瑞鶴の艦載機にブレが発生し、前進が可能となった潜水艇。本来ならばここで五十鈴の妨害があってもおかしくないのだが、先行していた伊203によって押し止められ、最終的にはただ愕然としているだけとなってしまっていた。
自分の頭上を悠々と進んでいく潜水艇が目に入った五十鈴は、その場から動けない。何かをする手段を奪われた今、ダメージにより考える力を少しでも取り戻した五十鈴は、ただこの先を考えることしか出来ない。
「止めないと、いけないのに……」
そう呟いても身体が動かなかった。痛みはあるが、まだ我慢出来る範囲だ。ついさっきまでの心持ちならば、伊203すら無視して潜水艇を破壊しに向かうだろう。
だが、心が折れかけていた。伊203の圧倒的な力、そして自分の目指す未来、平和な世界に何も無いことに気付いてしまったから。
これまでの思い、覚悟が、空虚なモノであることを理解してしまった。出洲の目指す争いのない世界について、自分は何も知らない、わからない。覚悟を決めたのに、明確なビジョンが全く無い。ただ、平和にするとしか聞いていない。あまりにもふわふわした言葉。それなのに、強い言葉。
「五十鈴は、何をすればいいのよ……何もわからない、何を目指していたのよ……」
紡げるのは言葉だけ。思考を歪められているせいで、本来辿り着かねばならないことに辿り着けない。曖昧な未来を知覚しようとしても、暗闇に手を伸ばすようなもの。手は空を切るのみ。掴めるモノも、掴めない。
突き進む潜水艇は、五十鈴を見向きもしない。止めに来ないなら、何かする必要もない。
「深雪、いい?」
だが、その潜水艇を護衛している深雪の方へ、伊203が向かった。五十鈴はもう敵ではない。戦う必要もない。だから、やることは1つ。
「どうした?」
「アレ、多分頭の中ぐちゃぐちゃになってる。黒と雷みたいに、無理矢理落ち着かせてる感じ」
「マジかよ……なら」
「ん、どうにかしてあげて。多分、それが一番速い」
黒深雪や雷のように、疑問を持ったことでそれを無くすために再洗脳を受けているのなら、気付かせて落ち着かせることが出来ることは証明済み。良くないところまで気付いてしまうこともあり得るが、そこはもう深雪だって加減が出来るはず。
「それに、命を燃料にされてる。じっとしてても死ぬかもしれない。私にはどうにも出来ないから、特異点の力に頼らせてもらう」
「わかった。それくらいならお安い御用だ」
深雪はすぐに行動に移す。処置だけなら1人で出来るため、電には潜水艇の護衛を継続してもらい、一気に海底へと潜航していく。
五十鈴はすぐわかるところにいた。周りには破壊された兵装が散らばり、本人はその中心で立ち尽くすのみ。ぼんやりと潜水艇を見ながら、ただ考えているだけ。
「いた! アンタ、すぐに治すぞ!」
「え……えっ、特異点!?」
深雪が目の前に来たことで、思考の波から一時的に脱却する。再洗脳をされる前から敵としての認識をしている相手が眼前にいるならば、戦闘態勢を取るに決まっている。
伊203ほどの威圧感も無ければ、戦闘力も無い。そう確信出来る。今の力ならば、迎撃すれば始末だって出来るはずだ。
しかし、特異点を始末して手に入れた未来に何があるのか。空っぽの未来、何もない覚悟、虚ろな行動原理で、何をすればいいのか。それがわからない今、植え付けられた使命感だけで戦うのが本当にいいのかがわからない、わからないから、動けない。
「いいか、落ち着いてくれ、気付いてくれ、あたしはアンタと戦う必要は無いと思ってる」
「っ……」
「だから、まずは気付け……!」
煙幕を纏った両手で、五十鈴の両肩に乗せた。戦闘中とは違う、無理矢理な打ち込みではない。反撃覚悟で、まず煙幕を注ぎ込んだ。殴られたら殴られるまで。
五十鈴は当然、敵を跳ね除けるために腕を振る。その拳は非常に強いのだが、鋭さはまるで無い。迷いしかないことから、深雪であってもそれを受け止めることが出来た。弱いとは言わない。だが、気持ちが入っていない。
これが伊203相手なら受けることすら出来ずに吹っ飛ばされていただろう。五十鈴が本気であれば、同じようになっていただろう。だが、今は迷いばかりが先行して、拳に全力が込められない。
「やめなさい、特異点! 五十鈴は……!」
「アンタもハメられてるかもしれないだろ。つーか、ハメられてるだろ。ひたすら出洲の野郎に従ってるなら、迷わねぇよ」
「人のコトを勝手に分析しないで!」
しかし、じんわりと染み込んでくる煙幕、『気付け』の煙幕に、五十鈴の精神は纏まりつつあった。考え込んでしまったことで集中出来なかったモノが、別ベクトルに集中出来るようになってきていた。
本当は知ってはいけないところ、黒深雪や雷に向けてやったことと同じことに、限りなく近付くことになる。なぜなぜ分析で、自身の深層にまで入り込んでいく。
何故平和を目指しているのか。それは、この世界が罪だらけだから、罪なき世界にしたいから。出洲の求める平和な未来は、それに合致している。
何故罪だらけだと感じたのか。それは、自分が理不尽な死を迎えたから。命を落とす必要もないのに、命を落とす羽目になったのは、世界の罪だ。
何故自分は理不尽な死を迎えたのか。それは、事件に巻き込まれたとかではない。懸命に、懸命にその仕事をこなしてきたのに、報われず、誰からも称賛されず、命の灯火がゆるりゆるりと絶えていったから。
何故そんなことになったのか。それは──休まず働いてきたから。真面目で義務感が強く、与えられた仕事を一生懸命続けてきた結果、心も身体も壊れていたから。
そう、五十鈴の死因は過労死。ブラック企業に勤め、法外なサービス残業を続け、上司からの
故に、五十鈴のブロックワードは『過労死』。今まさに、何の得にもならない戦いを無賃でやらされており、叶ったとしても求めていない平和に辿り着く、あまりにも報われない皮肉的な言葉。
「あ……ああ……そうだ、五十鈴は……
「出洲の考えてる平和は、アンタが求めてるモンとは多分ズレてんぞ。会社がどうとかはあたしにはわからねぇけど、会社どころか世界が全部ぶっ壊れる。文化を無くすとかほざいてるんだからな」
煙幕は『気付け』から『落ち着け』に変わる。ブロックワードに自分から近付いてしまい、暴走しそうな五十鈴を落ち着かせるために。
二度もやれば慣れたモノ。三度目はスムーズに五十鈴のメンタルを鎮静化させる。
「……何よ、それ……私はただ、あんな巫山戯たブラック企業をぶっ壊して、ホワイトな仕事が出来るようにって思ってて……」
「社会全体がぶっ壊れるな、アイツのやり方は。黒だの白だの無い、最後は全部無くなるだろうな。争いを無くすってことは、あれだろ、向上心とかそういうのも許さないってことだもんな」
「……は、はは、それはおかしいわ、うん、おかしすぎるわ……」
五十鈴はもう笑うしかなかった。未来に何も無いということに自らの力で気付いた後、特異点の力でより深くそれを理解したことで、自分には先が無いのだとはっきりわかった。お先真っ暗とわかれば、このザマだ。
深雪はそれに加えて、命を捧げるような力の得方をやめてもらうように願う。死ぬな、生きろ、正しい平和を目指すために、こんなことで命を落とすなと。
煙幕の力はより強くなり、優しい願いは叶えられる。五十鈴の命を燃料とした出力は鳴りを潜め、カテゴリーKではあるがそれらしさは一気に失われていく。だが、自己修復だけは活性化され、全身の痛みも失われていった。
「……私は、こんなことをするために……戦ってきたわけじゃないのよ」
「ああ、わかる。アンタすげぇ真面目そうだもんな」
「……ただ、誰にも苦しんでほしくないの」
「ああ、だよな。あたしだってそうだ。手が届く範囲で、みんな救いたい。アンタには手が届いた」
「……私は……五十鈴は、何のために戦ってきたのかしらね」
「出洲のためだろうな。出洲の思い通りに動くコマとして」
言葉にされた分、苦しい。だが、『落ち着け』の煙幕のおかげで暴走はない。自分の死因に、ブロックワードに向かい合うことが出来た。そのおかげで、今の自分がおかしいことがわかった。
「……特異点、ごめんなさい、五十鈴は理解したわ。これまでのやり方がおかしかったこと、今更こんなことを言っても信じられないかもしれないけど」
「ンなこたぁ無ぇよ。別個体だって、雷だって、ちゃんとわかってくれた。だから、アンタもわかってくれてるって信じられるぜ」
特異点の寛大さに、五十鈴は泣きそうになる。だが、そんなことは出来ない。今はそんな余裕もない。
「……瑞鶴、そうだ、瑞鶴も五十鈴みたいにされてるわ。救って、あげて……」
「おう、当然だ。そっちには別個体が行ってる。大丈夫だ」
「そう、そうなのね……あの時の深雪と雷は……そっか……」
五十鈴は力が抜けたかのように膝から崩れ落ちた。
これにより、五十鈴は救われた。完璧ではないかもしれないが、落ち着くことは出来ている。