呪いの姫君
鈍く、鋭い爆音が辺りに響く。その際に木々でその羽を休ませていた鳥がその音に吃驚して空へ羽ばたく。その様子を呆然と眺める一人の青年が居た。その青年は手拭いで汗を拭い、カタカタと肩を震わせていた。頬は痩け、眼鏡の風貌も相まって三十路前後だと思われがちだが、これでもまだ二十代である。老けて見えるのは日頃の労働の所為か。
(慣れないものですね。彼の方の力は)
溜息をつき、手拭いをポッケに入れながら──伊知地潔高はそう思った。
帳が降りた闇の中。呪霊たちが蠢く魔の巣窟。それを祓う一人の少女。そのどれもが異質であり、現実離れした光景だ。しかし目の前の少女はそれが当然とでも言うように、伊知地の前へ着地した。
着地し、顔を上げる。その顔の造形はとても整っており、長い睫毛、栗色の瞳、そして瞳と同じ色をした艶のある髪。筋の通った鼻に薄桃色の唇。どれをとっても完璧な造形は最早人間の域を超えており、まるで人形のようだった。
「呪霊は粗方片付いたわ。犠牲者の保護をお願い。私は次の仕事へ此の儘行くから。迎えはいらないわ。其の儘直帰するし」
そう言いながら、その少女──東雲絵名は髪をかき上げる。その姿も何処か見惚れてしまう程であった。そして手に嵌めている黒色の手袋を、キュッと正す。
「は。しかしよろしいのですか? お疲れでは……」
「仕事を早く終わらせたいの。実はサークルの絵が遅れててね。メンバーに迷惑をかけるわけにもいかないでしょ? それに五条先生から一年の引率を急に頼まれちゃってさ。それに同行しなければいけなくてね。じゃあ、此処を任せたわよ」
そう言って絵名は直ぐに走って行ってしまった。伊知地はそれを眺めるしかなかた。本来ならば補助監督として着いて行かなければならないのだが、しかし絵名の命令には従わねばならなかった。そもそもの優先順位が違う。それに絵名の言う通り、犠牲者も放置する事は出来ない。
伊知地は絵名の無事を祈りながら、犠牲者の元へ向かった。
◆◆◆◆◆
「なあなあ、五条先生! 今回の引率って誰なの? 会った事のある人?」
虎杖悠仁は、目の前に居る白髪の男──五条悟に向かって、明るい口調で聞く。五条は振り返る事なく虎杖と同じく明るい口調で返した。決して冷たい態度ではない。その飄々とした態度は、どこか子供の様に感じられる。
「野薔薇と悠仁は会った事ないと思うよ」
「じゃあ伏黒は会ったことがあるって事?」
明るい茶髪の少女──釘崎野薔薇は、横目で横で一緒に歩いている青年、伏黒恵を見ながら言った。伏黒は「まあな」と一言短く返事をする。
彼等が今歩いているのは廃れたストリート街だった。人の気配もない、恐らく若者の肝試しでしか利用価値のないそこは、ジメジメとしており、晴れだと言うのに肌寒い。四人分の足音が辺りに反響している。釘崎は湿気特有の匂いに顔を顰めていた。
「どう言う人なんだろうな」
「いい人だぞ」
「伏黒がそう言うなんて珍しいじゃないの」
ワイワイと、三人は楽しそうに話す。それを見て五条は嬉しそうに微笑んだ。
少し前まで、一年生は伏黒だけだったのだが、暫く経って二人程追加されたのだ。
東北のど田舎出身の三級術師、釘崎野薔薇。
かの特級呪物、「両面宿儺の指」を取り込んでしまった少年、虎杖悠仁。
その二人を加え、現在の一年生の数が三人になったのである。五条から見てもこの三人は少々──いや、かなりの癖者であり、教育のしがいがある生徒たちだった。これから同年代と青春が出来ると、伏黒を見ながら五条は胸を躍らせるのだった。伏黒も、無表情ながらどこか楽しそうだ。
歩いていると、一人の少女を見つける。虎杖と野薔薇も気づいたようで、少女を見て訝しんでいる。薄暗いため、その顔を拝む事は出来ないが、服の形状から見て女だと言うことは判別できた。スカートを、履いているのだ。
五条はその人物に「やっ」と手を挙げ短く挨拶をした。五条の言葉が届いたのか、その暗い影は振り返り五条たちの所へ近づく。
栗色の瞳。同じ色をした艶のある髪。整い過ぎた顔立ち。その姿に二人は息を呑む。こんな美人は、テレビの中でしか見たことが無かった。
「遅いわよ。何で仕事があった私より遅れて来る訳」
「ごめんって絵名。後でパンケーキ奢るから許してよ」
五条にそう言われ、絵名と呼ばれた少女は少し間を開けて「しょうがないわね」と溜息をつく。そして五条を他所に虎杖と野薔薇の方を向き直す。
「初めまして、虎杖悠仁くん。釘崎野薔薇ちゃん。二年の東雲絵名です。宜しくね」
「よ、宜しくお願いします!」
虎杖と野薔薇は同時に頭を下げる。それを見て絵名は「フラットでいいわよ」とあっけらかんと黒の手袋をした手を振りながら笑う。呪術師はイカれた人が多いと聞くが、絵名からはそんな雰囲気は一切感じられなかった。どちらかといえば、人畜無害な、優しいお姉さんと言った印象だ。
「今回の引率はこの特級術師、東雲絵名ちゃんでーす」
「特級!?」
「へ? 特級って何?」
釘崎は目を見開き驚愕の顔を見せるが、対する虎杖は首を傾げていた。虎杖はつい最近高専へ編入したばかりなので当然だった。
「うん。特級をやらせてもらってるよ。と言っても肩書きは気にしなくて良いからね。高専生である限りは先輩と後輩って言う立場だから。まあ、とりあえず宜しく」
五条の紹介に、絵名は優しく笑う。その笑顔はまるで天使のようで、虎杖と野薔薇はほうっと見惚れる。それ程までに、絵名は端正な顔立ちをしていたのだ。
「さて、時間もないし、行こうか。五条先生はここでさよならね」
「うん。絵名、僕の生徒を頼むよ」
「わかってるわよ」と言いながら背を向け歩き出す。三人は置いて行かれない様に小走りで後を追いかけた。虎杖が後を振り返ると、五条は手を振りながら見送っていた。
◆◆◆◆◆
「あの、一つ聞いても良いですか?」
「ん? どうしたの? 釘崎さん」
「野薔薇でいいです。……あの、もしかして「えななん」さん、ですよね」
釘崎の言葉に、絵名は固まる。見事に笑顔のまま、固まっていた。
虎杖は分からないようで、「えななん?」と疑問を呈していた。
「何だそれ、あだ名か?」
「ちっげーよボケ! ピクシェアで有名な「えななん」さん! 今話題沸騰中のインフルエンサー! ほら!」
そう言って釘崎が見せたのは「えななん」と書かれたアカウントだった。フォロワーは四桁を超えており、一つのツイートに約100いいねがついていた。有名と言っても差し障りのない数だった。
虎杖と伏黒は釘崎が見せた携帯を見て感嘆を漏らす。
「スッゲー! 本当だ!」
「まだやってたんすね、東雲先輩」
「う……うわぁ! 見ないでぇ!」
そう言って絵名は蹲る。覆っている手の間から見える顔は茹蛸の様に真っ赤であった。確かに大衆には写真を出しているが、それでも目の前で見られるのは抵抗があった。
「こ、これはその、成り行き! そう! 成り行きでやってて、その、深い意味とかはないから!」
「いや、別に何も言ってないっすけど」
絵名の言葉に、伏黒は冷静に返す。この姿は何処からどう見ても普通の女子高生である。とてもじゃないが特級術師には見えない。
「あの、後でサインとか貰っても良いですか?」
釘崎の言葉に絵名は苦笑いを浮かべる。高専へ初めて来た日に、似たような流れになったのを思い出したのだ。今思い出すと懐かしい。その人物が今では恋人だと言うのだから、人生何が起こるか分からない。
「まあ……いいよ。私のでよければ」
絵名がそう言うと、釘崎は目に見えて喜ぶ。
絵名は特に芸能人ではない。サインとか言われてもアイドルでよくあるサインは書けないし、そもそもそういう練習をしたことはなかった。しかし恐らく本人直筆フルネームでも相手は大層喜ぶのだろう。絵名にはその良さがいまいちよく分からなかった。
歩みを進め、とある建物の前へやってくる。三階建てての、小規模なビルディングだった。いかにもな風貌を纏っているその建物は、絵名たちの闘志を掻き立てた。
まずは絵名が扉を開ける。中には矢張り誰もいない。ただ静寂が辺りを埋め尽くしていた。そして三人に目配せして、三人を中へ促す。
「私は基本的に何もしないわ。此処へ引率しに来ただけだからね。ただ自分で無理だって思ったら大声で呼びなさい。結果的に呪霊を祓えれば良いんだから。危険を冒してまで一人で祓う必要はないわ」
「はい!」
三人が口を揃て返事をする。絵名はそれを満足そうに頷き、帳を降ろす。
──闇から
三人が中へ入り、扉を閉めたと同時に辺りが暗く、まるで夜のような黒いセカイが出来上がった。
絵名は近くにあったベンチへ腰を下ろし、そのビルディングをジッと睨む。
「両面宿儺の器……ね。お手並み拝見といこうじゃないの」
そう言って──呪術の姫は薄ら笑いを浮かべ、ことの顛末を見届けようとしていた。
◆◆◆◆◆
数週間前に遡る。
絵名は五条を前にして立ち上がっていた。その顔には焦りや恐怖が見え、その空気が尋常ではないことが伺えた。対する五条はそんな絵名を前に両手を合わせ謝罪のポーズをとっていた。広い談話室は、絵名と五条の二人だけが其処に座っている。いや、正しくは座っているのは五条のみであり、絵名は記述通り立って五条を見下ろしている、
「五条先生。今、なんて」
「恵の任務先に居た男子高校生が両面宿儺の指を食べてしまいました!」
五条の言葉に、絵名は力無く椅子に落ちる。その顔は青くなっており、深い溜息をつく。眩暈がする。まさかこんな事になろうとは。ただ両面宿儺の指を回収するだけの簡単な任務が、なぜこう悲劇を招くのか。
両面宿儺。平安時代に生きていたとされる特級呪霊。呪いの王とも呼ばれるそれは現在指だけ封印されて、全国各地にばら撒かれている。それが絵名が知っている両面宿儺の情報だった。総会で目を引いた情報がこんなところで伏線回収をされるなど、一体誰が思おうか。
素人でもわかる。その指を取り込んだらどうなるのかは。
「規則通りにいけば秘匿死刑、よね。でも……」
「恵は死なせたくないって」
五条の言葉に再度溜息をつく。絵名としては後輩の意思を尊重したい。だけれど絵名のその立場上、我儘を言う事は許されなかった。しかもこれは日本を揺るがしかねない事態だ。
上の我儘で日本を滅ぼすなんてことは出来はしない。
けれども矢張り後輩の我儘を聞きたいと言うことも本音だ。
「──五条先生はどう思う?」
「僕は死刑は反対だよ。何度も言っている通り、若人から青春を取り上げるなんて出来ないんだよ。何人たりともね。それが、いくら
そう言って下から眺めるように絵名を見る。絵名は少し肩を上げる。分かっている。此処で五条の言葉に全て従っていたら己が当主になった意味は無い。自分の言葉で、自分で納得をしなければ。
「と言うか、よく受肉出来たわね。普通なら死んでない?」
「死ぬよ。けどその少年は取り込み、そして剰えそれを制御している。素質あるよね。殺すには勿体無い才能だよ」
「呪霊の受肉の才能って……。本人もいらないでしょ。そんなありがた迷惑な才能。私だったらもっと別な才能が欲しいわ」
そう言って、また絵名は溜息をつく。何故その少年は取り込んでしまったのか。何故取り込もうと思ったのか。それは五条の説明で大方理解は出来た。言うなればその少年は伏黒の命の恩人だ。そんな相手に絵名は無碍にはしたくはなかった。けれどそれとこれとは話が別である。
死刑は、免れないだろう。これからの日本を考えて。両面宿儺と少年が和解するとは到底思えない。呪いの王が、そんな単純な訳がない。若しこの結果を保留にして、その間に両面宿儺が少年の体を乗っ取り、大量殺人を犯したら。
悪の芽は、早々に摘まなければなるまい。
「五条先生、ごめんだけど、死刑は決定事項よ。これはどう考えても覆せない」
「……分かってるさ。でも僕としてはどうしても受け持ちの生徒の我儘を聞いてあげたくてね。だから一つ提案を聞いてくれないかい?」
「提案?」
五条は身を乗り出し、人差し指を立てる。その表情は自信に満ち溢れていた。
「死刑は両面宿儺の指を
そう言って胸を張る。確かに五条の言う通りこれなら死刑を撤回せず、執行猶予を与える事が出来る。けれど──
「その間に、もしもの事が起こったら、どうするつもり?」
執行猶予を与え、その猶予中に最悪な事態に陥ってしまったら。そう考えると絵名は首を縦には振れなかった。
絵名の決定で日本の命運が別れると言っても過言ではなかった。だからこそ、より慎重に考えなければいけないのだ。
「僕のクラスで受け持つよ」
「……! その子を高専へ編入させるって事?」
五条は頷く。それならばもしもの事があった場合、即座に対応ができる。
「それにこの学校には特級が三人も居る。君の目もあるしね。どうだい? 悪い話じゃないでしょ?」
「良い話でもないけどね。……でも、そうね。五条先生の話は一理あるわ」
慥かに五条の言う通り、絵名の目の届く範囲に居た方が対応がスムーズに行く。若しその少年の体が乗っ取られても、即座に五条と絵名が対応できる。
「……分かったわ。上層部会議でそれを出してみる。でも、あんまり期待はしないでね」
「ありがとー! 持つべきものはやっぱえなだね!」
そう言って五条は絵名に抱きつく。絵名はそんな五条を鬱陶しそうに腕で制した。
「現金すぎ! あと暑苦しい! 離れて!」
「は……っ! もしかして反抗期ってやつ……?」
「うざい!」
五条と絵名の叫びは夜空に消えていく。
そして結果的に虎杖は執行猶予を手に入れたのだった。
●じゅじゅさんぽ
談話室にて。
絵名「……あの、正座しているだけじゃ何も分かんないんだけど。てか、なんで急に来て急に正座するの? 意味わかんない」
五条「……怒らないで聞いてくれる?」
絵名「取り敢えず行ってみなさいよ」
五条「お土産の喜久福のずんだな生クリーム味、帰りの新幹線で食べました! 御免なさい!」
絵名「は?」
五条「あと渡した書類の納期明後日まででした! 伝達ミスです! 御免なさい!」
絵名「は!?」
五条「その上宿儺の指を飲み込んで受肉してしまった少年がいます!」
絵名「ちょっと待てぇ!! それらと一緒に並べるなぁ!!」