「あっ、エリオットお坊ちゃま! 今日もお勉強、お疲れ様です」
「トリースタ? 今日は随分毛艶がいいな」
「わかりますか? 実はお給料が上がったので、石鹸を変えてみたんです」
「そうなのか。なあ、耳撫でてもいいか?」
「え……それは、構いませんけど……ここでですか?」
「いいだろ、少しだけだから」
「はい……あの、優しくお願いしますね? 午後もお仕事が残ってるので……」
「わかってるよ」
わんわんくうんくうんと艶かしい嬌声が響く現場に興味本位で近づいたルディアは、犬系獣族のメイドの耳と尻尾に両手を這わせていたエリオットを発見した。
「ちょ、ちょっとエリオットさん? いったいそこで何をしてらっしゃるんです?」
困惑しきりといった声に、エリオットは振り返る。
「何って……ちょっと耳と尻尾を撫でさせて貰っているだけだ」
「どこがちょっとなんだ」
ルディアの傍らには、呆れ果てて眉間の皺を揉み解すギレーヌがいる。彼女はルディアを伴ってやってきてしまったことを後悔していた。
獣族の発情期でもないのに、何やら強い発情の匂いがしたから来てみれば、見つかったのは嬌声を上げる犬系の獣族のメイドと、それを撫で回すエリオットの姿であった。
ギレーヌとしては、てっきりサウロスかフィリップあたりがまたメイドを一人お手つきにしたものだと思っていたばかりに、今回のそれは脳の処理限界を超えかねない珍事であった。
「なんだよ。ボレアスは獣族好きだってギレーヌも知ってるだろ」
「それは、そうだが。あたしはてっきりサウロス様かフィリップ様がまたメイドに手を出したのかと……」
「お、お坊ちゃま、そこだめです、尻尾の付け根弱いんですってぇ……あ……っ!」
「あのーとりあえずそれやめません?」
ルディアが艶かしい嬌声を上げ続けるメイドからエリオットを引き剥がし、自分もついでとばかりに犬耳をまさぐった。
解放されたメイドは耳と尻尾しか撫でられていないのにも関わらず、どういうわけか着衣が乱れており、これではどう見ても主人にお手付きにされてしまったメイドそのものだ。
「何するんだ急に。トリースタは恥ずかしがりで、ようやく俺に触らせてくれたのに……」
「エリオットばっかずるいです。独り占めはだめですよ」
へたり込んで息を荒らげていたメイドは乱れた着衣を直すと、真っ赤な顔のまま失礼します、と足速に逃げ去ってしまった。
すん、と鼻を鳴らしたギレーヌは渋い顔をした。
確かにエリオットからは発情の匂いはしない。多少の興奮はあったのだろうがそのくらいだ。とりあえず、『ただ耳と尻尾を撫でさせて貰っていただけ』という主張に嘘はないのだろう。
とすると、この発情の匂いは全てさっきのメイドが撒き散らしたものだということになる。
ぞっとしない話だ。これが事実ならば、エリオットの『よーしよしよし』は獣族にとって色事師の愛撫も同然だということになる。
「ボレアスの中でもお前は比較的まともだと思っていたんだが……」
悪びれもしないのが尚更たちが悪い。なんなら悪いとすら思っていなかった。
忘れかけていたが、そう言えば聞いた覚えはあった。
確か、『
なにより恐ろしいのは、別段今が獣族にとって発情期でも何でもないという点である。エリオットの毒牙にかかったが最後、その気もないのに無理矢理発情させられてしまうのだ。させた本人は手を出すつもりなど全く無いのにも関わらず。
「おや、エリオット。それにギレーヌとルディアも。なにかあったのかい?」
「父上、先程トリースタが……」
本日の成果を報告する同志に、フィリップは相好を崩した。そして悪戯の報告をする悪童の顔で声を潜める。
「お、ついにか。彼女は少し強情なところがあったからね……それで、どうだった?」
「やっぱり尻尾の撫で具合はアドルディアが最高ですね」
「うんうん、わかるとも。あの腰付きは実に犯罪チックだからね。
だが彼女はもう行ってしまったのか……残念だ」
和気藹々とする父子に、変態貴族特有の邪気はない。
やれあいつは耳が弱いだの、誰それの腰つきがどうだっただのと、むしろ言っていることは完全に娼館のレビューをする場末の変態親父だ。
こんなのが世界に名だたるアスラの上級貴族なのか、と最初は思っていたが、ギレーヌはもう慣れていた。流石にまだ一〇歳のエリオットがメイドを良いようにしているのには面食らったが……。
「ルディアは、エリオットのあれを見るのは初めてだったか」
「なんかそれらしいことをしてるってのは聞いてましたよ。まさかあれほどまでとは……うらやま、ごほん、けしからんですねまったく」
思い出すのは、ブエナ村の両親の情事である。
若い男女とはいえ、毎晩毎晩……あれほどではないが、今回のそれは片方が若すぎる。いややっている本人にその気はないのだからセーフなのか?
年若い貴族の少年がメイドを手籠にするのが普通と思えば、耳や尻尾を撫でるくらい健全と言えるかもしれない。
「アスラ貴族はろくでもない性癖ばかりだからな。ボレアスはまだまともなほうだ」
「獣族好きはわりとニッチだとは思いますけどね。もっとやばいのがいるんですか?」
「ああ。あたしもフィリップ様から聞いただけだがな」
とんでもないなアスラ貴族、と呟くルディアに、ギレーヌは疑惑の視線を向けた。
ギレーヌにしてみれば、仲の良いメイドにセクハラをして、にちゃっとした笑みを浮かべているルディアも大概である。
「ちなみにうちの父親は?」
「あの馬鹿は性癖はまともだが、その分性欲に振り切っているだけだ」
「たしかに」
ギレーヌが不機嫌そうにばっさりと切り捨てた。
和気藹々としていた父子の視線が、ギレーヌの耳に向く。
「ところでギレーヌ。ギレーヌの耳もちょっと触らせては……」
「……この流れで何故許可が貰えると思ったんだ」
はあ、と呆れた顔で溜め息をついたギレーヌに、フィリップとエリオットは悄然と肩を落とした。
×××
魔術の授業は順調に進んでいた。
考えられる理由としてはいくつかある。
教師という役割を担う点では、ルディアにはシルフィエットに教えていたノウハウがあったこと。
毎日それなりの時間を、コンスタントに授業時間として確保できたこと。
教え子たち──エリオットとギレーヌが、意欲的に取り組んでいたこと。
とりわけ三つ目は重要だったように思える。
そのおかげか、ギレーヌはこの一年で火属性と水属性の初級魔術を習得し、エリオットは火、水、風、土の四属性の初級魔術を習得するに至った。
そしてさらに朗報である。
ついにエリオットが無詠唱で魔術を発動させることに成功したのである。ルディアとしても無詠唱の授業は惰性で続けていたもので、半ば諦めていただけに驚愕の出来事であった。
もちろん最も喜んだのはエリオット本人である。
興奮して先ほどからひっきりなしに魔術を連発している。手に持つロッドは、先日の誕生日にルディアがプレゼントしたものだ。
無論、ルディアがかつて教えていたシルフィエットのようにとはいかない。
初級魔術ひとつとっても、普通に詠唱した方が早いのではと錯覚するほどには発動に時間がかかるし、一部属性においては魔力制御が上手くいかず、発動までもっていくことができない有様だった。
無詠唱魔術の練習をし始めた年齢が影響しているのか、それとも個人の適性の問題なのかは、事例が少なすぎるため判然としない。
しかし、それでも大きな前進であった。
「あれは……?」
なにかコツはないかとエリオットにせがまれ、手本がてら虚空に魔術を放とうとして──中空に浮かぶ、赤く発光する珠を発見した。
「あの珠が気になるのか?」
不意に背後から声をかけられて振り返ると、遠乗りに出かけるらしいサウロスが立っていた。
「お祖父様! いらしたのですか」
「おうエリオット。励んでいるではないか! 儂は見ていたぞ」
無愛想なエリオットも、サウロスにはよほど気を許すと見えて、年相応の邪気のない笑みを浮かべる。
その頭を無遠慮に撫で回し、サウロスは豪快に笑った。
「サウロス様、あれを知っていたんですか?」
「うむ」
鷹揚に頷いて、サウロスは厳しい顔で中空の赤い珠を睨め付ける。
「なんだか不吉な感じがしますね」
「三年ほど前から浮いておる──が、悪いものでもあるまい」
「どうしてですか?」
「そう考えた方がよいからだ」
「……なるほど?」
「うむ。故に儂はあれによく祈っておるのだ」
手が届かず、何もできない以上憂いても仕方のないことなのだろう。
そういう意味だと受け取って、ルディアはぱんぱんと手を打ち鳴らして拝んだ。
どうか空から可愛い女の子が──できればシルフィエットかロキシーが降ってきますように。
×××
「よし、エリオット。お前は今日から剣神流中級を名乗っていい」
エリオットと乱取りをしていたギレーヌが、おもむろに構えを解いてそう言った。
「本当か!?」
「ああ。むしろ認可を出すのが遅かったくらいだ。上級相手はまだまだだが、同年代でお前の相手ができる奴はそういないだろう」
「そうか……よし、よし!」
中級剣士とは、並の兵士の才能限界とも言われており、一つの指標となっている。つまり今のエリオットは、アスラ王国正規兵と遜色ない戦闘力を保持しているということに他ならない。
なるほど一〇歳にしてそこに行き着いたのだとしたら、エリオットの喜びようも納得がいくものだ。
私は、私は? とルディアは自分に指を差しながら無言でギレーヌに問うたが、すっと目を逸らされた。
肩を落とすが、むしろ当然だ。
そもそもがエリオットとルディアの剣神流の実力差は大きい。それだけではなく、ルディア本人に剣神流の才がないのだ。水神流に向いているのは確かだが、あいにく教師のギレーヌは剣神流以外を修めておらず、水神流を学べる機会はない。
「……よかったですね」
「ああ!」
嫉妬を滲ませて言うも、素直に受け取られてしまった。
気まずげなギレーヌがフォローする。
「魔術師のルディアが剣を振るう機会など、ないに越したことはない。剣神流よりも水神流を学んだ方がいいのは確かだが……そうだな、今度王都に行ったときに、水神流道場を訪ねるのもいいだろう。あたしが付いていってやる」
「ありがとうございます。でも、そんな機会ありますかね?」
首を傾げる。意外にも、それに答えたのはエリオットだった。
「ん。この前のパーティは俺のお披露目みたいなところがあったからな。父上もこれからは俺を連れ回す機会も増えるだろうし、王都に行くことくらいあるんじゃないか?」
「なるほどー」
……。
……!?
驚いてエリオットの顔をまじまじと見ると、エリオットを挟んだ反対側でギレーヌも似たような顔をしていた。
「な、なんだよ」
「い、いえ……」
「お坊も成長しているんだな、とな……」
たじろいだエリオットが、唇をとがらせた。
「俺だって勉強はしてるんだぞ。父上にもいろいろ言い聞かされてるし……」
「なるほど、エリオットは流石ですね!」
正直かなり驚いたが、エリオットが成長したというならば喜ばしいことである。
その褒め言葉をどういう反応をしたものか逡巡したエリオットは、どうやら素直に受け取ることにしたらしく、ふんと鼻息を鳴らして腕を組む。
「仲が良いようで何より。ルディア、今時間はあるかい?」
「あれ、フィリップ様? どうしたんですか、そんなところで」
日中は政務に忙しいはずのフィリップにしては珍しく、剣術の稽古中の三人に声をかけてきた。
やや遠巻きに、中庭への入り口からだ。
「もう稽古も終わりかけですし、時間は大丈夫ですが……」
「そうかい、なら良かった。実は会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人……?」
「よう」
よっと手を上げて出てきたのは、茶髪にライトグリーンの瞳の、鍛えられた身体をしつつもどこか軽薄な印象を受ける男──つまり、パウロであった。
×××
よう、とパウロが声をかけると、ギレーヌと稽古をしていたらしいルディアは、その顔を見てぽかんと口を開けた。
「と、父様?」
「おう、愛しの父さんだぞう」
間抜けな表情に、思わずにやけてしまう。
そんなパウロのにやけ面に郷愁を感じたのか、ルディアは持っていた木剣を放り出し、笑顔を浮かべて走り寄ってくる。
かつてのルディアならしなかったであろう反応に、さしもの娘もこの一年間寂しかったのだろうと思う。
ブエナ村には妻二人と娘二人がいたが、それでも長女のことを忘れたつもりはないのだ。
「父様!」
「ルディ! 会いたかったぞ──ぐふゥッ!」
走り寄ってきたルディアは、両手を広げたパウロの腕の中に飛び込み──勢いそのままに、渾身の頭突きを鳩尾に叩き込んだ。
肺の空気を搾り出したパウロは、苦悶の表情を滲ませて膝をつく。
「ル、ルディ……なにを……」
「寝ている私を簀巻きにして馬車に放り込んだこと、忘れてませんからね」
腹を抱えて蹲ったパウロの後頭部に、冷たい声が投げかけられる。そのまま頭を踏みつけてきても違和感のない声音であった。
「あれは……俺も、お前のためを思って……」
「だとしてももっとやり方ってものがあったでしょう」
「自業自得だね、パウロ」
「フィリップ、てめえ……」
一撃を入れたことで一応の溜飲は下がったのか、ルディアは呻くパウロに向けて、溜息混じりの声をかける。
「まあいいです。一応仕事を紹介してくれたことは感謝してますし」
そう言ってルディアに抱き起こされたパウロは、痛む腹をさすりながら立ち上がった。
「いてて、ちくしょう。我が娘ながらすげえ威力だ」
「相変わらずだな、パウロ」
「おう、ギレーヌか。一年ぶりだな」
「ああ」
鍛えられた浅黒い肌に、アッシュグレイの髪を垂らした長身の女は、以前にパーティを組んでいたギレーヌである。
そこでようやく、パウロはルディアとギレーヌの隣に立つ一〇歳ほどの少年の姿を認識した。
「っつーことは、このガキが……?」
「ああ、うちの次男のエリオットだよ」
フィリップの首肯を受けて、まじまじと観察する。
目が覚めるような、僅かに癖のある深紅の髪と、生意気そうに吊り上げられた琥珀色の瞳。髪はフィリップの妻譲り、瞳はフィリップ譲りだろうか。
こいつが例の山猿か、とばかりに腕を組んで出方を見る。
ルディアに肘でつつかれた少年は何か言いたそうにしながらも、パウロの前で腰を折った。
「エリオット・ボレアス・グレイラットと申します。パウロ殿、お初にお目にかかります」
「……お、おう。はじめまして」
「ルディア……ええと、ご息女にはいつもお世話になっております」
「ほんとですよ。魔術といい、ダンスといい、エリオットはもうちょっと私を労ってくれてもいいんですよ」
さあどんな猛獣っぷりを見せてくれるんだと構えていたばかりに、パウロは出鼻を挫かれて唖然とする。
ちょいと失礼、と断って、フィリップの襟を掴んで引きずっていく。少し離れてから、パウロはフィリップに詰め寄った。
「おいフィリップ、ありゃなんだ」
「うちの子だよ?」
「山猿だって話だったじゃねえか」
「それは昔の話だろう? 今では自慢の息子だよ」
話が違う、とばかりに詰め寄るパウロに、フィリップはどこ吹く風で受け流す。
薄笑いを浮かべるフィリップがどうにも腹立たしい。
「いいじゃないか。少なくとも君の娘に殴りかかるような子じゃないよ」
「そりゃあ、そうみたいだが……」
なるほど確かにあれなら我が子に手を出すこともなさそうだ。だがまた違う懸念も湧いてくる。
娘はお調子者だが、やたらと優秀な上にしたたかだ。
下手な悪ガキのちょっかい程度、苦もなく跳ね返せるだろうし、実際ブエナ村ではそうだった。山猿とやらだって、むしろ手懐けているんじゃないかとすら思っていたほどだ。
が、目の前に出てきた件の山猿は、曲がりなりにも礼を尽くそうとする少年だ。となると話は変わってくる。
ルディアもそろそろ色を覚えはじめる歳。ませているならなおのこと。ブエナ村の悪ガキとはまるで毛色の違う同年代の男子に靡かないとも限らない。
我が子にはまだまだ可愛い長女であって欲しいものだ。
「それで、あー……エリオットだったか」
「はい。なんでしょう、パウロ殿」
「ああ、やめろやめろやめてくれ。畏まられるとうなじがかゆくなるんだ。そうだな、うちの娘に接するような感じでいい」
「ん、そうか……そうですか」
とにもかくにも、まずは人物を見定めるべきである。
どこの馬の骨とも知れんやつに娘はやれん──と言うのはまだ性急すぎるだろう。そもそも身元は知れている。
お前は娘のなんなんだ? と聞けば、生徒ですと答えが返ってくるはずだ。となるとこの問いでもない。
「ううむ……そうだ。エリオット、お前はうちのルディアのことをどう思ってるんだ?」
「なんで父様も母様と同じこと聞いてるんですか!」
百面相をしながら交友関係に探りを入れる父親の、あまりの鬱陶しさにルディアが声を荒らげた。
「やっぱり父様も一日で帰るんですね」
翌日の昼頃、身支度を済ませて門に立ったパウロに、ルディアが声をかけた。
「おう。次に会うのは半年後だな」
「ノルンたちの話も聞きたいし、もう少しいてくれても良いんですよ」
「わりいな。駐在騎士様が何日も村を空けるわけにはいかねえんだ」
そこまで言って、パウロはにやにやと口角を上げて振り向いた。
「なんだルディ。父さんがさっさと帰っちまって寂しいか?」
「あ、やっぱいいです。それではまた半年後」
「そりゃないだろルディ!」
家庭内ヒエラルキーが透けて見える光景に、ギレーヌが呆れたように嘆息する。
「父親とは見苦しいものだな」
「んだとぉギレーヌ」
「パウロ、昼の馬車まではまだ時間があったはずだな?」
「ん? ああ。なんかあんのか?」
「せっかくの機会だ。娘の成長を見てやれ」
投げ渡された木剣を受け取りながら、パウロが訝しげに視線をギレーヌに向ける。
「そりゃ構わねえが……」
「よし。ルディア、遠慮はするなよ」
「遠慮するなって……魔術もありですか?」
「そうだ。全力でな」
「おいおい、まさか本気でやるのか?」
木剣を肩に担いだパウロが信じがたいと言うように声を上げた。それに構わず、ギレーヌはルディアの肩に手を置く。
「お前も強くなっている。あたしとエリオット以外とやってないからわからないだけだ」
「そう……なんですかね?」
励ますように言い含められたルディアは、しばし眉根を寄せたあと、納得して頷いた。
正直な話、自分がそこまで強くなっているという実感はない。確かに剣術の腕は上達しているが、基本戦術は魔術を主軸に据えた中遠距離戦闘だ。なにより剣術面は一緒に稽古をしているエリオットの方が成長率が高く、それが自信を喪失させる一因となっている。
とはいえここで断るのも何か違うだろう。
「わかりました。鬱憤を晴らす機会と思って父様をボコボコにしてやりますよ」
×××
娘と模擬戦をやることになったパウロは困惑していたが、致し方なく木剣を握った。
ブエナ村にいた頃は、掛かり稽古こそしていたが模擬戦はしていなかった。それは愛娘に木剣を振るうことに対する忌避感があったからに他ならない。
これが息子だったなら、容赦なく打ち据えていただろう。自分も殴られて悔しい思いをして成長したものだ。だがいたいけな女の子がそんな経験をする必要があるのかどうか、パウロは甚だ疑問だった。
そんなパウロの内心とは裏腹に、ルディアは模擬戦の話が出た当初こそ及び腰だったが、一度納得して気持ちを切り替えると俄然乗り気になったように見えた。
ルディア本人としても、どうせ負けるんだからやるだけやってやろうというだけなのだが、それを察するだけの観察力をパウロは持ち合わせていなかった。
打倒パウロは成人する十五歳までに、つまり七年以内の達成を目標にしていたが、ここで一当てして現状の力量差を確認してみるのもいいな、とルディアは開き直っていた。
(ルディに木剣を向けるのは気がひけるが……最近そこはかとなく舐められている気がするしな。
ここらで一度、父親の強さってもんを再確認してもらうとするか)
無論ルディアはパウロの強さを疑ってはいない。それはパウロも察している。だがそれはそれとして、父親としての立ち位置というものがある。
家庭内ヒエラルキーの下降に歯止めをかけるためにも、少しばかり怖い思いをしてもらうか、とパウロは木剣を握り直した。
互いに木剣を構えて向かい合う。
彼我の距離は馬車二台分。それなりの腕を持った剣士なら、一息で詰められる距離である。
「よし。──では、はじめ!」
ギレーヌの合図とともに踏み出したパウロは、次の瞬間視界一杯に広がった
(いきなり顔面か──うおッ!?)
二歩目を踏み出そうとしたパウロの足が、地面を踏み抜いた。がくりと姿勢が傾ぎ、粘着質な泥が片足に絡みつく。
最初の水弾は目眩し──足元に展開する混合魔術
パウロは前方に泳いだ体の勢いを殺さず、もう片方の脚を踏み出し、泥沼に突っ込んだ足がより深みに嵌る前に引き抜いた。
脚を取られたところを捉えようと射出された水弾は、動きの鈍らないパウロに目測を誤り、遥か後方に着弾する。
ルディアは下がりながら魔術を放つが、パウロが馳せる速度の方が圧倒的に速い。間合いにルディアを捉え、パウロが木剣を振おうとした刹那、ルディアが両者の間に爆風を発生させた。
ルディアの軽い体は爆風に煽られ吹き飛ばされるように後退するが、対するパウロは身を屈めてその影響を最小限に抑え、ルディアを追う。
想定よりも距離が取れずに、ルディアの表情に焦りが浮かんだ。
なおも距離を詰めるパウロの眼前に、幾本もの
進行の邪魔になるものを切り砕き、再び間合いにルディアを捉えたパウロの木剣が唸りを上げる。もはや爆風を発生させる暇はない。
今度こそ木剣がルディアを捉えるものと確信していたパウロは、それすらもいなされて驚愕の声を上げた。
「──マジか!」
ルディアはパウロが木剣を振り上げた瞬間、その手に向かって咄嗟に突風を放っていたのだ。パウロの剣はその程度で防ぎ得るものではないが、僅かに剣速の落ちた木剣に、自分の木剣を合わせたのである。
木剣を弾き飛ばされながらも危機を脱してのけたルディアに、パウロは冷や汗をかいた。
(これは本気を出さないとマズいか……?)
みたび距離をとったルディアは、叩きつけられる殺気に肝を冷やしながら水弾を連射した。
弾幕の中、回避先を読むように土槍や泥沼が設置されるが、パウロはそれらをいなし、斬り払い、時には四つん這いのような姿勢で駆けながら間隙をすり抜ける。
「犬かなにかですか父様は!」
「気をつけろルディア! パウロは北神流も使うぞ!」
凄まじい速度で肉薄するパウロに、焦ったルディアは判断を誤った。
それまでただの障害物として使用していた土槍を、パウロに向けて放ってしまったのである。パウロは躱しざまにそれを蹴り、その先に設置されていた泥沼を飛び越えるように跳躍した。
「やばっ──えっ?」
ルディアの反応は早かった。
だがパウロの行動はルディアの予想を上回っていた。跳躍したパウロは、手に持つ木剣を空中でルディアに向け擲ったのである。
「あ」
回避も防御も間に合わず、ルディアは回転する木剣に額をしたたかに打ち据えられ、昏倒した。
「じょ、冗談だろ……」
想像を遥かに超える手強さに、パウロは冷や汗をかきながら大きく嘆息した。
見下ろすと、服は水に濡れ泥に汚れ、散々な有様だ。着替えていたら馬車の時間に間に合うかどうか。改めて娘の規格外の才能と、無詠唱魔術の恐ろしさを思い知らされた。
パウロは剣神流、水神流、北神流の三流派を全て上級で修めた規格外の剣士である。その実力はS級冒険者パーティの前衛を務め、聖級剣士と比しても遜色ないほどである。
その己が、ここまで手こずらされた。
《無音の太刀》こそ使わなかったが──二度も近接しておきながら仕留め損ね、あまつさえ本気を出し、北神流まで使わされたのである。並の魔術師なら一息で斬り伏せるパウロをしてだ。
「お前の口添えか? ギレーヌ」
「あたしは何も言っていない」
間違いなくルディアは、一年前よりも遥かに成長していた。型と乱取りしかしてこなかったとはいえ、ブエナ村にいた頃は、瞬間的な判断力もあそこまで高くはなかったし、魔術の精度ももう少し劣っていた。
剣士相手にここまで完璧な対応がとれるとすれば、ギレーヌからのアドバイスがあったに違いない──そうパウロは睨んでいた。
「ほんとかよ」
「毎日模擬戦をしていただけだ。あたしやエリオットとな」
「……」
まるで信じていないパウロに、ギレーヌはルディアを抱き起こしながら否定した。
となれば、日々の稽古の中で対剣士用の戦術を磨き上げていったということだ。あれらの戦術を教授してくれる師もいなかったというのに。
我が子ながら末恐ろしい。
「……いや、待てよ」
パウロは恐ろしい想像に行き着いて、そう呟いた。
ロアに送り出して一年で、己がここまで苦戦するほどに成長したルディア。もう三年もする頃には、自分はルディアに勝てなくなっているのではないか?
否、三年と言わず、一〇歳の誕生日を迎える頃には、あるいは……
「ギレーヌ、俺もそろそろ鍛え直すことにするぜ」
「そうしろ。しばらく見ないうちに多少鈍っていたからな。娘に腕っぷしで負ける父親ほど情けないものはないぞ」
「ぐっ……わぁってるよ」
子が親を超える──そう聞くと感慨深いようにも聞こえるが、父が娘に負ける、となると途端に情けなく聞こえるものである。
なんとしてもそれは阻止しなくてはならない。
少なくとも、遅れをとったとき加齢を言い訳に出来るようになるまでは。
ギレーヌはしばし白けた視線をパウロに向けていたが、やれやれと肩をすくめた。
今作がなんと平均評価9の大台に載ることができました
これも皆様が評価してくださるおかげですね
今後変動する可能性はありますが、それでも感無量です