カナリヤの慟哭   作:椎名リオ

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あなたに好きって言われたい

 伊地知先輩に連れられて辿り着いた場所は海と面している閑散とした遊歩道だった。

 水面は音もなく揺れ動き、水上には数隻の漁船が浮かんでいる。それを眺められるように石で作られた無骨な腰かけがあり、近くには南国の国にあるような名前の知らない木が何気なく生えていた。

 伊地知先輩はその背もたれのない石の上に座った。私も一緒の場所に座ろうと思ったけれど、それには少し大きさが微妙だったから隣にあったもう一つの同じものに腰を落ち着けることにした。海から吹く風にちょっとだけ驚いて、髪をおさえる。陸地に入りこんでいる場所だからか、さほど潮風という感じはなかった。

 

 こうして一息つける場所にたどり着いたというのに、伊地知先輩の言う"話"はなかなか始まらなかった。伊地知先輩の視線は私ではなく目の前の光景にだけ向けられていて、仕方なく先輩が話始めるまで待つことにした。

 

 私は密かに、伊地知先輩の話について自分なりの考えを巡らせることにした。

 結束バンドに関することなら直接会わずともメッセージのやり取りだけで済む。だからこうやって一対一で面と向かって伝えたいことがあると言われるとどうにもマイナスなことばかりを考えてしまう。

 必然的に今日のことを思い返す。今日は後藤さんの家に行って、ライブで着るシャツのデザインを話し合った。集合場所も時間も何一つ間違えていないし、話し合い自体も楽しく終えることができていたと思う。

 特に思い当たる節はない……と思う。少なくとも伊地知先輩を怒らせるようなことは。

 

 そうすると今までのことになにかしら不満があったかと再び頭を悩ました。

 いずれにしても、先輩に対して私が非があるようなことをしていたらしっかりと謝ろう。

 

 

「喜多ちゃん」

 

 

 かけられた声に恐々と返事をする。どんな言葉が飛び出してくるのだろうかと思わず身構えてしまう。

 そしてそんな気落ちするようなことばかり考えていたおかげで、私は盛大に拍子抜けすることになった。

 

 

「今の結束バンド、好き?」

 

「え……あ、はい。それは、もちろん」

 

「そっか、よかった」

 

 

 口が開く度に呟かれる言葉はひどく落ち着いていた。ため息だったのか、それともただの吐息だったのか、一瞬の間に空気に散ってしまった吐息の意味を私は理解そこねた。

 短いやり取りの中で、伊地知先輩が怒っていないことを私はなんとなく察することができた。

 先輩の横顔はどこか物憂げで、水面に輝く太陽の光が優しく彼女の瞳の中で揺れ動いている。

 ゆらゆらと、たゆまなく……しかしそれがふとした拍子にピタリと静まった。

 

 

「それは、優くんのことも?」

 

 

 まるで唐突な言葉に思考が一瞬止まった。その脈絡のなさに戸惑って、そうして漠然と伊地知先輩が話したいことがわかってしまった。

 

 

「……もちろんですよ。友達としてですけど」

 

「わたしは大好きだよ。優くんのこと、異性として。告白もして、返事ももらった」

 

「……えと、なんの話ですか、これ」

 

「喜多ちゃんは今している話がなんだと思う?」

 

 

 誤魔化して、笑って、そうして私は伊地知先輩から視線を逸らした。少し前の彼女と同じように、海を見つめた。

 彼女のことを見ていられなかった。本当なら、耳だって塞ぎたかった。心の中でやめてと叫んだ。今すぐこの場から走り去りたかった。夕日が綺麗だったあの日みたいに。

 でも、できなかった。

 伊地知先輩の手が私の腕を繋ぎとめていた。知らず知らずのうちに、先輩が隣にいた。

 

 ──逃げないで。

 

 そう言われている気がした。

 

 

「……わたしもね、今の結束バンドが大好きだよ。リョウもぼっちちゃんも、もちろん喜多ちゃんも。ずっとこの三人でどこまででも行ってみたいって思う。だからね……本当のことを、話そう」

 

「話すことなんてありませんよ」

 

「そんなことない。なら訊くけど、さっきの質問になんですぐに答えなかったの」

 

「話がいきなり飛んで、ちょっと驚いただけです」

 

「オーディションの日だって、喜多ちゃんはずっと下向いてたよね。どうして前を見なかったの? ()()()()()()()()があったの?」

 

「あの時は……ただ単にスポットライトが眩しかったからで、別にほかに理由はないですよ」

 

 

 先輩からの質問に私はもっともらしい嘘で返し続けた。何でもない風を装って、嘘という下敷きを何枚も重ねて、その一番下に本音を隠し続けた。私がそうしていることをきっと伊地知先輩は気が付いているだろう。でも何も問題はない。口にさえしなければ、嘘は真実になる。

 本当のことを話さなければいい。私の初恋は終わったんだ。師匠と伊地知先輩は恋人になっていて、その関係は変わることはない。それで、それでいいじゃない。

 それで、いいのに。

 

 

「喜多ちゃんはどうして──」

 

もう、やめて…………

 

 

()()()()()()、なんて思っちゃうんだろう。

 

 あふれ出る涙を、両手で拭う。それでも一向に止まる気配がなくて、同時に理性で押さえつけていた大切なものがぷつんと途切れた。海の光が、太陽の光が眩しくて、どうしようもない苛立ちとともに先輩のほうを向いた。

 

 

「どうして……っ、どうしてそんなこと聞くんですか!? 伊地知先輩は何がしたいんですかっ! わたしだって、()()()が好きだった! 困ったときにはいつだってわたしを励ましてくれた! 先輩がギターを弾く姿にドキドキしてた! でも、そのことに気が付いたときにはもう遅くて……たった、それだけのことじゃないですか……」

 

「喜多ちゃん……」

 

「もう……終わったことなんです。伊地知先輩だって、今のままが都合がいいじゃないですか、そうでしょ?」

 

「……」

 

 

 返ってきたのは沈黙だった。その沈黙こそが、なによりの答えだった。

 壁に小さな波があたるその音がひどくざらついて聞こえた。私はなぜか途端に泣きたい気持ちになった。怒りだとか、寂しさだとか、そういった感情と限りなく似ていて、だというのに名前を思い出す前に波音と一緒に流れ去ってしまった。

 私は呆然と海を見た。地平線はビルで遮られていて、シーサイドラインがゆっくりと視界を横切った。本当なら今頃はあれに乗って下北沢に帰っていたんだろうかと考える。空いている席に座り、何気なく車窓の風景を眺める。そんないつも通りのことが今は何よりも恋しかった。

 

 

「ねぇ喜多ちゃん……わたしはね、喜多ちゃんとの関係が大事なだけだったら、こんな話はしなかったよ」 

 

 

 そしてまるで唐突に、伊地知先輩はそう言った。 

 

 

「"なにが大切か"なんて最初から決まっていて、それ以外の全てを切り捨てる覚悟だって、決まってた」

 

「なにを……」

 

「でもわたし、わがままだから。ホントは全部、欲しいんだ」

 

 

 彼女は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑った。

 

 

「夢も叶えたい。大好きな人の傍にいたい。それと同じくらい……喜多ちゃんと嘘を吐かない"友達"同士でいたい」

 

「……私たちは、もう友達です」

 

「違うよ。そんな仮初の言葉を理由にして、自分の心を押し殺しながら無理やり付き合うような関係を友達とは言わない。後ろ手に隠し通していたものを目の前に出せないようじゃ、わたしたちはいつまでも他人のままだよ」

 

 

 

 空は青から赤へと色を変えようとしていた。海は深く暗い色をまとって、オレンジ色の光をキラキラと点滅させた。次第に西日によって視界に映るすべてのものに影を落として、それだというのに先輩の綺麗な髪はいつまでも輝いている。

 ゆっくりと伊地知先輩が立ち上がって、影の高さがようやく同じになった。

 

 

「わたしは、あなたと友達になりたい。だから────勝負しよう、喜多ちゃん」

 

 

 しょうぶ、と私は心の中で何度も唱えた。暴力的で、泣きそうになるくらい悲しい言葉だ。心臓が痛くなってその痛みに少しだけうつむいた。

 

 

「同じ人を好きになった二人がする勝負なんて、もうわかってるよね」

 

「殴り合いのケンカでもするんですか?」

 

「あはは、まさか。でもまずは()()()()()()()()()()()()()……具体的に言ったほうがいい?」

 

「……いいえ」

 

 

 私はどこか心の中で勘違いをしていた。

 楽しければそれで良くて、誰かが笑っていたらそれで何もかも『それでいい』と思うことができた。

 誰かのために優しくなろうとした。

 時には自分を押し殺しもした。

 争うことなんてしたくなかったから。

 傷ついてほしくなかったから。

 

 思えば、私はいつだって、嘘つきだったのかもしれない。

 でも、ここに、目の前に。

 傷つくことを必要としている人がいる。

 本気で、喜多郁代を知るために。わかりあうために。

 

「…………きっと、後悔しますよ」

 

「そうかもね、でもそうならないかもしれない」

 

 

 私は項垂れて、目を閉じた。諦めたわけじゃない。ほんの数秒だけ、そうしたかった。泣きたい気持ちを捨て去って、弱気な自分を置き去りにするため顔をあげる。

 夕日が眩しかった。それでももう目は背けないと、そう固く誓う。

 逆光で影を纏った伊地知先輩は静かに微笑んで、言った。

 

 

「喜多ちゃん、いいことを教えてあげる。わたしはまだ()()()好きって言われたこと、ないんだ」

 

 

 恥ずかしそうに、そしてどこか悲しそうに瞳が揺れた。

 私は内心動揺して、でもすぐに平静を取り戻すことができた。

 想像していたより溝は埋まっていない。遠く離れていたと思っていた背中は急速に距離を縮め、いつの間にか手が届きそうに感じた。

 そしてそれはきっと、錯覚なんかじゃない。

 なるほどと心の中で呟く。

 

 ──そう……だから、()()なのね。

 

 

 対等で、どちらが有利も不利もない。

 私たちのどちからは勝って────どちらかは負ける。

 だから、勝負なんだ。

 

 音もなく陽は傾き、やがて紺色の夜がやってくるんだろう。それでも構わないと思った。明けない夜なんてない。太陽はいつだって反対側の空に隠れているだけだから。

 恋は戦争、なんて言葉が脳裏をよぎった。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

「師匠、大好きです」

 

 

 話したいことがある。そう喜多さんからメッセージが飛んできて、僕らは夏休みだというのに校舎裏に集まっていた。

 喜多さんからの言葉を正しい意味で理解したとき、僕はどんな表情をしていたのだろう。誤魔化しようのない既視感に襲われて、『彼女』の姿と重なった。幻みたいに実態のない影が体の輪郭を覆っていた。瞼を閉じてもう一度開ければ、そこにはただ一人の綺麗な朱色の髪をなびかせている女の子がいる。

 意味をなさない息が漏れ出て、そのまっすぐな瞳に気圧された。頭の中で困惑と疑念が何度も連鎖し、しばらくまともなこと一つすら話せそうになかった。

 

 たじろいで、目を伏せて、僕は迷った。

 嘘をついて彼女を傷つけたくなかったから。

 真実を語って、彼女を傷つけたくなかったから。

 口を閉ざして、それでも僕たちの間に流れている空白は心を重くさせ、たどたどしく口を開かせた。

 

 

「喜多さん、僕には」

 

「知ってます。先輩に恋人がいることくらい。その人が伊知地先輩だってことも。全部知っているから、わかっているから、伝えようって思ったんです」

 

「それは……」

 

 

 彼女はそこで初めて笑った。優しく、気恥ずかしそうに。

 ただその笑みに含まれた意味が一つではないことは読み取れた。

 

 

「伊地知先輩と話したんです。私たちのこれからと、師匠のこと……私が諦めないための話を。私ほんとは逃げたくなんてなかったんです。私のこの気持ちだけは、誰にも譲りたくなかったの」

 

 

 僕たちは互いに向き合った。今までと同じように、喜多さんは僕を見上げ、そんな彼女の瞳に僕の視線が交わった。

 手の届く距離にいるのに喜多さんは僕の想像よりずいぶんと遠くにいるみたいで、彼女に触れることができないと漠然と察した。

 

 

「僕は伊地知さんと付き合っている」

 

「それなのに師匠は先輩に一度も好きって言ってないのね」

 

「……それは」

 

「私はあなたに好きって言わせたい。お世辞とか、そんな形だけのものじゃなくて、伊知地先輩じゃなくて、ずっと私を見ていてほしい。そして私も師匠のことをもっと、もぉーっと知りたいの!」

 

「だから! 私は今、宣言します!」

 

 僕の目をただまっすぐに見つめて、それからふわりと笑った。

 

 

「私も、優先輩のことが大好き。恋人にして欲しいくらい、ね?」

 

 

 太陽が動き、影の位置が変わる。そうして僕を取り残し、陽光が喜多さんだけを掬い上げるように照らした。

 

 ──あぁ、喜多さんも。

 

 変わったのだと胸の中で呟いた。

 何かを得るために何かを捨てようと葛藤する。誰もがそんな選択をする。それがいいこととは限らない。そもそも良し悪しを決めるものでもない。同時に不変でいることにだって自由でいい。

 

 ただ、去り行く喜多さんの後ろ姿を眺めてこう思わずにはいられなかった。

 

 ──僕だけが変わっていないな、と。

 




大変お待たせしました。
いろいろと立て込んでて、おまけに筆が重いままですけれど完結まで書き続けたい所存です。
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