空虚な平和を考えも無く語り続ける足柄に対し、ついに夕立は完全な無防備で話を聞くという、彼女にしか出来ない手段に訴えた。『ダメコン』があるからこそ可能なこれには、足柄はどうしても動揺してしまい、そして自分が暴力に訴えることしか出来ないことにようやく気付いてしまう。
考えられない、誰かの意見に乗っかって、根拠のない自信を振り翳して暴れ回るしか能がない。その大きすぎる矛盾に気付いた足柄は、今更ながら自分の小ささを理解した。
「いい加減、自分で考えてみろぉ!」
そして、夕立の渾身の拳が、足柄の顎に入った。思考が滅茶苦茶になった足柄へのこの一撃は、脳を揺さぶり、この戦場から逃避させるには充分すぎた。
足柄の目がグリンと白眼を剥く。そして、その場に倒れ伏した。心が折れると同時に、身体から力が抜けた。
「……寝てる間によーく考えておくっぽい。自分がどれだけ馬鹿なことしてたか」
ようやく大人しくなった足柄を見て、夕立は深く息を吐いた。だが、まだ終わらない。この戦場は、まだ続いている。
足柄がやられたことで、速吸は本気で焦り始めていた。4人に囲まれ、鉄壁の艦載機も動きが鈍く、そして何より、自分が動くことが難しくなっていた。
叢雲の『標準型』によりただの艦載機にされるだけならばまだ打開策があった。20機のうちの1機がやられたくらいならば、残りを嗾ければいいだけ。現に、やろうと思えばまだ動かすことが出来る。これまでほどの精度が無くても、自分を守ることくらいなら出来るだろう。
だが、それだけだ。守るだけで、攻めに転じることが難しい。そうなればジリ貧だ。ただでさえ人数差があるのに、これまではそれを覆すほどの力があったからどうとでもなったのに、今や鉄壁の殻に閉じこもることしか出来ない。
「これも、これも、これもっ、普通になれ!」
壁にしか使わないとなると、叢雲が猛威を振るう。自分を守ろうと周囲を飛ぶ艦載機を、一つずつ掴んでは、『標準型』によって普通の艦載機に戻していく。1機、また1機と鉄壁は剥がされていく。
速吸はすぐにでも逃げなくてはならなかった。足柄が意識を失った今、それを置いて鎮守府に撤退することも視野に入れた。速吸のスピードならば、ここにいる者全員を置き去りに出来る。海中を使えば尚更だ。
だが、海中はフレッチャーと第三十号海防艦が完全に封鎖しているようなモノ。潜水をフレッチャーが『未来視』で先読みし、第三十号海防艦も含めた卓越した対潜技術によって潜らせない。
そして海上は──
「逃がさんぞ。いや、逃げてみればいいが、それは貴様のためにはならないと思うがな」
磯風が完全に掌握していた。速吸の周囲を『空冷』により冷やし、艦載機の機能を落とす程の温度にまで下げている。ほんの少しだけ潜ってしまった速吸は、身体を濡らしたことでその冷気をモロに喰らうことになっており、寒くて寒くて仕方ない状況に置かれていた。
磯風の言う通り、逃げようと思えば逃げられるのだろう。歯を食いしばり、寒さに震える身体に鞭を打って、強引にでもこの場を離れることは出来るだろう。しかし、
早く動けば空を切る。冷気を帯びた空気の中で。より一層体温は下げられる。すると、体表の水分は余計に凍り付く。今でももう、服がパリパリと言い出していた。表面が凍り始めている。そんな状態でさらに凍り付いたらどうなるか。おそらく肌に張り付くだろう。
そのまま悪化すれば、簡単に凍傷に発展し、四肢が機能しなくなり、そのうち捥げる。末端から壊れるのは常。指がやられ、手足がやられ、そのうち根本まで。
ただでさえ早く動くことは身体に負担がかかる。それを限りなく軽微にしているとはいえ、そういう問題ではなくなる。この環境は、それを許さない。
「……やってくれましたね……っ」
「ああ、やってやった。だが、問題なかろう。ここは戦場だ。貴様らも、我々を始末するためにここにいるだろうに。何故自分達だけが甘い汁を啜れると思うのだ。どちらかが勝てば、どちらかが負ける。必然だろう。何故貴様らが必ず勝者となれる」
勝ちも負けも体験している磯風が言う、戦場の絶対的な論理。この場は必ず勝敗がつく場だ。速吸はこれから敗北に傾くだけ。これまで勝利に傾いていた分、落差が激しいだけである。
「動くな。動けば、自ら死に近付くだけだぞ。わかっているだろう。そろそろ、指先から感覚が失われてきたのではないか?」
図星だった。冷えすぎて、指先に感覚がない。凍り付いているわけではなくても、自己修復すら凍結されているかの如く冷たく寒い。
それでも磯風達は速吸の命を奪おうとしていない。あくまでも救うという気持ちを残している。こんな存在でも、出洲に利用されているだけの、哀れな傀儡なのだと理解しているから。
「……なめないでください。私はまだ屈しない」
「そうか、オススメはしないが」
「その上から目線が、気に入りませんね」
「すまんな、さっきまでの貴様らと同じことをしてしまった」
一層冷気が強まる。周囲の水飛沫が結晶化するほどに冷えている。速吸の周囲だけは、完全に極寒。如何に艦娘といえど、艦載機と同様に機能が著しく低下する程の温度になってきている。
「我々は貴様らを下に見ているわけでない。貴様らと違ってな。対等な敵として、全力を以て相手をさせてもらっている。故に加減が出来ない。なるべくなら救おう、だが、屈しないならばそのまま凍え死ぬがいい」
冷酷な磯風の言葉、そして目を見て、速吸はゾクリとした。うみどりの面々ならば、捕虜を殺すことがないような甘い連中であるとタカを括り、捕まったとしても後から助け出せばいいなどと慢心していた。
しかし、この磯風は、敵の命よりも自分達の勝利を優先する。殺すことに躊躇がない。この状態で撃ってくるわけでもなく、速吸の意思を尊重し、しかし抵抗するなら死ねとハッキリと伝えた。
「貴女は……そうですか、やはり特異点の仲間、冷酷な」
「深雪は関係ない。何故そこで深雪に責任を押し付けられる。深雪ならば、もっと貴様に優しく接しているぞ。足を掬われるくらいにな」
磯風は明確に嫌な顔を見せた。この戦場にいない者に責任を押し付け、あくまでも特異点が悪いの一点張り。こうなってしまったのも特異点のせい、特異点さえいなければ敗北はなかった、そんないい加減な論法をこの期に及んで繰り出してくる。
だから磯風はそれを真正面から否定した。深雪はそれだけのことを言われても殺意を抱くことはないぞと。阿手ほどのことをしでかしたらその限りではないが、この速吸に対して殺すという言葉はまず使わない。眠らせて縛ってそのまま捕虜にするという手段を優先する。
「おそらく誰もが聞いていることだ。私も貴様に聞いておこう。既にやられているかもしれないが、またになるかもしれないが許してくれ。私が少し、やってみたかった」
「……何を」
「見てもいない特異点を目の敵に出来るのは何故だ。貴様は深雪を知らんだろう。共に生きたこともなく、むしろ顔すら見たことがないだろう。なのに、何故そこまで卑下出来る。全くわからん」
いつもの問答。それに対して速吸は、同じように返す。馬鹿の一つ覚えのように。
「特異点は周りを堕落させる。貴女ももう、堕落している。私達の平和を理解出来ない。しようともしない。特異点に絆されて、真の平和を知ろうとしない」
「真の平和、ああ、出洲の手のひらで転がされて、自由意志も奪われて、ヤツの思い通りに生きることか。競い合うことが争いだから、文化すら奪うと言ったそうだな。人間は、ただ雑草の如く生えているだけなのが真の平和と、そう言いたいのだな」
磯風は風を強めた。さらに冷える。もう一歩も動けないと思える程に。身体の震えが止まらない。ひたすら寒くて堪らない。肌にまで霜が降りてきた。
「何もしなければ平和と言うのなら、貴様らだけでやっていれば良かったのだ。こうして争うから、その平和から遠退いていることが理解出来ていない。そも、他者に自身の平和を押し付けて、貴様らはそのレールに乗るつもりはないだろう。管理すると言いながら、貴様らは民より高次だからと屁理屈を捏ねて、自由に振る舞うのだろう。雑草を、踏み分けてな。貴様らは美しい花か何かだと勘違いしているのではないか?」
支配されていた経験を持つ者であるが故に、速吸の、カテゴリーK達の求める平和の行末が予想出来た。第三十号海防艦の舌戦と同じである。
「貴様らは穢らわしい毒だよ。世界を腐らせる、見るに堪えない毒だ。だからいい加減、眠りにつけ」
速吸は、凍えて思考能力も落とされ、ついさっきの二の舞になろうとしていることに気付くことが出来ていない。第三十号海防艦との舌戦の結末を、忘れてしまっている。
磯風は冷やしながら時間を稼いでいたのだ。それは勿論、叢雲の行動を妨げさせないため。
「アンタも、普通になれ!」
速吸の真後ろ、全ての艦載機を普通にしてきた叢雲が、寒い中ついに速吸の後ろに立った。