とくとくとく、と液体を注ぐ音が響く。
「──いい日本酒を見極める上で大事なのは、香りです」
グラスに顔を近づけ、軽く嗅ぐ。隣の彼女もぎこちない様子でそうした。
「安価な日本酒──例えばセンパイがよく飲んでる
「ほんとだ、なんかフルーツみたいな香りがする……!」
「お酒であることには変わりないんですけど、芳醇で豊かな香りがしますよね。特に今回は純米大吟醸の飲みやすいのを選んだので」
深緑色の瓶に貼られた白いラベルには、ワインレッドの漢字一つとそれを装飾するような独特のデザインが描かれている。
フリマアプリで空き瓶が取引されることすらあるくらい、イイ酒というのはデザインだけでも芸術なのだ。店のウィンドウに犇めくと箔が付くくらいに。
「さー、さっさと乾杯しよっか!」
ソワソワし始めたセンパイを見て、堪えきれなくなったなと苦笑しながら、お猪口を持つ。
「それでは、センパイとの再会を祝しまして──」
「カンパーイ!」
*
「ふう……」
缶コーヒーのチープな甘味と風味が胃を満たしていく。仕事終わりの一杯はやはり至福だなあ、と新宿の真ん中で白い息を漏らした。
カフェインを摂取したことで、連鎖的に吸いたくなってきたので、少し歩いて手頃な路地裏を探す。大通りから多少逸れた雑居ビルの角を曲がって、ライターに着火する。
「……いい天気だな」
紫煙を燻らせながら、冬晴れの空を見上げる。今日は早く上がれたし明日は休みだし、どこか寄り道して帰るのも悪くないな。そんなことを考えながら灰皿を取り出した時、よく見たら路地裏に誰か倒れていることに気づいた。
「だ……大丈夫ですか?」
その辺で寝てる酔っぱらいくらい、新宿では珍しくもないが、うつ伏せで倒れていたのが
まあ当然、二割くらいは下心もあった。
「うう~」
酒焼けしたようなガラガラの唸り声を上げて、女が少しだけ動いた。しかしまだ起き上がる元気はないようで、「み、水……水を恵んでください。あと余裕があればしじみの味噌汁」と図々しく言ってきた。あいにくこの辺りにはそれを調達できそうなコンビニはない。
「味噌汁はないけど、飲みかけの水なら……」
「ありがと~!」
鞄から出した水をひったくって、女はごくごくとペットボトルを潰しながら飲んだ。いや、普通知らない男の飲みかけなんて躊躇いなく飲むか? なるべく関わらない方がいいタイプの酔っ払いかもしれない──そこまで思ったところで、女に見覚えがあることに気づく。
「…………きくりセンパイ?」
小豆色のワンピース、その上から羽織られたスカジャン。何故か履いているのは下駄。
アンバランスなファッションなのに、雰囲気があってカッコイイのが、昔と全然変わらなくて笑ってしまう。
「アレ? 後輩くん? やべー、幻覚見えるほど酔っちゃったか~」
「いやマジモンですよ。水飲ましてあげてるでしょうが、ぶっ掛けて目ェ覚まさせた方がいいですか?」
「ちょっと冗談だよぉ。え、何年ぶり? 大学以来?」
「そうですね、だから……五年ぶりくらい?」
「え……もうそんな経つの?」
「そうっすよ。オレももう社会人三年目ですからね」
センパイの顔が少しだけシラフに戻った。年月の流れで現実に引き戻されたらしい。
「うわーん、やけ酒だ!!」
「あ、こら! 現実から逃げようとするな!」
どこからか取り出したパック酒を開け、流れるように口に運ぶ。が、倒れるほど飲んでいた人間が、復活直後に飲酒なんて出来るはずもなく。
「お……おろろろろろ」
「そりゃそうなりますよ!」
路地裏に吐き溜りを作り始めたセンパイの背中を撫でる。ここだけは変わっていてほしかったなあ、と嘆息した。
「……落ち着きました?」
「うん。ほんと~に迷惑かけたね」
「今更ですよ」
廣井きくりセンパイ。大学のサークルで一緒だった二歳上の女性で、ベーシスト。趣味や話が合うのもあって、たぶん、後輩の中だと結構可愛がられていたと思う。で、当然付き合いで無限に飲むわけで、その中でこんな風に介抱したことは一度や二度じゃなかった。
「酒強いのに飲み方バカなの、相変わらず過ぎて安心しました」
「それほどでもないよ~」
その辺の自販機で買い直してあげた水を何か物足りなさそうにごくごく飲んで、センパイはにへらと笑った。
「で、センパイはこんなところで何やってたんすか?」
「さあ……? 昨日一人でヤケ酒してたのは覚えてるんだけど、なんでここにいたのかはぜんっぜんわかんないね。三軒目から記憶ない」
「たぶん四軒目行く金なかったからここで飲んでたんでしょうね、めっちゃおにころ転がってますもん」
三本くらい空いてる。中途半端に飲み残さずに、飲みきってから死ぬ辺りが、この人らしいなと思った。捨てていくのはよろしくないので、とりあえず鞄の中に突っ込んでおく。
「いや~わるいね」
「気にしないでください。あとで水代と介抱代まとめて請求するんで」
「え”っ」
「冗談です。そんなことより、感謝の気持ちがあるならちょっと付き合ってもらっていいですか?」
「一杯だけならいいよぉ」
「さっきの今で飲もうと思うのがもう流石ですよね」
もう一本だけ火を付けて、ふうと煙を吐く。行きたい店は禁煙なので、今のうちに吸い溜めしておかなければならない。
「で、どこ行くの?」
「──センパイに、いい日本酒って奴を飲ませてあげます」
*
センパイは、在学中に気づいたら酒カスになってた。
たしか三年の後期か四年のときとかだったと思う。それまでは新歓でも飲み会でもソフトドリンクか最初のビール程度だったのに、いつの間にか赤くない顔を見なくなったってくらいに、酒に溺れてた。
「酒飲むとさ~、ライブの緊張がどうでもよくなるんだよね。オススメだよ~~~」
「人生すべてがどうでもよくなったらやってみますね」
オレも大概、飲んでばかりの大学生活だったけど、OBとして顔を出すセンパイの目がこう、どんどん澱んで渦を巻いていく過程をリアルタイムで眺めていたので、そのおかげで酒を少し控えてきちんと就活して、無事に立派なヤニカスにジョブチェンジすることができたのだ。
「着きました、ここです」
雑居ビルの地下、薄暗く埃っぽい階段を降りた先にその店はある。階段沿いのディスプレイには数々の酒瓶が飾られており、中は対照的に明るめで、橙色のペンダイトライトが木を基調とした店内を優しく照らしている。
「とりあえずこれとこれ、1合ずつお願いします」
「かしこまりました」
*
────そうして今に至る。
「うわ美味しすぎ、こんなのお米のジュースじゃん〜!」
「フッ、そう言ってもらえて何よりです」
「おかわり!」
「いや、マジのジュースのペースで飲まないでもらっていいですか?」
ある程度の散財は覚悟しているが、それでも折角なら味わって飲んでもらいたいのが心情である。苦言を呈したオレに、センパイが「大丈夫、流石にかわいい後輩にそこまでタカったりしないからさ~」とだらしない笑顔で答えた。
「まあ遠慮しなくていいですよ。オレから誘ってますし、こう見えて結構稼いでるんで」
「ゴチになります!」
「切り替え早え~」
追加で頼む酒を悩むセンパイの様子を眺めながら、オレも酒を飲み始める。やはり、久々に飲むときは日本酒の優しい酩酊感に限る。鼻に抜ける香りを楽しみつつ、ふと思い出したので「そういえばセンパイ、昨日のライブもよかったですよ」と伝えた。
「え、来てたの?」
「はい。実は三回に一回くらいは聴きに行ってます」
「水臭ぁ~、来てるなら言ってくれればよかったのに!」
「酒臭くなるのが目に見えてたんで黙ってました」
センパイのバンド、『SICK HACK』はインディーズでは名の通った有名所だ。
酔いによって適当極まりない上にムラのあるパフォーマンス、それ故に人を惹きつける謎の魅力によって、受け入れられる人とそうでない人で死ぬほど温度差があるが。フェスのときとか地獄になりがち。
もっとも、オレはそういうところがだいぶ好きなんだけど。シンプルに上手いし。
「昨日もどうせ、メンバーに打ち上げ断られてヤケ酒してたんでしょ?」
「そうなんだよぉ! 私はただお酒が飲みたいだけなのに~!」
「だからだよ」
なんでもかんでも飲む口実にしてくるのと、絡まれるのがダルいから振られているのだ。
そして、オレが今回こうやって誘ったのは、その点を改善してあげようという試みもある。
「センパイ。オレ、色々お酒飲んで思ったんすよ」
「お酒は美味しいってこと?」
「いや、それはそうなんだけど違くて」
酒と一概にまとめても、様々な種類がある。
似たような材料でも、製法や環境、醸造や蒸留の具合、熟成の年数、それらで味は変わり、酔いの回り方にまで違いを及ぼす。
で、それらを踏まえて考えた結果。
「センパイがその辺の居酒屋のオッサンばりに面倒な酔い方すんのは、飲んでるもんが悪いんじゃねえかなって」
『良酒に悪酔いなし』だ。おにころだけじゃなく、『STRONG虚無』とか、ああいうのもよくない。
つまるところ、センパイがいい酒だけ飲むようになれば、必然的に酒量も減るし悪酔いもなくなるしいいことだらけなのでは、と思ったのだ。
「もしかしていま、おにころの悪口言った?」
据わった瞳でセンパイは淡々とオレに詰めてきた。なんなんだ、そのパック酒に対する愛は。
「うう、だってこの子のおかげで私は幾つもの眠れない夜から救われて──」
「救われた結果が昏倒と二日酔いでしょうが……ってこら! 店内でパック酒を開封して飲むな!!」
が、顔を顰めたセンパイは、即座にお冷のコップに口をつけて、透明な液体を零した。
「ま、まずい……」
「汚え……」
吐いてないだけマシだったが、大変よろしくない絵面であった。おにころを排出して落ち着いた様子のセンパイは、「そりゃたしかにおにころはおいしくないよ。最早まずいといってもいい」と言いながら、コップに戻した液体を飲んだ。飲むな。
「でも安いしさ、こーゆーお酒があるからこそ」
彼女が少しだけ残っていた日本酒を煽る。
「たまに飲むいい酒の美味しさがよくわかるんだよね~」
「一理あることを言わないでください」
普段が発泡酒だからこそ、店で飲む生は格別なのだ。こればかりはオレにも何も言えない。
「今度こそおかわり頼んでいい?」
「いいですよ。つまみもジャンジャン頼みましょ」
──まあ、気に入ってくれたならよかった。とりあえずセンパイが幸せなら何よりだ。
あとは明日まったく味覚えてないとか言われないことを祈るのと、「すいません、ここからここまで順番に全部お願いします」とか言い出した豪快な恥知らずに、流石にどこかで何か返してもらおうかな、と思案するばかりだった。