ロアの屋敷での日常は、思いの外ずっと早く過ぎていった。
意外な──本当に意外な事ではあるが、エリオットは思いの外しっかりと授業を受けていた。
初めの頃こそ胡乱げな表情を隠さなかったエリオットだが、一ヶ月もするとルディアの水聖級魔術師という肩書きに誇張はなかったのだと理解したのか、授業に比較的真面目に取り組んでいる。
ルディアとしては授業放棄も可能性の一つとして捉えていたから、いい意味で期待を裏切られたと言える。
どうやらエリオットは他の授業も相変わらずの仏頂面で受けているらしい。覗いてみたが、噴出しそうになった。
既にエリオットは水属性魔術の初級を修めていた。
これで火属性と水属性の二種類の魔術を修めたことになる。目標は六属性の魔術をそれぞれ初級まで修める事だが、致命的に苦手な属性でもなければ五年もあれば余裕を持って達成できそうではある。
シルフィエットと比べれば魔術の適性は雲泥の差ではあるが、飲み込みそのものは悪くない。
「なあルディア」
「なんでしょうエリオットお坊ちゃま」
「なんで水を温めると水蒸気? になるんだ?」
「それはですね。空気は水を溶かすんですが、溶かすには温度が高いほうが都合がいいからですね」
かつてシルフィエットにも教えていた内容である。
そのノウハウがあるおかげで、ある程度は効率的に教えられるようになったはずだ。
小中学生の理科の内容などほとんどうろ覚えだが、なんとなくでも発生プロセスを把握していれば、魔術の制御に役立つことは身をもって実証済みである。
「水を沸騰させたとき、中のお湯がちょっと減っていたな、とか覚えがありません?」
問いかけると、エリオットは頷いた。
「じゃあ、水蒸気を冷やすと水になるのか?」
「んー、まあそうですね。冷たい水の入ったカップに水滴が付いていることってあるでしょう? あれがそうなりますね」
ふうん、と頷きながら魔力を制御するエリオットの出来に、まあ及第点かな、と評価を下す。
エリオットはなんとなく概要を理解したんだかしていないんだか、といった塩梅だが、隣で講義を聞いていたギレーヌは思考回路がショート寸前、といった風情である。
ギレーヌも極めて真面目な生徒ではあるが、どうにも飲み込みは良いとは言い難い。それがギレーヌ個人の性質なのか、獣族自体が魔術が苦手なのかはまだ判断しかねるが。
ギレーヌも自主的に魔術を学んでいる。冒険者時代に色々と苦労したらしく、読み書き算術に加えてやれることはやろうという事らしい。見上げた心意気である。
ルディアもギレーヌに魔術を教える代わりに剣術の稽古をつけてくれるならば文句はなかった。生徒が一人から二人になったところで手間がそう増えるわけでもない。
「そういえば、ギレーヌは昔うちの両親と冒険者をやっていたんですよね」
「うん? ……そうだな、大体今から八、九年ほど前になるな」
行き詰まっているのにひたすら考えても息が詰まるというものだ。
聞かせてくださいよ、とルディアがねだると、ギレーヌはいいだろうと頷いて語り始めた。
剣士が二人、戦士が一人、魔術師、僧侶、そして斥候。その中の剣士と僧侶がパウロ、ゼニス、ギレーヌなのだろう。
話はパーティメンバーの出会いと黒狼の牙の結成から始まり、どんな魔物を討伐したか、どんな迷宮に挑んだかという話に、たまにパウロが如何にクズだったかという話が混じった。だがギレーヌが途中で手元の教材に目を落とすと、次第にパーティ解散からの苦労話に内容がシフトしていった。
パーティ時代は斥候をしていた男が、物質の買い出しから雑用まで全てを請け負ってくれていたらしい。その男は戦闘以外の全てができたという話で、解散してからそのありがたみに気付いたと、遠い目をしてギレーヌは語った。
「ゼニスがそいつに料理を教わりはじめたときは、パーティメンバーも微笑ましく思っていたものだが……」
「へえ……」
貴族の令嬢だったと聞くゼニスが、どの時点で家事を覚えたのか不思議に思っていたルディアだったが、ここでようやく合点がいった。
物心がついた頃からリーリャと仲良く家事をしていた記憶しかなかったからだ。おふくろの味の源泉はそのパーティの斥候からきていた訳である。随分と面倒見の良い男らしい。
そう言うと、ギレーヌはかぶりを振った。
「いや、あいつもパウロほどじゃないにせよ、ろくでもない奴だった。なにせパーティの財布から金をくすねてギャンブルに注ぎ込んでいたからな」
「ええ……」
上がりかけていた株は急降下した。
そこそこの確率で増やして帰ってきていたそうだが、それでもギャンブルは不味かろう。
ギレーヌの横を見ると、課題に四苦八苦していたはずのエリオットが興味深そうに耳をそばだてている。冒険者という単語に興味津々だという表情は、未だ彼が一〇に満たない少年だという事を思い出させた。
「お坊ちゃまはどうして魔術の勉強をしようと思ったんですか?」
ルディアはふと頭によぎった疑問をエリオットにぶつけてみた。
読み書き算術や礼儀作法は、エリオットの立場を考えれば必要不可欠のものであろうが、魔術に関して言えばそうではない。せいぜいが『できないよりはできたほうがいい』くらいの認識のはずである。
その証拠にフィリップやヒルダも魔術は使えない。魔術の修練をするくらいなら政務に時間を割いたほうが効率的だからだ。
なので、魔術が得意でもなんでもない、むしろ苦手としているエリオットが修練に励むというのは、言ってはなんだが非効率なのである。
「だって、魔術は便利で冒険の役に立つんだろ。読み書きや算術は貴族として必要だからやってるけど、剣術と魔術は俺が純粋に冒険者になりたいからやってるんだ」
そう零したエリオットに、ルディアはなんと言葉をかけたらいいかわからずに口をつぐんだ。
冒険者に憧れるというのもこのくらいの年齢なら当然だろう。ブエナ村の少年たちも、将来の夢は村を出て冒険者か、商人あたりになりたいというのが大多数を占めていた。
だがボレアスは上級貴族である。中級以下の次男三男なら望みはあれど、エリオットが冒険者になるというのは環境が許すまい。ロアで内政官をするか、そうでなくとも政略結婚でボレアスの立場を盤石のものとするために使われるはずだ。
だから、ルディアに口に出来たのは慰めの言葉だけだった。
「お坊ちゃまならきっとなれますよ。それに頑張っているんですから、若旦那様やヒルダ様もお喜びになられます」
「別に……褒めてもらいたいから頑張ってるわけじゃない」
エリオットはどことなく感情を持て余した表情で、やり場なく視線を落とした。
「俺は、周りの奴らを見返したいだけだ。今はマシになったけど、ちょっと前までは父上や母上まで俺を見ると『困った奴だ』って顔をしてた。だから、それをなんとかしたい」
「お坊……。大丈夫だ。フィリップ様もヒルダ様も、お前の努力はわかっているはずだ」
ギレーヌは目を見開いて名を呼んだあと、少しだけ胸襟を開いてくれたエリオットに小さく破顔した。
おそるおそるその頭を撫でようとする手を、嫌がる犬のようにぶんぶんと頭を振って振り払うエリオットを見て、ルディアは彼に対する認識を改めた。
小生意気で、気難しい少年。その認識は変わっていない。だが、授業をサボタージュするかもしれないという懸念が杞憂だったことを悟ったのだ。
よほどのことがない限り、エリオットは愚直に授業に取り組んでくれるはずだ。
「じゃあ、お坊ちゃま。みんなを見返すためにも頑張りましょうか。次の魔術は難しいですよ!」
そう意気込むルディアを見て、エリオットはほんの少しだけ口角を上げると、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
×××
剣術の鍛錬は午後に行われる。
理由としては、午前中に座学の多くが集中していることと、どうせ汗を流すなら午後の方が良いからだ。
稽古に参加したルディアは、ブエナ村でのルーティンと然程変わらないことに都合が良いと思っていたが、実際にギレーヌにしごかれるとそんなことなどどうでも良くなった。
ギレーヌのつける稽古は、とにかく体力を使うのだ。
まず走り込みだ。やたらと広い領主の敷地を存分に使い、息が上がるまで走らせる。ルディアは木剣を担いでだが、エリオットはその木剣に重りがついたままの長距離走である。
実家でもパウロに走り込みはやらされていたが、木剣があるとないとでは体力の消耗が段違いである。
歯を食いしばって脚を動かしていると、エリオットが横を追い抜いていく。年齢差、男女の差があるとはいえ、こう体力差を見せられると忸怩たるものがある。流石に涼しい顔でとはいかず、エリオットも険しい顔で息を荒らげてはいたが。
走り終えると、荒れた呼吸を整える間もなく素振りと型だ。ギレーヌは剣神流の型しか教えられないが、剣神流は三大流派の中でも人口が最も多い。ルディアとしても異存はない。
そして規定数の素振りを熟せば、ようやく実戦形式での乱取りである。
この時点で既に疲労困憊のルディアであるが、うっすらとしか汗をかいていないギレーヌの体力は底無しなんじゃないかと疑い始めていた。パウロだってこうはいくまい。
ギレーヌは大きく肩で息をつくエリオットに重りを外した木剣を投げ渡すと、ルディアの前に立たせた。
じゃあ打ち合ってみろ、という指示に、ルディアはギレーヌを二度見した。
エリオットとの剣術の実力にはそれなりに差がある。純粋な技術だけなら善戦できなくもないだろうが、体格差を加味すれば一方的なものになりかねない。
なめし革に綿を詰めたプロテクターを付けているとはいえ、エリオットも流石に歳下の女の子に木剣を振るうのは躊躇われたと見えて、ギレーヌに視線を向ける。
「打ち合ってみろ、じゃありませんが!」
「剣の聖地じゃそれが普通だ」
ギレーヌはルディアの抗議をにべもなく切って捨てた。
剣の聖地では、なんならもっと年齢差があったとしても容赦なく木剣を叩き込むのだそうだ。防具があるだけマシだと思え、というのがギレーヌの言い分である。
どんな蛮地だ、と思わずルディアは毒づいたが、エリオットはギレーヌの言にそれもそうだな、と頷いて木剣の切先をこちらに向けた。
「納得しちゃうんですか!?」
「加減はするぞ」
「ちょちょちょ!」
いくぞ、と木剣を振り上げたエリオットが、ルディアよりも二回りは鋭い斬撃を放つ。ルディアは慌てて受け止めるも、木剣が弾かれそうになりたたらを踏んだ。
二人の技量は水神流こそ同程度だが、剣神流にはエリオットに一日の長があった。二年間ギレーヌの教えを受けたエリオットは中級に脚をかけているが、対するルディアは素振りと型をこなしていた程度である。パウロと打ち合っていたときもほとんどが水神流だった。
「さっきやった踏み込みの姿勢を覚えろ! 相手をよく見ろ!」
ルディアが体勢を整えるのを許すまいと、エリオットの木剣が容赦なく打ち据えてくる。一撃を受けるたびに体勢が崩れ、応じ手が間に合わなくなっていく。
やばいやばい、と立て直そうとするも、膂力の差は如何ともし難く、ルディアの手は早々に痺れ始めていた。
「エリオット! 相手よりも速く踏み込んだならその動きを予測して剣を振るえ。ルディア! 踏み込まれたなら剣の軌道から半歩ずらせ! それでは受け切れんぞ!」
踏み込みも剣速もエリオットに及ばず、一手ずつ着実にルディアは追い込まれていった。時折水神流の技で立て直すことに成功するも、反撃する余裕はなくエリオットの攻撃をいなすことで手一杯になる。
このままでは遠からず一撃を貰うだろう。
あの剣速なら、いくら木剣でもとんでもなく痛いに違いない。その未来が疑いようのないことを悟ったルディアは悲鳴を上げた。
「て、手加減! 手加減が足りません! ギレーヌ!」
「エリオット、相手は諦めてないぞ! 手を休めるな!」
「はい!」
「ひとでなし!」
抵抗虚しく、鈍い音と共にプロテクターに木剣が吸い込まれた。予想通りの鈍い痛みに顔をしかめて、ぬぐぅと呻き声を噛み殺す。
(痛くなければ覚えませぬってか、くそう)
せめて一撃入れてやる、とルディアは気持ちを奮い立たせてエリオットと対峙した。やってやれないことは無いはずだ。
結局その日は、ルディアはエリオットに対して終始劣勢のまま稽古を終えた。
エリオットに一〇度打ち込まれるまでに、一度か良くて二度攻撃を入れられるか、といった塩梅である。その事にはまあそんなものだろう、という感想だったが、同時に元男として微妙に悔しさも感じていた。
治癒魔術で治せるとはいえ、全身があざだらけである。エリオットも流石に気が引けたと見えて、プロテクターに覆われていない部分は多少の手加減をしていたようだ。うっかりいいのが入ってしまうと、少しだけ心配そうな顔をしていた。
気持ちは嬉しいが、心配するならもう少し手加減をして欲しいというのがルディアの偽らざる本音である。
魔術ありなら負けはすまいが、剣術では完敗だった。
×××
三ヶ月が経つ頃には、ルディアは剣神流初級の認可をギレーヌより受けていた。
ギレーヌはパウロよりも遥かに教師として優秀である。どこがどう駄目で、どうすれば改善できるのか、事細かく指摘してくれる。王級と上級の位階の差は、実力だけでなく指導力にも現れるらしい。
パウロはあれが駄目、これが駄目だと駄目だしばかりで、有意義な指導はたまにしかしてくれなかったが、ロアに来てからは剣神流の技量がめきめきと上がっていくのを、ルディアは実感していた。
とはいえエリオットとの実力差が縮んだかと問われれば、そうでもない。
ギレーヌ曰くエリオットには才能があるようで、こちらもまたぐんぐんと実力をつけて行っている。中級の認可も近いらしい。
エリオットはとかく目がいいのだ。実戦形式の打ち合いでは、ルディアのフェイントが上手く嵌まることもあるが、二度目は絶対に喰らわないし、視界外からの意表をついた一撃にも、反応できずとも軌道だけはしっかりと視認しているのだ。
ギレーヌの末恐ろしい、という感想にも頷ける話である。
だがなんでもありのルールで立ち会ったときは、ルディアはエリオットを完封してしまった。
そこそこの俊足を誇るはずのエリオットが、ルディアに一切近づくことも出来ずに鶴瓶撃ちにあったのである。詰めてくる進路を予想し、そこに無詠唱化した
それは複数回やっても変わることがなかった。
エリオットが魔術をどうにか掻い潜り、肉薄しても爆風と風魔術で距離を取られ、剣の間合いに入ったところで一撃で決め切らなければまた距離を取られてしまう。
結局一〇試合中九回を落としたエリオットは、悔しさのあまり地団駄を踏んだ。
「……くそっ」
「あまり落ち込むな。ルディアは魔術師としてほぼ完成されている。まだ伸び代のあるお前なら、いずれは追いつけるだろう」
さもありなん、とルディアは頷く。いつか倒すべき目標であるパウロを対象に練った戦術であるため、パウロ以下の剣士であるエリオットには流石に負けられない。むしろ、ほぼまぐれに近い形だがエリオットに一本取られた方が意外だった。
「ルディア、あの戦い方は何処で覚えたんだ?」
「実は、打倒父様を目標に掲げていまして……」
ほう、とギレーヌは感嘆の溜息をついた。
魔術師が打倒剣士を掲げるのはよほど珍しいらしい。それが上位の剣士が相手と言うならなおさらだ。本来長ったらしい詠唱をいちいち口に出して魔術を発動しなければいけない魔術師は、速射が効かない分一発でも外したら致命的だ。そのため、戦争などの例外を除けば魔術師は明確に剣士に劣る。
だがルディアにはその常識は当てはまらない。
「その戦術なら大体の相手には対応できるだろう。油断しなければな。ルディア、慢心するなよ」
「もちろんですよ」
王級剣士のギレーヌを前に慢心できるほど、ルディアは阿呆でもなければ肝も太くなかった。
伸びた鼻っ面を圧し折られるのは前世で十二分に経験済みである。意図せずに鼻っ面を圧し折ってしまったエリオットだが、少し不貞腐れたもののボイコットはせず、いつも以上の仏頂面で稽古に臨むようになった。
良い傾向である。
ちなみに、物は試しとギレーヌに挑んでみたら、まるで捕捉できずに一瞬で距離を詰められ、すこんと額に一発貰ってしまった。
もっと距離があればわからなかった、とギレーヌは評価したが、あの速さを今のルディアが捕捉し切れるかと問われたら微妙なところだ。
化け物め……、とぶつぶつ言いながらルディアはギレーヌの指導をありがたく受け取る。まだまだパウロ打倒は遠い。
ルディア
対エリオットでは途中まで完封していたが、調子に乗って魔術の調節をミスりずっこけたところをぶん殴られた。一本。
あと剣王にはかてなかったよ。
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ありがとうございます。
ルディ子作品が一人でも多くの人の目に触れ、一人でも多くルディ子沼に引きずり込むことができれば幸いです。
供給が少ないからね、マジで。