自業自得ではあるんですけど、絶賛冬の今の時期に夏が舞台の物語は正直キツイ
「……っていうのが、もう先月の話なんだね」
しみじみと呟きながら、僕はメニューから適当に頼んだマンゴースムージーの容器を包み込むようにして指先でトントンと叩いた。
向かいの席に座る伊地知さんも落ち着いた雰囲気で、どちらかというといろいろと受け入れた様子でため息をつくみたいに言った。
「そうだねぇ……あと本番まで二週間と少しだからあっという間だね」
「そんなに? なんかまるで実感がないな」
「あっというまだったね」
本当にそうだ。夏の時期だけじゃなくて、僕が高校二年生に進級してから決して無視することのできない大きい出来事が到来しては、瞬くうちに過去になってしまった。
僕を取り巻く環境が変化し、しかしその変化がどんな影響を及ぼしているのか、僕はいまいちはっきりと断言できない。
僕が通う秀華高校にようやく夏休みがやってきて、僕たち生徒は漏れなく校舎から掃かれた。といっても部活の練習だったり、テストで
当然、僕は部活に入っているわけでもないし、特別授業も受ける予定はない。まぁ、数学は少し危うかったが、過ぎた話だ。校舎裏は確かに人目が少ない場所ではあるけれど、誰も来ないわけではない。楽器の練習だけなら極論を言えばどこだっていいのだ。
よって、いつものように集まっていたあの場所に足を運ぶことがなくなる。そうすると家にいるか、あるいは外に出て適当に歩いたり手頃な場所でギターの練習をしたりすることしかやることがなくなるわけだ。去年の夏もこんな感じだったし、なんだったら今までそんな過ごし方ばっかりしていた。
きっと今年もそうなるんだろう家のベッドで寝転びながら天井を見上げる。伊地知さんから連絡がきたのは、そんなときだった。
「これからどうするの?」
「楽器屋さん、寄っていい? スティック、新調したくてさ」
「わかった。行こう」
フードコートをあとにして、僕たちはエレベーターに乗って階層を移動する。楽器屋につくと彼女は迷うことなくドラムのコーナーに進んでいき、僕もそれに続いた。そうすると伊地知さんは振り向いて、不思議そうな顔をした。
「あれ? どうしたの?」
「どういう意味?」
「てっきりギターのところに行くんじゃないかなーって思ってたんだけど……あっ、もしかして気を使ってる~?」
「そういうのじゃないよ。欲しいものがないだけ」
ただ単に、僕は彼女の付き添いでここに寄っただけだ。僕はピックは滅多に使わないからいらないし、チューナーも家にあるものがまだ使える。ギターを新調するなんてもってのほかで、そもそも現状僕は楽器を変えるほどの所持金はない。あるとすれば弦だけど、先月張り替えたばかりだから正直買う必要性は感じない。もし彼女が僕のことを思ってここに行こうと少しでも考えてくれていたのなら、申し訳なく感じる。
「そっか。じゃあ一緒に見よっか。特に面白くないかもだけど」
「でも僕ドラムのことほとんど知らないからさ、よかったら教えてよ」
「もちろん! そうだな……あ、じゃあ丁度いいしスティックのことについて説明してあげましょう! あのね、一見どれでもいいだろーっ! って思うかもだけど、大きさとかチップの形とかが違くて、それを決めるにはね──」
それから伊地知さんは今までよりも饒舌に語りだした。ほとんどの時間を彼女が話していたが、一切飽きることはなかった。相槌を打ったり、ときおり説明の中で浮かんできた疑問を尋ねたりするだけで、聞き手に徹する僕はなんとも話し相手としてはつまらなかったと思う。
しかし伊地知さんの表情の色は褪せることなく、変わらない笑みを浮かべながら口を閉じることをやめなかった。
「伊地知さんは本当にドラムが好きなんだね」
「うん、そうだね。まぁドラムが、というより音楽がって言ったほうがいいかもしれないけど」
「そっか」
──本当に、羨ましい。
脳裏に浮かんだ言葉を気取られないように飲み込んだ。
優しさを湛えた瞳が僕を捉える。伊地知さんの目はいつだってまっすぐで、眩しくて、だからいつも正直に話してしまいそうになる。
内心ため息をついた。そして視界の端に映る壁に飾られてあるギターを一瞬だけ盗み見た。一切日焼けのしていない、真新しいボディが照明に照らされて煌々と輝いている。
僕がギターを初めて手に取ったとき、初めて曲を演奏できたとき、僕はいったいどんな気持ちだっただろう。
それはもう思い出すことの叶わない、過去の追憶だ。そもそも僕は音楽を楽しんでいたのだろうか。それすらも朧げだ。少なくとも今の自分はそういう感情とは限りなく遠くなってしまっていることは確かだ。
ここはあまりに眩しい。
なにもかもが新しい、果てしないほどの豪華な明かりが彩っていて目がくらむ。
会計を終えて、建物の外に出る。
日はまだ高く、当然のように空は青かった。街は活気づいていて人が途絶える様子はない。夏季休暇にはいったからなのか、それとも今日が休日のせいでもあるのか。身動きができなくなりそうなほどではさすがにないけれど、それでも思わず顔をしかめてしまうくらいには険しい道のりに感じてしまった。
「帰ろっか」「そうだね」
そんな自然なやり取りで僕らはそろって足を踏み出した。荷物持ちとして荷物をぶつけないように、注意を払って往来に飛び込む。
ふとした拍子で振り返ると、伊地知さんとの距離が離れていて、とっさに空いていた左手で彼女の手を握る。
視線が交わる。それも一瞬のことで、僕らはどちらからともなく逸らした。
僕は前に、伊地知さんは下に。
少しだけ暑い。きっと日差しのせいだ。
そういうことにして前に進む。
人々の雑踏に混ざって「ありがとう」という声が聞こえた気がした。
駅に着き電車に乗ると、幸運なことに席が空いていた。僕と伊地知さんはその席に腰を下ろし、ほっと息をついた。
休日とはいえ中途半端な時間だからだろうか、人は車内に疎らに散っていて、空席が目立っている。
今日のことを二人で振り返りながら他愛のない話を時々し、車窓に映る外の景色をぼんやりと眺めた。
見慣れた駅に着くと電車を降り改札を抜け、構内を出る。
「伊地知さん、ちょっと時間ある?」
駅から離れ、彼女の家まであと数分も歩けば到着するというところで、僕は声をかけた。
「どうしたの?」
「少し寄り道でもしようと思って」
「いいよ。時間もまだ早いし、家に帰っても急いでやることもないし」
「そんなに時間は取らせないよ」
入り組んだ路地を縫うように歩く。
足取りはたしかに、けれど鈍い。伊地知さんではなく、僕が。
目的地はしっかりと決まっているはずなのに、そこにたどり着くまでの時間が少しでも長くなればいいと思ってしまっている。
それはどうしようもなく、心の迷いだった。
薄鈍色の鳥居を抜けると右手小さな公園があり、小学生と幼稚園児が入り混じって遊具で遊んでいた。喜色に溢れた声を耳に入れながら正面に見える階段を上る。十数段の短い階段だったから、僕と伊地知さんは息すらあがらなかったけれど、ベンチが視界に入ると僕らは自然とそこに腰を下ろし、お互いに笑いあった。考えていることは一緒だったらしい。
「いい場所だね、ここ」
伊地知さんが穏やかな声で言った。
「自然が豊かで、なんか落ち着く」
「たまたま見つけたんだ。散歩してたら携帯の充電が切れて迷っちゃって」
「え、迷ったの」
「ここって結構入り組んでるからさ、どこ歩いてるのかわかんなくなっちゃって、それで」
「おっちょこちょいだねー」
風が吹き、僕らの笑い声をどこかに攫っていく。もしかしたら下の子供たちにも届くのだろうかと考えてみる。そうなると、少し恥ずかしい気持ちを覚える。
僕たちは長い間無言でいた。
自身の体を水面のように漂っている木漏れ日を目で追いかけ、そして木々のざわめきに耳を澄ましていた。時々入り混じる子供たちの声が妙にくすぐったい。
ざわざわと鼓膜を揺らし、そしてその囁くような音が鳴りやんだころ。
僕はようやく口を開く。
「ずっと、君の言葉について考えてたんだ」
舌は思っていたよりもずっと滑らかに回った。
伊地知さんはただ黙って僕を見ていた。透き通るような向日葵色の純粋な瞳だ。
いつだって綺麗で、その瞳の中に僕が映っているのが申し訳なくなる。でも目を逸らすことはしない。あのときの伊地知さんがそうであったように、僕も彼女と向かい合わなければ誠実ではない。
「君に好きだといわれて、最初はひどく困惑した。伊地知さんには申し訳ないけれど、僕はまったく君を
僕と彼女は友達で、少し言い方を変えれば恩人で。
その関係は変わらないと何の根拠も理由もないのに信じていた。
いや、僕が信じていたかっただけなんだ。
いともたやすく崩れ落ちてしまう脆いものだろうとしても、そして僕だけの独りよがりの幻想だったとしても。
彼女と一時でも相互に築いていた関係がなによりも心地よかったから、ずっとそこにいたいと、そう思ってしまった。
「恋だとか、そういうのを僕はまだわからなくて。正直なことを言うと、今だって僕は伊地知さんのことが好きかどうかわからないでいる」
「……そっか」
「伊地知さん」
「ううん、もういいよ。十分伝わったから」
「そうじゃない。話はまだ終わってない」
立ち上がろうとした伊地知さんの手を掴む。きょとんとした顔をした彼女は固まったままで、座りなおす様子はない。
仕方なく僕も立ち上がって、彼女の正面に立つ。
乾いていた唇を湿らせて、なんだか締まらない現状に頭を掻いた。
「だから……これから伊地知さんのことをもっと知っていければって、そう思う」
息を吸って、吐く。それだけの動作にひどく苦労する。
僕は伊地知さんを見つめる。
伊地知さんも僕を見る。
言い表せない奇妙な感情に、密かに戸惑う。
「それって」
「僕の答えは完全に伊地知さんの気持ちには答えていないのかもしれないけれど、もし……君の気持が変わっていないなら、なにより受け入れてくれるなら」
何度だってこうして彼女と過ごしてきたのに、ようやくまともに彼女の顔を久しぶりに見たような気がする。
おかしい話だと、笑ってみる。
「友人じゃなくて、君の恋人として。隣にいてもいいかな」
そっと差し出した僕の手に、伊地知さんはゆっくりと手を伸ばした。まるで小動物のように一瞬だけ触れて、それから今度は正体を確かめるように握る。
「夢……?」とつぶやかれた声に「まさか」とおどけたように返してみると、夏風が僕らの間を通り抜けた。木々が声を取り戻し、揺れ動く木漏れ日の下で僕らはただ互いを見つめあった。
数秒か、もしかしたら数分か。どれだけそうしていたのかは僕には定かではなかったけれど。
やがて浮かべた伊地知さんの表情が目に入ったとき、驚くくらい今更なことに気がついた。
伊地知さんの、向日葵みたいな明るい笑顔が、僕は好きだ。
帰り道、二人帰路につく。
繋がれた手はいつかの日と同じ熱を持っていて、
けれどやっぱりどこか違う。
どっちかが導くようにではなく、
どこかぎこちなく譲り合うように足並みをそろえる。
「ねぇ」
淡い夕焼けが差す道に声が響く。
アスファルトに映る影が止まり、向かい合う。
「ちゃんとみててね」
まるで唐突だった。
なにを、と尋ねることは簡単だった。
誰を、と言って首をかしげるのだってなにもおかしいことではない。
しかしもう一つの影は、ただゆっくりと頷いた。
言葉はなく、しばらく後に靴が地面を叩く音が響き始める。
違う音、違うタイミング、そしてやっぱり違う歩幅。
けどふとした拍子にそれらが重なり合う。
影はその偶然を必然にしたかった。
それでも"いつか"を夢見て、今はそれでいいと影は思った。
影は、その偶然にぼんやりとした自身の感情の片鱗に気がついた。
うつむいて、少し考えて、それから隣を向いて。
影はその気持ちを大切にしようと思った。