右左右右左左右左左左右右上下後後前上右左。
五条は特級呪霊の攻撃を否しながら時間を稼ぐ。別に今回は直ぐに祓わなくても構わない。絵名が記憶を取り戻すまでの時間を稼げばいい。そうすればこの呪霊の力は弱まり、自然消滅をするだけだと、五条は推理していた。それを呪霊は分かっているようで、五条を殺す勢いで、いや、殺すつもりで攻撃をする。然し当然ながらにも攻撃は当たらない。物理攻撃は五条の前では無力なのだ。
然し相手は腐っても特級呪霊。その上絵名の上位互換と言ってもいい存在に、五条もまた苦戦を強いられていた。避けるだけなら出来る。避けるだけなら。然し特級呪霊もまた物理攻撃は効かない。不幸にも、絵名の術式、『
五条は生徒に手伝ってと言っていたが、最早二人の独壇場となり、五条が一掃した呪霊の他にも次々と出てくる低級呪霊を祓う生徒達であった。然しその数も段々と減っており、それもまた五条のお陰なのだろうと思うと、生徒達は複雑な心境になった。
また振り出しに戻ったかと伏黒は肩を落とす。然し面倒な呪霊は五条が祓ってくれていたので、後は雑魚処理だけとなった。然しそれもいつまで持つのかも分からない。それは絵名の起床次第なのだから。
その時、ふと声が聞こえた。微かな、けれどこちらに訴えかけている声。それは狗巻のポケットの中から聞こえているようで、祓いながらスマホを取り出す。他の生徒にも聞こえていたようで、皆祓いながら聞き耳を立てていた。
スマホを取り出すと、ホログラムの様に一人の少女が映し出されていた。黄色い髪に、黒と白がコントラストのドレスに近い服。そして特徴的な頭の白いリボン。
「──!?」
『あなたが棘?』
その娘は無機質な声だった。例えるならそう、機械音だ。機械の声、だけどもそれには心があった。
その少女はそう、
世界的に有名なVOCALOIDの『鏡音リン』だった。
狗巻も、そしてこの場にいる全員は絶対に名前を聞いた事はある少女は、狗巻に喋りかけているのだった。
然し狗巻の知っている鏡音リンは元気溌剌な少女だったはずだ。間違ってもこんな無表情ではない。それはその場に居る者達も同じの様で、呪霊を粗方祓い、狗巻の所に集合する。
「鏡音……リン」
そう呟いたのは伏黒だった。伏黒も何度か街中のテレビで見た事はある。その時は「時代の発展ってすげぇな」と何処か他人事の様に思っていたのだが、実際に自分の目の前に意思を持って現れるだなんて想像もしていなかった。
『やっとあなたの元へ辿り着けた。初めまして棘。私は鏡音リン。早速だけれど本題に入る。もうあまり時間はない』
突然のVOCALOIDの登場。何やら狗巻を探していた事。そして〝何か〟を知ってそうな事。その全てを含め、皆一斉に聞く姿勢に入る。呪術師をやっている限り、不可思議な事は起こるものだが、このジャンルは初めての事だった。然し驚くのは後だ。今はこの状況を打破するのが最優先。そしてその秘密を知っているのが鏡音リンだとするのなら、黙って聞くのが賢明な判断だろう。生憎狼狽えそうな人間はこの場には居ない。多少は驚いていそうだが、それでもポーカーフェイスが上手い者が殆どなのだ。
リンはその様子を見渡して口を開いた。
◆◆◆◆
奏達が遺書を見つけ、このセカイを飛び出していった数分後、そして絵名が眠った直後の事だった。
セカイにポツンと、着物を着た少女が立っていた。何処から来たのかも分からない。最初から居たかもしれないし、居なかったかもしれない。然し彼女は此処にいるのが当たり前の様に、我が物顔で立っていた。最初に気付いたのはこのセカイの住人である初音ミクだった。
あまりにも似ていた。東雲絵名と。瓜二つと言ってもいい。
「え……な?」
ミクは思わず、喋りかけた。若しかしたら絵名かもしれない。そう期待して。然し、その期待は見当違いだった。ミクの声に振り返った彼女は、ミクに微笑みかける。けれどもその笑みは絵名のものではなかった。
恐ろしいという感情が、ミクを支配する。誰か分からない恐怖ではない。ただ、純粋な恐怖。この生物に対する、畏怖。
「絵名……か。ふふ、初めて呼ばれた気がするよ」
そう言った彼女は愛らしく、微笑んだ。顔立ちは絵名と瓜二だからか、その笑みは大変美しかった。然し此方に喋りかける声は圧があり、一つ一つの言葉がミクを震え上がらせる。
「初めましてミク。私は
鬼姫。そう彼女は名乗った。ミクは後ろに後ずさる。本能が告げているのだ。まずいと。此の儘鬼姫と接触していたら取り返しのつかない事になる。セカイから追い出そうにも、何故かそれが出来ない。何かに阻害されているのだ。
「絵名と、どういう関係なの?」
ミクは意を決して問いを投げかけた。その声は震えており、恐怖の中ミクは精一杯の勇気を振り絞りそう聞いたのだ。鬼姫はそんなミクを見て感心に似た気持ちになる。初対面で己に質問した輩など今迄一度たりとも出会った事はない。
そしてそんなミクをおかしく思い、鬼姫は人知れず笑みを溢した。
「関係……そうだねぇ。あいつは私の生みの親……っていた方が分かりやすいかな」
「生みの……親」
それは自分とまふゆみたいなものだろうかと、ミクは考える。ミクはまふゆの〝想い〟から生まれた存在。ミクだけではない。この場にいるバーチャルシンガー達も同じだ。それと似た様なものなのだろうか。
然しそれにしては嫌にはっきりしていた。鬼姫はバーチャルシンガーでもなければ初音ミクでもない。それにまふゆの想いで作られたセカイに他人の想いが生まれるなんて、有り得ない筈なのだから。
「そうだねぇ。ミクはあのまふゆという
「記憶の空白?」
ミクの反復に、鬼姫は「そうだよ」と返した。
「絵名が毎回来ている場所に来てみたけれど、思ったより殺風景だね。最後の思い出にいいと思ったのだけれど、無駄足だったかな?」
「最後って、どういう事?」
リンっとした声が響く。いつの間にかメイコとルカが来ており、鬼姫を強く睨みつけている。あのルカでさえも真顔だ。
然し鬼姫はそんなメイコやルカを気にするそぶりはなく、淡々と話した。
「今から絵名を殺しに行こうと思うのだけれど、あの子にも想い出は欲しいんじゃないかなって。まぁ私を生んでくれたし、それぐらいの譲歩はしてあげなくもない」
そう、あまりにも平然と言った。初めて聞くその単語に、バーチャルシンガー達は呆気に取られる。意味はもちらん知っている。然しこのセカイではまず聞かない。奏も、まふゆも、瑞希も。そして絵名も。絶対にそんなことは言わない。
ミクは心臓が飛び出しそうだった。息も上手く吸えず、喉がヒュッと音を立てる。今まさに絵名を殺そうとする人間──いや、化け物が目の前にいる。その恐怖がミクを支配する。今迄感じたことの無い感覚に、ミクは震えが収まらない。雰囲気が、人間のそれでは無い。ニーゴ以外との人間と関わった事は皆無だが、それだけは分かる。分かってしまう。それほどまでに鬼姫という女は異質な雰囲気を放っていた。
然しメイコとルカは、そんな鬼姫に向けて剣呑の孕んだ目を向ける。それは明確な怒りだった。このセカイの主であるまふゆの友達だからという間接的な理由では無い。自分達にとっても大切な仲間なのだから。それ故に相手に怒気の顔を向けるのは当然と言えよう。
けれども鬼姫はそんな二人を見て不敵の笑みを浮かべる。
「殺すだなんて、そんな事が許されると思っているの?」
いつもより低い声色のルカが、鬼姫にそう言った。怒りを抱いているのは一目瞭然だった。いつもは飄々としていて他人の嫌がる事をするのも
鬼姫は「は!」と笑って顔を上にし、目線をミク達に向ける。詰まるところ、見下しだ。その目は鋭く、まるで目つきだけで人をも殺しそうな程に殺気立っている。
「勘違いされちゃあ困るな。私は別に君達に意見を許可した覚えはないよ。馴れ馴れしくしないでもらいたい。呪霊と人間でも相容れないのに、どうして機械と呪霊が同じ土俵に立てると思ったの?対等にでもなったつもりか」
どこまで行っても、彼女はその他大勢を見下している。然しそれが出来る程の力が、彼女にはあった。メイコはそんな彼女に恐怖と共に心底怒った。こんな感情になったのは生まれて初めての事だった。
「絵名を殺して、何になるのかしら」
ルカはいつもの調子で語りかける。それが虚勢だというのは自分でも分かっていた。いくらルカでも人ならざるものを相手にするのは恐怖でしかない。然しそれは人間ではない自分だからできる事だと、自分に言い聞かせる。相手に気取られず、情報を聞き出す。それが自分の役目だと。
大丈夫だ。此処は誰もいないセカイ。演じるのは十八番だ。
「私が呪いの王となる」
その言葉に、全員戦慄した。
呪術師の事は絵名やニーゴのメンバーからは聞いていた。それがどれ程危険で、恐ろしい存在なのかと。人間の負の感情から出てきた呪霊。謂わば人間の真の姿。それの頂点に立つというのは、きっと人間を敵に回すという事だろう。いや、敵に回すも何も、鬼姫は最初から人間の味方ではないのだから。
「嘗ての呪いの王である両面宿儺は封印されている。だったら今しかないじゃない?」
そう言って鬼姫は鉄柱の上へと軽々しく飛び、体を捻って見下ろした。矢張りその目はとても鋭い物だった。
「両面宿儺が封印されている今、私が王になる事は容易い。それにはまず絵名を殺さなければね。私はあの子から生まれた故もあってかあまり自由が効かないの」
「……それを絵名に密告するとは考えないのかしら」
「あっはは。大丈夫大丈夫。何人来ようと今の私の敵じゃないから。それに人間じゃない、どちらかというと概念に近い貴女達を食べても絶対味がしないだろうし、殺してもなーんにも面白くないだろうしね。特別に見逃してあげる」
恐ろしい事を言うのもだと、メイコの頬に汗が伝う。こんな恐ろしい事を平気で、平然と言える彼女にメイコは侮蔑の感情が募っていった。心がない。人間じゃない。明らかに、正真正銘の〝呪い〟だ。
「然し参ったね。まさか
正直、ミク達には何を言っているのかさっぱり分からなかった。そちらの常識を、
「さて、そろそろ行かなきゃね。暇つぶしに付き合ってくれてどーもね」
「────! 待って!」
ミクはそう叫び手を伸ばす。然しその手は空を切り、もう鬼姫の姿はそこには無かった。絵名達がセカイを去る際に散られる三角形の粒子も放さず、ただ忽然と姿を消したのだ。初めからそこにいなかったかの様に。ミクは何も出来ない自分を恥じた。メイコやルカの様に鬼姫と対話出来たわけじゃない。ただジッと様子を見るだけで。その事実があまりに悔しく、ミクの頬に一雫の涙が伝う。そんなミクを、メイコは抱きしめた。メイコも結局、相手を止める事は出来なかったのだから。話し合いなど通用しない。そんな鬼姫には実力行使しかないのだから。然しそんな力も術も三人にある筈もなく。
三人は自分達の無力さをまざまざと思い知った。何も出来ない。ただ見守るだけしか。それが初めて嫌だと感じた。
けれども三人は何も成果をあげられなかった訳ではない。陰で聞いていたリンは、己の心を鼓舞する。三人のお陰であいつが何をしようとしているのかがよく分かった。そして解決策も。
リンは其の儘姿を消した。その事実を知らせる為。そして絵名の一番心の近くに居る少年の元へ向かう為に。
◆◆◆◆
『それで、棘を見つけたの』
皆は固唾を飲み話を聞いていた。その情報はあまりに多く、そして有難いものばかりだった。突っ込みたいところは数多くあるが、まずは目の前の問題を解決する事が最優先だ。
「じゃあアイツ──鬼姫は絵名の命を狙ってるって事か」
真希の言葉にリンは首を縦に振る。
『うん。そう言ってた。自由になる為だって』
自由になる為。
狗巻は五条達を見た。鬼姫は絵名の制限が無くとも充分強い。なれば絵名が死んだ後はこの上を行くのだろうか。現代最強をも凌駕する程の呪霊。そうなればもうこの日本は終わりだ。それは絶対に避けなければいけない。
見ると鬼姫は先程より攻撃の精度が上がっており、心なしか五条を圧倒している。それは異例の事態であり、前例がない事だった。絵名が暴走した時だって、五条は本気を出していなかった。然し今はどうだろうか。五条は明らかに100%の力を出しており、それでもなお決着がつかない。
この状態の勝敗は、火を見るより明らかだった。そしてそれは決してあってはならない結末だ。
『……棘。お願いがあるの』
リンは眉をハの字に曲げてそう言った。
『絵名の隣に居て欲しい。そうすればアイツは、どうにか出来ると……思う。多分』
歯切れの悪い言い方に、狗巻は首を傾げた。隣という事は、絵名の寝ている所に行くという事だ。それくらいは容易い。
「狗巻くんが絵名の隣に行くと、どうなるの?」
『……分からない。けど突破口は開けるんじゃない? アイツ、〝
「〝あの子〟ってのは棘の事か?」
パンダの言葉にリンは力強く頷く。
『絵名の心に一番近いのは棘、あなたなの。それは自信持って言える』
「────!」
一番近くで絵名を見ていたリンだからこそ、それが分かるのだ。確かに二人は本物の姉妹ではない。然し本物ではないけれど、本物の姉妹の様にお互いを思い遣っている。それはまふゆとミクに負けないくらいの信頼だ。だからこそ分かるのだ。
絵名が戻って来てからも、絵名はセカイを行き来していた。その際に当然の様にリンとも喋るが、その会話の中で何度も狗巻の話が出て来た。その時の絵名の顔はあまりにも──穏やかだった。一目でわかる。その人物は絵名にとっての〝特別〟。リンは少しの妬みを覚えながらも、狗巻に懇願する。
狗巻が絵名の心に近いからこそ、リンは狗巻のスマホに辿り着けたのだ。
「──行ってきてください、狗巻先輩」
意外にもそう言ったのは伏黒だった。伏黒は狗巻を真っ直ぐ見据える。
然し狗巻の中には不安があった。リンはこう言っているが、本当に自分なのだろうかと。もっと他に居るのではないかと。例えるのなら同じサークルである水色の少女とか。それに狗巻が恐れているのは他にある。
──記憶を取り戻した時、拒絶されないか。
知っていて黙っていた事、絵名をやむを得なかったとは言え、絵名を殺そうとした事。考えれば絵名が狗巻を拒絶する材料はいくらでもある。だからこそ不安は消えて無くならない。
それを直感で伏黒は理解していた。今迄一線を引いて二人を見てきた伏黒だからこそ、理解出来たのだ。
そしてその狗巻の不安が
「──じゃあ、私が一緒に行く」
そう言ったのは、この場の人間ではなかった。高く、吐息混じりの消えそうな声。そんな声の持ち主はこの場には存在しない。勿論狗巻のスマホから出ているリンでもない。
では誰か。
それは少し離れた場所に立っている少女だった。銀色の髪に、この場にはそぐわないジャージを着た少女。
『──奏』
宵崎奏は、無表情でこちらを見つめていた。