海中に煙幕を放つことで作られた深雪の領域。この範囲に入れば、風と波によってまともに航行出来なかった状況を覆すことが出来、これまで非常に難しかった撤退がようやく可能となる。
それを見ている敵の追っ手は、撤退を止めようと砲撃を放つものの、それはトラと夕立の『ダメコン』コンビがしっかりとガード。そこからさらに、砲撃などに何かしらの能力が付与されていないことを証明。ただ守っているだけで危険がないことを確実とする。
また、深雪の領域は無事にうみどりへと帰ることが願われているおかげで、魚雷すら失速するという性質まで持ち合わせていた。煙幕を纏っていれば砲撃が当たらなくなるのと同じ原理であり、今はその煙幕が海中にあるのだから、砲撃と同じ効果が雷撃にあってもおかしい話ではない。
「……あちらも追うのを諦めたかしら」
砲撃も雷撃も効かず、航行が安定した状態での撤退は、敵側としても追っても無駄と判断したか、これまで執拗に追いかけてきていた追っ手が途端にその動きを緩やかにした。
深雪の領域を突破する手段があちらも簡単には見つからないようで、余計なことをしていたら逆に自分達の手札をバラしてしまいかねないと察したようである。
「それならそれに越したことはねぇよな。まだしばらく垂れ流しておくけど、それで帰らせてくれるんなら万々歳ってもんだぜ」
「なのです。今はお互い傷付かずに終わった方がいいのです」
撤退を許してもらえるのならばそれでいい。今はトーチカの存在をうみどりの仲間達に伝え、改めて攻略をするべく、仕切り直しが必要なタイミングである。通信が使えなくされている以上、時間をかけてでも情報を届けなくてはならない。
「なら今のうちに一気に行っちゃいましょ。これ以上戦闘を長引かせたくないでしょ」
「違いねぇ。ハルカちゃんに早く伝えねぇと」
「それに、うみどりに着くまでに置いてきた敵もいたでしょ。もし難儀してそうなら、改めて拾った方がいいわ」
トーチカに辿り着くまでに凍結などで拘束した敵も、今は仲間のうちの誰かが回収してうみどりに運び込んでくれているかもしれないが、それもままならないなんてことがあった場合、この撤退を邪魔される可能性がある。
トーチカから離れれば、その巨腕から繰り出される攻撃によって起こされる風と波の影響は受けなくなるだろう。そうなれば、ここに来るまでと同じように航行が可能になり、深雪も今の中腰姿勢をしなくても良くなる。そうすれば、同じ敵とはいえ、もう一度拘束をして、そのまま鎮守府まで運んでしまうことも出来る。
「じゃあこれまで来た道通りながら戻るってことだな」
「ええ、それがいいでしょう。時雨、曳航する方はわかるわよね」
「ああ、その辺りは大丈夫だよ。もう少し離れたら深雪にも立ってもらうさ。引っ張る必要が無くなるだろう」
もうこの時には追っ手も完全に足を止めていた。トーチカに戻ることもなく、その場で深雪達を恨めしそうに眺めるのみだった。
仮面のせいでその表情はよくわからなかったが、顔がジッと深雪の方を向いているのはわかるため、まさか逃がすとはとでも思っているのかもしれない。
この時に、トーチカが起こす風と波は、深雪の領域に関係なく緩やかに感じるようになっていた。これならばもうまともな航行も出来るし、いざ敵が来たとしても戦闘も可能である。
これならもう撤退も可能だと、一同は少しだけ胸を撫で下ろした。だが、戦いはまだ始まったばかり。トーチカの攻略方法は、未だに見えていない。
撤退中、先に話していた通り、一度通った場所を通ることで、拘束していた敵の様子を見つつ、出来るならば回収してうみどりに帰投する。
だが、そこでもまた厄介なことが起きてしまっていた。
「……目が覚めている子だっていないとは限らないわよね」
拘束から抜け出している者かやはりいたのだ。全員が全員そうなっているわけではないにしろ、そういう者がいるというだけでも、撤退の難易度が上がる。
とはいえ、一度斃せたことは間違いないのだから、同じようにするのみ。幸いにも戻ってきたら力が増しているなんてことはない。
しかし、それが襲っているのが、深雪達ではなく、妙高達回収班であることは問題だった。
「艤装壊されてんのに、なんで動けてんだよアイツら……!」
梅が『解体』により装備している艤装を破壊はしたものの、その衣装の下にも艤装があるのだから、海上移動なども当たり前のように出来てしまう。
艤装人間という真相を、深雪達はまだ当然知らない。故に、今この状況を見せられて目を丸くした。
「あ、でも妙高さんのおかげで誰も傷付いてはいないみたいね。流石『ジャミング』」
とはいえ、回収班には妙高がいるため、敵対されたとしても、その攻撃は全く当たることは無かった。睦月も梅も、妙高の『ジャミング』の範囲内を常に維持し続けているため、敵からの攻撃は全て無効化していた。
徒手空拳を繰り出したとしても、狙いを定めている時点で『ジャミング』の餌食になるのは変わらない。仮面をつけていたとしても、それは回避不能なようである。腕に仕込まれた機銃は尚更である。あらぬ方向へと飛ぶのみ。
こうなることを見越して妙高が共に来ていたと言っても過言ではない。艤装を『解体』しても何かしてくるなんてことがないとは言い切れないのだから、万全を期することは何も間違いではなかった。
しかし、目を覚ましてしまった敵を止めることは難しいようで、近付いたところでその膂力をどうにかすることも出来ず、鎖での拘束も簡単に破壊してしまう程なのだから、何が出来るかと言われれば、この場で拮抗を維持することくらいしかなかった。
幸い、
「まずはアレを止めましょう。顔は腹が立つけど」
その顔、榛名の艤装人間が妙高相手に暴れているところは気に入らないようである。その上で、それをなるべく無傷で終わらせねばならないというのも面倒な話。
妙高達もそうだが、未だにこの艤装人間が、捕えられた艦娘をそのまま改造しているのか、深海棲艦を艦娘のように改造しているのかの判断がついていないのだ。万が一前者だった場合は取り返しのつかないことになる。
「白雲、頼めるか」
「承知にございます。芯から冷やして差し上げましょう」
「私も手伝おう。今は早期決着が望ましいだろう」
「よろしくお願い存じます、磯風様」
ここからは早かった。磯風が『空冷』の突風を巻き起こし、艤装人間達を一気に冷やしたかと思えば、白雲が的確に鎖を触れさせて凍結。逃げる暇も与えずに、瞬殺と言ってもいいくらいの早さで方をつけた。
「あ、み、深雪ちゃん達にゃし」
「戻ってこられたんです?」
結果として『空冷』にあてられた睦月と梅は肌寒そうにしていたものの、窮地を脱したことで一安心。妙高も礼を言うように頭を下げた。
「その様子は……今のメンバーでは敵拠点の攻略が難しいと判断したようですね」
「ええ、かなり厳しいわ。一度戻ってハルカちゃんと相談するべきと判断した。で、こっちは……」
「ご覧の通りです。敵対しているこの深海棲艦は、身体そのものが艤装で出来ています。本来の艤装を破壊したところで、艤装自体は失われていない。そのせいで、この状態でも戦闘が可能でした」
このこともうみどりに伝えたかったのだが、当然ながら通信不能。ここにいる敵が全てコレならば、先に捕虜にしている敵も全員こうであると考えるのが妥当であろう。
「じゃあ、早く戻らねぇと!」
「はい、でもその前に、ここにいる者達は全員積み込んでからにしましょう。二度手間になるかもしれません。敵は減らすに越したことはありませんから」
悠長ではと思いつつも、確かにまたここに放置していたら、二度手間になりかねない。うみどりで何かやっている間に動かれても困る。そのため、まずは手早く片付けるところから。
人数が増えたおかげでそれはすぐに終わり、動き出しそうな者は全てこれまで以上にしっかり凍結させているため、次に動けるようになるのはかなり先となる。
ある程度の安心を手に入れた状態で、深雪達は改めてうみどりへの航路を駆けた。今度は妙高達も共に。
そしてうみどり。そこは、深雪達が思っていた以上なことになっていた。
「……ンだよ、コレは」
捕虜達が機銃を撃ち続けたために、工廠の一部に飛び火して破壊されてしまっているところも見える。それは妙高も予想していたこと。帰路の最中に簡単にだが起きているかもしれないことは話してくれている。
それに、異様だと感じるのは床に磔にされている捕虜達。目は開けているが、身動きが全く取れる様子もなく、両腕両脚が完全に床に食い込んでしまっているようにしか見えない。これに関しては何が起きたのか意味がわからない。
「ハルカちゃん! 大丈夫か!」
「あら、アナタ達戻ってこれたのね。何かあったのかしら」
まだ工廠にいた伊豆提督の声色は暗いモノではなかった。それを聞いたことで少し安堵したものの、姿を見たことでそれはすぐに取り払われた。
「ハルカちゃん……そりゃあ……どういうことだよ」
「見ての通り、アタシも負傷する事態に陥ったということよ。命あっての物種だけれど、正直危なかったわ」
車椅子に乗せられた伊豆提督。酒匂によって応急処置はされているが、脚に巻かれた包帯は痛々しく血が滲んでいた。生々しい傷痕がその目に飛び込んできて、深雪はグッと拳を握る。
深雪だけではない。伊豆提督の負傷は、ここにいる者全員の怒りに火をつけた。
「妙高ちゃんももうわかっていると思うけれど」
「はい、こちらでも改めて
それは逆に良かったと妙高は冷静に話す。これで追加の捕虜も同じように暴れていたら、それこそ伊豆提督の命があったかどうかわからない。
「あちらはアタシ達の在り方……敵だって救うことを逆手にとった策を出してきた。その結果がコレよ。アタシはル級ちゃんとムーサちゃんに救われて、脚を怪我する程度で済んだの」
ムーサは入渠中。ル級は高波と共に工廠で待機中。盾を装備したまま、また工廠に攻め込んでくるような輩が現れた時のことを考えて臨戦態勢。
「一度落ち着きましょう。アナタ達が戻ってきたということは、敵の鎮守府が攻略出来ないと判断したからよね。その話を聞かなくちゃ」
「無理はしないでちょうだい。ハルカちゃん、それ思ったより重傷じゃないの?」
「血はやたら出るし、歩くことは出来ないけど、話くらいは出来るわ。それに、これが終わらないと安心して眠れやしないもの。だから、仕事だけはちゃんと終わらせないとね」
笑顔の伊豆提督が、眩しくもあり、苦しくもあった。
なんとかうみどりに帰投することは出来たが、これはあくまでも振り出しに戻ったにすぎない。とはいえ、敵がどういうモノかを少しでもわかったため、作戦を練ることは可能になった。
伊豆提督がやられたことに対しての怒りをなんとか鎮めつつ、深雪達は前に進む。足は重いが、それでも。