カナリヤの慟哭   作:椎名リオ

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「一年の区切りだし……」と多くの人が考えるように、それがトリガーになって筆を執り始める人もいるわけです。

何が言いたいのかというと、年末年始は新たな作品との出会いの季節です。

これを読んでいるあなたに良き出会いがありますよう。
そしてもしその出会いの一つに拙作が含まれているのなら、作者冥利に尽きるというものです。


スカーレット・サンセット(初恋の色、■■の色)

「……兄さん、この目玉焼き焦げてます。焦げ焦げです」

 

「あ、うん。ごめん」

 

「あとさも当然のように机に砂糖を出さないでください。あと一歩遅かったら味覚がどうにかなってましたよ」

 

「それもごめん」

 

「まぁいいですけど……あとなんでスプーン持ってるんですか?」

 

「え? あぁ……スープに使うから……」

 

「その肝心のスープがないんですけど」

 

「あ……」

 

「……大丈夫ですか?」

 

「多分」

 

 

 翌朝を迎えても、なんだかずっと夢を見ているみたいな感覚が僕を包んでいた。

 対面で朝食をとる杏は眉をひそめて不思議そうな顔でわずかに首を傾げた。

 昨日のことを思い出すたび鼓動が大きく、そして速くなるのを感じる。喉に変な力が入って、呼吸が不規則になる。向かい合って座っている杏の言葉がするすると流れていって、結局彼女のことを考えてしまう。

 

 恐ろしいほど箸が進まない。トーストだけをなんとか胃に流し込んだ頃にはもう登校しなければならない時間になっていた。

 杏と歩みを揃えてそれぞれの学校へと向かう。やがて道が分かれ、僕は杏に手を振る。

 

 

「それじゃ、頑張れよ」

 

「あの、兄さん」

 

「なに?」

 

「もし悩みがあったら、遠慮せず言ってくださいね」

 

「……さぁ、なんのこと?」

 

「わかりますよ。兄さんはわかりやすすぎです。どんなことに悩んでいるのかはさすがに見当はつきませんけどね」

 

 

 杏は仕方がないといったふうに笑みを浮かべた。

 

 

「相談するのがわたしじゃなくてもいいんです。無理矢理に話してとも言いません。けれどもし、この人なら話してもいいと思える人と出会えたなら、その人と相談してみてください」

 

「こっぴどく振られたら?」

 

「そのときは……しょうがないからわたしが聞いてあげます」

 

「なんだそれ」

 

 

 思わず苦笑する。

 それだけです、と言って彼女は今度こそ僕に別れを告げた。離れていく背中を見つめる。距離は確かに離れて行っているはずなのに、彼女の背中はずっと大きく見えた。しばらくして僕もまた目的地へと足を向けた。

 学校へたどり着き、階段を上り教室の扉を開く。見知った友人たちに軽い挨拶を交わし、自分の席に着く。ちょうどそこでチャイムが鳴った。一分も経たずに担任の先生が入ってきて、雑談交じりに連絡事項を伝える。それも数分経たずして終わり、つかの間の自由時間が与えられた。

 

 

 

 ねぇ、一限目ってなんだっけ。数学じゃない? 数B? いや数Ⅱだけど。

 そんな会話が耳に届く。

 そっと鞄を開けて教科書を整頓してみる。

 軽くため息を吐き、頬杖をついて外を眺める。昨日は本当にいろいろなことがあって、僕のやるべきことがすっぽりと抜け落ちてしまっていたらしい。

 今日は月曜。そして僕の鞄は金曜日に置き去りにされたままだ。

 

 

「ごめん、ちょっといい?」

 

 

 僕は隣の席の女の子に声をかけた。ぱたぱたと彼女に見えるように数Bの教科書を煽りながら。

 

 

「次の数Ⅱなんだけど、教科書見せてくれない?」

 

 

 本当に、伊地知さんはどうしてこんな僕を好きになってくれたんだろう。

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

 放課後になって、僕はいつもの校舎裏へと向かう。道中で今日の授業のことを思い出そうとするけれど、どんなことをやったのか、ノートに何を書いたのか、そのすべてがまっさらだった。どうにも"今日"のことより"昨日"のことを考えている時間のほうが長かった。

 

 昨日のこと、というより伊地知さんのこと、といったほうが正しいか。

 どちらにせよ、どうにも集中できていないというのは確かだ。

 

 目的の場所に着くとすでに喜多さんと後藤さんが来ていて、小端立てされた花壇の端に座り喜多さんが熱心に後藤さんの手元を見ていた。どうやら練習中らしい。

 もうすっかりこの二人がいる現状をいつも通りだと思うようになってきていた。

 

 

「オーディションに向けて練習? 二人とも」

 

「あ、師匠。ちょっと今日は遅かったですね」

 

「うん、まぁ……ちょっとね。そっちの調子はどう?」

 

「もちろん大丈夫……って言いたいんですけどねー。やっぱり難しくって」

 

「時間はあるからあまり心配しなくてもいいと思うけどね。後藤さんもそんな不安そうな顔しなくてもいいよ」

 

「は、はい……」

 

 

 ギターを取り出し、軽くウォーミングアップをする。普段だったら躓くことのない、自動化された動きがひどく鈍っているのを実感した。

 意図して息を吐きだす。いったん体の力を抜いて、いろんなことから解放されたかった。依然として、僕はどうするべきなのか答えは出ていない。

 

 頭上を仰ぐ。空は憎たらしいほど晴れていた。幾多もの木々の葉の重なりを縫うように避けて差してくる木漏れ日は力強く、眩しい。僕の体を射抜くように胴に当たる光をそっと手で掬い取るようにかざす。

 包み込むような熱がじんわりと伝わる。それは伊地知さんの手と限りなく似ている気がした。

 再度、今度は意図的でもなく、意味を見出す暇もなくため息をついた。

 

 

「あの……師匠、なにか悩み事ですか?」

 

 

 いつまでもギターを弾き始める様子のない様子を見てか、喜多さんがそう尋ねてくる。

 

 

「うん……まぁ、そうだね」

 

 

 言葉を濁す。

 何もないというと真っ赤な嘘になる。しかしすべてを話すつもりはまったくと言っていいほどなかった。伊地知さんと接点が多い喜多さんや後藤さんが相手ならなおさらだ。「伊地知さんから告白された」なんてことは少なくとも僕から公然とするべきではない。

 

 

「なにか悩んでることがあれば遠慮せず言ってください。私、師匠には助けられてばっかりなので! 恩返しってことで」

 

「あ、あの。わわ私も……歌詞とかいろんなこと助けてもらったので……手助けでもできればなぁ……と」

 

 

 二人の言葉に、視線に後押しされて記憶が呼び起こされる。

 

『この人なら話してもいいと思える人と出会えたなら、その人と相談してみてください』

 

 僕は悩んだ。話そうか、話さないかということではない。どこからどこまで話そうか、話はそう切り替わっていた。

 木漏れ日が視界に瞬き、世界が一瞬閃光を放った。思わず目を瞑った目蓋の裏に虹色が見えた。

 ゆっくりと目を開け、落としていた視線を彼女たちに戻す。

 

 

「実は──」

 

 

 語り出しは小さく、この場でなければほかの音に埋もれて消えてしまう程度のものでも。

 その声は紛れもなく、僕の彼女たちへの信頼の証だった。

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

「はぁ…………」

 

「虹夏、帰らないの?」

 

「……もう少ししたら、帰る」

 

「あっそう」

 

 

 窓の外を眺めながら、虹夏は特別な意味もなく雲を目で追いかけているようだった。

 頬杖を突きながらどこか悲しそうに目を細める親友の横顔を、リョウは一つ前の席に座りながら眺め、彼女がどこか遠くに行ってしまったような錯覚を覚えた。または、外見だけそっくりな違う誰かとすり替わったのかとすら思えた。

 彼女の様子はあまりに普段とはかけ離れていて、かける言葉がなかなか見つからなかった。

 

 

「なにかあったの?」

 

 

 その言葉を引き出せたのは、教室から誰もいなくなってから五分が経とうとしたときだった。

 

 

「……なんでもないよ」

 

「でもそうは見えないけど」

 

「なんでもないの。ただいろいろと急いじゃったなって」

 

「急いだ……バンド活動の準備のこと?」

 

 

 違うと言うように、束ねられた明るい髪が尾を引くように揺れる。

 

 

「……じゃあライブに出ること?」

 

「違うよ。リョウとぼっちちゃんには関係ない」

 

「関係なくない。大事なドラムがそんな調子だとオーディションだって失敗しちゃうかもしれないでしょ。悩みがあるなら言って。ライブに参加したいんじゃない……の……」

 

 

 言いかけて、リョウは口を止めた。思考を止めて数秒前の記憶をリフレインする。かすかな違和感が明確なものになったとき、自然と言葉は喉を通り過ぎた。

 

 

「郁代は? 関係あるの?」

 

「イクヨ?」

 

「喜多のこと」

 

「へぇー、喜多ちゃんそんな名前だったんだ」

 

「ごまかさないで、ちゃんとこっちを見て言って」

 

 

 吐息が一つ。地面に映る影が身じろぎした。

 そして虹夏の瞳にようやくリョウの姿が映った。何の変化もないはずのいつも通りの目も、今だけはどこか違って見えた。

 机上に腕を組み、そこにできた隙間に顔をうずめるようにして虹夏はこちらをちらりとうかがった。

 

 

「関係ないよ」

 

「本当に? 喧嘩したとか、ない?」

 

「ないよ。まったく、これっぽちも」

 

「……そっか。それじゃ、いいや」

 

 

 ちっともよくなんてなかった。核心に迫れるだけの言葉を見つけられないどころか、虹夏がどんな問題を抱えているのかすら掴むことができなかった。

 それでもこれまでのやり取りから、リョウはこれ以上無理に聞いても同じような話を繰り返すだけだと思った。

 

 机に伏した虹夏の表情を見ることはできない。

 いや、無理矢理その顔を確かめることはできるのだ。腕を掴んで、どかせばいい。後ろに回って肩に手を置いて起こしてもいい。やりようはいくらでもある。

 けれどリョウはそれをしなかった。するつもりもなかった。

 そんなことをしてしまえば、虹夏との友情が消えてしまう。

 何の脈絡もなく、漠然とそう感じ取った。

 

 リョウはただ虹夏を見つめた。

 彼女の隠れた表情にどれだけの秘密が潜んでいるとしても、そうするだけの術と覚悟を持っていなかったから。

 

 ただ、見つめることしかできなかった。

 

 

「帰ろっか」

 

 

 前触れもなく、虹夏は席を立った。声はいつもの明るい色を取り戻していた。

 リョウも半ば困惑を押し殺し、同様に立ち上がる。

 荷物を背負い、教室の扉を開け、誰もいない廊下を歩く。吹奏楽部の演奏と、校庭や体育館から聞こえる怒号じみた声援や、ボールが力強く叩きつけられるような音が虚ろに響いた。

 

 

「ねぇ、虹夏」

 

 

 昇降口で外履きに履き替えた彼女の背中に、声をかけた。

 それが漠然とした恐怖からでたものだと、リョウはなんとなく直感で理解した。

 

 ──虹夏の悩みを共有できなかったから? きっと違う。

 

 ──虹夏が私を頼ってくれなかったから? 多分、違う。

 

 明確に、正確に言語化できるものではないけれど。リョウは確かに虹夏との友情の微々たる綻びのその一端を垣間見た気がした。

 

 不思議そうな顔をして、虹夏が振り向いた。逆光であっても、その姿ははっきりと映った。

 

 

「私をバンドに誘ってくれたときのこと、覚えてる?」

 

 

 ひび割れたグラスを慈しむように撫でる。

 その傷痕を宿したときの記憶を思い返すように。

 リョウはそう問いかけた。

 

 虹夏は表情を変えず首をわずかに傾け、それからにぱっと笑顔を作った。

 

 

 

「もちろん! 頑張ろうね、結束バンドのエースっ!」

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

「実は、その……告白の返事について悩んでて」

 

 

 師匠のその言葉を聴いたとき、私の"なにか"が欠けた。

 ピシリと、亀裂が入ったみたいに。

 思いもよらない言葉が耳に入ってきて、一瞬だけ体が硬直した。

 

 

「えっ……と、告白って、その」

 

「想像してる通りだよ。好きだって言われた。だから付き合ってほしいって」

 

「だ、誰からですか!?」

 

「僕の友人とだけ」

 

秀華高校(ここ)の人ですか? それとも他の高校? 後輩ですか先輩ですか?」

 

「さあね」

 

「えー師匠もう少し情報出してくれてもいいじゃないですかー」

 

「いや別にそんな情報いらないでしょ……」

 

 

 師匠はわかってない。女子というのは恋バナが大好きなんだから。

 ほら、後藤さんだって目が輝いて…………ないわね。なんかすごい落ち込んでるし。「告白なんて一度もしたこともされたことない私がどうアドバイスしろと……」なんてことを呟きながら端っこに丸まりつつある。素早く後藤さんの傍に寄って捕獲して、師匠のもとに戻る。

 

 鼓動がうるさい。興奮しているのが自分でもわかる。

 

 

「そ、それでなんだったかしら……そうそう、告白の返事についてって言ってたけれど」

 

「うん。その子のことはずっとただの友達だと思ってたんだけど……」

 

「告白をきっかけに見方が変わったと」

 

「そう、だね。彼女とは友人としての関係をいつまでも続けていきたいって思ってたから……困って」

 

「というと?」

 

「断ったら、疎遠になってしまう気がして」

 

 

 師匠の不安は実に的を射ていた。ほかの子の恋愛事情を耳にしたときに、やっぱり以前の付き合いには戻れないといった人は多かったように思う。

 すると「あ、あの……」とおそるおそると遠慮がちに挙手をした。

 

 

「そもそも先輩はその人のことを……すす、好きなんですか?」

 

「……わかんないや」

 

 

 ぽつりと師匠が言った。

 

 

「友達としてなら大好きだ。それは間違いない。僕なりの彼女の魅力もいくつかはあるけれど、それらに恋をしているかと言われると、どうだろうね。でも時間をかけて僕の今までの認識を変えていけば、好きになれるとも思う」

 

「じゃ、じゃあ……お、お付き合いしてもいいって考えているんですか?」

 

「あぁー……うん。そうだね……恋人として付き合うのも、いいとは思ってる」

 

「……

 

 

 ひどく震えた、吹けば飛んでいってしまうような音。

 それが、私から出た声だと数秒経ってから気がついた。

 右手で胸を抑える。心音は未だにおさまることを知らず、一定の間隔で爆発を繰り返している。

 

 次第にそれはさらに激しさを増し、痛みに変わっていく。

 

 経験したことのない痛みだった。擦り傷のヒリヒリとしたものでも、切り傷のように怪我をしたところが熱くなるものでもない。かといって泣き叫ぶほどの強烈なものでもなかった。

 

 心臓を真綿で締め付けられるような、気を抜けばふとした拍子で泣いてしまいそうな、どうしようもないわけのわからない、痛み。

 

 ──あれ? おかしいな……? 私恋愛の話は大好きなのに。

 

 どうして、こんなに…………

 

 

「喜多さん? 大丈夫?」

 

 

 知らないうちにうつむいていた顔を上げると、師匠の顔が視界に入る。

 黒い髪に唇、少し高い鼻に黒い瞳、その上にかかる細い睫毛。それを見たとき、一段と痛みが増した。

 無意識に歯を食いしばった。そうやって顔を引き締めていなければ、私はもうダメになると思った。

 師匠と後藤さん、困惑したままの二人に背を向け荷物を取る。

 

 

「……っ。ご、ごめんなさい……今日……と、友達との用事があったんだったわ。もう、帰るわね」

 

「ちょ、ちょっと喜多さん? どうしたの?」

 

 

 戸惑う声が背後から聞こえるけれど、無視を決め込んだ。速足で校門へと向かい、二人の視界から完全に消え去ったことを確認する。

 

 気づけば、私は走っていた。

 人の視線なんか一切気にする余裕もなく、ただ走った。

 

 適当な嘘を吐いた。本当は、友達との約束なんてなにもしてない。

 

 走る。

 

 師匠の顔が離れない。思い浮かべるたびに、どうしようもなく、泣きたくなる。

 

 ──走る。

 

 師匠に、恋人ができるなんて想像つかないな。相手はどんな人なんだろう。

 

 ────走る。

 

 師匠に恋人ができたら…………もういつもの校舎裏には来なくなっちゃうのかな。

 

 ────────走る。

 

 

 

 

 走って、走って、走って…………走、って………………はしって…………。

 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ…………っ」

 

 

 ズキズキと脇腹に痛みが走る。必死に酸素を求めて呼吸する。体温は上がって、下着が汗で張り付いている。気持ち悪い。ふくらはぎ、攣ったのかな。歩くのもだるいや。

 

 胸に手を当てて、制服にシワができるほど握りこんだ。

 

 

 ……心痛は、留まったままだ。

 

 

 

 もう、なにをどうすればいいのか、わからなかった。

 なにが私に起きているのか、理解できなかった。

 うつむいたまま、ただ歩く。ここはどこだろう。知らない場所だった。目的地なんて最初から決めてない。

 短い間でずいぶんボロボロになったわね、なんて人ごとのように思ってみる。

 

 でも、歩く。疲れ果てても、歩く。

 そうすれば、この痛みから目を背けられると思ったから。

 

 

 

 次第に日が落ち始め、自分の影が伸びたのがわかった。その影が伸びる方向へと進んだ。

 

 

「なにしてるのかしらね、私……」

 

 

 一時の激情に駆られて、恩のある人の前から逃げ出して、挙句知らない場所を歩いている。本当、なにしてるんだろう。

 下を向いて歩いていると、白色の光が横から差してきた。低い唸り声のような稼働音が耳に入り、横を向く。

 

 自販機だった。

 

 無視して去ろうとしたが、喉はひどく乾いていた。ただ、特別飲みたいものがあるわけじゃなかった。選ぶのも億劫で、二百円を投入口に入れて、適当にボタン押した。

 ゴトンと乱雑な音が下から聞こえる。取り出し口に放り出されたペットボトルを掴み、どこかでつっかえたのか、少し苦労して取り出す。

 ラベルを読む。そして目を見開いた。

 

 ──レモネード。師匠が、大好きな味。

 

 キャップを開けて、口をつけて、ゆっくりと傾ける。

 甘くて、ちょっとすっぱくて、つめたくて…………でもどこかほっとするような温かさがある。

 

 それが、どうしようもなく切なくて、愛おしい。

 

 上を見上げる。この場所は、よく空が見えた。太陽はもうすぐ沈むというのに、それでも空一面を茜色に染め上げている。

 雲は陰影を形どって、それがうねりとなって様々な模様を描いている。

 その模様の先に、燃えるような(あか)があった。いつまでも見ていたいような、太陽があった。

 

 

「あぁ……ようやく……わかったわ」

 

 

 すごく、簡単なことだったんだ。

 

 考えていたのが、馬鹿々々しくなるくらいに、視界はすでに開けていた。

 右手を開いて、胸にあてる。

 

 ──まだ、痛い。じんわりとした熱が心臓の周りに漂っているみたいで……でも、太陽みたいに、あったかい。

 

 言わなければと思った。あの光が沈んでしまう前に、空が燃え尽きてしまう前に。

 そうでなければ、私は私を失ってしまう。

 

 

「ねぇ、()()()

 

 

 あの日の──あなたに出会った日のことを、まるで昨日のことのように今でも思い出せる。

 あなたのギターの音を。

 手渡されたレモネードの味を。

 友達にからかわれるくらい紅くなっていた頬も、全部。

 やっと、すべてに説明ができるの。

 

 

「私……わ、たし………………っ」

 

 

 目を瞑る。空を見上げる。

 涙なんて流していないと、言い訳をできるように。

 

 

「わたし、初恋だったのね……っ」

 

 

 世界が、淡い紫に包まれ始める。

 

 赤が追い立てられて、消えていく。

 

 建物交じりの地平線の彼方へと。

 

 影も、雲も、模様も何もかもを塗りつぶして。

 

 

 

 

 そうして、あの空が二度とやってくることはない。

 

 

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