弁明というわけではないですが、あの後普通に体調崩してました。たぶん、風邪。もちろんほかにも忙しかったという感じでもあるんですけれど……何はともあれ、今のところ元気です。
皆さんも体調には気を付けてください。
たまたま目が合って、軽く会釈をしただけの、それだけの出会い。そうであれば事はもっと単純だっただろうし、今頃僕はもう少しだけあの公園にいたんだろう。時間になれば僕は公園を去り、来た道を戻り、スターリーに行ってチケットを買い、適当にメニューの中で比較的安いドリンクを頼んで、伊地知さんの演奏と喜多さんの努力の成果を後ろのほうで眺める。ライブが終われば二人に感想を言って、駅まで喜多さんを送り、そのあとに近くの公園で八時くらいまでギターを弾く。そのあと一時間程度をかけて歩いて家に帰り、冷めきった夕食を食べる。夜寝るときになれば、その時はきっと今日のライブのことが夢にでる。
多分、こんな感じになってただろう。
でもそうはならなかった。
僕は後藤さんの悩みを訊いて、知ってしまった。
そしてどこか、僕みたいだと思ってしまったから。
一人でギターを弾ければいい僕と、バンドを組んで演奏したい後藤さんは、確かに違う。
僕は観客なんていなくてもよくて、後藤さんはきっと多くの喝采を求めてるんだろう。
共通点はほとんどない。ただ、始まりに明白な違いはない。
僕らは最初は独りで、それがひょんなことから枝分かれした。片方は救われて、もう片方は手を差し伸べられなかった。それだけのことだ。
仕方がないよねと誰かがこぼせば、自然と首を縦に振ってしまう、些細なことだ。
それが、どうにも理不尽に見えてたまらなかった。後藤さんが苦しんでいることがどうしても許せなかった。
「ゆ~う~く~ん~?」
「ごめんなさい」
「まだなにも言ってないよ?」
「言いたいことくらいわかるよ、さすがに」
音の何もかもをすべてを閉じ込める印象を抱く黒塗りのコンクリートのフロント前で、僕は伊地知さんを見つけるとすぐに頭を下げた。彼女の様子を見るに僕たちが来るのを待っていたようだ。
頭を下げると同時に周囲の視線も感じたが、そんなことはどうでもよかった。後ろで「あうぁぇえあ……っ!」とか謎の声も聞こえるけど無視しておく。怖いけど今はもっと大事なことがある。
黒塗りの地面がこちらを睨みつけている。伊地知さんの顔は見えない。だけどきっと怒ってるだろう。当たり前だ。メンバーが足りている状態で、アポもなしでいきなり飛び入りの新しいメンバーを追加されても困る。合わせの練習だってしていない。時計の短針が二四度動くまでに本番は始まってしまうし、失敗する可能性のほうが高い。
伊地知さんたちのバンドがやるのはジャズじゃない。ロックだ。決められた譜面があって、その通りに演奏しなくちゃいけない。
これがライブじゃなくてセッションだったらよかった。そうすれば状況はもう少しスムーズに進んだのかもしれない。
「迷惑なのはわかってる。これは僕のわがままで、お節介で……伊地知さんの音楽を軽んじているように捉えられてしまうかもしれない」
「……うん、正直、ちょっと今でも動揺してる。いきなりだったし」
「それでも、僕は後藤さんに今日のライブで弾いてほしいんだ。頼めそうなのは君だけで」
「どうしても? どうしても今日じゃなきゃだめ?」
「……今日しかないんだ」
確かに高校で後藤さんとは会えるだろう。今も伊地知さんの隣にいる喜多さん繋がりで連絡を取り合えば、後日に改めることは簡単だ。
でも、そのころには僕はもう彼女たちとの縁は切れていると思う。喜多さんは望みが叶ったから僕のところに練習に来る理由はなくなり、後藤さんに関しては性格上僕どころか喜多さんと会話するのかすら怪しい。
今しかない。結局、漠然とした根拠のない勘が僕を突き動かしただけだ。
僕は頭をゆっくりと上げ、伊地知さんの瞳を見つめる。昔と全く同じ、明るい色をしている。
「君が僕を変わらない毎日から連れ出してくれたことを、僕も誰かにしたかった。誰かの希望を見せられるようなことを、君みたいなことを、したかった」
たった、たったそれだけのことなんだ。
伊地知さんはわずかに目を見開いた後、僕の背後で縮こまっている後藤さんに視線を移し、すぐにまたこちらを向いた。
何秒か、何分か見つめあった後、彼女は仕方なさそうにため息をついて、眉をひそめながら困ったように笑った。
「貸し、ひとつ」
「それは」
「なんでもいいよ。優くんが考えたことで、わたしに返してくれればいい」
「……ごめん」
「それはさっき聞いたから。今、わたしが求めてるのは違う言葉」
「ありがとう……伊地知さん」
「うんっ、よろしい。……さてっと! 後藤さん、だっけ。まだ時間あるから練習……ってあれ? どこいった? いないけど」
「え?」
背後を振り返ってみるが、後藤さんの姿はなかった。そういえば途中から変な声が聞こえなくなったけど、やっぱりあの声って後藤さんだったのか。怨霊かと思った。
伊地知さんと揃って周囲を見回していると、受付の椅子に座っている黒髪の女性が出入り口の扉を指さして言った。
「その子ならさっき扉から出ていきましたよ。慌てた様子で」
「あ、ありがとうございます。ごめんちょっと探してくる」
「わたしも手伝うよ。あそこまで言って、じゃあさっきの話はなしでっていうのもなんか違うし」
「時間は大丈夫?」
「少しだけなら、ね。さっさと見つけちゃおう!」
「なら二手に分かれて探そうか。僕は後藤さんと会った公園の近くに行ってみるから伊地知さんは駅のほうを……」
ドアノブを握り手前に引くと、目の前にはギターケースを背負った桃色の髪をした人が階段の上に横顔を見せる状態でうつぶせになっていた。ずっこけたのだろうか、額にたんこぶができてた。見事に気絶している。
言うまでもなく、後藤さんだった。
「……そういえば後藤さん、ここに来るまでも何回かこけそうだったな。息も切れてたし」
「冷静過ぎないかな!? と、とりあえず冷やすもの持ってくるから!」
急いでライブハウスへと戻る伊地知さんの足音を耳に、僕は後藤さんを見つめた。
自然とため息がでた。
「なんか不安になってきたな」
これだけ人見知りするとは想像していなかった。後藤さん、ステージに立てるのだろうか。そもそもの話、ちゃんと一曲弾けるのだろうか。それも今更な話か。
そんなことを考えると、また口から重い息が這いでた。
後藤さんが起きて、伊地知さんによってスタジオに即座に連行されたのはそれから数分後のことだった。
* * *
ライブが始まるまでの少しの時間をライブハウス周辺の散策に費やし、再びスターリーに戻った。
すでにチケット販売は行われていて、受付のほうへ向かうと、数十分前に後藤さんの行方を教えてくれた女性が座っていた。チケット販売前なのに勝手にライブハウスに入ってしまったことなど諸々のことを謝ると、彼女は柔らかく笑って許してくれた。
単なる謝罪だけだと申し訳なく、少しでも金を落とそうと思い、追加の料金も払ってドリンクも頼んだ。
ギターピック状のドリンクチケットを貰い、横にある別の受付に移動する。金髪の、どこか見覚えのある顔の人が、ぼーっとこちらを見ていた。一瞬大人になった伊地知さんが座っていると勘違いして、足が止まった。
いたのは伊地知さんのお姉さんだった。
あまり話したことはない。小学生だった時も授業参観の時にたまに見かける程度のもので、伊地知さんから紹介されたことはあるけれど、それも一言二言で終わってしまった記憶がある。多分向こうも僕のことなんて覚えていないだろう。
そうとわかっていてもなんとなく気まずくて、うつむき気味にメニュー表を見た。炭酸を飲む気分じゃなくて、けれどトニックウォーターを頼む気にもなれなくて、無難に烏龍茶にすることにした。
「すみません。烏龍茶ひとつ」
「…………」
「……? あの、もしもし?」
視線を上げると、伊地知さんのお姉さんは信じられないものでも見るように目を見開いていた。
その反応だけで、彼女がどんなことを想像しているかわかった。
「……『死んだはずのミュージシャンがなんでここに』って感じですか」
「っ」
「よく母に言われるんです。顔が父に似ていると。そんなことないと僕は思うんですけど。でもなんか嬉しいです。父はあまり名の知れた奏者ではありませんでしたから。あなたみたいに一人でも父のことを知ってくれている人がいて」
「……そうか、思い出した。昔、虹夏が連れてきた、あのときの」
「鏡です。鏡優。今日はその、色々あってここに」
「なんだ、虹夏に誘われでもしたか」
「まぁ、それもありますね。あと高校の知人が出るので」
「……なるほどね。だから調子いいのね、あいつ」
一人得心がいったという風に頷いている。それから手早く作業し、烏龍茶の入った透明な容器を手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「言っとくが、
後ろからかけられた言葉に、会場へ向かう足を止める。
別にその言葉が不快だったわけではない。不満だったわけでもない。ただ少し、間違っているような気がした。首だけ動かし、彼女のほうを見やる。
「実は、今日は演奏を見に来たわけじゃないんです」
「は?」
「どちらかというと、成長を見に来ました。お姉さんも、お仕事頑張ってください」
『結束バンド』。願わくば彼女たちの音が誰かの心を一人でも動かしてほしい。けれど今はそこまでは求めない。
今はただ、成長を見たかった。
伊地知さんがバンドを通してどんなふうに変わったのか。
喜多さんがたった二週間でどう変化したのかを。
会場へ歩みを進めると次第に大きくなる、雑踏のような人の声。あのときもこういう感じだった。僕はステージから遠い後ろのほうに移動し、壁に体を預けた。観客はそこそこだったから、そこからでも簡単に舞台全体を望むことができた。
視線の向こうで色とりどりの照明が主役たちを指し示す。音楽に貴賤はないが、技術による差異はある。正直なところ“普通”や“上手い”という一言で済んでしまう、一種の型にはまった演奏ばかりで退屈ではあった。
大体三回くらい欠伸をかみ殺したころにようやく彼女たちが出てきた。
「はじめましてー! 結束バンドでーす! 今日はたぶん皆が知っている曲、何曲かやるので聴いてください!」
伊地知さんがスティックを掲げる。ベースを携えた青髪の女性がちらりと彼女のほうを見た。正面に立つ喜多さんは明らかに緊張している様子で、それを見かねた伊地知さんが彼女になにか声をかけている。
観客側から見てステージの右にはポツンと直立しているダンボールが置かれている。目を凝らすと下からコードが伸びていて、すぐに後藤さんがあの中にいるのだとわかった。人前に出るのが怖いからああやって視界を妨げているが、実際のところまわりまわって注目を浴びている。完熟マンゴーの文字がやけに生活感を想像させるから、それが余計に。
しばらくして、スティックのぶつかる乾いた音を合図に曲が始まる。喜多さんが何度も練習した曲だ。
僕は彼女たちが演奏する姿を満遍なく見た。その余裕があった。聞き入ることはなく、ただスポットライトに照らされている光景を、一つの絵画を見物するように眺めた。
リズムは整っている。ドラムは時々手順を間違えたのか音が一瞬だけ止まることもあるが、決して致命的なミスはしていない。ベースも、ギターも聴く分には問題にならない程度のものだ。
僕はゆっくりとステージから視線を下ろし、手元の烏龍茶の水面を見つめた。無表情な自分の顔が映っている。
『比べるようなレベルでもない』
入場前に言われた言葉を思い出す。確かに、そうかもしれない。この曲には、音には熱がない。個性がない。目を奪われるような演奏も、心揺さぶる興奮も見当たらない。
観客は黙って聴いているだけで、必ずしもステージに顔が向いているわけではない。携帯を触っている人も何人かいて、それが少し悲しくもあり、仕方のないことだとも思う。
――でも今は、そんなことはいい。
ギターが鳴り止む。ドラムのバスが力強く最後に踏まれる。
再び前を向く。自然と喜多さんに目が行く。気のせいか、向こうもこっちに視線を向けているようにみえた。そして柔らかく笑った。その姿に僕も頬が緩むのを感じる。
「……いいね。うん、いいよ」
僕の思う成功が、喜多さんにとっての完璧なものなのかはわからないけれど。きっと彼女の心の底から楽しんでそうなあの笑顔を、僕は初めて見た。
だから、少なくともそう悪いものじゃないと思う。
喜多さんは一瞬だけ舞台袖に行き、次に出てきたときには何も持たず元の位置に戻り、マイクの位置調整をした。次はボーカルとして参加するらしい。
「それでは次は――」
カウントから始まり、次の曲が始まる。朧気ながら聞き覚えのある入り方だった。
喜多さんの声が響く。普段の彼女からはあまり想像できないような力強い、感情を乗せた声だった。変わらず喜多さんは笑顔を浮かべたままだ。
「……熱い」
なぜか本当に、体の内側がすごく熱い。こんなことなら炭酸のほうがよかったかもしれない。
とうに生温くなった烏龍茶を片手に、一気に飲み干した。わずかな清涼感が喉を通る。
それでも体は冷めることを知らず、熱を帯びたままだった。
あとなんか寝込んでる間に勝手にセッション決められてて動揺しました。
自分就活生なんじゃが、そこんとこ絶対理解してないでしょ。
まあやるんですけど……人員不足だし、しょうがないよねー。