軍港都市に侵入していた米駆逐棲姫の能力、『量産』の曲解により、量産化が施されてしまっていた梅と秋月は、その姿を変えながら、深雪達に敵意を向ける。
速さを尊ぶ伊203であっても、今は撤退しかないと判断したことにより、敵が潜伏していた廃ビルから撤退。量産化された一般女性まで使って追われることになり、今はどうにかする手段を考えながら振り切ることを優先する。
「こっち。歓楽街の方には出ない」
先陣を切るのは伊203。歓楽街は今もまだ賑わう明るい場所。人も多くおり、撤退には向いているかもしれないが、他の一般市民すら巻き込む可能性がある。それだけは避けるため、路地裏から路地裏に渡り続けて、今は賑わいを失っている一般的な街の方に出ることにした。
人混みに紛れるということは出来なくなるものの、明るいよりは暗い方が逃げやすい。とはいえ、深海棲艦の力を量産化されているため、おそらく夜目も利く。しかし、それは深雪達も同じこと。
面倒なのは、深雪達は艤装を装備していないということ。対するあちらは、装備していないとしても米駆逐棲姫の能力をそのまま持ってしまっているため、通常よりもかなり強い。それに対抗することが出来るのは、生身でも並ではない能力を持っている神風と伊203くらいだ。
「ちょこまかと逃げるんですね特異点」
「姉さんのために、ここで死んでください」
梅と秋月が追っ手の先頭。追いつかれないが、振り切れないくらいのスピードを維持している。
「フーミィ、あいつらを気絶させることは出来ないか!?」
「出来るけど、なんか
深雪の叫びにも、淡々と答える伊203。その嫌な予感というのが何かはわからないが、伊203の勘は当たる。それならば、言うことを聞いておいた方がいい。
「神風、あの2人を
今度は伊203からの質問。傷付けずというのはわかるが、触れないでというのがわからないところ。だが、その嫌な予感というのに繋がっているのだろう。割と重要なことのようで、走りながらも神風は考える。
「私自身が一度止まれば、出来ないことはないわ。でも、今の状態でそれはかなり危険よ。当てかねない」
「ならやめた方がいい。この街に傷付けるのも控えた方がいい」
「尚更じゃない。正直、今はかなり厳しい状況よ」
強者2人ですらこう言うしかない状況である。それほどまでにまずいということで、深雪は生唾を呑み込む。
「なんで、なんでこんなことになるのです……」
「電様……今は走りましょう。考えるのは後からにしなくては、彼奴等の思う壺です。白雲も何も出来ないことが悔しくて仕方ありませぬ」
電はもう泣きそうな表情。それを白雲が心配そうに、しかし足を止めないように激励しながら、追っ手を振り切るために全速力で走り続ける。
艦娘であるが故にスタミナは普通より多い。特に組んでいる4人は純粋種、そもそも生身の人間よりは身体能力が少し高い。そのおかげで、今はまだ息を切らすことなく走り続けることが出来ていた。
「量産化の条件も知っておきたいね。何されたらあんなことになっちゃうのさ」
グレカーレはそちらにも気を配っている。梅と秋月が変貌させられた条件が一体何か。面倒な手順ならばまだその場で戦ってどうにかわからせることを選択するが、非常に簡単である場合は二の舞になってしまうだろう。
廃ビルで伊203が危惧している、強者の片方が量産化の餌食になってしまったらまずいというのは、後者である場合。流石に触れられただけで量産化完了というのはないことはわかっている。伊203が襲ってきた女性達を薙ぎ倒している時に、どうであれ触れているのだから。
だが、伊203には、その条件に当たりがついている雰囲気だった。それが、先程神風にも聞いた、
「それは多分──」
伊203がそれを話そうとした瞬間、まずいという表情を見せた。
撤退の進行方向、歓楽街の路地裏から出たことで一般道にまで抜けたところで、見てはいけないものを見てしまった。
「あれ、フーミィちゃん? そっちはどんな感じにゃし?」
「ぴゃっ、なんか切羽詰まってる……?」
そこにいたのは、同じように人海戦術で2人の行方を探していた救護班、睦月と酒匂。スキャンプも護衛のようにそこにいる。流石に海防艦は時間が時間なので鎮守府に待機の様子。
「まずい……すぐにここから離れて!」
珍しく伊203が声を荒げた。そんなことはそうそう無いため、睦月は驚き酒匂はビクッと震える。だが、スキャンプは伊203達よりも奥に目が行ったことで、現状の不味さを理解した。
「逃げろってことだな。サカワ、ムツキ、ここにいたらヤベェぞ」
すぐ近くにいた酒匂の手を取り、伊203に合流する前にそこから離れるように引っ張った。だが、その酒匂にも睦月にも、深雪達の奥から向かってくる梅と秋月の姿が目に入ったことで、違う意味で驚きが勝る。
「え、えっ、どういうこと!?」
「梅も秋月も敵に洗脳されてる! 近づかれたらまずいから!」
今度は神風の叫び。梅と秋月の後ろから、明らかに様子のおかしい一般市民すら追ってきていることで、その異常さがわかる。
しかし、深雪達はそこに止まることは出来ず、叫ぶだけ叫んで駆け抜けるしか無い。
「行くぞオラ! 止まってるな!」
スキャンプは酒匂の手を引っ張り、酒匂は睦月の手を取ってそこから離れようとした。しかし、あまりにも急だったため、睦月は足をもつれさせて転んでしまった。
「あ痛たた……えっ」
そのせいで、先陣を切っていた梅が睦月に接近してしまっていた。
「睦月ちゃんも、こちらに来ましょうね。姉さんと一緒に、特異点を始末しましょう」
「え、梅ちゃ、何……お゛っ!?」
すると、笑顔の梅は睦月を立ち上がらせたかと思うと、その首筋に親指の爪をブスリと刺した。だが、血が出るようなことはなく、睦月はビクンと大きく震えた。
「睦月ちゃん!?」
「サカワ!?」
睦月の一大事に、酒匂はスキャンプの手を振り払って駆け寄ろうとする。梅が何かしたのは一目瞭然なのだが、何が起きているかわからない以上、その優しさが発揮してしまった。それがあちらの思うツボとなることも知らずに。
「酒匂さんも、一緒にどうぞ」
酒匂の前には秋月が立ち塞がり、梅と同じように、酒匂の首を掴むように持つと親指を突き刺した。
「い゛っ!?」
酒匂の身体がビクンと震え、秋月がニヤリと笑みを浮かべる。
「あっ、ふぁああ……っ」
「な、何……はぁあああっ……」
力が抜け、恍惚とした表情を見せる睦月と酒匂。ビクンビクンと震えた後、一際大きく震えた瞬間、じわりと見た目が変化していく。
梅や秋月と同じように髪色が変化したかと思えば、肌は白く染まり、服装も同様の黒のトップスとビキニショーツに変化。オーバーニーソックスが作り上げられたことによって、瞳に青い輝きが灯った。
「
「
親指を抜くと、睦月も酒匂も小さく喘ぎ、恍惚の息を吐いた。
「にゃしぃ、お姉ちゃんのために、特異点を始末するのね」
「ぴゃん、お姉のために、特異点を殺すよ」
先程までは普通だった睦月と酒匂の目から、深雪に対する敵意と殺意が漲っていた。
量産化を施された者は、米駆逐棲姫と同じ力を持つ。つまり、『量産』の曲解の力そのものも受け継いでしまっている。敵となった者は、全員が敵を量産してくるということに他ならない。
その条件は、今見せられた爪を突き立てるという隙だらけのもの。だが、艤装も何も持たない状態であれば、それも簡単に行えてしまうのだろう。何も知らなければ、突然後ろから忍び寄られて首に刺され、そのまま量産化成功まで行ってしまう。梅と秋月の時のことを考えると、そのあと、あの姿ではなく元の姿での活動も可能。それも米駆逐棲姫の力。
「サカワ! ムツキ!」
「スキャンプちゃん、特異点に協力するの? 酒匂と一緒に来ようよ。
あの優しさの権化とすら言える酒匂が、豹変したことで深雪のことを
「スキャンプ、撤退!」
「ここまでコケにされて、むざむざ逃げろってのかテメェ!」
「今はどうにかする方法がわからねぇんだよ! お前もああなりたいのか!」
怒り狂うスキャンプだが、その手を深雪が掴んで撤退を続ける。流石に振り払うことも出来ず、その場から離れることしか出来なかった。
今でこそ
「量産化の条件は、あの爪で傷をつけること、だと思う。首にやるのが一番早いんじゃないかな」
こんな時にも冷静に速さ重視で分析を続ける伊203。最初に米駆逐棲姫を守る時に、梅と秋月が手刀を繰り出したところから、そうでは無いかと見当をつけていた。2人の爪が、異様な色をしていたのをあの瞬間に見ていたからである。
爪には毒が塗ってあると考えれば早かった。傷をつけられた時点でその毒が身体に回り、時間が経過すれば全身に達し、その時点で量産化が完了する。全身に回れば肌は白くなり、髪もあちら側に染まり、思考は米駆逐棲姫のコピーとして書き換えられてしまう。
頭に近い場所を傷付ける、そして、その場で注ぎ続ければその分、早く毒が回るのだろう。そのせいで、睦月と酒匂はこの場で量産化が完了してしまった。
「とりあえず、一度距離を取るわ。これだけ離れているなら、私も
撤退ではなく、一度振り向いて追っ手の方を向くと、鉄の棒を居合のカタチで構えた。
「私が抜いたら、すぐに走りなさい」
ギュッと棒を握ると、力強く、それこそタイルにヒビが入る程の強さで踏み込み、一気に振るった。
瞬間、暴風とも思える突風が眼前に吹き荒れ、周囲のゴミなども舞い散らせることで、追っ手の目を眩ます。光とは違うものの、強すぎる風の中では目を開けていることもままならなくなる。
そうして作った隙を利用して、深雪達は再び逃げた。細い道を何度か曲がり、潜むことが出来そうな場所にまで駆け抜ける。
すると、米駆逐棲姫が潜伏していた廃ビルではないが、何かしらに使われていたであろう空き家を発見。都合よく鍵が掛かっていなかったため、大急ぎでその中に入り、息を整えた。
「くそ……くそ……っ」
梅と秋月に続き、睦月と酒匂まで巻き込まれてしまった。しかも目の前で。状況が状況だけに、すぐに救えるようなモノでは無かった分、余計に悔しかった。
深雪が悔恨の言葉を溢すと、最後に空き家に入った神風が、何とかなると声をかける。
「アレをどうにかする手段はきっとあるわ。少なくとも、本体を終わらせれば何か変わるはず」
「まずはそれが第一の目的になる。他に傷がつけられないなら、それしかやれることがない」
神風に続いて、伊203もそれが手っ取り早いと策を練る。
「あそこに戻るのはかなり難しい。でも、出来ないことはない」
「フーミィならそれくらい出来るわね。私達は足手纏いになっちゃいそうだけど」
「ただ、一番の手段が使えない。組み付いたら、そのまま爪に刺される。そうしたら一巻の終わり。奴が死んでも量産が無くならなかったらまずい」
後ろから絞め落とすにしても、その時に腕に爪を刺されたらそのまま量産化されてしまう。ならば、何かしらの武器を持って近付き、必殺の一撃を入れて即撤退が一番早い。だが、その武器が今は無い状況なのだから、どうしようもない。
「とりあえず、ハルカちゃんに連絡するわ。状況を伝える」
「あっちにも誰か行ってるかもしれないから知っておいてもらった方がいい。イリスがやられるのも厳しい」
伊203が言う通り、イリスが量産化の犠牲になった場合、今後が詰みになる可能性が高い。そもそもあちらがイリスの存在に気付いてしまっているのだから、狙わない理由もないのだ。
伊豆提督が守っているとはいえ、何が起きるかわからないのがこの異変。それこそ、伊豆提督すらも量産化の餌食になってしまったら、壊滅は免れない。
そのためにも、今見たことを全て伝えるしかない。そして、
「最悪の場合、私達が見た以上に敵が増えてる。警戒は絶対に怠らないで」
現状を知るのは、ここにいる者のみ。スキャンプの安全の確保は出来たものの、まだ状況は悪いままであることは変わらない。