北のセカイ(上)
東京の都心。大勢の人が行き交う交差点。それを高いビルの屋上から見ている少女が一人、簡易的なサンドイッチを食べていた。その少女は真っ黒い服に身を包み、腰には何やら長めな棒をベルトに付けていた。
夕暮れ時である為か、制服を来た少年少女が彼方此方で歩いている。どこにでもある様な制服だ。
主に宮益坂女子学園と神山高校の生徒が多い。四人組の女子がギターを背負いながら楽しそうに歩いていたり、青髪の少女とツインテールの少女が公園で何やら歌っていた。
少女はそれを見て顔に影を落とす。
自分には一生訪れないであろう青春。友達と学校帰りに何処か寄り道をして、休日には何処かショッピングへ出かける。授業中に居眠りをしたり手紙を教師にバレない様に回したり。
そんな他愛もない日常を、少女は生まれた時から奪われてしまっていた。
「──絵名様、そろそろお時間です」
ふと、扉の方から声がする。少女は右手を挙げ無言で挨拶をした。そして空になった袋を握りしめて離す。するとその袋は
そして其の儘声の主の方へ歩いてゆく。
東雲絵名──それが彼女の名前だった。
◆◆◆◆
「また街を眺めてらっしゃいましたね」
「別に、ただの暇つぶしよ」
運転手の男──伊知地潔高の質問に、絵名は至って平坦な口調でそう返した。後部座席に座っている絵名は肘をつけて窓の外を眺めている。
呪術師。
人間から流れ出た負の感情の集合体──呪霊を祓う者たち。絵名はその呪術師の家系だった。
それも、普通の家系ではない。
呪術師を統率する、呪術界の御三家の元締め。それが東雲家だった。絵名はその若当主に当たる。
本来なら当主は任務を受ける必要もない。本家の屋敷でふんぞり返っていればそれで良い。けれども絵名はそれを断固拒否した。
──上に立って高みの見物を決め込んでる人間に、誰が着いてこようと言うのかと。絵名は高々とそう宣言したのだ。これは、齢十七で当主に就任した彼女の、せめてものけじめだった。
「今回の任務先は宮益坂女子学園でございます。校内で行方不明者が三名程。莫大な被害が出る前に何とかして欲しいそうです」
「……そう」
絵名はそう相槌を打ち、目を伏せる。その姿を伊知地はバックミラー越しに心配そうに見つめた。
「大丈夫ですか」
「……何が?」
「いや……その、宮益坂の中等部は、絵名様の母校でもあるでしょう?」
その言葉に、絵名は「あぁ、そうだっけ」と感情の読み取れない平坦な口調でそう言った。
一応良家のお嬢様という事で、セキュリティの万全な宮益坂女子学園の中等部に在籍をしていたのだという事を、絵名は今になって漸く思い出した。
──思い出したと言うだけで察せられる様に、絵名にとっては中学時代は然程良い思い出は無い。かと言って悪い思い出がある訳でも無い。ただの退屈な三年間だったのは覚えていた。
友達は居なかった。ただの一人も、である。皆、遠巻きに絵名を眺めるだけだった。当然だろう。成績、運動共に三年間トップだったのだから。その上良家のお嬢様だったのだから、恰好の的である。
女中や祖父に東雲家の名に恥じぬ様と、勉強は日夜ずっと家庭教師に教鞭を振るわれていたのだから。予備校、塾、家庭教師、そして自習。それを毎日毎日休む事なく、気わ紛らわす事もなくずっとこなしていたのだから。正直、気が狂いそうだった。気が、触れそう。
そして運動は言わずもがなである。勉強の合間に任務に赴き呪霊と文字通り命をかけた戦いを毎日していたら、必然と運動神経は超人のそれである。50メートル走を四秒で完走したり、シャトルランをずうっと走っていたりと、その辺の話には事欠かない。一時期オリンピックに出るのでは無いか、とか、ウサインボルトの生まれ変わりと噂されていたが、絵名はそのどれもを下らなく思っていた。因みにウサインボルトはまだ御存命である。
結局絵名は其の儘卒業をし、高校に進学せず呪術師として生きていく事になったのだ。これもまた、祖父の決定だった。
それならば、進学しないならば勉強したって無駄だったのでは無いかと、絵名は今になっても思うのだが、恐らく祖父に言わせてみればそうでは無いのだろう。
そう言うことでは無いのだろう。
進学云々以前に、東雲であるならば、〝完璧〟でなければいけないと言うことだろう。それだけ、重いのだ。
東雲と言う苗字は、重いのだ。
「──あ」
ふと、絵名の口から声が漏れる。それは伊知地にすらも聞こえない音量で、絵名でさえもう声を発していたかも覚えていない。
昔の事を想起していたら、ふと、とある人物を思い出したのだ。
(そう言えば居たわね。一人。三年間で唯一話した相手、誰だっけ。名前が思い出せない)
顔は覚えているのだ。けれど名前がどうしても思い出せないのである。
(確か予備校も一緒だったわね。成績も良くて運動神経も良くて、私とは違って教師からの期待もある──誰だっけ)
其処迄出て来ているのに、どうしたって名前だけが思い出せないのである。
卒業間近、一度だけ言葉を交わした人物。いや、若しかしたら対話ではなくただの言葉を交えただけかもしれない。だけれどその思い出だけは、絵名の中にこびりついている。
(でも、こびりついているなんて、おかしな話よね。今の今迄忘れていたのに。この思い出もまた、私にとって何の意味もない記憶なのかしら)
絵名は自虐気味に笑う。因みに何故絵名は成績運動共にトップだったのにも関わらず教師の期待から外されていたのかと言うと、それはただ単に愛想の問題であったし、何より東雲家と言うこともあり、腫れ物扱いでもあったからだ。
触らぬ神に祟りなし。
まさにそれである。
それすらも絵名はどうでも良かった。
絵名の中学時代の思い出といえば、たった一度クラスメイトと喋ったくらいである。たった、それだけ。
絵名はこれ以上想起する記憶もなく、退屈になっていった。窓の外を眺めるのも良い加減飽きて来た。
スマホの電源を付け、ニュースを見る。そこにはやれ政治家の汚職だとか殺人事件だとかが記載されており、今のところ絵名の興味の惹かれる記事は見当たらない。
(……ん?)
その中に、とある記事を見つける。
『Colorful*Daysのセンター、日野森雫が電撃引退! 一体何があったのか!?』
見知った名前に、絵名は首を傾げる。
(日野森雫って、中学の時の同級生よね。アイドルやってたって話は噂で聞いたけど、引退しちゃったんだ)
日野森雫は、絵名の元同級生だった。会話したことは無いし、相手も絵名の事を認知しているかは定かでは無いが、少なくとも絵名は雫の事を一方的に認知はしていた。
今大人気の『Colorful*Days』のセンター。顔が良くて大人っぽいミステリアスな女性。誰もを魅了する容姿。友人が居ない絵名ですらも存在を認知している程だった。
その彼女が引退となると、アイドル業界も痛手では無いだろうかと、絵名は他人事の様に思った。
「ねぇ伊知地。日野森雫って知ってる?」
「へ? まぁ、はい。有名なアイドルですよね。確か『Colorful*Days』のセンターで、一番人気の……」
「引退したって」
その瞬間、絵名の身体は前に押し出され、前の座席に顔面を打ちそうになった。すんでのところで手で支えたが、此の儘行けば大惨事だったのは想像に難く無い。
急ブレーキだ。
前の信号を見ると赤に変わっており、車の位置もきっちり停止線で止まっていることからボーっとしていたと言うことは考え難い。
「……伊知地」
「すすすす、すみません! 吃驚してしまって! え!? 引退!? あの日野森雫が!?」
絵名が怒りを露わにすると、即座に伊知地は後ろを向き頭を下げて謝った。けれど伊知地は謝罪よりも日野森雫が引退した事の方が衝撃だった様で、目を白黒させている。絵名はそんな伊知地を怒る訳でもなく、人差し指と親指で顎を摘み、考える素振りを見せ、そして口の両端を挙げて笑みを浮かべる。
伊知地はその顔を見てしまったと冷や汗を流す。新しいおもちゃを見つけた顔をしていた。
「へぇ、ふぅん。そう。伊知地ってそう言う趣味あったんだ。偶像崇拝ねぇ。で? あの日野森雫が好きと。へぇ、意外だなぁ。他の芸能人は疎いのに。で? どこら辺が好きなの? やっぱ顔?」
絵名は其の儘身を乗り出し伊知地に詰め寄った。伊知地は顔を萎めながら「えぇっとぉ……」と呟いている。その姿が何だか面白く、絵名はまたもや畳み掛けた。
「ん? 言ってごらん。誰にも言わないからさ」
絵名が耳を澄ませるポーズをして伊知地に聞く。伊知地はもう逃れられないと悟ったのか重い口を開いた。
「が、頑張ってる所……ですかね」
伊知地は少し照れた様にそう言った。言っていて自分で恥ずかしくなったのか、伊知地は顔を真っ赤にしている。
そしてそれを聞いた絵名は深く音を立てて座席に座り直した。
「無難。つまんない」
どうやらお気に召さなかった様で、絵名はジト目で伊知地を見る。こんだけ問い詰められたのにいざ話すとつまんないと一蹴りされ、伊知地は「えぇ……」と困惑をしていた。
けれどもこんな事はもう慣れっこだった。と言うのも、絵名以上に厄介な人物を伊知地は知っているのだ。
絵名はこれ以上この話題を深掘りしない様で……と言うか興味を無くした様で、窓の外を見ている。
(そう言えば日野森雫の前に『QT』の桃井愛莉や『ASRUN』の桐谷遥が引退してたわね。これから大丈夫なのかな、アイドル業界は)
そう絵名は何処か他人事の様に思った。特に桃井愛莉なんかは少し親近感が湧きちょこちょこ見ていたので、先程の伊知地程では無いにしろ、引退報告を受けた時には少しショックだったのは記憶に新しい。
桃井愛莉を見ると、絵名は少し胸が締め付けられる感覚になる。何とも形容し難い、心にぽっかりと穴が空いた様な、そんな感覚。
──何処かで出会っていれば、親友とは言わずも、友人くらいには慣れていたのでは無いかと、ありもしない可能性を、感じていたのだ。
然しその可能性はどこまで行っても空虚なもので、この先絶対訪れることの無い未来である事を、絵名は充分に分かっていた。出逢っていたとしても──自分にはその資格が無いと。
車が、段々と見知った道則を走る。それと同時に伊知地の「そろそろです」と言う言葉が車内に静かに響いた。
この道則は、絵名が三年間ずっと通って来た道だった。
けれども目を閉じ昔の記憶を想起していても、矢張り思い出と言う思い出は無い。ただ登校をして(その際ずっと使用人が送迎をしてくれていたのだが)、授業を受けて、休み時間も誰と会話することも無く読書をし、昼飯時も空き教室で女中が作った弁当を食べ、午後の授業を受け学校が終わったら其の儘予備校に行く。三年間その繰り返しだったのだ。
正直に言ってどうでも良かった。
絵名にとって中学時代というのは取るに足らない下らないもの。
車が正門の前に停められる。絵名は窓越しに校舎の様子を見た。
生徒の様子は──感じられない。教師も恐らく居ないのだろう。
伊知地は運転席を降り、絵名の座っている座席のドアを開ける。それを絵名は一言礼を言い其の儘降りた。
夕陽に照らされ、絵名は目を細める。暑い季節、蝉の声が妙に煩かった。
「最終確認を行います。三名の行方不明者の救出、また死亡していた場合遺体を持ち帰る事。そしてその原因である呪霊を祓う事。これが今回の任務となっております」
「そう、案外単純な任務なのね」
絵名は溜息混じりにそう呟いた。その言葉に伊知地は少し眉を顰め怪訝な顔をする。
「絵名様、お言葉ですが、その様な慢心は……」
「分かってるわよ。任務が複雑じゃなくて理解できるって意味。第一呪霊に対して気を緩めた事なんて無いわよ。命かかってんだから。そんな事が出来るの悟くらいなものでしょ」
絵名がそう言うと、伊知地は心底安堵した様な顔をした。
伊知地の言う通りである。
そう言う慢心が、死につながる。
そう言う油断が、己を弱くさせる。
絵名はこの十七年間、そう言う人物を嫌と言う程見て来た。己の力に酔い、力量を見誤り死んでいく者たちを。
だからこそ絵名は気を抜かない。
どんな等級の呪霊でも、場を見極め全身全霊で今己に出来る最善を尽くす。
「……では帳を下ろします。──ご武運を、東雲
伊知地はそう言い中指と人差し指を立て、呪文を唱える。
──闇より出て闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え
瞬間、上空から泥の様な何かが落ちて来て、瞬く間に辺りを暗くさせる。そしてその黒い泥──帳が降りきったのを確認し、絵名は辺りを見渡す。
人の気配は──無い。
代わりにと言う様に、呪霊の気配が絵名の体を刺激する。
──居る。
絵名の直感が、そう言っていた。数は五十程。どれも二級以下の雑魚達だ。恐らく問題の渦中に居るのはコイツらでは無いのだろうと言うのが絵名の推理だった。どれも遠巻きに絵名を見ているだけで、一向に絵名に攻撃しようとしてこない。雑魚だが最善の判断は出来る様だ。
ふと、屋上を見る。
「……取り敢えずは上に行ってみましょ。そうじゃ無いと対策の仕様が無いし」
絵名はそう言って校舎内へ歩き出した。