深雪はただ願った。イリスを救うため、守るため、生かすため、この手が届けと、強く、強く願った。ただ助けたい、誰一人として失いたくない、こんな理不尽な敵になんてやられたくない。ただそれだけを願った。
「……テメェ……! やらせねぇ!」
それがトリガーとなり、深雪の伸ばした左腕から、一気に煙幕が溢れ出た。その煙幕は、これまでとは少し違うと一目でわかるほどの勢いだった。
「えっ……」
この勢いに、今命の危機に晒されているイリスですら、何が起きたかわからないというような声を上げてしまった。しかし、その煙がイリスを一気に包み隠した瞬間、戦標船改装棲姫はそのイリスの姿を
それだけではない。戦標船改装棲姫が煙幕の中に突入したことで、深雪に妙な違和感が伝わった。それはまるで、
「な、なんだぁ!?」
いつも煙を溢れさせた時は驚いている深雪だが、今回はいつも以上に驚いていた。
煙幕自体はもう何度か発動しているが、その効果は全て、敵からの攻撃を完全に遮断して、
完全な無差別であり、敵味方問わず被害が無くなる。そのため、絶対的有利であったカテゴリーK、あの出洲ですら埒が明かないと撤退を決めたくらいである。
その煙でこんな感覚を得たことはない。ただ煙幕が戦場全域に拡がっていくだけである。制御も出来ず、仲間全員が救われるまで続き、敵が誰もいなくなったところで煙は消滅。全員無事で任務完了という塩梅。
しかし、今回は違う。左腕から溢れた煙幕は、意志を持つかのように真っ先にイリスを包み込んだかと思うと、そこから一気に拡張。深雪には見えていない戦標船改装棲姫が煙に包まれたと思いきや、何故か
別に彩が見えているわけではない。しかし、まるで全身を隈なく触れているように、その形状が手に取るようにわかった。
「深雪ちゃん……?」
「な、なんかいつもと違うのが出てる!」
「どういうことなのです!?」
相変わらず自分の力が制御出来ていない深雪は混乱。電もそんな深雪には釣られて心を乱しかけるが、すぐさま気を取り直すことになる。
「私は大丈夫よ! 深雪のおかげで助かってる!」
煙幕の向こう側から、イリスの声が聞こえたことで、まずは安心出来た。そして深雪はここで気付いた。イリスが何処にいるかもわかることに。
今はイリスも戦標船改装棲姫と同様に煙幕の中。そのため、イリスが今どういう状況かはわかっている。
戦標船改装棲姫とは僅かにしか離れていないものの、この煙幕のおかげで戦標船改装棲姫からの一撃は避けられ、その衝撃や追撃も受けていない。今の言葉からもわかる通り、イリスは完全な無傷である。
「すぐ近くにいる! すぐにそこから離れろ!」
相手は姿が見えず音も立てない敵。イリスにしか見えないその存在の位置を、深雪は完全に把握していた。イリスからしても、戦標船改装棲姫からしても、お互いに下手したら手が届くくらいの位置にいるのは間違いないのだが、それなのにお互いが認識出来ていない。戦標船改装棲姫ですら、先程まで狙っていたイリスの姿がいきなり見えなくなって動揺しているのがわかる。
イリスもこの煙幕を戦場の中心で味わうことになる。仲間達は勿論、戦標船改装棲姫の彩も見えたままなのだが、その彩がイリスを攻撃しようともがいているのに、全く見当違いの方向を向いているのだ。わざわざその危険な方に向かう理由など何処にもないので、イリスは
「なんかよくわからねぇけど、全部わかるなら、本当に全部わかるようになってくれ……!」
深雪がより強く願う。今この場にあるモノが手に取るようにわかるのならば、戦標船改装棲姫以外のモノ、この場で見えないモノが全て見えてほしい。
そうなれば、仲間達全員が救える。イリスは最優先で救わねばならないが、他の仲間だって大切な存在。これ以上傷ついてほしくない。
すると、深雪の得ている感覚がより拡張されていく。左腕から噴出される煙幕はより濃くなり、デッキ
「わぁ、視界が煙で覆われていきますねぇ」
そんな状況でも楽観的に眺める綾波。だが、この煙に巻かれたことでわかることもあった。見えていなかった敵の艦載機が明らかに
これまでは風圧などからどうにか察知して、そこから瞬時に行動することで、全てを紙一重で回避し続けていた。攻撃に転化するにしても、見えていないのだからあちらからの行動を確実に見てからでなければ動けなかった。言ってしまえば、じっとされていたら察知することが出来なかったまである。
だが、今ならば、何もせずとも敵が何処にいるかわかる。イリスのように彩として知覚出来ているとかではない。感覚的に、何処に何があるかがわかる。
「何これ、なんか、変な感じね」
神風もそうとしか形容出来なかった。見ているわけではない。聞いているわけではない。あちらは間違いなく『迷彩』の曲解を使い続けているのに、その位置が手に取るようにわかる。目で見るよりも鮮明に、耳で聞くよりも明確に、その居場所が肌で感じ取れる。
綾波や神風がそうなるのは、これまでの戦いでもあり得そうなことではあった。しかし、敵の『迷彩』の曲解は、その感覚すら遮断するはずである。風圧という隠しようのないが必ず後手になる要素を的確に判断して行動するしか無かった。それが達人であっても。
だが、今はもう違う。特に強い綾波と神風だけではない。少し遠目から様子を窺わざるを得なかった川内も、暁を守るために拳を振るい続ける長門も、イリスの言葉や周囲の動きから分析し続けていた暁も、誰も彼もが戦標船改装棲姫の居場所が感覚的に理解出来ていた。
「深雪の煙幕……こんな効果があるの?」
暁が呟く。煙幕の話は事前に聞いていたが、あくまでも敵味方を完全に差別化し、全員の安全を確定させるモノであるという認識だった。味方しか見えなくなり、敵がわからなくなる。そしてそのまま戦意が失われて、戦いが沈静化する。それだけであり、しかし確実に戦いは終わるとんでもない力。
だが、これは確実にそれとは違う効果だ。互いに敵を知覚出来なくなるのがこれまでの煙幕だったが、今回は深雪サイドからは見えていないはずの存在が見えている。
「あれ……多分、電達のこと、見えてないのです」
「だよな、アレ。さっきと違って、無闇矢鱈だ。さっきあったところに艦載機の壁作ってるし、もっと自分に近いところに群れを作ってる。あれ、見えてねぇ」
これまでも妨害にさんざん使っていた艦載機だったが、自分を守るようにさらに発艦させつつ、衝突させる爆発もこれまで以上に誘発される。近づかせないと同時に、致命的なダメージも何度も発生させる、攻防一体の技。
攻撃だけでなく、防御にも回せるような手段を多用するようになったということは、つまりは、戦標船改装棲姫からは見えていない。
戦標船改装棲姫はおそらくそれを察した。自分に敵が見えていない。しかし、あちらからは見られている。それを自覚した瞬間、艦載機の数が圧倒的に増えた。
「そういうことかよ。いざ自分があたし達の立場になったら、そんなに慌てふためくのな。ふざけやがって」
自分達もついさっきまでそうなっていたと思うと、戦標船改装棲姫も自分達と同じなのだとわかる。
他の今まで見てきた敵側のカテゴリーYのことを、自分は高次の存在へと至っているが故に高圧的で慢心もしているような者が多かったが、戦標船改装棲姫も同じならば、何処が高次なのだと鼻で笑えた。
しかし、この艦載機の嵐は分かっていても迂闊に近付くことが出来ない。いくら神風の神業であっても、綾波の脅威的な身体能力であっても。暁の観察力を以てしても、隙間が見つからなければ近付く道を提示することも出来ない。川内が上からというのも考えたが、艦載機はそちらまでしっかりカバーしていた。そのせいで、イリスからは球体に囲まれているかのようにすら見えるほど。
「あんな状態で動き回られたら、どうにもなんねぇぞ!」
「範囲を拡げて、当たったらヨシくらいで考えているのかもなのです」
「だな。自分は傷付いても勝手に治りやがる。相変わらずインチキなことしやがって」
「それなら……」
ここで電が主砲を構えた。深雪よりも精密的な砲撃が出来る電が繰り出したのは、とても単純な一発の砲撃。艦載機に阻まれることは間違いなく、戦標船改装棲姫本体に届くことはまず無い。
だが、今の前衛と違うのは、離れた位置からでも確実に艦載機を被害なく破壊出来るということ。電の砲撃が1つの艦載機を破壊した瞬間、壁のように密集している艦載機が意図せず誘爆する。
戦標船改装棲姫からしてみれば、見えていない敵を相手にしている状態で艦載機が破壊されたのだから、接近されたかと勘違いしてもおかしくない。
爆発が始まった方を振り向くものの、そちらにはただ煙が拡がるだけ。誰も、何も見えない。だが、砲撃の音だけは聞こえた。
誰が撃ったと瞬時に考え、あの場で主砲を持っている者が3人ほどしかいないことを思い出す。
それが失敗である。考えている間に、動きがほんの少しだけ遅くなった。誰かが近付ける間を与えるには充分すぎた。
「考え事ですかぁ?」
そんなことを考える暇なんて与えない。艦載機の壁が誘爆によって失われた今、次の艦載機発艦が瞬時に行えるとしても、その瞬時という時間は、綾波にとっては数歩は踏み出せる時間。
「まだまだ余裕があるんですねぇ。流石は高次の存在。ピンチでもその自覚が無いんでしょうねぇ」
皮肉たっぷりで触れられる程の距離にまで詰めていた。見えずとも音が聞こえるという状況は、音すら聞こえない『迷彩』の曲解よりもタチが悪く、煽りは筒抜けなのに、
それもこれも、今の深雪の心が影響を与えていた。こうなる前の煙幕は、まだ今の
故に、煙幕は『進化』した。怒りの対象には、相応の不利益を齎すカタチに。願いを叶えるために、全てを掬い上げるのではなく、
「選択、間違えましたねぇ。そもそも姿を見せちゃあダメです。最初から最後まで、徹頭徹尾姿を消し続けていればよかったんですよぉ。それに、後始末の時にさっさと攻撃しても良かったんですよぉ? 少なくとも、1人は消せたでしょうねぇ」
言いながらも戦標船改装棲姫の腕と脚の腱をコンバットナイフで叩き斬った。急に来た痛みによって、さらに動揺する。それだけ近くにいるということは、尻尾を振れば当たるはずなのに、それをすぐに繰り出すことも出来ない。
自己修復が瞬時に始まり、その傷も治っていくが、今すぐに動けなくなるというのがミソ。
「それをしなかった時点で慢心があったんでしょう。貴女は所詮、器が人間なのよ。力を得ただけの、ただの人間」
神風も当然のように接近しており、その時には綾波がニッコリ笑って一歩引いていた。何をするかわかっているかのように。
「人間なら人間らしく、もっと無い頭を搾ってから来なさい」
高次の存在に対する最も刺さりそうな皮肉をぶちまけてから刀を抜いた。その瞬間、戦標船改装棲姫の上半身と下半身がお別れしていた。しかし、『迷彩』の曲解が解除されていないため、悲鳴も何も聞こえない。
命乞いだって、聞こえない。
「よっと、神風はエグいことするねぇ。でも、このままにしてたら治りかねないし、確実に始末出来るようにしよっか」
そこにさらに川内参上。分離した上半身を思い切り蹴り上げると、下半身と接続なんて出来るわけがないくらいに上空へと打ち上げられた。反撃の隙すらもう与えない。長い爪があろうとも、余裕が無くなった者には何も出来ない。
「深雪、アンタの砲撃なら終わらせられるでしょ!」
「おうよ。もうあたしが終わらせてやんよ」
上半身だけ、そして反撃の手段すらない戦標船改装棲姫は、何処から来るかもわからない攻撃に、ただ怯えることしか出来なかった。
それはもう、ただの人間だった。
「修復なんてさせねぇ! カケラも残さず、いなくなれ!」
そして、深雪の砲撃が放たれたことにより、上半身は完全に消滅。肉片も何も残らず、消し飛んだ。