ここ最近見たい映画がありすぎて全然手を付けてませんでした。
個人的に来週公開の『アリスとテレスのまぼろし工場』は非常に楽しみなんですが、こんなことを考えているから毎話難産なんだろうなって。
ふっと立ち寄った古本屋で目に付いた本を立ち読みする程度の気軽さでお楽しみください。
六月に入るとさすがに夏の陽気が顔を出し始める。
風はまだ涼しいが、日差しにあたり続けているとじっとりとした汗が肌を伝う。
今はどうでもない感触も、次第に鬱陶しくなると思うと少し億劫だ。
公園でも日陰を求めることが多くなりそうだ。
「おーい、しょうね~ん」
……そういえば夏休みはいつからだったろうか。
六月中に始まるわけはないけれど、毎年何日からなのかがいつも覚えられない。
去年は早々に課題を終わらせてギターを弾いていたことしか記憶にない。いや、杏に無理やり連行されて映画館をみに行ったりもしたか。
今年はどうなるんだろう。ライブハウスって夏は稼ぎ時なのだろうか。サマーフェスなんて言葉はよく聞くけど、店長さんのことを考えるとそんな企画はあんまりしないイメージが強い。
でも少なからずバイトは入るだろうから、去年と違ってそこは頭の片隅に入れておこう。
……なんて、現実逃避しても現状は解決しないことはわかっている。
内心でため息を吐きつつ、それでも漏れ出しそうな息を噛み殺して名前も知らない彼女に顔を向ける。
「ね~え~、聞いてる~? お~い?」
「なんですさっきから。僕に何か用でもあるんですか」
「あ、やっとこっち向いてくれた。君さ、公園にギター持ってきてるってことは」
「弾きませんよ」
「だよね……って弾かないの!? えっ? こんないかにも『公園に練習しに来ました』みたいな格好してるのに!?」
「ちょっと体調悪くて」
「えっ、大丈夫? お酒飲む? 幸せになれるよ~?」
「……自分まだ未成年なんで」
「えへへ、しってる。冗談だよ~。本気にしないでよ~」
「ていうか飲みすぎでは?」
「そんなことないよ。だってまだ……えーと……何杯目だっけ? まあ多分そんなに飲んでないからさぁ!」
「……はあ、そうですか」
なんだか気が滅入る。この人といるとただでさえ少ない僕の生気が奪われ続ける。
かといってこういう人の扱いをあんまり知らない。
だからといって早々にここから去るというのは薄情に感じた。
酒に溺れているのは嫌なことから逃れるため。そんなことをよく聞くけれど、この人もそうなのだろうか。
そう思うと、話を聞く程度なら付き合ってもいい気がした。
まぁ、早く別れたいことには変わりないけれど。
「……で、結局僕にどうしてほしいんですか、お姉さん」
「ん? んー……あ、そうそう、セッションするって話だよね」
「誰もするなんて言ってませんよ」
「あれ? そうだっけ? いやでもいいじゃーん。今日天気いいしさ! ね? やろう
よ、鏡優くん?」
公園にある適当な遊具に向けていた視線をゆっくりと隣に移す。
僕はこの人とは初対面だし、名前すら知らない。もちろんこちらから名乗ってもいない。
緊張のせいで体の動きが鈍くなる。
口を開くのにも少しばかりの時間が必要だった。
「……どうして、僕の名前を? あなたとは初対面のはずですけれど」
「まぁまぁ、どうだっていいじゃないそんなこと」
「一言で済ませられるものじゃないと思うんですが」
「だって大事なことじゃないしね。今重要なのはキミが私とセッションをするかどうか。これだけだよ」
不敵な笑みを携え、細い目がこちらをのぞき込む。
僕は驚くことに迷っていた。頷くか、首を横に振るか、その二択が頭の中に浮かんでいるほどには彼女の話にある程度の興味があった。
「……電話、出ないの?」
「え?」
「鳴ってるけど」
慌ててポケットの中を探ると、喜多さんから着信が来ていた。
画面に指を這わせ、電話に出る。
「もしもし」
『あ、師匠? ごめんなさい、いきなり』
「あぁ……いや平気だよ」
ちらりと目を横に向ける。彼女からの電話は実際ありがたくもあった。
少しだけ落ち着くことができて、冷静になれた気がした。
僕は今酔いが覚めていない女性に絡まれていて、なぜかセッションをやろうと誘われている。
一言でまとめるとそういうことだ。因果が全くわからないが、字面通りに受け止めよう。
『今日実はみんなで……あぁ結束バンドのみんなでアー写撮るんですけど、師匠も来ます?』
「それ僕必要ないでしょ。なに、アシスタントでもしろってこと?」
『まあ端的に言うならそうなんですけど、どうです?』
どう答えたらいいかがわからず、意味をなさない言葉が宙を舞った。
たった今、明確な道が二つできたことは誰から見ても明らかだった。
喜多さんの誘いに素直に頷いてここから去るか、あるいはその逆。
僕は数秒黙り……けれどその時間が答えなのだとようやく気が付いた。
迷っていることが、自分の意思の表れだった。
「……写真とかは詳しくないんだ。誘ってくれたのはありがたいけど……ごめんね」
『そうですか。じゃあまた今度ですね! それではまた!』
「あぁうん。また……」
今度っていつの話だろうと首を傾げつつも、通話を終える。
いや、今はそんなことはいいか。
退路はもうない。残された道は一つだけ。
「あ、電話終わった? で……どうする?」
その問いに僕は大きく頷いた。
僕の反応を予想していたのか、彼女はニッと笑った。
それからどっちからか楽器を取り出し、チューニングを行う。
「さてなにを
「なんですかその呼び方」
「え、ダメだった?」
「ダメとは言わないですけど……まぁ好きに呼んでください。でもこっちだけ名前を知られているのはなんだか不公平だとは思いませんか? お姉さん」
「ん? あ、あれ? 名前教えてなかったっけ」
「知らないですよ。このままだと適当に飲兵衛さんって呼びますけど」
「それは困るよ~。廣井ね、廣井きくり。私の名前。よろしく~」
「……あまりよろしくしたくはないです」
「なんで!?」
他愛のない話を口先で交わしながらも、準備を進める手は止めない。
囁くような風が僕と廣井さんの間をすり抜け、それを合図に空白が生まれた。
世界から切り抜かれた、一瞬の空白。
チューニングはちょうど終わり、それが明確に始まりを予感させた。
ちらりと彼女のほうを見る。まだ曲も決まっていない。けれど話し合うのはあまりにも今更過ぎるような気がした。
――少年くんの好きにやってみなよ。
廣井さんの視線は確実に僕を捉えていて、仄かに灯る瞳がそう語りかけているように思った。
仄かな、しかし自信を感じさせるその目は僕に少しばかりの勇気を与えてくれた。
ボディを叩き、カウントに入る。
曲も、最初の一音さえ決まっていない。
観客も、きっと拍手だってない。
けれど――不安も憂いも、何もない。
指を弾き、音が軽やかに響いた。
風が吹き、その合間を縫うように違う周波数を持った音が重なる。
低く、けれど確かに旋律を持った音。
単音はメロディーになり、重なり交わりあってメロディーはやがて一つの曲になろうとしている。
その曲を僕も廣井さんもきっと知らない。けれど止まることはない。
小節を刻み、音を奏でる。
不透明なこの先を、僕は言い逃れようもなく期待していた。
* * *
プツっと、何かがちぎれた時のような小さい音が微かに届いた。
ほんの少しだけ寂しさを覚える。
私はそっと耳に当てていたスマホを下した。
「師匠、来れないみたいです」
そう声をかけると、「そっか」という言葉とともに嘆息が聞こえた。それも駅前の工事の音ですぐに掻き消えた。
伊地知先輩と一緒に、ただ待ち人が来るのを待っていた私はぼんやりと人の行き交いや作業服を着た人を眺めていた。
「リョウ先輩と後藤さん、なかなか来ませんね」
「あー……まぁ、そうだね」
「どうかしました?」
「いや、なんでもないよ。うん。ぼっちちゃんは家からの距離が距離だし仕方ないかなぁ。リョウは気分によって時間通りに来るか決まるから、もしかしたらもう少しかかると思う」
「そう、ですか」
伊地知先輩はどこか歯切れが悪く、俯いた。
横から見える表情は無表情といってもいいほど動かず、「なんでもない」と言葉通りに受け取るには難しかった。
電車が次の駅に向かうことを告げる無機質なアナウンスが耳に届いて、少し経った後に改札を通る音が忙しなく鳴り始めた。
視線を巡らすも、そこに来るはずの二人の姿は見つけられなかった。
「今日撮るスポットって決めてあるんでしたっけ?」
「ある程度はここに行こうっていうのはあるけど、明確には決めてないかな。喜多ちゃんはどっか行きたい場所ある?」
「んー、そういわれるとあんまり……」
「そうだよねぇ……ま、全員揃ったら色々探してみよっか」
「はい、そうしましょう!」
軽い会話をはさみながら時間を潰す。ふと空を見上げて、今日は晴れてよかったななんて思う。そういえば最近よく空を眺めることが多くなった気がする。師匠がよくそうしている姿を見るからうつっちゃったのかな、なんて考えると少しだけ頬が緩んだ。
「ねぇ、喜多ちゃん」
「はい? なんですか?」
「その……なんで優くんを誘ったの?」
「あれ? だ、ダメでした?」
もしかして余計な事しちゃったかしらと、内心焦る。
「あ、いやその……誘わないでほしかったってわけじゃなくて、むしろ……じゃなくて! 優くんを呼ぼうとした理由を聞きたいというか」
「特に大した理由はありませんよ? 師匠は今日集まる人と知らない人ってわけじゃないですし、それになにかやるにはみんなでやったほうが楽しいじゃないですか」
「……そっか、そうだね」
数秒私の顔を見つめた後、呟くように伊地知先輩はそう言った。
けれどそれは納得したから出た言葉じゃなくて、どこか自分に言い聞かせているようにみえた。
「あっ、でも師匠とかならいろんな公園とか知ってるかもですね! よく場所とか変えて練習してるって聞いたんですよ。さっき電話したときどこかいい公園ないか訊いておくべきだったなぁ……」
「うん……」
「……伊地知先輩、あの、なにか悩み事ですか? さっきから難しい顔ばかりしてますけど。それかもしかして体調でも悪かったりします? あの、それだったら全然言ってもらって大丈夫ですけど」
「ううん、ほんとになんでもないの。ごめんね、心配させちゃって」
先輩はこちらに優しく笑いかける。
けれどその笑顔はひどくぎこちないもので、私は余計に不安になるだけだった。
それでも私がそこで口を開かなかったのは、これ以上踏み込ませないような線が伊地知先輩との間に引かれたように思ったからだ。
それははっきりとしたものではなくても、拒絶の意思を察するには十分だった。
「喜多ちゃん。喜多ちゃんにとって、優くんってどんな存在?」
「えと……?」
「……ごめん、やっぱりなんでも――」
「師匠は、」
咄嗟に口から出た言葉は、けれど続きはしなかった。
師匠は、私にとってどんな人なんだろう。一言で言い表すには私には難しい。伝えたいことがありすぎて、だから迷ってしまう。
伊地知先輩の瞳は真っすぐに私を見つめている。急かすのではなく、ただじっと待つように。その目になるべく私は誠実に応えたいと思った。
迷いながら、誤解のない、それでいてありのままの言葉を探るように口を開く。
「私にとって師匠は、言葉通りというか。私に、ギターを教えてくれた。きっかけを与えてくれた。伊地知先輩やリョウ先輩ともう一度会うための勇気をくれた。困ったときはいつでも助けようとしてくれて……私をここまで導いてくれた、恩人です」
なんだか照れくさくて、はにかんだ。
――こんなことを師匠に聞かれたら、今度は師匠と会えなくなっちゃうかも。
そう思うと、師匠に用事があったのはかえってよかったかもしれない。
気恥ずかしさに虹夏先輩から逸らした視線は宙をさまよい、けれど結局もう一度彼女の顔に落ち着いた。
携帯の通知が鳴った。確認するとリョウ先輩からもう少しで着くというメッセージがグループのほうに投げられていた。
「もう少しですね、虹夏先輩」
そう声をかけると、「うん」という声が数秒遅れて耳に届いた。
リョウの姿を見つけるとすぐに駆け寄っていった喜多ちゃんの後ろ姿を見つめる。
今、私はどんな顔をしてるんだろう。なんとなく、リョウとか優くんには見せたくない気がする。
喜多ちゃんとの会話を思い出す。
優くんは彼女にとっての恩人。そのことに嘘はなくて、喜多ちゃん自身もそう思っている。
だけどその言葉が変わるときはすぐに来ることが、私にはなんとなくわかった。
学校で告白を考えているクラスメイトの女の子の相談に乗ったことがある。彼女もこんな表情をしていた。そのことを思い出した。
――恋をした人は、あんな風に笑う。
自分の顔に触れる。頬に触る。漠然と、昔の私も今の私もあんな表情をしているのかと考えた。
「……つらいなぁ」
漏れ出した息は細く、けれど重い。
――私は今日、喜多ちゃんに笑いかけることができるかな。
不明瞭な心が、何もかもを不安にさせた。
今日のことも、これからのことも、全部。
少なくとも、胸の中にある感情を整理できていないことは、確かだ。