カナリヤの慟哭   作:椎名リオ

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大切なもの

 僕には妹がいる。名前を鏡杏(かがみあん)。正直に言うと、僕はあまり妹が好きではない。

 といっても、別に難があるわけではない。今彼女は中学三年だが、成績優秀者であるし、たぶん僕よりも頭がいい。性格は謹厳実直。間違ったことは何でも正したがる、いわゆる優等生だ。

 ただ文武両道というわけではなく、こいつは恐ろしく体力がない。僕も男子の中ではあまり体力の多いほうではないが、準備運動をしただけでぶっ倒れたことを聞いたときは何かの冗談かと思った。

 杏のことが少し苦手なのはもっと深いところに理由があるが、今はそれは重要じゃない。さらに重要なこと、それは。

 

 

「なあ杏、そろそろ中入りたいんだけど」

 

「だ、だだダメですよ! なに平然とした顔で彼女さん連れ込もうとしてるんですか! というかいつ彼女なんてつくったんですか兄さんは!」

 

「だから彼女じゃないって何回も言ったろ」

 

 

 色恋沙汰に耐性がないというか、なさすぎるというか。たいていこういう類の話に触れるときは杏の思考は簡単に停止する。何を言っても聞かないし、そもそも聞く耳がどっかに行ってしまっている。こういうときは無理やり強引にいくのが一番手っ取り早い。

 

 

「喜多さん、行こう」

 

「え、でも」

 

「ほっといていいよ、そいつ」

 

「と、通しませんよ! どこに行こうっていうんです」

 

「父さんの部屋」

 

「――」

 

 

 杏が口を閉ざす。一瞬の空白が生まれた。

 

 

「なおさら無理です。行かせられません。それにあそこは今はお母さんの部屋です。お母さんから入るなと言われているの、忘れましたか」

 

「いいや? でも必要なんだ。あそこにあるものが。それに杏には関係ない」

 

「関係ないって……家族じゃないですか」

 

「父さんのことをほとんど覚えてないくせによく言うよ。そんなお前が母さんの言う通りにしてるのも納得できるな」

 

「それは……」

 

「もういい」

 

 

 言葉に窮する杏の姿をみていると段々といらだち始めているのが自分でもわかった。こんな問答に時間をかけている場合ではない。喜多さんの腕を掴んで玄関を上がろうとする。

 でも、それは叶わなかった。

 

 

「喜多さん?」

 

 

 彼女は静かに僕の手を振り払った。

 

 

「ご、ごめんなさい。()()、ちょっと、怖いです」

 

「っ……そう」

 

 

 喜多さんは強張り、間違いなく怯えた表情をしていて、僕はそんな初めて見る彼女にひどい罪悪感を覚えた。

 

 

「……一人で行くよ。喜多さんは適当に待ってて」

 

「あっ、ちょっと兄さん!」

 

 

 えも知れない痛みから逃げるように、僕は玄関を上がり、二階へと続く階段を上る。後ろから杏の声が聞こえてきたが、やがてとまった。

 父さんの部屋の前に着く。鍵なんて立派なものはなく、ただドアノブを引けば簡単に中に入ることができる。ここに入るのは本当に久しぶりだった。小学生以来、だろうか。

 この部屋のほとんどは母の私物が置かれているが、ギターは処分の仕方がわからないと言っていたから、おそらく見つかるだろう。クローゼットを開けると、いくつものギターケースがあった。十個はある。本当に手が付けられていなかった。

 

 

「……仕方ないか」

 

 

 部屋の隅に転がっていたアンプを近くに寄せ、左端から順にケーズを開けていく。

 弦がさびていない、エフェクターを使っても全く問題のない、なるべく綺麗なエレキギター。もう使われなくなり、碌な手入れもされていないギターにそれを求めるのは、いささか酷な気がした。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 喜多郁代は少しだけ、ほんの少しだけここに容易に来てしまったことを後悔した。玄関で立たせたままも悪いということで、師匠としている優の妹である杏にリビングに通された。「適当にかけてください」と言われ、内心遠慮はしたもののここまで来て座らないというのも失礼なんじゃないかと思い、椅子に座った。

 なにより杏からの圧力が強く感じられ、郁代は自身の思考が窮屈になるのを実感した。ただ、その視線に攻撃性はなかった。こちらを窺うような、少し警戒の混じったものではあったが、居心地の悪い程度のもので済んでいた。

 

 

「なにか飲みます?」

 

「あ、お構いなくー……」

 

 

 すっごく気まずい。笑顔を浮かべることを意識しながら、郁代はそう思わずにはいられなかった。ここに来るまでの師匠の話から、家庭に関する事情が深いのは薄々感づいてはいたが、知ってしまったからこそどう接すればいいかわからなかった。

 運ばれてきた紅茶に口をつけ、なるべく音を立てずに一連の動作を行う。緊張のせいで動きは普段よりぎこちなかったが、味はとても美味しかった。机を挟んで対面に杏が座る。

 

 

「……そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしは鏡杏といいます。好きなように呼んでください。先ほどは見苦しい姿を晒してしまってすみませんでした」

 

「あ、ご丁寧にどうも……喜多です」

 

「喜多先輩は、兄と同学年で?」

 

「いや、わたしが一年で」

 

「あぁ、なるほど……」

 

「はい……」

 

「……」

 

 

 杏は可愛いという顔立ちではなく、どちらかというと美人寄りの独特な華やかさが感じられた。目鼻立ちが整っていて、それが余計に近寄りがたさを生み出していた。

 

 

「喜多先輩は、その。兄とお付き合いなさってるんですか?」

 

 

 まだその話引きずってたんだ。

 

 

「いいえ。ししょ……先輩とわたしの関係は、そうね。わたしが一方的に悩みを聞いてもらったというか、相談したというか、そういうところから始まったから」

 

「相談、ですか」

 

「あー、えっと」

 

 

 郁代はここまでのだいたいの話の流れを搔い摘んで伝えた。諸事情でバンドに参加することになって、そのためにギターをやることになった。しかし自分はあまり得意ではないため先輩にギターを教えてもらうことになったこと。

 急遽ギターが必要になってここに来たことまで話したが、ベースとギターを間違ったことは話さなかった。あれは幾代にとって黒歴史として刻まれつつあった。

 

 

「なるほど、それで。たしかにギターはありますけど、一応父のものなんですよね」

 

「先輩からお父様のことを聞いたわ。そんな人のギター、ほんとに借りていいのかしら」

 

「……え? 喜多先輩、兄から父の話をお聞きになったんですか?」

 

「そ、そうだけど」

 

 

 杏はしばらく考える様子を見せた。俯き、何度か頷いて、ため息をついた。再び顔をこちらに向けると、そこには微かに諦めと、安堵の色があった。

 

 

「兄は父の話を滅多にしないんです。誰でも話すわけじゃない。現にわたしにも一度だって父のことは教えてくれません」

 

「どういうこと?」

 

「昔の記憶がないわけじゃないんです。ただ父は兄と過ごすことが多かったので、まだ幼かったこともあり、兄と比べるとわたしは父との記憶があまりないんです。」

 

 

 兄みたいに、いつもギターを弾いていたことは明確に覚えてますけど。そう言って彼女は優しく笑った。それは年相応の柔らかいもので、親近感のわくものだった。

 

 

「兄が喜多先輩に父のことを話したのは、少なからず先輩のことを信用しているんじゃないかと思うんです」

 

「信用……」

 

「……わたしじゃ、その役割は務まりそうにないので」

 

「杏さん……」

 

 

 浮かべる表情は仄暗い。そこには簡単に埋めることのできない溝が垣間見えた。先ほどの師匠の杏に対する態度は棘があった。てっきり郁代は兄妹仲が悪いものと思っていたが、こうして杏と話してみると、そう一言で済ませられるものでもないような気がする。   

 なんにせよ、わからないことだらけでどうしようもなかった。

 だから郁代は精一杯の笑顔を浮かべることにした。

 

 

「大丈夫よ、杏さん! 師匠もきっといつか話してくれるわ! 会って数日のわたしに話してくれたんだもの。大丈夫よ」

 

「喜多先輩……そうかもですね」

 

 

 彼女はふふっと軽く笑った。わずかに陰はあるものの、幾分か調子を取り戻したように郁代には見えた。

 

 

「わたし、今年で受験生なんです」

 

「あ、三年なのね」

 

「はい。なので、秀華高校のこと教えてください。兄は話したがらないので」

 

「うん、うん! もちろん! あ、ロイン交換しようよ!」

 

「はい、いいですよ」

 

 

 二人はお互い譲り合うように会話をしていった。中学三年と高校一年。年としてみればその差異はわずかではあるものの、軽く触れれば消えるような壁があるわけではない。ぎこちないながらも、郁代は最初のような気まずさはとうに払拭されていることにふと気が付く。

 ようやく、ふわりとした笑みを浮かべる少し大人びて見える目の前の少女が、身近な存在に感じられた。

 

 

「そういえば喜多先輩、さっき師匠って言ってましたけど、まさか兄さんの事ですか?」

 

「そうだけど……」

 

「もうすでに師弟関係結んでるんですか!? 喜多先輩、兄さんはそんなできた人間じゃないですよ!? 料理は全くできないし、部屋はいつも汚いし、いつもほとんど外でギター弾いてるだけなんですよ!」

 

「あ、あはは……」

 

 

 『少し面倒になるかも』。そう苦い顔をしながらぼやいた師匠の顔を思い出した。

 確かに、これはちょっと面倒かも……。世の中の兄妹ってこうなのかしら。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「喜多さん」

 

 

 階段を下りて、リビングのドアを開ける。なるべく急いだつもりだった。というのも、さすがに見ず知らずの妹といきなり一緒にされるのは誰だって気まずいと思ったからだ。てっきり空気が死んでいるものかと確信に近い予想をしていたのだが、目の前の光景はそれを裏切るものだった。

 

 

「あ、はい。じゃあまたね、杏ちゃん」

 

「はい。喜多先輩」

 

 

 朗らかに笑いあう二人。特に杏なんかは家だとほとんど笑う姿を見ないため、驚いて一瞬だけ硬直してしまった。いつの間にか近くに来ていた喜多さんが不思議そうにこちらを見ていた。

 

 

「? どうしました、師匠?」

 

「あ、あぁいや、なんでもない。ほらこれ」

 

 

 ケースを開けてみせると、綺麗に整備された木目のギターが姿を現した。何もかもが完璧で、これを見つけたときは奇跡とでも思ったほどだ。なにせケースに入ってたほとんどがアコースティックだったり、少し使うにはメンテナンスが必要なエレキギターばっかりだったから、正直探している途中に諦めかけた。

 

 

「……ありがとう、師匠」

 

「うん」

 

 

 それだけを交わした。たったそれだけで十分だった。その言葉だけで喜多さんの覚悟が伝わってきたから。それから僕は玄関で喜多さんを見送った。さようなら。また明日。ありきたりな言葉で、彼女と別れた。

 

 

「兄さん、お母さんには……」

 

「僕が勝手に入った。そう言えばいいだろ」

 

「でもそれだと兄さんが悪いみたいじゃないですか。喜多先輩のことを話せばきっと」

 

「変わらないよ……なにも。部屋に戻るよ。母さんが帰ってきたらまた出かける」

 

 

 話を切り上げて自室に向かう。階段を登りきるまで杏の視線はずっと感じていたが、話しかけられることはなかった。

 部屋の床に散らばる譜面を避けながら、埃っぽいベッドに背中を預けるように倒れる。スプリングが反発して、ギシギシと音が鳴る。天井を見つめながら、喜多さんのことを考える。これでやっと練習を始められる。というか、今日の様子を見た限りだと喜多さんは家に帰ったらもうやってそうだ。

 この後は母さんが帰ってきたら、入れ替わるように公園に行く。そこでギターの練習をする予定だ。偶には別の公園にしようか、なんて考えてみるけど、結局いつもどおりの近所の公園にすることに決めた。

 

 

「がんばれよ、喜多さん」

 

 

 ひと眠りするために、目を閉じる。外はまだ明るいけれど、だんだん暗くなり始めていて、簡単に暗闇が訪れた。

 その中で、疑問に思う。

 僕はどうして、こんなに喜多さんを助けているんだろう? あぁ、でもどうでもいいか。そんなこと。

 喜多さんの笑顔が脳裏に浮かんで、それだけですべて許せてしまえた。

 

 

 

 

 目が覚めると、あれから一時間程度時間が過ぎていた。部屋から出て、一階の音に耳を澄ませる。妹と、母さんの声だ。今日は帰ってくるのが早い。多分夕食でも取ってるんだろう。

 部屋に戻り、少し厚着をする。ギターケースを背負って、二人にばれないように外出する。

 

 街灯がつき始めた薄暗い街は、いつになってもどこか心がざわつく。決して治安が悪いわけではないが、昼と全く違う顔を見せ始めることに、僕はどこか怖いのかもしれない。

 家々に埋もれ始める夕焼けを見やりながら、目的の公園につく。当然人の気配はない。いつもは遊具で遊んでいる子どもも、それを見守る大人も、今は明かりの灯る家の中で団欒をしている。

 公園の中央付近、街灯下のベンチに座り、黙々と準備を進める。

 四月とはいえ、日が落ちるとなるとやはり寒くなる。けれどそれをやめる言い訳にはしない。譜面を横に置き、いつものようにギターを弾く。近所迷惑にならない程度に。

 

 

「……ダメだ」

 

 

 何回も繰り返し、その度にため息をついて、気が付いたころには手が冷え切っていた。

 僕に、ギターの才能はない。それを最近になって強く思うようになった。公園内にある時計を見れば、七時を指していて、周りはとうに暗かった。

 

 

「九時前には帰るか」

 

 

 補導されるのも面倒だし。しばらく手を温めて、弾けるようになったらまた再開しよう。

 何気なく上を見上げて、なんとか星が見えないか探してみる。東京の空は曇ってばかりで、見つけられたとしても綺麗とは言えないだろうけど、待つ時間にやることとしてはちょうどいい。

 

 そういえば、こういうことを誰かとした気がする。

 星のことすら何もわからないのに、黙って空を見上げ続ける、生産性のないことを。

 

 

「……優くん?」

 

 

 目の前を向くと、暗闇でもわかる、眩い金色の髪を揺らす少女がいた。思わず目を見開く。彼女の姿のどれもが、見覚えがあったから。

 言葉を失う、とはこのことを言うのかもしれない。

 かけるべき言葉を、僕は数秒経ってようやく探し出せた。

 

 

「久しぶり、伊地知さん」

 

 

 星を一緒に眺めたのは、彼女が最初だった。

 

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