最近、よく笑うようになったと言われることが増えた。
明確にそれがいつから始まったのかを明言できるわけではないけれど、少なくともそれが僕に新しく表れた変化で、そのきっかけはおそらくスターリーで働くようになったからだと思う。
妹からも、学校のクラスメイトからも。忌避感があるわけではないけれど、違和感はあった。
その言い方だと前は笑っていなかったみたいだ。そう言うと、決まって彼らは首を傾げた。確かにという人もいれば、そんな当たり前のことを認識していなかった僕を訝しむ人もいた。過去の僕は鉄仮面だったと言う人もいた。
そのささやかな話題は水面に枯葉が落ちたときのようにクラスに一瞬だけ広がり、そして一週間が経つと誰にも気付かれることなく、その姿かたちを無色透明にして去っていった。
自主学習の時間、僕はおとなしく席に座っていた。国語の先生の急用で、誰かがため息をついたときみたいにぽっかりと、どうしようもない空白の時間が生まれた。
よほど急だったのだろう、先生はプリントを用意しておらず、代理でやってきた英語の先生が英語のプリントを渡してきた。それを渡されたあと、僕は丁寧に真ん中を一回折って机の下に入れた。机の上の筆記用具はいつまでも開けられるのを待っていて、その隣には雪のように真っ新な白紙のノートが寄り添っている。窓際の端の席で外を眺め、そこから見えるいつも通りの風景の小さな間違いを探した。
今日は空が高く感じる。けれど雲の量は昨日より減ったかもしれない。空色の中にポツンと小さい白が映る。校庭では体育の授業の一環で野球をやっていた。今キャッチャーフライを逃した人が地団太を踏んだ。
どうでもいいようなことをつらつらと並べ、そのあまりの無意味さに息を吐いて、同じくらいどうしようもない時間をやり過ごした。
「ね、鏡くん」
ちょんと軽く肩をつつかれる。隣に座るクラスメイトだった。
彼女は何も謝る必要がないはずなのに、なぜか申し訳なさそうな表情を浮かべて、言った。
「さっきのプリント、なんか答え合わせするらしくて。できてる?」
僕はそっと机の中からプリントを引っ張り出して、彼女と自分のものを交換した。
紙が擦れる音が鳴りやむと同時にかすかに息を飲む音が聞こえ、次に視線を感じた。無視をして僕は黒板につらつらと書かれた先生の回答を追い越し、採点をした。
彼女は八六点だった。遅れてやってきた回答と照らし合わせても、その点数は一切上下することはなかった。スペルミスと、空白が何個か。
プリントを返すと、隣の彼女はやっぱり申し訳なさそうに、今度は苦笑いを添えて折り目がついていること以外は新品のプリントをこちらに手渡した。
赤は、入っていなかった。
心の中で唱える。どうして国語の時間なのに、英語をしなくてはならないのだろう。まったくもって不思議だ。
しかしただ一つ言えることは、彼女は英語で八六点を取って、僕は0点を取った。結果は一目瞭然で、この事実を偽りなく並べたとき、僕は間違いなく落第生の烙印を押されるのだろう。
間違いないという風に、誰かの胸の内を晴らすような軽快な音が校庭から聞こえた。
* * *
「諸君。お待ちかねの給料だぞ」
「やったー!」
六月の終わりも近づいてきたある日、店長さんは脈絡もなく僕らにそう告げた。
「手渡しなんですね、意外です」
「そっちのほうが充実感あるだろ。ん、おまえの分」
「どうも」
案外まともな理由だったななんて思いつつ、渡された封筒の中身を覗いてみると、一万円がきっちりと入っていた。
一か月で一万円と考えると学生バイトとしては正直安いのだろうが、別に金額に関してはどうでもよかった。そもそも僕がここで働いているのは伊地知さんとの貸し借りの関係があるからだ。前にいつまで働けばいいのかを知らされていないことに思い至ったけれど、今ではそんなに気になっていない。
ここを辞めたとしても僕はまた元の生活に戻るだけだろうし、それにここまで彼女たちと関わってしまうと、結束バンドの行く末に興味を持つなと言われるほうが難しい。そう考えるとクビを言い渡されるまでここで働き続けるという選択を取ったほうがいいだろう。
封筒を懐にしまう。
一万円。高価なものはさすがに無理だが、高校生からするとたいていのものは大体買える金額だ。
しかし僕には欲しいものが現時点で何一つとしてない。しばらくは僕の財布の中で眠ることになりそうだ。
「はい。じゃあ折角の所悪いんだけどライブ代徴収するね。あ、優くん以外」
「えっ」
誰かの短い断末魔が聞こえた。僕は伊地知さんに尋ねた。
「僕はいいの?」
「だって優くんライブやってないじゃん。それにメンバーでもないんだし、取るわけないじゃん」
確かに、まったくその通りだった。けれどなんだか僕だけ純粋な利益を得ていて、彼女たちと比べてると少し心苦しいのもまた事実だった。
「優、その一万円の使い道にお困りで?」
「いきなりどうしたのさ、山田さん」
あといきなり視界に勢いよく入ってこないでくれ。驚くから。
「お金とは使われるべくして生まれた存在……それをそのままにしておくなんてもったいないと思わない?」
「つまり、僕の一万円くれと」
「うん」
「ちなみに何に使うつもり?」
「弦とかエフェクターとか、えとせとら」
「そう、考えておくよ」
え、という声が重なって、室内に響く。中には店長さんの声も混ざっていた。
「じゃあさっそく……」
「おい鏡。悪いことは言わないからそいつと金のやり取りすんのはやめとけ。絶対返ってこねぇから」
「そうだよ! リョウはお金の使い方が荒いからすぐそういうのに使っちゃうんだよ?」
「師匠だけリョウ先輩に貢ぐのなんてズルいですっ!」
荒ぶる喜多さんを鎮めてから、慣れたものだなと思いながら僕は素直に答えた。
「正直使い道が思いつかなくてさ。貯金しかないって考えたら、君たちの役に立つようなことに使ったらいいかなって思ったんだけど」
「いや、でもリョウはダメ」
ならこうしよう、と僕は懐から封筒を取り出した。
そしてそれを伊地知さんに差し出した。
「預けておくよ」
「私に……?」
「必要になったら君たちで使えばいい。彼女なら文句ないでしょう、店長さん?」
「えー」
「山田さんは黙っててね」
返事はなかったが、否定もされずそのまま奥のほうへ行ってしまった。「好きにしろ」とだけ去り際に聞こえた。
伊地知さんはじっと封筒を見つめたまま、手を伸ばす気配はなかった。
「ほんとに、いいの? だって……」
「構わないよ。これが君の夢へ近づく少しの手助けになるなら、僕は喜んで」
彼女は顔を上げて、一瞬大きく目を開けた。それから静かに封筒を自分のもとに引き寄せた。それからわかったと、呆れたように言った。
「じゃあ、大事に使わせてもらいます」
「うん」
「まぁアルバムとか、ミュージックビデオの撮影とかしたいから、近いうちすぐに消えちゃいそうだけど」
「気にしなくていいよ。好きに使えばいい」
おどけたように笑う彼女は、どこか健気に映った。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、どっちにしろバイトは増やさないとなー……」
「お金って結構かかるんですね」
「そうなんだよ~!」
「じゃあ夏休みなんかの長い休みを活用すればいいんじゃない? 去年のクラスメイトとか日雇いで稼いだ人もいたし」
「ほほう、たとえば?」
「夏だと花火大会のイベントスタッフとか、あと海の家とか定番だよね」
「海の家! いいですね!」
どちらかというと、僕は沿岸付近にはあまり行きたくはない。潮風で弦が痛むから、安易にギターを取り出せない。でもそんなことを言っても仕方のないことだし、そもそも僕が行くのかすら確定していない話に、わざわざ水を差すようなことを言うのははばかられた。
喜多さんを交えて三人で話をしていると、突然山田さんが声を上げた。
「できたよ」
「できたって、何が?」
「曲」
それだけ言って、彼女は室内の端を指さした。横に倒されたごみ箱の上で、ちょこんと後藤さんが座っていた。
「優も聴く?」
僕がどう答えるかどうか、山田さんはとうに知っているように思えた。
「もちろん」
と僕は言った。
それから僕たちは山田さんの曲を聴いた。なぜか室内の端でごみ箱の周りに座り込んで、円陣を組む前みたいに皆の中心を見つめる。
黙ったまま、誰も口を開くことはなかった。目を瞑り、あるいは体をゆらりと静かに揺らし、あるいは人差し指で拍をとる。今この瞬間だけは一人だけの世界に旅立ち、そうして最後の音が鳴りやんだとき、僕らは三分五三秒後に再会した。
「え? かなりよくない?」
「はい! とっても!」
伊地知さんの声をきっかけに、各々の感想を口にした。僕も何か言おうと思ったけれど、陳腐な誉め言葉しか見つからなくて、仕方なく皆の感想一つ一つに頷くことにした。
「ぼっちの書いた歌詞見てたら浮かんできた」
そう言って山田さんは猫に接するときみたいに、後藤さんのあごの下を撫でた。それを見た喜多さんも山田さんに褒めてもらいたくて、会話に混ざった。
伊地知さんはそんな姿を見て、乾いた笑い声をもらした。しかしその表情は柔らかく、希望に満ちていた。
「あたしの夢、叶っちゃうかもな……よし! 来月ライブできるようお姉ちゃんに頼んでくるね」
「まだその話ししてなかったの?」
「大丈夫。この前もすぐ出させてくれたもん」
ちょっと行ってくるねと言い、小走りに店長さんのもとに向かう彼女の後ろ姿を見つめる。
僕はちょうど少し前、具体的には結束バンドが初めてバンドをしたときに店長さんから言われた言葉を思い出していた。
"比べるようなレベルでもない"とあの人は確かに言っていた。
要するに、店長さんには彼女なりの基準みたいなのがあるのだと思う。あの言い方からすると、彼女たちはそれを満たしていないことになる。
だから、まぁ、伊地知さんには悪いけど。
「いや、出す気ないけど」
そういう話になる。
「悪いけど五月のライブみたいなクオリティなら出せないから」
「出せないって…………え、じゃあ私達は…………」
「一生仲間内で仲良しクラブやっとけ」
重い空気が流れる。秒針が小さく囁く音だけが、この空間に時間が流れていることを辛うじて証明した。
伊地知さんの顔には影が差して、やがて肩が小さく震え、拳を握りしめるのが見えた。
そして、前を向いた。どこまでもまっすぐな目で、睨みつけた。
「お姉ちゃんなんてっ! いまだにぬいぐるみ抱かないと寝れないくせにーっ!」
外に聞こえるのではと思うほど大きな声でそう言って、スターリーから飛び出していってしまった。
捨て台詞が特殊すぎて、僕に限らず全員の反応が一つ遅れた。
「らしいですけど……」
「なんのことだか」
「ぬいぐるみって……このヨレヨレのうさぎとパンダのこと?」
「その画像消せ! 今すぐにっ!」
山田さんのスマホを取り出して、その際に画面がちらりと見えてしまった。
ソファの上に寝転がっている女性は間違いなく店長さんだった。
「店長、可愛いですね。鏡くん?」
肩にひやりとした手が置かれて、僕は思わず後ずさった。
「PAさん……いたんですか」
「ずっと近くにいましたよ」
「それは、気づかなくてすいません。その、なんか久々に顔を合わせた気がします」
「そんなことないですよ? 私はあなたのことずっと見てましたから」
「そ、そうですか」
早々に話を切り上げて、距離をとる。さらりとした綺麗な黒髪をなびかせて、怪しい笑みを浮かべるこの人が僕は少し苦手だ。スターリーで働く同僚ではあるけれど、伊地知さんからももちろん店長さんからもこの人の詳しい話は聞いたことがない。音響周りの担当をしているということだけは知っているが、逆に言うとそれくらいしかわかっていない。
あといつの間にか一切の気配なく背後にいて話しかけてくる。そうして驚いた僕の反応を見て、彼女はいつも楽し気に笑う。PAさんとの挨拶は毎度こうして始まる。
「何してるんですか! 追いかけますよ!」
「えー」
「面倒くさそうにしないでー! 私たち、先に行ってますね、二人とも」
そうこうしているうちに、喜多さんが山田さんを連れて伊地知さんの後を追いかけにスターリーの扉を開けて出て行った。
遅れて後藤さんもそれに続こうと外へとつながる階段を上って行こうとする。そんな彼女を店長さんが呼び止めた。
「ぼっちちゃん」
「はっ、はいぃ!」
後藤さんはすばやく身を翻して、こちらに戻ってきた。
「虹夏に伝えて。ライブに出たいならまずオーディション。一週間後の土曜日に演奏見て決めるから……って、え? 何してんの?」
「せ……精一杯服従心を表現しようと……」
そして目を離した一瞬でなぜかお腹を見せるように床に寝転んでいた。僕は思わず顔を手で覆った。なんというか、同じ学校の後輩が、しかも僕の友人がこうしている姿を見て、無性に恥ずかしくなった。
「どうしてそうなるんだ、後藤さん……」
「早く行かないと見失うんじゃないの?」
「あっ……えっ……わんっ!」
「もうやめてくれ、後藤さん……」
幸いなことに、後藤さんはそのあと数秒のうちに落ち着きを取り戻して、僕は先ほどの伊地知さんの二の舞にならずに済んだ。
「あとお前も、オーディションの日は休むなよ。審査員として参加しろ」
スマホの画面をスワイプしながら、店長さんは僕に言った。先ほどの後藤さんが床に転がっている姿が映っているのは見なかったことにした。
「僕もですか? お二人だけで十分じゃないですか」
「別にいいだろ。長くても十分程度だ。それにお前は耳が良いからな。判断材料の足しになる」
贔屓するかもしれませんけどと言うと、彼女は余裕のある表情を変えず、気にしていないようだった。
なるほど確かに、最終的に決めるのは店長さんだ。僕じゃない。
再び階段へと向かう後藤さんの後ろ姿を見ていると、多少の迷いを纏いながら後藤さんがおそるおそると振り返った。
「あ、あの……鏡先輩は行かないんですか?」
「うん。遠慮しておくよ」
きっぱりと僕は断った。今回のことはバンドの問題で、彼女たちだけで解決するべきもので、メンバーでもなんでもない僕の介入は余計だろうと考えた。
それに店長さんの反応を見る限り、オーディションそのものに合格すれば万事解決すればいいだけだ。それは後藤さんが伝えてくれる。
それに僕はどうにも、伊地知さんがこんなところで挫ける姿が想像できなかった。ありふれた激励の言葉なんてただのおせっかいになりそうだし、そもそも僕が駆けつけるころには自分で立ち上がってそうだから。
後藤さんが立ち去った数十分後に、僕もまた店長さんとPAさんに軽い挨拶をして下北沢駅へと向かった。
偶然にも空いていた座席の端に座り、僕は間違い探しをするみたいになるべく誠実な文章の書き出しを考えた。
目を瞑り、開いて、その間に電車が停車して、次の駅へと発進する。そんなことを十回は繰り返したあと、僕はおもむろにスマホのアプリに打ち込んでいく。
『オーディションの日、君が演奏する姿があのときのお姉さんと重なるように祈っているよ』
ふいに笑ってしまう。長い時間をかけた割に、ひねり出された言葉は想像以上に短くて、どうしようもなく僕の願望で、けれどこの一文に満足してしまっている。
車内の一ミリも興味のない広告を眺めつつ言葉を探したが、いつまで経っても何一つとして浮かんでこなかった。
僕は駅を降り、ベンチに腰掛けた。そうしてようやく送信した。
「どの口が言ってるんだよ」
呟きは、雑踏の中に溶け込んでいった。
そして、その日の夜。
僕は、彼女に送ったその言葉を後悔することになる。