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僕らがスターリーでバイトをするということになり、以外にも事はすんなりと進んだ。
学生のアルバイトを一気に三人も雇うほどにこの店は人手不足だったのかとも思ったが、店長でもある伊地知さんのお姉さんのことを考えると、おそらく彼女たち結束バンドのことを気遣ってのことなんだろう。
あの人は見た目で誤解されることもあるけれど、少なくとも身内には優しい。
そして妹の伊地知さんにはもっと甘い。
そんなことは言わないし、言えないけれど。
「おい、なにを考えてる」
「いえ、なにも」
「……嘘つけ。お前はあまり表情の変化がわかりづらいけどな、左の指先が動くときは大抵嘘をついてるときだ」
「……よくそんなところ見てますね。ひょっとして考えてる時も指に出るんですか?」
「そっちは勘だ」
「勘」
直感にしてはかなり鋭いと思った。
じっとお姉さんの顔を見る。
身長と目つきの鋭利さが伊地知さんとは明確に違う。
けれど、瞳の色やそこに宿る虹彩が、彼女たちが姉妹であることを改めて僕に実感させた。
店長は怪訝そうな顔をした。
「……なんだよ」
「いえ、これあそこでいいんですか?」
「あぁ、机の下の空いてるところに適当にやってくれ」
「わかりました。お姉さ」
「あぁ?」
「……すいません、つい。悪気はないんですよ店長さん」
「ったく……そんな呼ばれ方する年じゃねえよ」
機材がまとまって入っている段ボールを指示通り片づける。
壁や扉一面に様々なバンドのロゴやステッカーが貼ってあるこのスターリーの倉庫は、僕にとって異世界のようだった。
かつて一大のブームを引き起こしたバンドのもの、人気を集めていたがもう解散してしまったバンドのもの、逆に全く名前の知らないバンドのものもあった。
星の数ほどあるバンドの、幾多もの歴史を飾り付けているこの部屋に、僕は圧倒的な星々を眺めた時のような、息の詰まる感覚が一瞬だけした。
僕にはそれらが眩しくて、なるべく下を向きながら作業を続けた。
「鏡、次はアンプ運んでくれ。私も手伝う」
「わかりました。スタジオのやつですか?」
「いやステージのほう」
「ステージ?」
「どっかのバカな常習犯が故障させたのが残ってんだ。いい加減片付けないと」
店長は大きく息を一つ吐いた。
けれどそれはどこか柔らかな、優しげなものだった。
「……ご友人ですか?」
「腐れ縁だよ。こっちは切りたくてしょうがない」
「……」
なんとなく、その言葉は嘘だろうなと思った。
それからしばらく無言の状態が続いたまま、二人で一つの荷物を片方ずつ持ちながら丁寧に運んだ。
先ほど訪れた倉庫に運び、そこから出るときアンプの横にきらりと光るものが貼ってあるのを見つけた。屈んで注意深く見つめる。
それは案の定バンドのステッカーで、けれど僕が知らない名前だ。
“SICK HACK”と、そう書かれていた。
「どうした。扉もう閉めるぞ」
「あ、すみません。すぐでます」
僕はすぐに立ち上がり倉庫からでた。
扉を閉める際にちらりともう一度倉庫の中に視線を向ける。部屋の電気は消され、先ほどまで光沢を放っていたステッカーは暗闇の中に消えた。けれどなぜかただ一つだけ妖しく輝く光があった。
青く、黒く、それらが混同して鈍く、かつ鋭利な棘のように目に突き刺さる。
けれど僕は扉が閉じるまでずっと見つめていた。
目を離すことは許されないと、なぜか思った。
扉が完全に閉じ切ったとき、体の力が抜けた。
今まで加えていた不必要な力が、すっと何事もなく唐突に消え去った。
僕は何気なく視線を下ろし、自分の手を見つめた。
微かに、震えていた。
「なんだ、そんなに重かったか。貧弱すぎないかお前」
「……はは、そうですね。運動不足だからかもしれないです」
軽く笑う。大丈夫だ。これは決して疲れからきたものじゃない。アンプもその前に運んだものも、手が震えるほど重かったわけじゃない。
ただ、だとしたら、なんで……僕は震えているんだ。
いや本当は、わかっている。
僕は、あの光に恐怖した。足が竦んだのだ。
どうしてだ? わからない。
結局僕は仕事のことだけを考えることにした。そもそも今一番大事なのは与えられたことをやることだ。仕事に関係ない私情は挟むべきではない。
カウンターに見える四人に向かって足を進める。伊地知さんはすぐに僕に気が付いたようで、彼女は僕以外に休憩を言い渡し、ドリンクについての説明をしてくれた。
ただ脳裏にあの光がちらちらと映り込んで、僕は彼女の説明を二回も聞き返す破目になった。
そうして伊地知さんはいつものように笑うんだ。
大丈夫だよ、と。
そんな彼女の笑顔に僕はひどく、罪悪感を抱いた。
「ごめん」
「まだお客さん来てないから気にしなくていいよ。まああと十分くらいで来ちゃうんだけど。最初は大変だもんね、覚えるの。わたしも最初は全然覚えられなくて……。あっ、そういえばさっきぼっちちゃんにも同じように教えたんだけど、いきなりギター弾き始めてさ、いやーびっくりしたよ」
「へぇ。即興で?」
「そうだと思うよ。思い返すと結構上手だったかも」
「前のライブより?」
「あはは。おかしな話だけど、もしかしたらね」
他愛のない会話を交わし、開場五分前になると休憩中の三人を呼んで、そこでちょうど入り口の扉が開き客が入ってきた。
受付を終えてやってきた人たちを伊地知さんはマニュアルに縛られたものではなく、どこか親しみを感じさせる対応で受け入れ、注文を尋ねた。
僕はそんな彼女の指示通りに動いて、カクテルやらコーラやらをコップに注ぐ。
そんな時間が、何分か続いた。
伊地知さんから休憩していいよと言われ、僕は休憩室にある手頃な椅子に座った。
最初は全然疲れていなかったし、むしろ彼女のほうがずっと働いているから休むべきはそっちじゃないか、なんて言ってみたが後藤さんや喜多さんにまだ教えることがあるらしく、それを理由に断られた。
カウンターに四人も入れるほど広さの余裕はなく、後のことを考えると自分が邪魔になることは簡単に想像できた。
そうして仕方なく休憩室に来たまではいいものの、たいして疲れていないのに表では誰かが働いていることを考えると、どうも落ち着かない。
「ねぇ」
ふいに後ろから声をかけられる。気配も何もなかったから、変な声が出そうになった。
振り返ると青い髪が特徴的な、中性的な綺麗な顔立ちをした人がじーっとこちらに視線を向けていた。
見覚えは、ある。結束バンドのメンバーだ。あの日のライブでステージに立っていた。確か楽器はベースを弾いていた気がする。
制服は伊地知さんが通っている下北沢高のものと同じだった。
「あ、えっと……こんにちは」
「うん、こんにちは」
「……」
「……」
簡単な挨拶をきっかけに、なぜかこの部屋が不思議な雰囲気をまとい始めた。まだ名前も知らない彼女は僕のほうを見つめ、僕もまた彼女を見返した。相手を窺おうにも無表情で、だからこそ彼女が何を求めているのかがわからなかった。
互いが無言でいればいるほど、部屋の中の緊張は徐々に高まり続けて、余計に話しづらくなっていくのを感じる。
時間はそこまで経っていない。せいぜい一分か、それくらいの些細なものだ。二分は行っていないと信じたい。けれど黙り続けていればこの時間はいくらでも引き延ばせそうではあった。
気を張りながら、口を開く。
「あの、とりあえず座ったらどうです? 立ち続けるのは疲れるでしょう」
「そうする」
「あー……僕、鏡優っていいます。秀華高校の二年です」
「うん、知ってる」
「知ってる?」
「虹夏からよく聞いてる。小学の幼馴染だって。あと敬語はいらない。学年一緒だし」
「そう……そういえば、君の名前を聞いてもいい?」
「山田リョウ。言ってなかったっけ」
「うん、多分」
大して話したことのない、ほとんど初対面の人に自分のことを知られているのは、少しむず痒かった。
「あの先日は迷惑かけてごめん」
「? ライブの日のこと? 全然いいけど。メンバーは欠けなかったし、むしろ増えた。いいことだと思う」
「でもいきなりだったからさ。困ったでしょ」
「プロはあの程度では動揺しない」
彼女は得意げに腕を組んで鼻を膨らませた。僅かばかりではあるが、かすかに頬が緩んでいた。
でも実際ライブのときに彼女の演奏技術は際立っていたと思う。プロかどうかはわからないけれど、少なくとも喜多さんと後藤さんの演奏を支え切れる実力はあった。
少し下げていた視線を彼女に戻すと、さっきまでの無表情に戻っていて、どこか真剣な表情な顔つきになっていた。
「ねぇ、優」
「なに?」
「虹夏について、どう思ってる?」
「……伊地知さんについて?」
それは唐突に投げかけられた質問で、僕にとっても予想していなかった問いだった。
数秒悩んで、口を開く。
「……なんでそれを聞きたいの?」
「なんとなく。わたしが知りたいだけ」
「そっか。色々理由はあるんだけど、一番は僕の恩人かな」
「恩人? 友達じゃないの?」
「友達……うん、そうだね。そうとも言える。でもそれはなんだか色んな過程を飛ばした結果みたいで、その一言で片づけるにはちょっと不釣り合いなように感じる」
あの夜、伊地知さんと会ったとき。僕は彼女との仲が変わらないものだと信じた。けれどそれは違うのではないかと最近思い始めてきた。
確かに僕は伊地知さんに一定の信頼を置いているし、彼女が困っていたら僕は迷わずに手を貸すだろう。
しかし、時は環境を変え、その環境は人を変えるものだ。
伊地知さんのお姉さんがバンドをやめてライブハウスを運営し始めたのと同じように、きっと彼女も変わらないなんてことはないはずなのだ。
僕と伊地知さんが会わなかった空白の時間。それを知らないままでいる以上、僕らは表面上、過去の関係を続けているだけだ。
その過去が風化しないものだと、一体誰が決めるのだろうか。
伊地知さんとの関係が必ず切れないと妄信できるほど、僕は純情じゃなくなってしまったし、同時に色んなことを学んできてしまった。
僕は卓上に置かれている包装された焼き菓子を差した。表紙にはチョコレート味と書かれいてる。
「そこにチョコクッキーがある」
「うん」
「それを、そうだな……十年間そのままにしたとしよう。賞味期限も、消費期限も何日も、何年も過ぎたものなんだ。山田さんはそれが何だと思う?」
「……チョコクッキーじゃないの?」
「腐っていたり、食感が変わってたりしても?」
「うん」
「そう……僕はそれがチョコクッキーだとは思わないよ。だってそれは万人が考える美味しくて甘いものじゃない。伊地知さんにそれを渡しても、きっと彼女は苦い顔をすると思う。僕が伊地知さんを友人と呼びたくないのは、そういう包装紙の中身をしっかりと考えて、その一つひとつの意味を確かめていきたいから、かな」
山田さんはしばらく考え込んで、僕の言ったことを理解しようとしてくれているようだった。けれどそのうち悩まし気な短い声を漏らして言った。
「抽象的で、よく、わからない」
相も変わらず無表情だったけれど、僅かに目を伏せているせいか、悲しんでいるように見えた。僕はそんな彼女に優しく笑いかけた。
「その通りだね」
僕はそっとさっきまで指を差していたチョコクッキーを手に取り、包装を丁寧に破いた。
バターとチョコの香りがほのかに香る綺麗な褐色の中に、黒いチョコチップが埋め込まれている。
一口齧るとポロポロと生地の細かい欠片が床に落ちた。
咀嚼する度に口の中の水分が奪われ、けれど同時に淡くまろやかな優しい味が広がった。
それは決して何十年も皿の上に置かれた腐った何かじゃない。
いかにも子供が喜びそうな、そして誰もが認める甘いチョコクッキーの味だ。