをし。
夏油は口では正しい事を諭しているが根本的には五条と同じで。
家入は基本的には何も考えていない。
彼等には同情圧力というものは存在しない。故に造反も平気でするのだ。
己の正しさを信じ、真正面から突っ込む。
それが彼等なのだ。
「よし。じゃあ行こうぜ」
五条は襖を開けて左右を確認する。呪力の気配は無い。今は此処らへん誰も居ない様だ。三人は音を立てずに部屋を出る。
————
「トイレ行きたい」
「トイレ……ですか」
絵名はそう言って勢いよく立ち上がった。サラサラな髪を乱雑にリボンで結われた七海はげっそりした顔で聞き返した。子供の体力とは恐ろしいもので。数時間遊んでもピンピンしているのである。
「じゃあ一緒に行きましょう!」
そして七海とは対照的に潑剌とした笑みを浮かべる灰原もまだ元気がある様で絵名の発言にも律儀に丁寧に返答をしていたのである。灰原の髪にも髪飾りが施されており、丁髷の様に短い髪が垂直にして聳え立っていた。
灰原は妹がいる様で、幼い子供の扱いは七海も感心するところは多々あった。きっと良い兄なのだろう。と。
対して七海は子供の扱いが上手いと言われれば其れは否である。沸点も分からず、笑ったかと思えば突然泣き出す。何処其処歩き回るし危ない何かを平気で触ろうとする。世の親は此れを相手にしているのかと、七海は感心まで覚えた。
「ほら!七海行くよ!」
「分かったから少し待て」
七海は髪に付いているリボンを取り立ち上がる。こんな状態を五条に見られでもしたら笑い物にされるに違いないからだ。然し先程先輩である家入と夏油に出会してしまい仕舞いには写真まで撮られたのだから笑われるのは時間の問題だろうが、其処は少しの足掻きだ。
長めの廊下を歩き、角の所が便所になっている為少し歩かなければならない。灰原と絵名は手を繋ぎながら歩いていた。廊下は無駄に広い為並行で歩いていても邪魔にはならないが、七海は少し気を使って二人の後ろを歩く。後ろを歩いていても定期的に後ろを向き話を振ってくれる為七海も疎外感を感じなかった。
此の屋敷は時代遅れな和風の建築の癖に中の設備は最先端を行っており、トイレも洋式で手洗いも自動式になっている。矢張り金の力は偉大なのかと七海は心の中で冷笑した。
「あ!」
と絵名は声を出した。二人は何事かと下を見下す。絵名の手に持っていた猫のぬいぐるみが地下に続く階段に落ちてしまったのだ。絵名は考えるよりも先に身体が動き、直ぐに地下へ降りた。あれは五条がプレゼントに買ってくれたぬいぐるみなのだ。絵名はそれを宝物の様に大事にしていた。
七海と灰原は目を見合わせる。此の地下室は普段は施錠をされているのだ。確か此処は修練場の筈だ。
二人は血の気が引くのを感じダッシュで降りる。途轍もなく長い階段は薄暗く、壁に設置されてある蝋燭だけが足元を照らしていた。修練の間には一級以上の呪霊が飼われている。此の儘では絵名が危ない。
然し目の前には絵名は見えず、薄暗い景色が続いている。
到頭絵名を捕まえる事は出来ずに二人は地下に着いてしまった。其処は鉄の匂いが充満しており、血の匂いなのか、それとも鉄格子が錆びた匂いなのか分からなかった。
直進になっている廊下をひたすら進む。
「大丈夫かな?お嬢……。怪我してないといいけど」
「分からない。だから急ごう」
地面を蹴って。蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って。
七海の中に嫌な予感が溜まっていく。
突然開かれた地下室の鍵。何か思い詰めた様な二年の先輩の顔。そして時期はずれの呪術師総会。何か途轍もない事が起こりそうな予感がした。然しそれは七海には分からなかった。
——ただの杞憂だったら良いのだが。
然し七海の予感は
無情にも的中したのだ。
突然前から来る爆風。それと共に飛んでくる瓦礫。耳を劈く様な爆発音。
七海とは灰原はそれに耐えきれず吹き飛ばされた。身体は壁に叩きつけられ、視界がチカチカと点滅する。息も上手く吸えず脳味噌が痺れる。
此処まで吹き飛ばされたであろう倒れている呪術師はもう意識はなく、死んではいないが今際の際だった。
真逆呪霊が来たかと二人は身構える。然し二人の目の前に現れたのは呪霊などではなかった。
血塗れの彰人を抱えて。
流しているのは血なのか涙なのか分からない。
東雲絵名の姿だった。
呪霊よりももっと恐ろしい。
我等が王が。
目の前に明確に殺意を向けて立っているのだ。
七海と灰原の体に濡れた感覚が伝わる。汗だ。
指の第一関節でも動かせば殺されそうな空気に二人はただ身構えるしかなかった。息を飲む事も許されない状況に、二人はただただ汗を流している。先程まで一緒に遊んでいた彼女が、此の一瞬で豹変する理由。
二人は考えなくても分かってしまう。
それは絵名が抱えている彰人の姿が全てを物語っている。
「……灰原。私が合図したら後ろに走り出して先輩を呼んでこい」
「七海一人で如何にかしようっていうのかい?」
「如何にもならないから速く呼んできてくれ。頼む」
「……分かった」
シンとした空気が流れる。物音は一切せず、二人の耳には耳鳴りですら鳴る程だ。
そして湿気による雫が
ピチャンと音を立てて落ちた。
「今だ!」
それを合図に七海は前へ、灰原は後ろへ駆け出した。
絵名も駆け出し、秒で七海との距離を詰める。そして七海の頭に踵落としを喰らわせた。人一人を抱えているのにも関わらず俊敏な動きだ。
もうあぁなってしまった絵名には誰の声も届かない。
然し考える暇もなく次々に攻撃が繰り出される。防御をやめたら即死だ。
狭い所は七海にとっては不利だが、今地上に出すにはいかない。それこそ人類滅亡待ったなしだ。今の絵名は自分以外は全て敵と思っている。目に映るもの全てが己や弟に害を為す存在だと。
弟を大切にしていた絵名にとって、弟の其の姿は受け入れられるものではなかった様で、未だ六才の絵名の心を壊すには充分すぎる要因だった。
それを知ってか知らずか、七海は反撃する事なく防御に徹している。せめて自分は敵意がない事を、味方だという事を理解してもらう為だった。
否、それは後付けにしかならない。
本当はこんな追い詰められた絵名を、大切な家族を傷つけられた絵名を、如何して傷つける事が出来ようか。
七海は必死に攻撃を避ける。四才とは思えない攻撃力の高さだ。
然し戦術が上手いと言われればそうではない。攻撃力は桁外れだが、彼女はまだ六才。太刀筋に粗が見られる。
腐っても七海は呪術師だ。当然ながら絵名より相場は踏んでいる。此処でやられる訳にはいくまい。
七海は次々攻撃を避ける。絵名の呪力切れが狙いだった。反撃が出来ない以上、相手のスタミナが切れる迄避けまくるしかない。七海に其れ迄の呪力があればの話なのだが。
「………あぁ?」
腹に熱さがじわじわ感じる。そして口に広がる鉄の味。腹には鉄格子の鉄柱が貫かれているのだ。
油断していた訳ではない。侮っていた訳ではない。なのに何故攻撃された?
などと誰に聞こえる訳でもない言い訳を自分に問いかけ、足に力が入らなくなった七海はその場に音を立てて倒れた。其の拍子に思いっきり出た血液が地面に広がり、七海の服を濡らしていく。
甘かったのだ。何もかも。絵名相手に防御だけで勝とうなど。
——終わったな。私。
遠のいていく意識の中、七海は走馬灯の様に今までの思い出が蘇っていく。
そして霞む視界の先で、彰人を抱えた絵名は七海を通り過ぎて階段方面へ向かう。
——駄目です。お嬢。
——貴女はまだ背負わなくて良い。
——そんな奴らの命を、人を殺す業を背負わないでくれ。
そう思い手を伸ばそうとするがもう身体は動かない。
「駄目だよ。絵名。そんなお転婆な事をしちゃあ。七海が可哀想だろう?」
少し高く、優しい声が辺りに響き渡る。其の声の主が夏油だという事に気づくにはそう時間は有さなかった。七海は力を振り絞って前を向く。
其処には出口を塞ぐ様に、五条、夏油、家入が一列に並んでいた。
「死にかけだね。七海。助けてやろうか」