男が逃げる。幼女が歩いて追う。
無様な光景であった。幼女より一回り二回り、いや、三回り大きい屈強な男がだらしなく涙と涎、然も鼻水を流しながら逃げているのだから。
其の男は彰人を痛めつけた男どもの一人だった。
然し絵名には如何でもいい事だった。
「ヒッ……辞めて下さい!どうか!どうか命だけは……!殺さないで下さい!」
男は地面に額を擦り付けて懇願する。いや哀願か。まだ此の男は目の前にいる化け物に情があると思っているのだ。
此の男は殺しが大好きだった。特に呪詛師を殺す事を快楽としていた。何度も、惨たらしく。
然しこれは違う。
こんなのは望んでいない。
「殺さないで?可笑しいよ。お兄さんも
そう言って自分の腕を刃物に変えて其の男に刃を振るう。
阿鼻叫喚だ。何処其処で悲鳴が聞こえる。屋敷から出ないように結界を張って被害を最小限に食い止めているのだが。それが恐らくいけなかったのだろう。
其の結界の内側は残酷そのものだった。
死ぬ事もできず、ただ延々と痛めつけられる。謂わば此処は絵名にとっての
今の絵名は術式の暴走に伴いハイになっているうえ倫理と道徳が欠如してしまっている。自分以外皆玩具なのだ。
ある者は四肢をバラバラにされ。
またある者は身体を異形に変えられ。
まるで地獄だ。
此の結界内では一日をループしている。つまり、どれだけ怪我をしても身体が欠損しても、二十四時間経てば元通りとなる。文字通り生き地獄だ。これ以上の惨劇はあるだろうか。
絵名はもう何も考えていなかった。頭がぼうっとし、脳味噌がドロドロと溶けている感覚になる。上手く考えられない。思考が出来ない。だから良し悪しも分からない。分かろうともしない。だから絵名は本能で人を殺す。繰り返し殺す。
今の彼女に、弟など映っていなかった。
死にたいが殺意に変わり、殺意が快楽に変わる。そして出来上がったのが無邪気に笑っている化け物だった。狂気の沙汰とでもいうのだろうか。
「あー。それにしてもお腹空いたなぁ。人間のお肉って食べれるのかな?」
そう言い絵名は先程自分が殺した男をマジマジと見る。然し其の男はお世辞にも食欲を唆る姿をしておらず、絵名は眉間に皺を寄せ、溜息を吐きながら其の場を後にした。食べるのは綺麗なものがいい。血が付いていない、綺麗なお肉を。
然し残念な事にそんな人間は此の場には居なかった。絵名が全て壊してしまったのだ。明日になる迄待つべきか否か考えたが、如何にも腹が減って仕方がない。否、若しかしたら胃が破られ、激痛のよる熱さを空腹と勘違いしているだけなのかもしれない。
「たかな」
高く、声変わりのしていない声が辺りに反響する。
「あ、棘くん。どうしたの?帰ったんじゃないの?あれ?あ、分かった!また遊びにきてくれたんだ!嬉しいなぁ!」
其処には狗巻が一人で立っていた。狗巻は口隠しをしておらず、口の両端にある紋章が露わになっていた。
絵名は狗巻の方へ走る。狗巻なら遊び相手になってくれる。此の空虚を埋めてくれ。
狗巻は大きく息を吸って呪力を音に乗せた。
『止まれ』
其の言葉が絵名の鼓膜を刺激した瞬間、絵名は自身が岩になったかの如く動けなかった。それは恐らく数十秒程の時間が経っただろう。手が届く程に近いとも言い難い距離に居た狗巻はもう目と鼻の先に迫り、短刀を振り翳していた。其の短刀は鞘に納められており、狗巻に殺意が無い事は見て取れた。
絵名は
目が合う。狗巻の藤色の瞳と、絵名の栗色の瞳が交差し、二人の間に静寂が包む。
先制したのは狗巻だった。
『ぶっ飛べ!』
絵名は宙に舞ったまま何かに押される様に吹き飛ばされた。様々な木々を貫通して、勢いが治ったのか地面に転がる。絵名の身体に木の破片が刺さり、まともな子供であればその痛さで泣き叫ぶであろう。
然し絵名は依然として笑みを崩さなかった。其の笑みは子供が持つ純粋さではなく醜悪そのものだった。
絵名は足に力を入れ、地面を抉る勢いでかける。大凡子供の歩幅では半日掛かるであろう其の距離でさえ、今の絵名にかかれば数秒で駆け抜ける。
祖父や数多の呪術師が時期当主に成り上がらせる為に血反吐を吐かせながら叩き込んだ体術は、皮肉な事に今発揮されたのだ。
目の前に狗巻の顔が映る。狗巻にとっては瞬きした一瞬だったろう。狗巻は困惑する隙も与えられず、腹を蹴られ吹き飛ばされる。屋敷の障子を破り、畳の上に受け身を取りつつ転がる。普段訓練していなければ恐らく此の人蹴りで死んでいただろう。
「うーん。もう少し飛ばせる予定だったけど、まぁ良いや」
絵名はそう言い一歩、また一歩と屋敷に近づく。遠くで歌声が聞こえる。そして太鼓の音も。いや、然程遠く無いのかもしれない。若しかしたら絵名の幻聴かもしれない。然し絵名にとっては如何でもいい事だった。
其の距離は0になり、縁側に上り部屋の中を見る。中は障子が破られており、家具も無造作に倒され、シーツも破かれていた。
それだけだった。
それだけしか部屋に存在しなかった。
狗巻の姿は何処にも無かった。跡形もなく消えていたのである。
後ろから足音が聞こえた。瞬時に振り返ると、短刀を構えている狗巻がいた。しっかりと絵名を射止めて。今度は鞘を抜いており、きらりと銀色の刃が煌めく。
そしてその刃は絵名の心臓を貫いた。絵名の肉の内側から赤い液體が溢れ出し、狗巻の手を汚した。
絵名は己でも未だ理解ができていない反転呪術を使おうと呪力を流すが、呪力が分散され上手く扱えない。
呪具だ。
狗巻が使っていたのはただの短刀ではなく、対象の術式を分散させる効果のある短刀だった。
絵名は出血が多く、段々と意識を無くしていく。足に力が入らず、崩れる様にして倒れた。
薄れていく意識の中で、遠くで聞こえている歌声がぼんやりと聞こえた。
◆◆◆◆
「終わった?棘」
「……しゃけ」
五条は狗巻の頭を撫でる。友人を殺すというのは精神にくるものがあるだろう。それを裏付けるかの様に狗巻は絵名を抱きしめている。
けれど五条は平然だった。
何故なら狗巻は絵名を
「棘、絵名の胸元見てみろよ」
少し躊躇ったが、狗巻は五条の言われるままに絵名を離してその胸元を見た。
傷は塞がれており、破かれた布から白い肌が覗いている。そしてよく聞くと絵名は規則正しく寝息を立てていた。
狗巻は狼狽えた。確かに絵名には死んでほしく無かったのだが、然し狗巻は確実に急所を狙ったのだ。心臓を、確実に。
怯えている狗巻を他所に五条は淡々と喋り出す。
「よくよく考えてみたらそうなんだよ。心臓を一突きして死んだらこうなってないんだよ。此の家の奴らだって少なくとも二級以上の強さを持ってる。にも関わらず全員絵名に一大刀も出来ずに殺されている。それはつまり——」
攻撃された瞬間に、全自動で反転術式を行っている。
恐ろしい事だった。呪術師の中でも数えられる程度しか会得していない反転呪式をコンマ0.1秒で発動しているのだから。
そしてそれは脳が勝手に行なっている。
絵名が自害が出来ないのにも理由がつこう。
五条は絵名の頭を優しく撫でる。こうして見ればただのあどけない子供だというのに。
「……結界が解けたな」
張り詰めていた空気が緩み、気持ちのいい風が五条と狗巻の肌を刺激する。空は東雲空になっており、辺りは霧に覆われて灰色の景色が広がっている。
もう夜明けだ。
「お疲れ様」
凛とした、真の通った声が響く。振り返ると、絵名の母が立っていた。背筋を伸ばして、落ち着いた様子で立っているが、額に滲んだ汗、泥で汚れた着物、そして皮の捲れた手の甲。その姿から此処迄急いで来たのは明白だった。
そして五条と狗巻に頭を下げる。
「ごめんなさい。
垂れた頭から、雫が溢れる。泣いているのだ。五条は絵名を抱え絵名の母に近づく。
「此の儘遠くに逃げてください。そして呪術界の事も忘れて、普通の人間として生きていくのをお勧めします」
絵名の母は絵名を五条から受け取り、抱きしめた。五条の言う通りだ。此の儘此処に居ても恐らく彰人と絵名の居場所は用意されていないだろう。
絵名の母は目を伏せる。
「分かったわ……。今から此処を去ります。然し此の惨状は如何にかしなければね」
そう言い倒れている屍の方へ歩き出した。
絵名の母が手を翳した瞬間、倒れている人間の身体が青い炎に包まれ、傷が徐々に癒えていく。
反転術式だ。絵名の母もまた扱えたのだ。
「これで恐らく大丈夫でしょう。後は頼んでもいいかしら」
「はい。お疲れ様でした」
五条はそう言い頭を下げる。彼女はどれ程苦しんだだろうか。どれ程悲しんだだろうか。東雲という血筋に縛られ、呪われる。それがどれほどの悲劇なのか、五条には計り知れなかった。
そして絵名達は呪術界から姿を消し、不思議な事にこれに関わった五条達以外の呪術師の記憶からは、此の事件の記憶が一切無かった。否、不思議な事では無い。恐らく絵名の母が記憶を抹消したのだろう。
そして月日は流れ、11年が経った。
ハッと、目を覚ます。時刻は午後五時を回っており、まだ寝ていたいのにと嘆いても時既に遅し。私の脳は覚醒してしまって、最早二度寝は不可能となっていた。抑も今から学校に行かなければいけないのだから、二度寝している暇は無い。
怠い。途轍もなく怠い。それは身体が怠いとか、頭が痛いとか。そのような病弱的不調ではなく、シンプルに面倒くさいのだ。抑もの問題、学校が好きな人間など居るのだろうか。そりゃ学校に極端に仲の良い友達が居るだとか、好きな人が居るだとか。そう言う人達は学校に楽しく行けるのだろう。然し残念。私には好きな人疎か、友達ですらも学校に居ない。否、居るは居るが、その子は全日制で、校舎で会える時間は、全くもって、これっぽっちも無いのだ。
重い身体を引き摺りながら、身支度を始める。顔を洗い、歯を磨き、髪を梳かし、片方の横髪を三つ編みで結い、部屋に戻って制服に着替える。今は母も父も仕事に向かっており、弟も友人と何処かに行っている。つまり、此の家には私一人だけと言う事だ。
そういえば昼飯を食べていないなと思いつつも、時計を見て絶望する。あぁ私の腹、授業中に鳴らないでよ。
そう思い、私は玄関の扉を開ける。