空は青く染まり、休日の昼刻を迎えようとしている。
「力を加えると閉じ込めた空気の体積は小さくなり、水は小さくならなくて……」
オレは図書館から借りた理科の本を目の前に広げ、それを読みながら帰り道を歩いていた。
オレは、やはりトレセン学園に行くのが一つの目標だ。大舞台で走りたいというのもそうだが、そういった場所でキングヘイローと決着をつけたいという気持ちはやはり薄れない。
だからこそ、トレセン学園の入学で躓かないように一般常識すら分からないようではダメだ。真面目にやりさえすれば、オレにだって――
突然、力強く、ぎゅっと、腕を掴まれる感触がした。
「なっ……」
驚きのあまり本を取り落としてしまうが、開けた視界から風切り音を鳴らしてトラックが目の前を通り過ぎるのが見えた。
……あれ、もしかして勉強に集中しすぎて轢かれてかけた?
冷や汗を流しながら、腕を掴んでいる相手へ御礼を言おうとオレは振り返る。
「あ、ありがとう。ござ、いま……」
オレを助けてくれたのは、同年代くらいの男の子。
彼の蒼い瞳はまるで夏の日の青空を想わせる色合い。緑がかったミドルロングの銀髪は、夏空に浮く清涼な雲を感じるくらい綺麗な色で……そんな夏が近いせいか、大きめの麦わら帽子を頭に被っている。
どこかけだるげな微笑みを浮かべる彼は力強く握っていたオレの腕をパッと離して、歩道に落ちた本を拾う。
「だいじょーぶ? 怪我はない?」
服装こそは、それこそちょっと前までのオレと同じようにキャラクターモノの子供っぽいTシャツだったが。言葉使いや立ち振る舞いからは、むしろ大人びたものを感じた。
「う、うん……おかげさま、で……」
轢かれかけた事に恐怖を感じたでもないのに、とても上擦った声が出た。彼は、オレの様子を見てくすりと笑った。
そう言うと彼は拾い上げた本の土埃を払ってから、オレに差し出す。
本を受け取る時、その彼の白い手指に偶然にもほんの一瞬触れてしまった事に……妙な心地良さを感じて……ようやく、理解した。
オレは――私は、生まれて初めて男の子に恋をした。
*
「ちょっと、手」
「……へ?」
家庭科の授業中、先生の指示で包丁を手に取って野菜を切り刻んでいたオレは不意に声をかけられて思わず間抜けな返事をする。
「猫の手。包丁を握ってない方は、先を丸めるように折り曲げて。じゃないと指を切っちゃうわよ」
隣で作業をしていたキングヘイローはオレの手元を見ながら言った。
そういえば猫の手とは、そういう意味だったか。
オレは包丁を握ってない方の手をまじまじと見ながら、ぐーぱーと閉じたり開いたりを繰り返す。
――あの子の手、私なんかよりもずっと綺麗だったな……。
そんな事を思い返していると、キングヘイローが顔を覗き込んでいる事に気がついて、ハッとして我に返る。
「熱でもあるの? ほっぺた赤いけど」
彼女は心配そうな表情をして訊いてきた。咄嗟に自分の頬に当てる。異様に、顔が熱い。
「近頃、やけに家庭科の授業頑張ってるわよね。何か心境の変化でもあったの?」
そう指摘されてドキリと、心臓が跳ねあがるのを実感した。しかし、つとめて平静を装って言い返す。
「だって、テストで100点満点中の2点よ? お母さんに泣かれそうになったら、頑張らざるを得ないでしょ……」
家庭科の成績はとんでもなく酷いものだ。テスト用紙を見た時の母ちゃんのあの微妙な微笑みを見たら、申し訳ない気持ちになる。
母ちゃんを悲しませるわけにはいかないと、とにかく必死。それも事実だ。
オレの証言を受けて、感心したようにキングヘイローは腕を組む。
「殊勝な事ね。そうでなければ将来貴女をお嫁にもらう人は大変ですもの」
……モノの見事に図星を突かれて、私はまた頬がカァッと熱くなったのを感じた。
いや、しかし。この感情はどうしたものか。
あの男の子との出会いから早一週間。彼は習慣的に近くの池に釣りへ遊びにきているであろう事が分かった。図書館に勉強へ出かけた帰り道で釣り竿を振っている光景をよく見かける。
オレはちゃんと御礼を言う為に声を掛けようとも思ったが、どうせならお菓子の一つでも見繕ってみたかった。
そして、どういう物理現象が起きたのかは知らんがダークマター改め黒焦げになったクッキーがオレの目の前にある。
いやー、理科って不思議だなー。加熱による変質ってこういう事が起きるんだなー。はっはっは。
生まれて初めての恋愛イベントがやってきた時期になんで寄りによってオレの一番苦手な科目が家庭科ァァァァ!!!!!
「にがぁ~い……」
両親には秘密で、学校から帰った後にこっそり一緒にクッキー作りを楽しんでいた弟は出来上がったクッキーをほんのひとかけらだけかじっていて、渋い顔で文句を垂れる。
そうだろう。オレも味見したが、これは苦すぎる。こんなもん、食えたもんじゃねぇ。良薬口苦しとは言うが、こんなものは毒だ。
「……クッキー、たべれない?」
弟からの視線が痛い。楽しみにしてた姉との手作りクッキーが食べられなくて、涙目になっている。
「……んっと、ごめんね。今日は、お姉ちゃんのお小遣いからクッキー、買いに行こうか……」
「やた!!」
弟の嬉しそうな声が響いて、オレは悲しいやら嬉しいやら。
彼を引き連れてマーケットへ行くと、猫目とボブヘアと、キングヘイローがそれぞれ買い物籠を手に持っていた。
「キングおねえちゃーん」
弟はキングヘイローの姿を見つけると、大きく手を振った。彼女達もまたこちらに気がつくと、にっこりと手を振る。
「食材の買い物?」
彼女達にそう訊くと、肯定するように頷いて籠に入った食材を見せてきた。
「えぇ、そうよ。そっちは?」
「ウチは、弟と一緒にクッキー……を、買いに来たの」
そう言って、弟とお互いの手を握り合う。
「おねえちゃんといっしょにクッキーつくってたらこげちゃった」
弟は純粋無垢にもオレの失敗談を暴露された。キング達がぎこちなく笑みを浮かべる。
「でも、練習してるのはえらいと思うよっ!」
猫目。やめろ。お前の優しさが耳に痛い。
「でもやっぱりダメだねぇ。料理って難しいから、テストはともかく家事とかは諦めた方がいいかも」
オレがそう言うと、キングヘイローの耳がピクリと動いた。
そして彼女はずいっとオレの方へ顔を近づけると、まるで何事か決心したようにオレを見据える。
「私達と一緒に、特訓するわよ」
何を。
「料理を」
オレの疑問を察したように、彼女は付け足すように言った。