ただ絵名は猫のぬいぐるみを落としただけだった。いつもは近づいてはいけないと口酸っぱく教えられていた地下室に。けれど絵名は降りる事を躊躇わなかった。絵名にとってぬいぐるみは宝物だったのだ。
然しそれが間違いだったのだろう。結構下まで落ちてしまったぬいぐるみを追いかけて到頭地下室に入ってしまったのだから。
鉄の匂い。それは絵名の鼻を刺激した。慣れない匂いに困惑しつつ、絵名は何を考えたか廊下とも呼べないまるで洞窟の様な通路を進んでしまったのだ。
それは紛いも無いただに好奇心だ。
そうして端にある鉄製の扉を、最も簡単に開けてしまった。
其処は特に血の匂いが充満していた。
数人の屈強な男達が立っており、其の中心には血塗れの彰人が寝そべっている。
彰人には血がべっとり付いている。
血が。ちが。チが。赤く。真っ赤で。埋め尽くされていた。
傷が、パカっと開かれ、開き、トクトクと、ドロドロと、地面を、床を紅く染め上げて、
真っ赤に。赤く。赤い血が。
あか
アカ
赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹赤紅朱緋赫赭赧彤丹。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
絵名は叫んで彰人に駆け寄る。涙は出なかった。その代わり冷や汗が大量に出る。
何でだ。彰人は友達の所に行っていたんじゃ無いのか。何故こんな所で倒れているんだ。何で何で何で何で何で何で。
「何で彰人が血塗れなの?」
絵名は側にいた男に聞く。然し絵名にはそれが聞こえなかった。否、聞こえてはいたが理解が出来なかった。まるで猿の鳴き声の様な甲高い声は絵名によっては不快以外の何者でもなかった。
そして限界が来た絵名の額の血管が
プツンと切れた。
◆◆◆◆
絵名は怯えていた。たった一人の弟が失ってしまう恐怖に。それ故に彰人を掴んで離ず、守る様に抱きしめて此方を睨んでいた。力強く。傷口を押さえて。
獣の様な目が夏油と五条を掴んで離さない。大凡子供がして良い目ではないだろう。子供はもっと純粋で、清純で、綺麗な目をしていなければいけない。
そんな絶望と殺意に満ちた目をしてはいけない。
二人に緊張の糸が走る。こんなに緊迫した空気は去年に一級呪霊を相手にした時以来だった。早くしなければ奥の部屋から呪霊が来てしまう。此処の呪霊は一級以上だ。絵名と並行して一級の呪霊を相手するのは、最強の二人であっても少々面倒くさい状況だった。
「絵名。取り敢えず彰人を此方に渡してくれないかい?手当てをしたい」
夏油は角が立たない様に優しく絵名に問いかける。然し絵名には其の声は届いておらず、依然として此方を睨んでいた。夏油は絵名を刺激しない様にゆっくり近づく。
然しそれを遮るかの様に、地面を裂いて鋭利な棒が夏油と五条の頬を掠める。五条は無限の発動が間に合わず頬に赤い線が出来、其処からドロドロとした液体が流れる。
「駄目だ悟。話が通じない」
「だな。じゃあ実力行使だ。先ず彰人を絵名から離そうぜ。あのままだと彰人は出血多量で死ぬだろ」
「私も同感だ」
二人は同時に地面を踏み締め駆ける。五条は真っ直ぐに、夏油は少し逸れて走り距離を詰める。絵名からの攻撃を避け、止まることなく。
絵名は今彰人を手に抱いている。ならば絵名の攻撃方法は〝眼〟だけだ。それに頭の中で明確に想像しなければ現実に反映されない。
ならば考える暇など与えなければ良いのだ。
五条は今度こそ無限を発動させて真っ直ぐ突っ込む。絵名が
夏油は後ろに周り絵名を抑える。絵名が手を使えない以上、攻撃対象は一人に絞られる。相手が呪詛師だったのなら二人は両肩から切断をして相手を救出するのだが今回はそうも行かない。
相手は絵名だ。絵名の手を切断するなど、あってはならないのだ。
夏油は転がっている石を4、5個掴み絵名に向けて投げる。子供に石を投げるなど倫理的に如何なんだと夏油も内心思ったが致し方ないと自分に言い聞かせる。
絵名は其れを察知したのか振り返り片手ではらう。
それを待っていたかの様に五条は絵名から彰人を引っぺがして距離を取る。絵名はキョトンとした目をした後、青ざめ叫びながら五条に駆け寄る。
恐らく殺されると思っているのだろう。其の表情は怯えており、歪んだ瞳で五条を見ていた。
「やめて……」
絵名は声を震わせ呟く。
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!!お願いします!何でもしますから彰人だけは殺さないで!!お願い!お願いします!!代わりに私を殺してもいいから!!お願いお願い!!」
額を地面に擦り付けながら叫ぶ。
五条は絵名の頭をそっと撫でる。優しく、慈愛に満ちた手つきで。
「大丈夫だ。俺たちは彰人を殺さねぇし、他の奴にも殺させねぇ。約束する」
絵名は涙を流しながら見つめる。五条の顔は今までに無い程に優しかった。夏油も五条のこんな顔を拝んだのは今まで無いらしく、目を見開いていた。——何だ、そんな顔も出来たのか——と。
「ほんと?ほんとに?彰人を助けてくれるの?」
「任せろ。俺が今まで嘘を吐いた事あったか?」
「……うん」
絵名は少し考えた後に頷く。
「うん。悟は嘘しか言わないからねぇ」
「はぁ?俺は素直ですぅ。不細工には不細工って言いますぅ」
「それは人間として如何なんだ」
三人の間に何時もの空気が流れる。絵名から徐々に、本当に徐々にだが警戒は薄まっていく。
「絵名。彰人を預かってもいいかい?安全な場所へ連れて行きたい。」
「本当に……信じて良いの?」
「勿論だとも。この命に変えても護り通すよ」
絵名は其の言葉を聞き涙を流す。絵名にとってはこの世でたった一人の大切な弟なのだ。
五条は絵名が頷くのを見て夏油に彰人を渡した。優しく、割れ物を扱う様に。其処で夏油はある事に気づく。
「絵名。君、反転術式って知っているかい?」
「え?何それ。知らない」
「そう……知らないのなら良いのけれど」
彰人は身体中血塗れで、肌色が見える所なんて少ししか無い。
だからこそ気付かなかったのだ。
彰人の傷がものの見事に塞がっている事を。
反転術式。負の術式を掛け合わせる事で正のエネルギーを生み出す術。そして此の「正のエネルギーによって人間の身体を治癒する事が出来る。所謂回復術だ。
然し反転術式を行う際の呪力消費は想像を絶するもので、呪術師でも使える物は極僅かだと言う。実際高専東京校でも使えるのは家入のみだ。それを無意識下で、しかも術式を発動させながら行うのは御三家の出の五条も聞いたことは無かった。
そうだとしたら後は簡単な話だ。。彰人を準備が整う迄安全な場所で匿えば良い。
然し其の思惑は、冷たい地下室に簡素に響く拍手と共に消え失せた。
「いやぁ。面白い物を見せて貰えた」
ドッと、五条と夏油の心臓が跳ね上がる。低く、這いずる様な声。聞き馴染みのない、けれど一度聞いたら忘れられない声。
二人はゆっくり振り返る。
「あ、お爺ちゃん」
絵名にそう呼ばれた中年の男はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
——まずい。バレたか。
夏油は体に呪力を巡らせる。こうなる事は想定済みだ。
正直、二人で戦っても勝てる相手ではない。相手は東雲家の当主。否、それ以上に此の二人より相場は踏んでいる。
絶望的な状況だった。
「
「……え?」
五条の口から間抜けな声が漏れる。此の男は何を思って「良い」と言ったのだろうかと、二人は目を見合わせる。
「彰人の処分を撤回しても
「……そのしれんを出来れば彰人は助けて貰えるの?」
「うむ。如何する」
「やる」
絵名は考える間も無く頷く。彰人を確実に助けられる道筋が見えたのだ。絵名に断る理由がどこにも無い。
夏油と五条は目を見開いたが、止める事は出来なかった。
それは彰人を見殺しにすると言っている様な物だ。それは絵名が一番許さないだろう。
「着いて来い。悟と傑は上で待っておれ」
素直に返事はできなかった。本当は反論したかった。然し一番憤慨しているであろう絵名が耐えているのに、自分たちが何を言えようか。
「……御意」
五条と夏油は返事をしてその場を去る。
残された絵名はキッと当主を睨みつける。いくら身内とはいえ、大切な弟を傷つけられてはもう笑いかけることは出来なかった。
当主は絵名と目を合わさず足を進める。絵名もそれに倣い歩き出した。
そして着いた先はとある広間だった。一見何もない空間だが、絵名は少し後ずさった。
嫌な予感がするのだ。
「知っているか?絵名。此処には一級以上の呪霊が無数に飼われているのだ。然し奴等も所詮は生き物。偶には餌を与えてやらんとな」
絵名の様子が見えていないとばかりに当主は話を続ける。それは絵名に話しかけている様に見えて独り言の様だった。
「然し最近は此奴ら女しか喰わんようになってのう。それだけだったら良いんだが、最初に身体を弄んでから喰うようになって困ったものじゃよ。呪霊と人間の間に子をこさえる事は出来んのに」
絵名は当主が何を言っているのか分からなかった。当然である。絵名はまだ六才だ。そんな難しい事を理解出来る訳がないのだ。
「そして此の部屋が何と呼ばれているか知っとるか?」
其の瞬間。
絵名の身体は宙に浮き、一番奥の壁まで叩きつけられた。
「処刑場だ」
絵名の口に鉄の味が広がる。絵名は直ぐに立ち上がる事が出来ずにその場に蹲って息を整えた。
「彰人が先に産まれて来れば良かったのだ。男児である彰人が。そうすれば此の東雲家も安泰だったのに……貴様が先に産まれた所為で其の伝統が狂ったのだ。彰人を見逃す?当たり前だ。貴様が死ねば
当主はそう吐き捨てくるりときびつを返す。
「ではな。東雲家のイレギュラー」