目が覚めたばかりの深雪が最初に行なうことは、艦娘としての訓練。海上歩行が出来るかもわからないため、そこを調べるところから。
基本的には最初から出来る者というのは稀。しかし、いないわけでもないため、まずは確認。
工廠から主任に艤装を貰った深雪は、その足で訓練用のプールにまでやってきた。案内役を買って出た睦月と子日も、深雪と同じように艤装を装備して。
もし深雪が海上歩行が出来ないタイプだった場合は、それこそ自転車の練習のように手を繋ぎながら海上歩行の練習が始まるからである。2人がかりなのは、左右で支えるため。
「昨日神風に案内してもらったけど、ここマジでデカいよな。艦の中ってこと忘れちまいそうになるよ」
「だよねぇ。うみどりが疾ってる間も訓練出来るように造ったんだって」
訓練用のプールは、おおよそ25mの広さ。それならば小学校のプールというイメージになるが、深さがまるで違った。間違いなく足がつかないほどに深いそれは、多少なり海の上と同じにしていた。
その中には何かしらの機材も見えている。それについては深雪は説明を受けており、人工の波を作り出すことで海と同じ状況を再現するという特殊な設備であることを知っている。
「艦娘の第一歩、海上歩行訓練を始めるわ」
そして、そのプールには神風が待ち構えていた。教育係に加わると話していたが、その言葉が早速実現していた。
しかし、神風は艤装を装備していない。あくまでも監督役としてここにいるようで、プールの外から指示を出すだけのようである。睦月と子日がサポーターとして一緒にプールに入るため、神風は一歩引いたようである。
全員が近くで見ていても、癖などはわからない。最低1人は遠目に見ることでそれを看破し、より早くコツが掴めるように努める。
「これは誰もが通る道。というか、出来なかったら後始末なんて出来ないもの。なるべく早く出来るようになってもらうわけだけど、最初から感覚的に出来ちゃうって人もいるから、とりあえずやってみましょ。睦月、子日、まずは先に入ってもらえる?」
「にゃしぃ!」
「はーい!」
神風に言われたことで、2人は軽やかにプールに飛び出した。本来ならそのまま沈んでいってしまうが、艤装を身につけているのだから、その水面を地面に見立てるようにその場に立つ。
「それじゃあ深雪、第一歩」
「うっし、やってやるぜ!」
そして深雪も2人と同じようにプールに向かってポーンと飛び出した。神風の言葉を全て聞き終わる前に。
「あ、ちょ、そんなに勢いよく行ったら!」
神風が思わず手を伸ばすが届くわけもなく、深雪はそのまま着水。それと同時に綺麗に足が滑り、身体が
「ぐえっ!?」
そしてそのまま背中を打ち付けるように倒れ、その衝撃であられも無い声が出てしまった。艤装によって背中を強打した痛みは、一瞬だが息が止まっていた。
「み、深雪ちゃん大丈夫!?」
「ひっどい転び方したけど!」
睦月と子日が駆け寄るが、深雪はなかなか立ち上がることが出来なかった。むしろ、ここから復帰するのも訓練のうち。
「だ、大丈夫、大丈夫なんだけど、た、立てねぇ……」
艤装の力のおかげで沈むことは無いのだが、だからといって水面に足をつけることもままならない。深雪にはわからないが、まるで氷上で立ちあがろうとしているようなもの。足がついてもツルツルと滑り、まともに姿勢を維持することも出来ない。
海上歩行は氷上スケートに近しい操作性である。艤装の出力によって足を動かすことなく前に進むことが出来るが、ある程度加速しようとするなら足で多少は漕がなくてはならない。その際にバランスが一気に崩れてしまう。
ようは体幹が全て。いくら艦娘といえど、そちらの練度が無ければこうなる。目の前で軽やかに滑る睦月と子日がどれだけ慣れているかを、深雪は身を以て知ることになった。深雪自身もこうなるために訓練をしているのだが。
「睦月達に掴まってね」
「まずは一回直立してみよー!」
左右から腕を組まれて、同時に引き上げられる。そのおかげで何とか姿勢を取ることは出来たものの、今度はそこから全く動けなくなってしまった。
今の姿勢を保つのも一苦労。まるで産まれたての仔鹿の如く脚をプルプルと震わせながらその場に立っているのみ。
「最初はこうやって2人がかりで支えて滑るんだよ」
「そうやって慣れていって、最終的に支えを無くすんだよ」
言いながら2人で引っ張るようにして深雪を水上で滑らせる。自分の力は一切使っていないものの、2人のサポートによって深雪は海上歩行を
「て、手ぇ離すなよ、今離されたらまたすっ転ぶぞ!」
だが、それはあくまでも2人に支えられているから出来ているだけ。自力で滑ることはまだ出来ない。足がこの感覚を知るまでは、サポートありきの滑走を続けるしかない。
「……あんな豪快に引っくり返るとは思わなかったわ」
遠目に見ていた神風は小さく溜息を吐いた。
海上歩行訓練の際には皆、慎重に水面に足をつけるのが定番。その一歩を踏み出すのにも躊躇が見え隠れする。
しかし、深雪はその感覚自体を持っておらず、まるで
自信家なのか、無鉄砲なのか、それとも別の何かがあるのか。どうであれ、神風は深雪のそのやり方に若干の不安を覚えた。今でこそ失敗から学んで過剰なほど慎重になっているが、ここで上手く行っていたら、今後危なかったかもしれない。
失敗は成功の母。深雪はそうやって学んでいく。
『はぁい、全員艦内に入っていることはわかっているから、全体放送させてもらうわね』
深雪が必死に海上歩行訓練をしている中、プールの中に伊豆提督の声が響き渡った。早朝のイリスの総員起こしの時と同様に、うみどり全体にこの放送が届いている。
『朝礼の時にも言ったけれど、これからうみどりは次の現場に向かうわ。周辺警戒と抜錨が終わって、今から動き始めるから、安全のため壁際に行くなり座るなりしてちょうだい』
稼働直後はどうしても艦内が大きく揺れる。一度軌道に乗ってしまえば、揺れもなくなり艦内は安定するのだが、それまでは立っていることが出来なくなるくらいの揺れも無くはない。
そのため、移動する直前に全体放送で通達が入るのだ。自由時間とはいえ、この時間に余程危険なことはさせていない。例えば、料理などは火を使って大変なことになりかねないので軌道に乗るまでは禁止している。
プールの上に立っている深雪からしてみれば、この揺れは簡単には回避出来ない。むしろ、プールの水が大波となることが確定している。
「お、おい、どうすんだ。このままでいるのか」
伊豆提督の放送を聞いて、若干パニックを起こす深雪。その場にいたら危ないということではと、左右に陣取る睦月と子日に訴えるような視線を投げかけるが、2人は大丈夫大丈夫と両腕を掴んだまま。
「ちょっと大きな波が起こるだけにゃしぃ」
「後始末の時に津波とかあったりするから、それに慣れるためにも経験しちゃおう」
どうにかしてくれと神風の方を向くものの、とうの本人は既に壁際に退避して振動対策も万全。しかも少し高い位置に立って波打つプールの水を被らないようにしている始末である。
深雪の視線を知ったことで、ニッコリ笑って手を振った後、サムズアップで健闘を祈ると表現した。
「お前ら鬼か!」
その瞬間、ガタンと艦内が大きく揺れた。水面が大きく波打ち始める。うみどりがこの海域から離れるために動き始めたのだ。
うみどりの操作は、艦娘達の立ち入り禁止区域で行なわれている。伊豆提督でもなく、イリスでもなく、妖精さん主導による航行だ。
人間よりも精密な動きが可能な妖精さんならば、最初から最後までを管理することで、非常に安定した航行を実現してくれた。
しかし、それでもこの最初の稼働時だけは揺れを伴う。大型の艦艇が発進するのだから、誰がどうやっても揺れるのは当然。こればっかりは妖精さんでも回避出来ない。
「うおっ!?」
案の定、深雪の姿勢は一瞬で崩れた。
「動き始めたね。はい頑張って!」
「転けても大丈夫大丈夫!」
そして、それを見た睦月と子日は、一切躊躇いなく深雪から手を離す。
「ちょっ、お前ら!」
同時にその波で足下が大きく動いた。熟練者な艦娘であっても、こんな波の中で航行するのは困難。2人はそんな波を軽々と乗りこなしているが、深雪にとってはそれを見ている状況ではない。
「うお、うぉおおっ!」
意地でも転けてなるものかと、必死になりながらその波を乗り越えようとする深雪。バランスを崩しそうになると、ステップを踏むように最適な場所を探し、それでも足が滑りかけたら身体を捻って体勢を戻す。
先程までまともに滑ることが出来なかったのに、短時間で一気に上達していたのは誰の目から見ても明らかである。
一種のショック療法的な、
「……すごいわねアレ。あんなにすぐ慣れられるものかしら」
その奮闘を眺めている神風がポツリと漏らす。
その深雪は、なんだかんだでこの波で最後に思い切りすっ転んでしまったものの、そこからすぐに復帰。何度も転んだ経験を活かして、立ち上がるくらいはすぐに出来たようである。
まだ海上歩行訓練を始めて数分というレベルだ。それで既に波を乗り越えることが出来そうになっているため、成長がかなり早いと言える。
「早く成長してくれる分にはありがたいけれどね」
そうこうしている内に波が小さくなっていく。うみどりの航行が安定してきた証拠であり、またもや全体放送が流れる。
『はぁい、安定したからもう大丈夫よ。これから日中は動き続けるから、また何かあったら放送するわね』
その放送を聞いたことで、退避していた神風は壁際から離れた。その間も海上歩行訓練をし続けていた深雪は、ゼエゼエと息を切らしていた。
「の、乗り越えたぞ、こんちくしょう」
「お疲れ様。何回か横転したみたいだけど」
「当たり前だ! 今日から始めた奴に難易度MAXぶつけんな!」
憤慨する深雪だが、その時にはさも当然のように海上歩行を可能にしていた。ただ立つだけでなく、滑走も自由自在に。
「ほら、出来るようになってるじゃない」
「……本当だな」
「人間咄嗟になれば割と出来るようになるようなものなのよ。火事場の馬鹿力って感じね」
自覚しても転けることは無かった。つまり、海上歩行はこの短時間でマスターしたことになる。
睦月と子日もこの早さには驚いていたものの、深雪が完璧に動けるようになっている様子を見てにこやかに拍手していた。
「……どう思う、妙高」
そんな姿をプールの外から眺めていたのは長門。この深雪の訓練を陰ながら眺めていた。
「そうですね、
隣で同じように眺めていた妙高が長門に返す。その視線は、まるで深雪を値踏みするような鋭いもの。長門も同じように深雪の動向を見つめていた。
「今のところ不安は無いだろう。私は何事もないと思っているが」
「私もですよ。ただ、懸念点として頭の隅に置いておくことは大事ですね」
「ああ、それは私もわかっている」
小さく息を吐いて、2人はその場から離れた。
妖精さんの運転による航行というのは、もはや自動運転と言っても過言ではないかもしれない。