黒い屋根の家の前で紫のマントを羽織った老人が赤ん坊を抱きかかえ一人で立っていた頃、家の中では
杏樹はこの日、一大決心をしていた。
3年前、不慮の交通事故により最愛の夫を失った杏樹には、この3年間絶望以外何も無かった。
この先、生きていたって幸せなんかある筈が無い。夫じゃなくて、自分が死ねばよかったのに。
一日の大半をベッドの上で過ごしながら、毎日そんな事を呆然と考えていた。
「あなたがそんな状態だったら、死んだ夫が浮かばれない」とか「若いんだから、そろそろ前を向かないと」とか何度も色んな人達に散々言われ続けたが、そんな言葉は何の慰めにもならなかった。
励ましのつもりか何なのか知らないがむしろ、杏樹の精神を余計に追い詰めいていた。
杏樹は、何か黒い線のようなものをずっと手に握りしめていた。
今日こそは……毎日毎日決心しては、いざやろうとした瞬間に毎回怖くなり躊躇っていた。
でも今日は違う。今日こそは、と震える手を強く握りしめた。
黒い線を、部屋の隅に置いていた梯子にかけ、頭一つ通せる程の輪っかにした。
全ての準備が整ったその時、家の外からかすかに話し声が聞こえた。
1人で全てを終わらせたかった杏樹は、その話声に少しイライラし始めた。
最後ぐらい誰にも干渉されたくなかった杏樹は、カーテンで閉め切った窓の元まで行くと、カーテンをチラッと開けこんな夜中に家の前で話している非常識がどんな奴なのか見ようとした。
家の前には、赤ん坊を抱いた老人と背の高い婦人が立っていた。
杏樹は自分の目を疑った。
彼らは、奇妙な服装をしていて、また日本人のようには見えなかった。
しばらくすると、老人は自宅の門を開け中に入ってきた。
どうしよう不法侵入だ、警察に連絡した方が良いかなと思考を巡らせたが、すぐにそんな考えは辞めた。
今の杏樹には、不法侵入されようが金品を盗まれようが命を奪われようが、どうでも良かった。
だが、老人はすぐに外に出て門をきちんと閉めた。
杏樹は、その老人の姿を見て妙に違和感を覚えた。
そして違和感の正体は、ものの数秒で分かってしまった。
抱えていた筈の赤ん坊がいない。
杏樹が覗いていた窓からは、玄関の丁度上にある屋根が邪魔でそこで老人が何をしていたのかが全く見えていなかったのだ。
杏樹は、もう一度老人たち2人の方に目をやったが彼らは忽然と姿を消していた。
窓を開け、辺りをキョロキョロと覗き込んでも彼らの姿は視界に入ってこなかった。
彼らがこんな早くここを立ち去れる筈なども無く、杏樹は狐につままれたようだった。
不思議な体験をするものだとぼーっと考えていたが、杏樹はすぐに我に返った。
赤ん坊はまさかドアの前に?
杏樹はさっきまで生きる気力を失っていた人間とは思えない程の素早さで、階段をかけ降り玄関の前までやってきた。
ドアをそっと開けると、予感は的中していた。
白い布にくるまった赤ん坊がドアの前に置き去りにされていたのだ。
杏樹は慌てつつも起こさないように赤ん坊を抱きかかえると、もう一度辺りを見渡した。
が、やはりあの奇妙な服装の2人組は見当たらなかった。
杏樹は、ドアを閉め赤ん坊を家の中に迎え入れた。
さっきまで死のうとしていた自分がまさか生まれたばかりの赤ん坊を抱いているなんて、人生何があるか分からないと彼女は思った。
同時に、こんな自分には育てられないから明日にでも施設に預けようとも思った。
預ける為には極力出たくない外に出なければならないのが苦痛だった。
一大決心は、今日もまた崩された。
赤ん坊を起こさないようにそーっと階段をゆっくりと昇ろうとした。
一段目に足をかけたその時、赤ん坊がくるまっていた白い布からパサッと何かが落ちた。
杏樹は、はーっとため息をつきながら、ゆーっくりとしゃがみその何かを拾い上げた。
それは、封筒に入った一通の手紙だった。
手紙と赤ん坊を持ちながら、そっとそーっと階段の上まで登り終えた杏樹は自室に赤ん坊と共に入った。
自室には、梯子にくくられた黒い線がゆらゆらと揺れ、まだぶら下げられたままだった。
自分のベッドの上に赤ん坊を置くと、杏樹は一息つきながら床にドサッと座り込んだ。
この数分の間に余りにも色々な事が起きたせいで、彼女の脳内はパニック状態だった。
少し落ち着くと、杏樹は先程拾い上げた手紙の存在を思い出し、気は乗らないものの読む事にした。
手紙を開くと、ほとんど英語で書かれていて杏樹はすぐに読もうとした事を後悔した。
だが、所々、日本語で書かれていた部分もあった。
「
その文字を見た瞬間、彼女は思わず赤ん坊に目線をやった。
神白、それはかつて愛した夫の姓で未だに自分が使い続けている姓だった。
もし、夫が生きていたら、二人の間に子供を授かっていたのかもしれない……この子のような可愛い子を二人で一緒に育てていたのかもしれない、そんな想像をしたらポロポロと泣き出してしまった。
そして、ふと思った。
この子も自分と同じじゃないのか、と。
愛し愛してくれる人を失い、この世に一人ぼっちだという事実。
さっきの2人組はどう見てもこの子の両親では無いだろう。
この子が実の両親に捨てられたのか、両親を亡くしたのか分からない。
ただ一つだけ言えるのは、赤ん坊もまた自分と同じ孤独だという事だった。
杏樹は、次第に赤ん坊を見捨てる事に対する罪悪感が生まれ始めた。
もう一度しっかりと杏樹は赤ん坊を見た。
今日、ここに自分が一大決心をしたその日その時間に、この赤ん坊がやってきたのは必然だったのかもしれない。
生きなさいと言う夫からのメッセージだったのかもしれないし、ただの偶然かもしれない。
杏樹は、もう一つ新たな一大決心をした。
黒い電気コードを梯子から取ると床に捨て、梯子も折り畳んだ。
コードを梯子から取った時、眠っていた赤ん坊が少し笑みを浮かべたような表情になっていた事を杏樹は気付かなかった。