海域の清浄化率の維持を確認するための待機が進み、午後。基本的にはやることは変わらない。世界の平和のために己を鍛え、次の戦いに備えるのがメインとなる。
トレーニングルームでは筋トレに励む長門を筆頭に、より強くなろうと躍起になる者がそれなりに集まっていた。
深雪と電もトレーニングルームを使っている中の1人。だがこちらは危機感ではない。神風の過去を聞き、その力の根源が悲しみに満ち溢れていることを知ったことで、もうあんな力を使わせたくないと自分達が強くなる決意をしていた。
基礎的な部分がしっかりしていないと全体的な強化にならないことは、何度も言い聞かされているため、今は伊豆提督から学んだバレエによって全身を鍛え上げているところである。
「……それも強くなるためのTrainingだってのかよ」
深雪達を眺めながら悪態をつくスキャンプ。本当なら、そんなことして何の意味があるんだと言いたかったのだが、昨日の那珂によるダンスレッスンをやり切ることが出来なかったため、これが全てやりきれるだけでも、相当に鍛えられるのだろうと察した。
「ああ。平衡感覚を磨くんだよ」
スキャンプの前で綺麗なY字バランスを見せる深雪。その隣では、より脚が上がり、I字バランスを繰り出す電。時雨は言うまでもないため、現在は酒匂に手伝ってもらってかなり強引なストレッチにより柔軟性を無理矢理作っている最中。関節を強引に引き伸ばされる悲鳴は、トレーニングルームのBGMになりつつある。
柔軟性とバランス感覚が鍛えられれば、より身体がうまく動かせる。それを喧嘩の時にも実感している深雪や電は、伊豆提督に言われずとも、自分からやるようになっていた。
より強くなると決意したことでやることといえば、実際に強くなれたことを徹底的に繰り返すこと。伊豆提督の教えは、短期間で飛躍的に実力を伸ばしているため、選択しない理由が無かった。
「お前もやってみるか? 強くなれるぜ?」
「……やらねぇよ」
「じゃあ何でここにいるんだよ。グレカーレや夕立みたいに、好きなことやっててもいいんだぜ?」
「あたいの勝手だろ」
今までは、問題児達はなんだかんだ纏まって行動していた。夜は別室になるとはいえ、3人はここでは完全にアウェー。まだ顔見知りと行動する方が緊張感が無くなる。
しかし、今は全員がバラバラに行動している。潜水艦内では基本そうだったのかもしれないが、ここでは初めてのこと。各々が好きにやりたいことをやっている。
夕立は神風に言われた通り、心のゆとりを手に入れるため、うみどりの仲間達と何かしらで遊ぶことにしていた。今は妙高によってテーブルゲーム全般を教えてもらい、レクリエーションルームで楽しんでいる最中。勝敗に一喜一憂しながらも、命のやりとりとは程遠い勝負というものを繰り返し、結果ではなく過程を楽しむことに専念している。
グレカーレは今は潜水艦達と共に水泳。理由はそこに神風も参加しているから。最初はわからされたことによって深雪と電に執着していた感じはあったが、今は姉の命を解放してくれた神風に尊敬の念を抱いているということもあり、そちらに便乗することにしていた。決して神風の水着姿が見たいとかそういうのではない。というのは本人談。
夕立もグレカーレも、内容も理由も違えど、うみどりに多少馴染むことは出来ている。客人ではあるのだが、この艦の仲間であるという意識も芽生え始めている。
だが、スキャンプは未だに馴染めていない。そもそもの理由が理由だけに、拗らせ方が人一倍深い。精神的なところでは、前向きになれていなかった。
そのため、馴染めている夕立とグレカーレには好きにやってもらい、自分はその2人を除けばまだマシな深雪についてきていた。トレーニングを観察して、強くなる秘訣も盗めればとも考えて。
「暇ならむしろ付き合ってくれよ。実戦を含めたトレーニングもしたいし」
「……喧嘩か?」
「試合だよ。前と違って、ちゃんとサポーターもつける。気絶するまでやるようなこともしない。急所攻撃とか以ての外だ。誰かに審判もやってもらう。今だと長門さんになっちまうか」
名前を呼ばれたことに気付き、汗を拭きながら任せろとサムズアップ。格闘技の経験的に、審判に最も適しているのは長門であろう。
「実際の戦いに反則もクソもねぇぞ」
「実際の戦いならな。でも、今ここでやるのは試合だ。自分がどれくらい強くなったかを試す場だ。足りない部分が知りたいからな」
深雪はスキャンプを気にかけている。一度手合わせしたということもあるし、その過去も聞いているため、放っておけないという気持ちは何処かあるからだ。
スキャンプはそういうのを鬱陶しいと思うタイプではあるものの、今この時に独りでいることを選択していない時点で、常に誰とも付き合いたくないというわけではない。馴染めてはいないものの、うみどりの人間達には多少の興味は持っているのが窺える。
過去を明かしてはいないが、こんな自分にも分け隔てなく手を差し伸べてくれる人間達。誰も自分のことを汚いモノとして見てこない艦娘。誰かがそこにいれば、何かしら話しかけてくるくらいにフランクで穏やか。
そんな日常を、たった数日明かしただけでも、スキャンプには変化を齎していた。そして、それにスキャンプは内心
深雪はそういうところを読み取っているわけではない。どちらかといえば、そういうのが得意なのは電である。だとしても、スキャンプの困惑はかなりわかりやすいモノであり、誰が見ても『今の環境に馴染んでいいのかわかっていない』というのが丸わかり。
「嫌だってんなら仕方ねぇ。でも、何かしたかったらすぐに言えよな。ただぼーっと見てるだけだとつまらねぇだろ」
「……うるせぇ。テメェはテメェでやってろ」
「ああ、そうしておく。だから、あたしから盗みたい技術があるのか知らねぇけど、お前も好きに見ておけよな」
スキャンプは小さな舌打ちで返した。
スキャンプが辞退したので、試合は深雪と時雨で行なわれることとなった。スキャンプはそれをただ眺めるだけ。
「触れ合うのは嫌?」
そんなスキャンプの隣に酒匂が腰掛ける。深雪とはまた違った理由でスキャンプのことを気にかけている1人。
「ここの人達は、誰も貴女を傷付けないよ。大丈夫。勿論、酒匂も」
スキャンプの手を取る酒匂。不意に触れられたため、ビクッと震えた後にその手を振り払った。どうしても突然触れられるのには慣れていないようで、酒匂を強く睨みつけた。
怪我を治療してもらうのは触れるとわかっていたから耐えられる。だが、これはまだダメ。どうしても嫌な記憶を呼び起こしてしまう。
そんなスキャンプにも、酒匂は嫌な顔をしない。急に触れたことを謝り、今度は許可を取って、真正面から手を握る。
「触れ合うのが怖くなっちゃったんだよね。スキャンプちゃんは」
心を撃ち抜くような言葉に、スキャンプは苦しそうな表情を見せた。
スキャンプは過去、鎮守府で提督に慰み者にされている。そして、そのせいで仲間である艦娘からすら、汚いモノを見る目で見られていた。だが、実際はそれだけでは済んでいない。ハッキリ言ってしまえば、それは
スキャンプが受けた仕打ちは普通の地獄では無かった。何故自分がそんな目に遭わなければならないのだというくらいに、精神的に追い詰められた。だから、出洲一派がどうこうする前から、スキャンプは歪んでいる。周りがそういう目で見てくるなら、片っ端からぶっ潰すと決めて。
幸いにもスキャンプは、そういうことが実践出来る性格であったため、毎日のように喧嘩に明け暮れている。イジメに対して、拳でどうにかしてきた。その結果、イジメは無くなる代わりに、誰も寄り付かなくなる。ただ提督から慰み者にされるだけの日々へと変わった。勿論それも地獄。
だから、スキャンプは善人を知らない。提督も、艦娘も、その全てが悪にしか見えない。下手をしたら出洲の甘言にも乗ってしまいかねないが、そこは生物は例外なく悪と決めつけているからこそ突っぱねる。
だが、うみどりは違う。スキャンプがどういう存在であっても、どういう態度を取ったとしても、誰も文句は言わないし、誰も嫌な顔一つしない。手を差し伸べ、触れ合い、楽しもうとする。
理由を知ったとしても、同情こそすれ見下すようなことは絶対にない。ここにいる者達も、ワケありが非常に多いのだから。
「だったら、酒匂から始めてみない? 信じられないかもしれないけど、酒匂はスキャンプちゃんのことを裏切るようなことはしないよ」
親身になってくれる酒匂に対し、スキャンプは動揺の方が激しかった。
スキャンプが知る限りの、一番の善人は酒匂だ。深雪達は喧嘩仲間みたいなものであり善人かどうかは関係ない。神風は何処か次元が違う存在であるため、善悪の判断をしかねる。三隈に関しては善人というよりは道を示した得体の知れない人物であるために善悪を超越している。単純に気にかけてくれるいい人というならば、酒匂がトップクラスという認識。
故に、スキャンプ的には最も付き合いにくい。実は裏があるのではと勘繰ってしまうし、素直にこの対応を喜ぶことが出来ないくらいに歪んでしまっているから。むしろ、喜ぶという感情すらボロボロになってしまっている。
「……テメェ、前に言ってたよな。手を差し伸べることが普通だって」
「言ったね」
「なんでそんな風に思えるんだよ。テメェにだって敵くらいいるだろ。善人でいられなくなる時だってあるだろ」
純粋な疑問。捻挫を治療してもらった時は、怪我をした人がいれば救うのが普通、痛いと思っている人がそのままなのが悲しい、みんなが笑っていた方が楽しいと、悪意が一切ない言葉を並べ立てていた。
その時はその時で、こんな人間がいるのかと考えて終わっていたが、いまちゃんと考えてみれば、どうやったらそんなに優しい気持ちになれるのだと疑問にしかならない。
今のスキャンプにとっては、自分から見て嫌な奴が苦しんでいれば、ザマァ見ろと嘲笑して罵るくらいまでする。だが、酒匂は嫌いな人間──そんな者がいるかはわからないが──であっても、傷付いていたら問答無用で治療するだろう。その結果、自分が痛い目を見る可能性があったとしても。
「……本当に救いようのない人……例えば、今回の敵さんだったりを相手にした時は、手を差し伸べることは出来ないと思う」
これは否定しなかった。しかし、酒匂自身はとても悲しい目をしていた。
「だから、酒匂は善人なんて大層なモノじゃないよ。酒匂の手が届く範囲を助けることしか出来ないから。そういう人達は、酒匂の手が届かないところに行っちゃってるって思うしかない、かな。心の距離は見えないくらい遠いもん」
本当なら出洲相手にも説得をしたいのが酒匂だ。しかし、出洲は本当に何も変わらず、自分の言葉が全て正しいと考えている狂人。言葉はわかっても会話が成立しないタイプは、手が届く範囲にはもういない。だから、酒匂は辛いけど救えないと割り切るしかないと語る。
「でも、スキャンプちゃんは手が届く範囲にいる。こうやって、酒匂が触れられる。だから、友達になりたいな。これは酒匂だけじゃなくて、みんなが思ってることだよ」
ニコッと笑みを浮かべ、スキャンプの手を両手で握った。
とても、温かかった。
「……考えておく」
スキャンプからは、それだけしか返す言葉が無かった。
歪みに歪んだスキャンプの心は、酒匂との触れ合いによってほんの少し真っ直ぐになろうとしていた。
最初から歪んでいるスキャンプを正すことが出来るのは容易ではありませんが、酒匂なら何とか出来そうです。