執事と使用人が忙しなく動く早朝が過ぎれば、程なくしてボレアス邸にも穏やかさというものは戻ってくる。
それもこれもボレアス家の人間は誰もが朝が早いのが原因で、布団の温もりをなるべく長く堪能していたいルディアからすればいい迷惑なのだが、家庭教師として招かれている身分からすれば、いつまでも布団の中に引きこもっている訳にもいかない。
のっそりとベッドから這い出した先週のルディアは、前日に用意した教材を抱えながら天啓に身を震わせた。
すなわち、休日の存在である。
ルディアとエリオットにはそれがなかった。由々しき事態である──とそう考えたのはルディアのみであったのだが、ともかくその確保は喫緊な課題であると奮起し、フィリップに直談判を行った。入念なプレゼン資料を伴って臨んだが回答は酷く簡潔で、カリキュラムに支障がでないなら構わないとの事であった。
その日のうちに他の家庭教師に話をつけたルディアは、七日のうち一日を休養に充てることに成功したのだ。
涼やかな午前の爽気を胸いっぱいに吸い込みながら、ルディアは自由を噛み締めた。
今日の予定はロアの街の観光である。
荷駄の如く生家より拉致され、あれよあれよと言う間に家庭教師の業務に就いたため、ルディアは屋敷よりほとんど出る暇がなかった。更に言えば、前世ではろくに旅行などしなかったため、観光自体が数十年振りである。
まるで年相応の子供のようにはしゃいでいる自分を自覚しながら、ルディアは屋敷の門をくぐった。
×××
アスラ王国はフィットア領、その中でも最大の規模を誇るロアは、外周を高く頑強な防壁で囲った城塞都市である。
かつてはラプラス戦役における要衝にして、最終防衛線として機能していた城塞都市は、古めかしくも歴史を感じさせる街並みと、華美さよりも機能性に重きを置いた造りをしている。
流通の要衝として多くの行商によって賑わうロアは、王都の貴族たちに『冒険者ばかりが集う野卑な街』と称されているが、それも今日の発展を妬んでのものと思えば気にもならない、というのが町長のフィリップの言である。
都市の中心部に位置する、貴族、準貴族たちの古式ゆかしい高級住宅街を抜ければ、ロアでも最も人通りの多い商業区画へと出る。
護衛としてギレーヌを伴ったエリオットは、物珍しげに周囲に視線を走らせながら雑踏に紛れていた。その姿は執事のアルフォンスによってめかし込まれ、普段とは装いを異にしている。
尖った気性をしているエリオットも、高貴な装いをすれば自然と気品を身に纏う。それは後天的に身につく貫禄や優雅さといったものではなく、より先天的な、貴族の血によるものだ。
それを上手く引き出したアルフォンスの手並みは見事なものだが、当のエリオット本人は服装などまるで頓着してはいなかった。
「お坊は自分が住んでいる場所なのに、街にはあまり下りないのか?」
「ん? うん。普段は父上かお祖父様に連れられてしか屋敷から出ないからな」
一人で街を出歩くのは初めてだ、と興奮で僅かに頬を紅潮させて、エリオットは周囲に視線を彷徨わせた。
貴族御用達の高級店ばかりが並んでいた場所は見慣れていたが、庶民の生活用品や雑貨が並ぶ商店街には好奇心がそそられると見えて、看板や店頭の商品に忙しなく視線を走らせている。
「ギレーヌ、武具屋ってどこかわかるか?」
「ああ……把握はしてないが、ああいうのは大体冒険者ギルドの近くにあるからな」
「冒険者……」
「探してみるか?」
「勿論!」
散策を開始する。
ロアは広いが、区画整理がきちんと為されているために何が何処にあるかがわかりやすい。
足音も高く歩き出した深紅の髪の少年の後ろを、獣族の長身の女剣士が続く。その珍しい組み合わせに道行く人は視線を向けたが、すぐに興味を失った。
「この剣かこの剣……うぅん、悩ましいな」
「お坊が使うならやはりこっちの曲剣だろう」
二人が訪れたのは商業区画の端にある武具屋である。
店を構えて久しいのだろう、店内には革と油と鉄錆の匂いが僅かに香る。規模はそれなりだが、商業区画の中心に店を構える商会の武具屋に比べれば控えめだ。この武具屋は冒険者が多く集まる冒険者区に構えられているためその品揃えも多くが冒険者向けで、エリオットの関心を大いに引いた。
エリオットの手元にあるのは二つの得物である。方や肉厚の直剣、方や反りの浅い曲剣である。どちらも無骨かつ最低限の装飾のみが施された、実用性にこそ重きを置いた品だ。その固く冷たい手触りと、ずしりとした重さにエリオットは否応なく高揚させられる。
「俺が剣神流だからか?」
「そうだ。あたしの《
「なんでだ?」
「水神流は防御主体だからな。だから打ち合っても折れにくい直剣が好まれるんだろう。剣神流は一撃必殺が基本だから、とにかく切れ味が求められるんだ」
「ルディアが使うなら?」
「ルディアは水神流の方が向いているから、まあ直剣だろうな」
「ふうん」
片手に持っていた直剣を鞘に入れて戻し、両手で曲剣の柄を持つ。構えるは剣神流正調、正眼である。
いまだ身体のでき上がっていないエリオットにとって、真剣はまだ重い。構えている分には剣先がブレずに済むようになったが、いざ振ってみればすぐにバランスを崩すだろう。
「振るなよ」
「わかってるよ」
ギレーヌが釘を刺すと、エリオットは唇をとがらせながらも曲剣を鞘に戻した。流石にその程度の常識は弁えているらしい。
フィリップから預かった財布の口を、早速開いて金額を数えている姿に思わず口角が歪む。
「まだ買うのは早いだろう。一五歳……一二歳くらいになったら背丈に合ったものを打ってもらえ」
「それもそうだな」
背丈が伸びれば、いずれはエリオットも剣を持つようになる。それは冒険者としてではなく、公の場で帯びる儀礼剣がそれにあたる。
家を飛び出し冒険者となるなど許されるはずはない。だがそれでも、憧れというものはあるのだ。父の元で働くようになる前に一度くらい、迷宮にでも潜ってみたい、と。
その後エリオットたちは冒険者ギルドを冷やかしたあと、行商人たちが露店を多く構える区画に足を運んでいた。
先ほどの武具屋があったのは冒険者区の端の方だが、冒険者区と商業区画との間あたりには、多くの行商人が露店を構えるスペースがある。見渡してみれば、行商人だけでなく、古着や生活必需品をシートの上に並べた市民の姿もちらほらと見えた。例えて言うならばフリーマーケットや蚤の市といった風情である。
品物によって付けられた値はピンキリだが、商業区画の大きな店舗や商会のそれに比べれば控えめだ。こちらは市民から冒険者向けの商品が多い。
屋台の串焼きを昼食代わりに腹に収めると、露天商から声がかかった。
「そこのお坊ちゃん、もしかしなくても領主様んとこの子かい?」
「ん?」
何故自分が、とも思ったが、エリオットは今の服装を見下ろして納得した。なるほど確かに貴族と思しき子供が獣族の護衛を連れているなら、ほぼ間違いなくボレアスの関係者だろう。
「なにか用か?」
「いや、いや。とびっきりの品が入荷したもんでね。どうです、見ていっておくんなさい」
「ふうん」
ちらりと背後のギレーヌを見遣り、視線で許可を得ると露天商へ近付いていく。
貴族のエリオットに声をかけるだけあって、並べられた品は他の露店よりも高く、質も良い。露天商の説明を受けながら品定めをしていると、ふと視線が止まった。瀟洒な装飾の施された、どことなく既視感のある小瓶である。手のひら大のそれは破損防止のためか、布に半ば包まれた状態で木箱に収まっている。
「なんだこれ、香水……?」
「おお、そいつに目をつけるたぁお目が高い」
わざとらしく感嘆の息をついた露天商が、ひときわ饒舌になって小瓶の来歴を語る。
「大きな声では言えやせんが、こいつは香水ではなく媚薬でしてね。酒にでも混ぜりゃあ女は股から涎が止まらなくなり、男は抜かずに一〇発はいけるっていう代物でさあ。効果の程は保証しますぜ」
そこまで聞いて、エリオットは既視感の正体に思い至った。これは、代々のロアの町長が精製法を独占しているとかいう秘蔵の媚薬だ。かつて父フィリップからなんとなく聞かされたことがある。
「本来なら金貨一五枚はする代物なんですがね、そのお目の高さに免じて、ここは金貨一〇枚でいかがでしょう」
いかがでしょうと言われたところで、とエリオットは眉根を寄せた。エリオットの手持ちはフィリップとサウロスに持たされたアスラ金貨五枚。そもそもが足りないのだ。それにエリオットは精通したかどうかも怪しい年頃の少年である。正直なところ媚薬とやらに対する興味は薄かった。
要らない、と突っぱねようとしたところで聞き覚えのある声がエリオットの声を止めた。
「あれ? エリオットお坊ちゃま、それにギレーヌも。こんな所で何をしているんですか?」
呼び掛けに振り向くと、翡翠色の瞳と目が合った。ぱちくりと意外そうに瞬かせる瞳の上で、見慣れた栗色の髪が揺れている。
「街を周ってたら声をかけられただけだ」
露天商から品物の説明を受けていた旨を伝えると、俄然興味を持った風なルディアが近付いてくる。その手は手帳が握られていた。
「はー、そうなんですか……どれどれ? ……へ? びっ、媚薬っ!?」
信じられない、といった表情で振り向いたルディアが、エリオットとギレーヌを交互に見遣る。
「お、お坊ちゃま……」
色を知る
幾分落ち着いたルディアが気を取り直した様子で、改めて値札を見ながら手帳に何やら書き込んでいく。
「はえー、媚薬一瓶金貨一〇枚……」
「お嬢ちゃんもいかがです? 破格の値段ですぜ」
「いや、私まだ七歳なんですけど……」
本来金貨一五枚だというのなら、確かに破格だ。
アスラ王国ではその手の商品の受けが良く、それなりの高値で売れる。大方無理に仕入れたは良いものの、露天商では貴族相手に渡りをつけられる方法があるはずもなく、仕方なく金を持っていそうなエリオットに目をつけた、と言ったところか。
そう思案しながらルディアは書きかけの内容に斜線を引く。
メモに修正を加えるルディアの様子が気になったエリオットは、背後から手帳を覗き込むがまるで判読が出来ずに眉根を寄せた。人間語ではないがそれだけではなく、何やら妙に汚い字だ。
蚯蚓がのたくった様な字というのはこういう字を指すのだろう。
「なんだよその文字、読めないじゃないか」
「メモだから私が読めればいいんですよ」
「ルディア、字が汚いんだな」
「急に失礼ですね! 教材の字はちゃんと丁寧に書いてあるでしょうが! 毎日私が作ってるんですよあれ!」
「何が書いてあるんだ?」
「自由ですねこのお坊ちゃんは……商品名と値段ですよ」
そんなものをメモしてどうするんだ、という顔をするエリオットに、ルディアは得意げに言う。
「相場を調べるのはネトゲの基本ですよ」
「ねとげ……? なんだよそれ」
「お坊ちゃまは、品物の相場を知っていたらなんの役に立つと思います?」
「……わからない」
得意げな表情が妙に気に障ったが、エリオットは素直に首を振った。
「たとえばお坊ちゃまが冒険者だったとして、飲み水が足りなくなったり、ランプの油が切れたりしたときに、相場を知らないとぼったくりに遭うかもしれません」
「ルディアを連れてけば飲み水やランプは要らないな」
「なんで私がいる前提なんですか! そりゃ水も灯りも出せますけど! ……じゃあもう、携帯食糧とか、砥石を落としちゃったときとかでいいですよ」
頷くエリオットの斜め上では、ギレーヌも興味深げにふんふんと話を聞いている。
「とにかく、そういうときに相場を知ってると便利です。相場より安く売っているのがわかれば、ここでいつもより多めに買い込んでおこうとかできるわけです」
おお……と感心した表情でエリオットとギレーヌが声を上げる。
それに満足げにルディアが頷いていると、横合いからおそるおそる露天商が声をかけた。
「あのう……商売の邪魔になっちまうんで、青空教室なら別のところでやって貰えませんかね」
「すみません」
ルディア
色を知る年齢かッッッ
あ、違った。
エリオット
っぱ時代は冒険者よ。
ルディ子は迷宮に連れてくと便利そう。