トーチカの巨腕から繰り出される攻撃により、暴風が吹き荒れ、荒波が立ち続ける撤退戦。特異点の煙幕も暴風でかき消され、撤退しようにも波で足を取られてまともに進むことが出来ず、敵はその波に慣れているのか刻一刻と距離を詰めてくる。トラが牽制の砲撃を放ちつつ何とか撤退を試みているものの、それもなかなかうまく行かない。
そこで神風は、叢雲が溢した呟きから一つのアイディアを閃き、すぐさま深雪にそれを伝え、実行に移させた。それが、
「行けぇ!」
深雪から海中に放たれた煙幕は、彼女を中心に海を白く染め上げていき、そして湯気が立つかのように周りに立ち込め始めた。
仲間達に守ってもらい、その時間も稼いでもらい、補助装置である電の力も上乗せして、周囲に一気に力を込める。本来の煙幕の範囲を作るには、これまで以上に時間はかかったものの、海中から浸透したそれは、無事に範囲を拡げることに成功した。
立ち込めている煙幕を、トーチカが巨腕によって吹き飛ばそうとしているようだが、その煙幕は急激に範囲を拡げたからか、簡単には吹き飛ばされることはなかった。吹き飛ばされたところで、すぐさま次の煙幕が立ち上る。
煙幕そのものが海中に潜んでいるのだから、出始めを潰されているわけではない。常に海面から、広い範囲で噴出し続けているのだ。深雪の腕という小さな噴出口とはワケが違う。
「っし、これなら行ける!」
「まだまだ出すのです!」
深雪と電は、周りを包み込む煙幕を切らすわけには行かないと、より強く煙幕を出し続ける。願い、念じ、出力を上げていくと、白く染まった海域がより大きく拡がった。
そうなれば、より多くの煙幕が一気に発生させられる。トーチカの巨腕が起こす暴風にも、より対抗が出来るようになるはずである。
「……で、あたし達はここからどうやって撤退すりゃいいと思う」
しかし、2人がかりで煙幕を海中に放ち続けているため、体勢的にその場から移動するのも少々難しかった。特に深雪は、腕を完全に海中に突っ込んでいる状態。
自分を中心に煙幕を出し続けることは可能だが、移動しながら範囲を拡張するのは出来そうで出来ない。
「え、曳航してもらう、のです?」
「それしか無ぇよなぁ。だ、誰かーっ! あたし達引っ張ってくれーいっ!」
今この状態でも完全に安全とは言い切れないところに、特異点の曳航という新たな任務が出てきてしまった。しかし、この煙幕がなければまともな航行すら出来ないとなると、深雪達を移動させつつ、うみどりに近付くことが、最も安全かつ確実に帰ることが出来る手段と言えよう。
何せ、この煙幕には『無事に帰ること』という優しい願いが込められている。この煙幕の中に入れば、その願いがしっかりと働き、荒波の中でも航行が出来るようにすらなるだろう。
「全く、君達は世話が焼ける」
そんな2人に対して、溜息を吐きつつも苦笑していた時雨。曳航くらいならしてやろうと手を差し伸べた。深雪は姿勢が低く、煙幕のために片手だけでなく両手を海中に突っ込んでいるため、その手を取れない。そのため、まず深雪を電がしっかりと掴み、その電を時雨が掴むカタチで曳航を開始する。
本当なら鎖か何かで縛っていきたかったのだが、今この現場にある鎖は、白雲の『凍結』が完全に浸透しているモノのみ。何かの弾みで凍ってしまったら取り返しがつかないため、白雲もそれはよろしくないとやんわりと拒否。そうなると手を繋ぐくらいしか出来なくなる。
「この白い海の上では、僕達もかなり航行しやすくなるようだ。これも特異点の力かな?」
「わからねぇ。でも、みんなで無事に帰れるように願ったから、これまでキツかったことがうまく出来るようになってんじゃないか?」
「事を起こしている君が疑問に思わないでもらいたいんだけどね」
暴風と荒波は今でも変わらない。しかし、深雪が染め上げた小さな白い海域の上では、その大荒れの海上でもまともに立っていられる。それこそ、この海に慣れているような敵と同じように、何の支障もなく航行出来る。
時雨はそれこそが今の特異点の力なのだろうと把握した。いつもならば、海上にばら撒かれる煙が影響を及ぼすが、今は海水そのものがその効果を持っているのだろうと。風が無かったら、今この海域は煙に覆われており、その中で同じように安定した航行が出来ているのではないかと予想もする。
煙でなくても、海水そのものを特異点の領域に仕立て上げてしまったということである。煙ほどの即効性は無いにしても、蔓延してしまえば確実な効果を得られるのがこちら。海の上限定であり、時間さえかければ煙以上の効果も得られるのではないかとすら感じた。
「ともかく、今は撤退が優先だ。磯風、逆側から風を起こしてもらえるかい」
「心得た。私の風の力で押せばいいのだな」
「理解が早くて助かるよ。でも、敵も流石に近付きすぎてる。大丈夫だとは思うけれど、用心して」
時雨が電の手を引くと同時に、逆側には磯風が立ち、深雪を押すような位置を陣取る。そして『空冷』の風を起こすことで、推進力をさらに増すことに貢献する。
あちらからも風は起こされているのだが、それ以上の力を発揮出来るように、まるで風を受けるように風を起こした。中和はしてしまうかもしれないが、これまでよりは航行速度は上がっていく。
「来た! 夕立、行けるな!」
「ぽい! なんかおかしなことされかければ、夕立達が全部耐えるっぽい!」
トラと夕立が反応したように、追っ手が深雪を射程に入れたようで、この大嵐の中でも的確な砲撃を放ち始めた。風に流されることも考慮した、深雪をピンポイントで狙うその砲撃は、トラや夕立がいなかったら間違いなく直撃しているようなモノ。
砲撃自体には細工はされているようには見えず、避ければ確実に深雪達が害を被る。ならばやることは一つしかない。
「なんのための『ダメコン』だ。勿論、このためだろう!」
その砲撃を、トラが殴り飛ばすように弾いた。痛みはあれど、『ダメコン』のおかげでほぼ無傷。擦り傷程度は自己修復で即座に回復である。
受けてわかったのが、やはり砲撃自体に何か力が付与されているようなことはない。最悪なのは腐食性の体液などだったが、そういったモノもない。
「大丈夫だ、我々が全て弾く!」
「だから安心して曳航するっぽい! もっと近付いてきたら、その時は弾くだけじゃなくてボコりに行くっぽい!」
「本当に頼もしいよ君達は」
時雨もこれには笑顔を見せ、ここからは本格的に撤退を始める。白い海域を拡げるように、その中心である深雪を確実に運ぶ。ゆっくりとは言っていられないモノの、安定性を考えるなら、全速力で駆けるなんてことは出来るわけがない。
とはいえ、ある程度離れてしまえば、トーチカが巻き起こす風と波の効果範囲からは外れることが出来るだろう。それまでの辛抱。そして、そうするまでに、仲間達総動員で撤退を進める。
「敵の数は!」
「1部隊分ってところね。この嵐の中だから戦いにくいだけ。あちらは嵐を乗りこなす事に特化してるから、戦闘能力は並よ」
この短時間で、神風がそこまで分析していた。先程の砲撃の精度の高さを見て、実力を並と言ってのけるのはどうかと思いつつ、逆に特別な何かが無いというのなら、いくらでも勝ち目がある。
あちらには、この海域の熟練者であることしか優位性が無いと神風は断じた。そして、それを特異点の力で覆すことが出来るのならば、その差は完全に失われる。素人で勝てるとは言わないが、ここにいるのは素人ではない。
「まぁ、それでも、何かしらの能力持ちが紛れ込んでいることは意識しながら、撤退最優先で、近付かれたら迎え討つわ。とりあえず砲撃の手は止めないで。全員
白い海域を『深雪の領域』と称したことを、本人は若干気恥ずかしそうにしていたものの、それ以上に言い方が思いつかなかったので、今後はそれで語られることになるだろう。
この領域内では願いが叶う空間。言ってしまえば、深雪がこの場に作り出した簡易的な特異点W。手を引き抜けばその領域は失われるし、深雪が力尽きると同時に消滅する。
だが、維持し続けている間は仲間達に莫大な利益を齎すことになる。風を感じない。波を感じない。砲撃もブレなければ、回避に足を取られない。いつも通りをそのままに出来る。
「わっ、これ凄いね。これなら戦いやすいよ」
「まこと、お姉様の力は凄まじい。素晴らしくて尊敬の念はより高まってしまいます」
その領域の力を実感して、グレカーレと白雲は感動した。これまでの海が嘘のように穏やか。実際は違うのだが安定性が段違い。
これならば撤退出来ると、向かってくる敵部隊を見据える。領域から出ることは出来ないが、迎撃ならばいくらでも可能。
「全員入ったかい? ならいいね、深雪、しっかり腕を突っ込んだままにしておくれよ」
「わかってる。割と速めに行ってくれても大丈夫だ。電も、しっかり掴んでてくれよな」
「なのです! 時雨ちゃん、お願いするのです!」
「よし、それじゃあ、速くするよ。神風、叢雲、いざって時は手伝ってくれないかい」
「ええ、引っ張る程度ならいくらでも。キツくなったら代わるわ」
ここから、領域を拡げながらの曳航がさらに速くなる。ぐっと引っ張られる感覚が深雪を襲うが、電の掴み方がよく、そこまでの衝撃にはならず、体勢を崩すこともなかった。
しゃがんだまま引っ張られるなんてまず無い。こんなことでレアな体験がしたいわけではなかったのだが、深雪はしっかりとその力を発揮し続ける。
「なかなか、撃ってくるじゃないか! 夕立、魚雷は頼むぞ!」
「ぽい!」
砲撃に加え、雷撃も交じることで、深雪達の撤退を防ごうとしているようだが、深雪の領域内に入ろうとした段階で
海中に煙幕が溶け込んでいるのだから、回避の力はしっかり利いており、砲撃が当たらなくなるのだから、魚雷も真っ直ぐ進まない。そうなれば夕立も魚雷を楽々破壊出来る。
「これなら逃げられる! ガンガン行くぜ!」
「引っ張られてるだけなんだから、舌を噛まないようにしなよ」
撤退戦は続くが、ここまで来れば逃げ切れたも同然であろう。