「……ベース?」
「え?」
一瞬不穏な空気が流れる。少なくとも、僕にはここがいつも以上に空気が重く、影が濃いように錯覚した。実際それは勘違いで、一回目を閉じて再び瞼を開けばそこはいつもの景色だった。
ただ、変わらないものも当然あった。目の前にあることだけが真実だった。
「やだなー師匠! ちゃんと見てくださいよ! ほら、弦がちゃんと六本あるじゃないですか。ベースは弦が四本のやつでしょ? それくらい知ってますよ!」
「……喜多さん、世の中には色んなことを考える人がいるんだ。それこそ、ベースの弦を通常より多くしたり、例えば、六弦にしたりね」
「……」
「……」
僕が黙っていると、朗らかだった喜多さんの顔はどんどん真顔になっていき、目に見えて狼狽え始めた。僕をからかっているようでも、ふざけているようにもみえなかった。
「う、嘘ですよね?」
「それはこっちが言いたいセリフなんだけど?」
誰がギターの教えを受けに来た人が多弦ベースなんて持ってくると思うだろうか。
「ふ、ふふ。お父さんにお小遣いとお年玉2年分前借りしたのに……」
隣で喜多さんが膝から崩れ落ちる。声には覇気がなかった。こっちはこっちで考えていた今後の予定が一気に瓦解して、顔をしかめるほかなかった。いまだに立ち直れていない彼女の姿を尻目に、当日演奏する譜面にもう一度目を通す。
ギターが無ければ話にならない。二週間という限られた時間の中で一日を無駄にする余裕なんてない。喜多さんがどの程度弾けるのかをまだしっかりと確認していないため何とも言えないけれど、反応を見る限りあまり過度な期待はしないほうがよさそう。様々な要因を天秤にかけて、一つ方法を思いついた。
ただ、正直のところ解決できる確率は低い。それでも十分賭けてみる価値はあった。
「ねぇ、喜多さん。今日の放課後空いてるって言ったっけ」
「あぁ……わたしのじゅうまんえん……」
「いや君そうとう貰ってるな。羨ましい……じゃなくて、放課後! おーい、喜多さーん?」
いくら呼び掛けてもうわ言のようになにかを呟くだけだった。一生エラーメッセージを出し続けるプログラムを見ている気分だ。一生そのままは困るけど、どうすればいいかわからないから是非自力で立ち上がってほしい。できれば昼休み中に。
喜多さんが元に戻るのは時間がかかりそうだったから、僕はギターを弾くことにした。いつも練習している譜面を取り出そうとして、やめた。
「たまには、いいか」
手に取ったのは喜多さんが当日弾く、僕の全く知らなかった曲。ペラペラとめくってだいたいの曲の流れを掴む。目を閉じて、指板を想像する。三フレット、五フレット、七フレット。印をつけていく。コードの指使いを想起し、それを指弾きでやるにはどうするかを決める。ストロークはしない。いくら校舎裏とはいえど、うるさいものはうるさいし、迷惑になる。いつもどおりアルペジオで。テンポはもう少し落とそう。一四〇、いや少し速く、一五〇。うん、これくらいがいい。
目を再び開け、ストラップを肩にかけてギターを構える。さっき思い浮かべたとおりに指を動かし、旋律を作り上げる。アレンジはいらない。ただ忠実に、決められた指の動きで譜面が指示する通りに音を運んでいけばいい。
最後の一音を弾き終えたころには、すでに喜多さんは復活していた。
「……やっぱりすごいのね、師匠」
「すごくないよ。喜多さんも続けてればできる。……やっぱり?」
「ううん。なんでもないの」
喜多さんは少しはにかんだ様子で、けれどこちらをまっすぐと見つめていた。
「まぁ、いいや。で、さっきも訊いたんだけど」
「放課後のこと? 大丈夫ですよ。質屋ですか? ほとんど新品同様だから買取の値段は大丈夫だと」
「いや、僕の家」
「…………へっ?」
放課後、担任の話を適当に聞き流し、号令が終わると同時に鞄と教室の後ろに置いておいたギターケースを担ぐ。
「あれ? 鏡帰るの? いつもは教室でギター弾いてくのに」
「あー、その、母さんが体調悪くてさ」
「そっかー。じゃまた明日ねー」
クラスメイトたちには適当な嘘をでっちあげ、足早に廊下を歩く。果たしてあの嘘がいつまで持つかは正直考え物だった。五日くらいはいけるだろう。だが一週間程度ともなると影が差し始める。一口両舌ともいうし、この二週間は気を付けて生活していったほうがよさそうだ。
玄関口につくとスマホに喜多さんから通知が入っていた。「すぐもどる!」という猫のスタンプが送られていた。
「……今更だけど、なんで喜多さんは僕なんかに師事しているんだ?」
特に僕のことを師匠と呼んでることが発覚したら、もしかしなくても秀華高の学生に消されるのではないだろうか。そんな気がしてならなかった。
* * *
時間はほんの少しだけ巻き戻り、喜多さんが一回再起不能になって、そこから復活したあとから話が始まる。
「あっ、あの、わたしたちそういうのは早いというか……あはは」
「……あ、ごめん。変な意味じゃない。ただ家に喜多さんに貸すギターがあるかもしれないからさ。ちょっと付き合ってほしいってこと」
「え、でも師匠が今持ってるそのギター借りちゃダメなんですか?」
「これはアコースティックだからなぁ……音がほかの楽器の音でかき消されちゃうんだよ。ライブハウスで、特にバンド組んでロックとかやるんだったらまず使わないから。だから喜多さんに必要なのはエレキギター、それを探す」
「なるほど、わかりました! じゃあ放課後に校門前集合で! あ、でもそのまま行くと荷物多くなっちゃうかしら……」
「そう、だな。なら一回家に置いてくればいい。僕はここで待ってるよ」
「え、いいですよ。師匠のいるクラス教えてくれたらそこ行きますよ?」
「いややめてくれ頼むから。理由は聞かないで、校舎裏集合で頼む」
学内で人気者の彼女が、いつも昼に校舎裏でギター弾いてる僕みたいな人間を尋ねてきたときには、二度とあのクラスに居られなくなる。とりあえず面倒なことしかならないのは簡単に想像できた。意図せずに喜多さんの後ろに広がる空を見る。快晴とはいかないが、今日も青空が映えるいい天気だった。
「……もしかして師匠、いや、やっぱりなんでもないです」
一瞬だけ彼女の目が不安げに揺れる。
「え、なに?」
「でも師匠は一人じゃないので!」
「うん? まあ、そう、だね……」
「困ったことがあればなんでも言ってくださいね! わたし、力になるんで!」
「ありがとう……? でもなんの話?」
疑問符を浮かべる僕をそのままに、僕と喜多さんは連絡先を交換し合って、後で落ち合う約束を取り決めた。喜多さんの目がより力強く、同時に優しく感じたことだけが、気になった。
そんなこんなで、僕は校舎裏でギターを弾き、何年も頭を悩ませている譜面を演奏し、やっぱりできなくて青空を眺めたり、そんなことをしていると喜多さんがやってきた。
「よし、行こう」
声をかけると小さく、けれどしっかりと頷いた。
「で、なんで裏門からでるんですか?」
「だってすぐ出られるし」
周りに喜多さんと一緒にいるところ見られないから。そのことはなんだか言うのは憚られた。幸いなことに僕の家は学校からさほど離れていない。遅くても三〇分はかからないし、信号に引っかからなければ二〇分程度で着くときもあるくらいだ。
「……そういえば師匠って、なんでいつも校舎裏にいるんですか?」
「え、ギター練習したいからだけど」
「でもそこまでするって、プロでも目指してるんですか?」
隣を歩く喜多さんの目を見る。綺麗な瞳だった。言葉が詰まる。
「……いいや。そんな高尚なことじゃないさ。ただの償いだよ」
「償い?」
「小さいころ、父さんがよく弾いて聞かせてくれた曲があってね。それが忘れられなくって、再現しようと頑張ってるところ」
「……それって償いなのかしら?」
償いだよ、僕にとってはね。そう返して立ち止まった。数秒遅れて喜多さんも止まった。目の前の信号は赤だった。
「僕は小さいころひどく病弱でさ。夏には風邪をひいてたし、一年の終わりにはインフルエンザを毎年のようになってた。でもなんでかな、自分が風邪をひいてるってことを認めたくなくてさ。しょっちゅう体調が悪いことをごまかして学校に行ってた。だから授業中に倒れたりなんてことが結構あって」
あのころの僕は本当にバカだったと思う。下手したら死んでもおかしくなかった。保健室の天井は飽きるほど眺めた記憶がある。当時の先生は気が気でなかっただろうし、人の迷惑なんてものを軽く捉えていた。
「特にひどい日があってさ。その日は早退することになって、保健室で寝たまま父さんが来るのを待っていたいんだ」
「優しいお父さんね」
「あぁ――結局来ることはなかったけどね」
「……え」
「交通事故でさ。きっと疲れてたんだろうね。信号無視、居眠り運転のトラックが対向からやってきて、それで」
即死だったらしい。僕は言伝としてでしか知らない。ただ、その道は当時その小学校の通学路にされていたから、僕はそのあとも何度も通った。最初は嘘だなんて思った。昨日まで何事もなかったかのように元気だったから。きっと何かの冗談だと、一か月くらいは信じなかったと思う。
本当にそうなんだなと思ったのは、勝手に父の部屋に入って勝手に父のギターのチューニングを狂わせたときだった。ペグを滅茶苦茶に巻いたり、逆に弛ませたりした。いつもだったら聞こえる声がいつまでたっても静かなままで、そのときようやく認めることができた。
「あ、その……ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃ」
「なんで喜多さんが謝るの。いいんだよ。もともとこっちが勝手に話し始めたことだし、もう過ぎたことだから」
「もしかして師匠のギターって」
「うん、父さんの。今、というかずっと練習している曲も父さんのでさ。
「それが、償い?」
「うん、償い」
喜多さんはいまいち要領を得ないように首を傾げた。確かに、今の話だけではわかりはしない。そういう風に話した。これ以上彼女と話しているとすべてを打ち明けてしまいそうで怖かった。僕にだって話したくないことはあるし、今回はそれを守ったに過ぎない。それにわざわざ暗い話を続けるわけにもいかない。
「この話はまた今度ね」そう言って適当に切り上げた。
「それよりもっと楽しい話をしよう。そうだな、喜多さんの憧れの人の『リョウ先輩』の話なんてどう?」
昼に声高に叫んでいたときの記憶を思い出して、そのことを聞いた。
「リョウ先輩の話ですか!? わたしいくらでも話せますよ!」
「秀華高の人?」
「いえ。たしか下北沢高校っていってました」
「うわ、進学校か。頭いいんだね。でもどこで出会ったの」
「リョウ先輩が路上ライブをしてるときがあって、そのときに一目惚れしてしまって!」
「へぇ、一目惚れなんて運命的だね」
「師匠もわかってくれますか!? ちょっと浮世離れしてる雰囲気とかユニセックスな見た目とかもう何もかもキャー! って感じで!」
熱心に語る彼女の話に耳を傾ける。多分喜多さんのことが気になってる人がこの話を聞いたら気絶しそうだな、なんてことを考える。そういえばクラスにも何人かいたな。喜多さんのこと気になってるやつ。そのうちさりげなく励ましてやろう。
「反対に師匠って誰かいないんですか? 気になってる人とか」
しばらくして落ち着いたのか、そんなことを尋ねてきた。
「うーん、今は、あんまり」
「今はってことは昔はいたんですね!?」
「いや近い近い」
急に顔を近づけてこないでほしい。心臓に悪い。
「そもそも、あの頃は好きっていうか、うーん。傷の舐め合い?」
ちょうど父さんを亡くして、塞ぎこんでいた時期だ。無気力のまま学校に行って、ずーっと窓の外ばかりを見続けて、チャイムが鳴ったら帰る。その日の話の内容なんて全く覚えていなくて、まったく意味のない日々を送っていた。
でもある日、そう、たしか……席替えをしたタイミングだった。隣になった女の子がやけに積極的に話しかけてくれた。その子も母親を同じく交通事故で亡くしていて、シンパシーを感じた。席が隣だったことも相まって、自然と彼女と一緒に過ごすことが多くなった。互いの大切な家族との思い出を語り合うのが大半だったけど。
僕がそんな彼女に恋をしていたのかというと、正直わからない。彼女と中学が分かれたとき、微かな寂しさを覚えた。けれどそれは「さようなら」の一言の挨拶で済むくらいの、しょうがないものだと思えた。
彼女に恋をしていたというより、楽に話せる友達みたいな、気軽な関係のように僕は捉えていた。どちらにせよ彼女がどこに行ったのかすらわからない今、会える可能性は限りなく低いだろう。
でももう一度話してみたい気はする。今でも時折、金色の髪をした人を見かけると目で追ってしまうのがその証なのだろう。
「なんか特殊な恋愛ですね!」
「だから別に付き合ってないし。小学生の時の話だよ」
「もっと話聞いてみたくなりました!」
「喜多さんは恋愛話が好きなんだね」
「はいっ! すごく!」
「まぁ、気が乗ったらね」
「それ話さないやつじゃないですか」
「内容のないことばっかりだったし、そもそもそんな覚えてないから。それに」
僕は立ち止まる。喜多さんとの会話は苦ではなかった。時間が経つのは早い。
「もう着いちゃった」
僕はドアの前に立ち、鍵穴に鍵を差し込んだ。ドアを開ければ見慣れたローファーが綺麗に揃えられているのが目に入る。いつものことだ。そのはずなのに、僕はすっかり失念していた。
「あぁ、しまったな」
「え、どうかしたんですか?」
「妹が帰ってきてる」
「? なにか都合が悪いんですか?」
「少し面倒になるかも」
「どういう意味です?」
そうこうやり取りをしているうちに、リビングのほうから足音が近づいてくる。あまり振動を感じない、静かな足音だ。
完全に判断が遅れたことを微かに後悔し、けれどもう手遅れだということを受け入れて廊下とリビングを隔てているドアに向け目を閉じる。
面倒なことになりませんように。おそらく叶いそうにない願いを祈る。やがてドアが開き、色白な肌と腰ほどまで伸びる黒髪が視界に入る。
「あ、兄さんお帰り……って、え?」
一瞬こちらをみるも、すぐに視線は横に移動した。すぐに顔色は驚愕に染まり、僕は案の定ささやかな祈りが受け入れられなかったことを悟る。
「……意外と似てないのね」
喜多さんのそんな声が空白の空間を埋めた。
次くらいにはバリバリ話を進めていきたいところ