午前中はプールで過ごした深雪は、その時間である程度泳ぎを覚え、自分の命を守る術を身につけた。これによって、万が一海上で艤装の浮力が失われてしまった時でも、それが死に直結することは無くなった。
また、ここで泳ぎを覚えておけば、悪夢で沈みそうになった時も浮上出来るのではないかと考えられていた。考案者はイリスである。トラウマを乗り越える一つの手段として覚えておいて損はないと思い、深雪にこの訓練を勧めたのだ。
「泳ぐのってかなり疲れるんだな」
まったりと風呂に入りながらボヤく深雪。ただ浮かんでいるだけでも疲労が少しずつ蓄積していくのが水中である。艦の時とはまた大きく違う部分があるものだと実感した。
「スタミナトレーニングになるって言ったでしょ?」
「身に染みるよマジで。というか、那珂ちゃんすげぇな。疲れとか無いのかよ」
「アイドルはぁ、水着でライブとかすることもあるんだからね♪」
立ち泳ぎを教えたのは、潜水艦ではなく那珂である。アイドルとして、胸から上を水上に出しつつも全くブレないというとんでもない技法を見せ、深雪の度肝を抜いていた。しかも、それだけやって疲れを見せていない辺り、このアイドルは非常にタフである。
「深雪にはスタミナがもっといるんでしょうね。筋トレと一緒にやっていった方がいいわ」
「ああ、その辺は欠かさずやるつもりだ。筋トレは長門さんにもプラン貰ってるし、スタミナの方は……まぁおいおい考えていく」
「プールで運動はオススメだよ♪」
今回のトレーニングは、いいリフレッシュになったと深雪も思っている。今までにやったことがないことをやるのは、精神的にも楽しめた。初めてのことには夢中になれたし、うまくいった時の達成感はやはり心を昂揚させ、そのまま穏やかにしてくれる。
トラウマを乗り越えるための一つの手段まで提供してもらえたのだから、深雪の道は少しは明るくなっている。もしまた悪夢を見たとしても、これなら泳いで浮かんでやるぞと意気込んだ。
「筋トレとは違うところが疲れてるや。昼からは部屋で昼寝でもしようかね」
「いいと思う。デッキに行けないし」
伊203が残念そうに呟いた。風呂上がりにデッキで風を感じながら涼むというのを日課にしている伊203だが、今日は生憎と天気があまりよろしくない。日が陰っているため、デッキに行ったらただ寒いという残念な結果が待っている。
「もしかして雨降る感じか」
「予報では午後から雨みたいだよ。雨の日はうみどりもちょっと大変だからなぁ。ハルカちゃんも準備に大忙しみたい」
伊26の言葉に、深雪はなにかあるのかと首を傾げる。
「雨が降ると、海が
「あー、そういうことか。確かに
艦だからこそわかる、雨の怖さ。深雪の記憶の中では、自分が海上で耐えるというイメージしかないのだが、今は艦の中にいる。内部でどうなっているかなんて、艦が知るはずがない。
ただし、あの揺れを経験するというのなら、部屋の中などもえらいことになるのではと想像する。
「じゃあ、準備って
「そういうこと。まぁ基本的に最初から対策はしてるわよ。雨が降ってなくても高波に煽られたりすることはあるわけだし。でも、雨だと割と確率が高くなるのよね。だから、天気予報をしっかり確認して、艦内の安全に努めてるってわけ」
うみどりはその辺りは細心の注意を払っている。例えば、食堂ではガラス系の食器は使っていないし、全ての部屋の家具には倒れないような補強が施されている。深雪にはまだそういうものはないものの、趣味で部屋に物を置いている者達も、揺れ対策はしっかりしていた。特に大変なのは梅の本棚らしい。
また、あまり揺れるようならば、自室から出ないように通達が来る場合もある。なるべく安全に。こんなことで怪我をするだなんてナンセンスである。それが伊豆提督の持論。
「そうなると、昼寝ももしかして怖い?」
「前に酒匂ちゃんがお昼寝中にベッドから投げ出されたって話してたよ。あんまり酷いとそうなっちゃうみたいだね」
那珂が笑いながら言っているものの、それは割と大惨事である。深雪は思わずゾッとした。
とはいえ、天気で侵略を遅らせてくれるわけがないので、艦娘達の戦いは雨天決行。大嵐の中でも戦うことはよくあることである。そして、その中の後始末だってあり得ることだ。雨が降っているから戦場をそのままにするなんてことは出来ないのだから。
むしろ、雨風が激しい時ほど注意しなくてはならない。本来一箇所に留まっていたモノが、それだけで散らばってしまうからだ。それこそ、嵐の時こそ早急に後始末を終わらせなくてはならない。
「あんまり酷いなら停泊もあるからね。停まっちゃえば、妖精さんの力である程度は揺れが抑えられるみたいなんだよ」
「マジかよ。妖精さんすげぇな」
明るい内なら昼寝などをせずに揺れに対策を取ってくれで済むが、夜は流石に起きていろとは言えない。故に、妖精さんの力で揺れを最小限にしてもらうとのこと。航行中の揺れを抑えることは出来ないが、停泊中の揺れはどうにか出来るというのが、妖精さんの未知の力の恐ろしさである。
そもそもこうしている時でもうみどりは目的地に向かって航行中。それをそう思わせないようにしているのも妖精さんの力である。深雪はまだ顔すら見ていないが、主任達工廠妖精のようにうみどりを動かすための妖精さんが立ち入り禁止区域で頑張っている。ちょくちょくある停泊は、その妖精さん達の休憩時間にも繋がっているのだ。
「でも、気をつけるのに越したことはないから、少しじっとしてた方がいいかもしれないわね」
「わかった。午後は本格的に休みってことで」
「それがいいわ」
今は無理をして鍛えることはない。勿論早い方がいいに決まっているが、わざわざうみどりが安定しない時になる必要はない。出来ることを出来る時にやる。それが成長への最善の道なのだろう。
昼食後、案の定雨が降り出した。天気予報通りだと苦笑しながら外を見ると、そこそこ強めの雨が窓に当たっていた。
「結構ザーザー降ってんな。こりゃ海も荒れるかもしれないか」
などと独りごちていると、見計らったかのようにイリスによる艦内放送が響いた。
その内容は定型文らしく、なるべく抑えるようにするけど急に揺れたりすることもあるから気をつけろというもの。部屋から出るなとは言わないが、なるべくならば動かない方がいいとも。
「寝てたらベッドから投げ出されるかも、か……。だったら、長門さんから貰った筋トレプランをやっていくのがいいかもしれないな」
今はまだ揺れは感じないものの、ここからどんどん激しくなる可能性はあるのだから、言われた通りにじっとしておいた方がいい。部屋の中でなら、突然危ないことが起こることも無いだろう。
まだこの部屋を与えられたばかりの深雪には、趣味で置いているモノもまだ無い。揺れで落ちたり倒れたりするようなものが無いのだから、部屋は一番安全と言える。
「でもその前に、ちょっくら散歩でも」
だが、じっとしているとウズウズしてくるのも深雪だ。筋トレの前に身体を動かそうと部屋から外に出た。自分以外が雨の日をどのように過ごしているかが気になったからである。
「梅は間違いなく読書だよな。秋月は編み物だっけか。あとはどうなんだろう」
駆逐艦組はまだしも、巡洋艦の面々は特にわからないため、妙に気になってきてしまった。もしかしたらこういう時でもトレーニングを積み重ねているかもしれないし、それこそ部屋でゆっくり過ごしているかもしれない。
ここでそういえばと、レクリエーションルームがあることを思い出した。うみどりに来てから案内はされているものの、あまり足を踏み入れていない場所。前の休息の時は晴れていたのでそのままデッキに行ったが、今は雨曝しのそこに行く理由もない。
「誰か集まってたりして」
こういう時にこそ、誰かしらがそこにいるのではと思い立ち、充分に気をつけながらレクリエーションルームへと向かう。
そこは、トレーニングルームとはまた違った広めの部屋。娯楽用に用意された部屋ということで、軽く身体を動かせるような空間と、適当に遊べるテーブルなどが用意されている。
トレーニングとしてではなく、娯楽として身体を動かすというのは、それはそれでストレス発散になる。義務的では無いのが尚いいと、暇な時はこういうところで何かしている者はいるようだ。
「あら、深雪さん。ここに来るのは初めてですね」
出迎えたのは妙高である。いつものカチッとした制服姿ではあるものの、何処か雰囲気は軽い。この時間を休息時間と捉え、緩い空気でいることに努めている。
深雪の知る妙高は、後始末の時の先輩。
「いやぁ、気をつけろって言われてもなんか部屋でじっとしてらんなくてさ。あんまり来たことなかったココに来てみようかなって」
「なるほど、でも本当に気をつけてくださいね。大きく揺れて、転んでしまう子もいますから」
「うん、気をつける。なるべく壁に手をつきながら来たから」
「結構」
何をやっているのかと覗き込むと、妙高の対面には顎に手を当てて考え事をしている三隈の姿があった。そして、互いが挟むテーブルに置かれているのは、将棋盤。
「これは?」
「将棋ですよ。ボードゲームの一つで、言ってしまえば軍略を盤面に展開して、相手の王を先に討ち取れば勝ちというモノです」
「へぇ……で、くまりんこは妙高さんに追い詰められてる感じ?」
「ええ、私が追い詰めている感じです」
考え事をし続けている三隈が、ふぅと息を吐いた後、駒を一つ動かす。すると、間髪容れずに妙高が別の駒を動かし、再び三隈が長考に入った。
「妙高さん、本当にお強いですのね。三隈も多少は自信がある方なのですが」
「昔から得意ですので」
「流石ですわ。また手合わせしていただいても?」
「喜んで」
悩みに悩んだ結果、三隈はありませんと頭を下げる。深雪にはルールも何もかもわからないため、何が起きているのかはさっぱりわからなかったが、とにかく妙高が勝ったことはわかった。
「ふぅん……妙高さんはこういうヤツが得意なんだ」
「そうですね。子供の頃から嗜んでいたので、今でも暇さえあれば触れていますね」
「そうなんだ。……子供の頃、か」
どうして艦娘にと聞きそうになったが、喉から出そうになったところで止めた。加賀に言われたことを思い出したからだ。
こうして後始末屋をやっている2人だが、それが
「艦娘になった理由を聞くのはやめた方がいいと誰かから言われましたか?」
心の中を読まれたのかと、深雪はビクッと震える。だが、嘘をついても仕方ないので首をゆっくりと縦に振った。
「貴女は生まれながらの艦娘ですが、私達は望んでココにいますからね。疑問に思うのは間違っていません。そして、今のようにこちらのことを思って言葉を止めたのも正解です」
微笑みながら隣に座らせる。
「私は少し言いにくい事情でここにいますから。三隈さんも、でしたか」
「ええ、少々口にしづらい事情がありますね」
「なので、躊躇ってもらえて嬉しいですよ」
思いやりがあるのだと褒める妙高に、深雪は少し恥ずかしそうにする。
「時が来たら伝えることもあるかもしれません。なので、今はこれで終わっておきましょう。代わりと言ってはなんですが、深雪さんにボードゲームを教えてあげます」
「え、この将棋を?」
「将棋はすぐは難しいですから、こちらを」
話しながらテーブルの下から取り出したのは、オセロ盤である。駒の動きを知るには時間がかかるから、挟んだものを自分の色にするという比較的簡単なルールであるこちらを教えようということらしい。
「簡単ですが奥が深いですよ。こちらは私は三隈さんに勝てません」
「人には得手不得手というものがありますから。三隈はこちらの方が得意ということですわ」
「ふぅん……挟んだら自分の色に出来る、か……」
そのルールを聞いて、思いに耽る深雪。
イリスは今この世界にいる者達を色でカテゴリー分けしている。深雪は白、仲間達はシアン、他のドロップ艦はマゼンタと、実にカラフルな世界に生きている。
このオセロのように、自分の色で挟んだら敵性艦娘も自分の色に変えられないものかと考えてしまった。出来るかもわからないことだが、説得がこの挟むという行為にならないかと。
「出来ればいいですね」
またもや心を読んだような発言に、ビクッと震えた。一度ならず二度までもやられたら、流石に顔に出すレベルで驚く。
「言動から読めますよ。考えていることくらい」
「妙高さんはそういうことが得意ですの。迂闊に悪いことを考えられませんわ」
「そんなことを考える人達はココにはいないでしょうに」
クスクスと笑い合う二人だが、深雪は驚きを隠せなかった。
この後、教えてもらったオセロを楽しむことになった。なかなか勝てなかったものの、仲間とこうやって遊んでいること自体が、心を癒していくものである。
トラウマを抉り続けて疲弊した精神は、この一時である程度は回復した。これなら夜に悪夢を見るようなことも無いだろう。
妙高って将棋滅茶苦茶強そうなイメージがある。