突然ではありますが、感想の返信に関してしばらくしない方針でやっていこうかなと考えています。
作者が感想に返信をするスタンスが苦手という方もいるかと思うので、そういう方にも気軽に書き込むことができるよう考えた結果、返信をしないという考えに至りました。
ご了承ください。
ふとした音で、目が覚める。窓からのぞく月光が部屋に差し込んでいる。
家に帰って、疲れてベッドに寝転んだことまでは覚えている。そこからの記憶が途絶えているあたり、つい眠ってしまったらしい。
はっきりとしない思考を回して、傍らに置いてあったスマホを手に取ると通知が入っていて、その音で起きたのだと朧気ながらに思う。
確認してみると、不在着信が一件、伊地知さんからだった。
すぐに電話をかけ、四コール目が終わるころに繋がった。
『優くん?』
「どうしたの、伊地知さん」
『あ、あはは。いや、ごめんね。間違えちゃってかけちゃった』
「そう」
『うん……』
歯切れ悪い返答のあと、電話は繋がったままだった。呼吸の音が聞こえる。僕か、伊地知さんかはわからないほど小さな、息づかいの音。
『やっぱりさ、優くん』
ささやくような声で、彼女が言った。
『今から会える?』
「今って……結構遅いよ? 僕はいいけど」
画面を確認すると、八時五四分。数分で九時になる。
『お願い、少し話をするだけ』
「……わかった。場所は?」
軽く身だしなみを整えて、誰とも出くわさぬよう静かに家を出る。
何の話だろう。声の雰囲気からして悩んでいるような雰囲気を感じた。間違えてかけたと言っていたが、嘘なのかもしれない。
どっちにしろどんな話でも聞こうと思う。
僕は、伊地知さんの友人なんだから。
* * *
彼女が指定した場所は僕と再会したときと同じ公園だった。
閑散としたその場所に、当然子どもなんか遊んでいるわけがなく、伊地知さんはすでにそこにいた。ブランコを軽く揺らしながら、キィキィと鉄同士が擦れる音が聞こえる。
彼女に近づくと、伊地知さんはうつむいていた顔をゆっくりと上げた。
「こんばんは」
とおどけて言ってみると、彼女も表情を柔らかくさせて「こんばんは」と答えた。
「もしかしてずっとここにいたの? ここ、君の家から少し遠いでしょ」
「やっぱりバレちゃうか。 うん、そうだよ。しばらくここにいたんだ」
なんのために、とは聞かないことにした。彼女の顔にはまだ迷いがあったから。無理矢理に聞き出しても、苦しいだけだ。
「隣に座っても?」
「もちろん」
僕は隣の、もう一つのブランコを指さした。伊地知さんが頷いたのを確認して、僕も同じように腰かけた。
「ブランコに乗るのなんて、何年ぶりだろ」
「私は……小学生以来、かな?」
「僕も、そうかも。でもあんまり記憶ないや」
乗った記憶はある。けれどそのどれもが似たような、平坦なものばかりで具体的なエピソードの一つも思い出せない。
友達と遊んで、ふとした瞬間にブランコに乗った。その程度の話しか話せない。
「……最近ね、良いことがたくさん起きてるって、思うんだ」
夜空を見上げて、伊地知さんが言った。手はだらりと腿の内側に垂れ、まとめられた金色の髪がさわさわと風に靡いた。
「リョウがバンドに入ってくれたのをきっかけに、喜多ちゃんも、ぼっちちゃんも入ってくれて、結束バンドができて……一回だけだけど、お客さんの前で演奏もできた。夢に近づけてるって、なんとなくだけど、そう思った。でも……」
「……店長さんは」
「うん、大丈夫。わかってるの。全部、本当のことだから……優くんも、知ってるでしょ」
僕は口を閉じた。頷くこともしなかった。けれど、否定することもしなかった。何を言っても、彼女を傷つけてしまうような気がしたから。
「私ね、一瞬だけ……ほんのちょっとだけ思っちゃったんだ。リョウと、喜多ちゃんと、ぼっちちゃん。みんなで夢、ちゃんと叶えられるのかなって」
「それは」
「ねぇ優くん。私、お姉ちゃんみたいに、なれるのかな……?」
脳裏を掠めたのは、今日彼女に送った言葉。その一文字一文字がよぎり、僕は伊地知さんに顔を向けた。その顔を見て、僕のささやかな疑念は確信に変わった。
それは紛れもなく、傷ついた表情だった。物理的ではなく、精神的な、感情の揺れ動きに苦悩した顔だった。
伊地知さんのこんな姿を見るのはこれで二回目だ。今はもういない母親の話を、僕に教えてくれた放課後の何気ない一瞬。そして──今。
彼女は僕とただ会話をしに来たわけではないと、今更ながらに自覚した。
『店長さんみたいになる』
伊地知さんが口にしたのは僕と似たような理想で、けれどそれは彼女自身の完全な気持ちではなくて。声に出させてしまったきっかけをつくった犯人なんて、もう決まったようなものだ。
──あぁ。僕は、なんてことをしてしまったんだろう。
「ごめん。伊地知さん」
「謝ることなんてなんにもないよ」
「それでも、僕は君に謝らなきゃいけない」
僕からの言葉は完全な蛇足で、不要なものだった。彼女に不必要な重荷を感じさせてしまうだけだった。
「いいの。私たちはまだお姉ちゃんに認められてないくらい未熟で、心のどこかでわかってたはずなのに、それから目を背けてその場その場で舞い上がってるだけだった。お姉ちゃんからライブに出す気ないって言われて、優くんからのメッセージでようやく考えられたの。バンドとしての成長ってなにかなって。むしろこっちが感謝したいくらい」
「でも……」
「でも、は禁止っ!」
「……わかったよ」
しぶしぶと従うことにする。ここで口答えをしても無意味なやりとりが続くだけだ。
「それで、そのバンドの成長ってやつはわかったの?」
「ううん。全然、これっぽちも」
「ダメじゃん」
「ダメだね。あははっ」
伊地知さんは無邪気に笑った。子供みたいに、優しい声で。
「けどいいんだ。とりあえず今は何事も全力でやっていこうって、そう決めたんだ。みんなのことも、ライブも」
「オーディションも」
「うん」
伊地知さんは顔をこちらに傾け、優しく微笑んだ。月の光に照らされた彼女の姿は、なぜか儚くて、目が離せなかった。
風がさっと僕らの間を抜け、静寂が訪れた。僕らは黙って、その風が吹いてきた方向を黙って視線を送る。もちろんそこにはなにもない。誰もいない。
ただ誰かに捨てられたように高さが異なる鉄棒がたたずんで、どこか頼りない街灯の光が灯っているだけだ。
「こうしてブランコに乗ってると、なんだか小学校にいたときを思い出すなぁ。あのときの教室みたいに、窓際に優くんがいて、私はその隣で。間はちょうどこれくらいの距離だった」
「よく先生にバレないように紙切れで会話してたのは覚えてる」
「そうそう! あの紙、いくつかとってあるんだよ」
「えっ、そうなの? どうして?」
「それは……ふふっ」
細い人指し指が、彼女の唇に添えられる。「ないしょだよ」と言うように。揶揄うみたいに。
隣り合った人にしか届かない小さな声で、僕の鼓膜をそっとつついた。
「私の大切な思い出だから」
* * *
伊地知さんの「帰ろうか」という一声で、僕らはブランコから降り、公園を立ち去った。
いくら彼女が見知った場所であるとはいえ、一人の女の子をすっかり暗くなった道を歩かせるのは心配だったから、人通りが多い道に出るまで伊地知さんに付き添うことにした。
僕の家からは遠ざかってしまうけれど、仕方がない。人の安全と比べたら些細な問題だ。
「手、繋いでもいい? なんか、冷たくて」
「え? あ、うん。いいよ」
そう言って数秒後におそるおそると彼女の左手が近づいて、僕の右手を握った。存在を確かめるように、一回だけぎゅっと軽い力で握られる。少し、くすぐったい気持ちになる。
「……すごい久しぶりに、誰かと手を繋いだ気がする」
「そうなの?」
「年齢を重ねるごとにだんだんとそういう機会は奪われるものなんだろうね。僕らはもう滅多に鬼ごっこなんてしないし、缶蹴りもしなくなった。やろうと思えばできるけど、誰かが躊躇うからやらなくなるんだ」
「何の話?」
「君と手を繋げてよかったって話だよ」
冷たくも温かい彼女の体温を感じながら、そう呟く。最後にこうしたのはいつだっただろうか。手を握られる感覚は覚えている。今の伊地知さんよりかは温かかった。でもよく思い出せない。「そ、そっか!」と無邪気に彼女は笑った。
「ていうか伊地知さん、手冷たすぎ」
「さっき言ったじゃん!」
「それにしてもだよ。どれくらい外にいたのか知らないけれど、コンビニなりなんなり、どこかで待ってもよかったんだよ」
「いや~、ずっと考えててさ。それになんとなく、あの公園がよかったんだ。優くんと再会したあそこで、いろんなことを考えたかったの」
「バンドのこと?」
「それも、ある。もちろんオーディションのこともどうしようかなって思った。でもそれとは関係ない……別のことにも悩んでた」
「別のこと」
「そうだよ、別のこと」
彼女はそれだけを言うと口をつぐんだ。僕も何も尋ねないで、ただ街灯を頼りに道を歩き続けた。通行人はまったくいなくて、すれ違うこともない。僕らの間にあったのは互いの手の温もりと、太陽になり切れない光と、いつまで経っても重ならない足音だけだった。
無言の状態が続き、やがて僕たち以外の声や足音がかすかに耳に届く。右に曲がって直進すれば、自ずと人通りの多い場所に行き着く。それはつまり、伊地知さんとの別れを意味していた。
「じゃあ、またね伊地知さ」
「待って」
離した手を掴まれる。今度は両手で、温かくなった左手と、冷たい右手が僕の手を包み込んだ。うつむく彼女の姿は、いつかの駅前で引き留められたときを思い出させる。
彼女は何度か深呼吸をして、やがてゆっくりと僕を見つめた。
「……言おうかどうか、悩んでたことがあるの」
目は潤んで、ふとした瞬間に泣き出してしまいそうな不安定さを帯びていた。
「今から言うことが、優くんを困らせちゃうってこと……わかってるから。言わないでおこうって……何度も思った」
僕の手を握る彼女の手が、小刻みに震えている。何かに、怯えるように。
「だけど、もう……無理だな……っ。また優くんと出会えたことが嬉しくて、もう抑えられないの……」
そっと手が離される。彼女の手は所在なく宙を漂って、やがて互いの手を温めあうよう絡み合った。
「ねぇ、優くん。わたし────私ねっ! 優くんのことが好き。ずっと……君の隣になった、あの時から」
たった一言で、世界が止まった。時が止まった。
春と夏の間の午後九時四七分。星の出ていない夜の下。街灯よりも月光が僕らを照らしていた、二人だけしかいない別れ道。
胸が痛くなるような静寂を切り裂いて、泣きそうな顔で彼女は笑った。
「────私と、付き合ってください」
「……ごめんね、喜多ちゃん」
「私、卑怯者だね」