泥沼の騎士 〜TSルディ子を救いたい〜   作:つばゆき

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卒業

 

 

 

 それはルディアが五歳の誕生日を迎えた時のことだった。

 アスラ王国では、五歳、一〇歳、一五歳の節目の時に盛大に祝い、家族から贈り物をするのが通例なのだという。

 パウロからは護身用の短剣と髪飾りを、ゼニスからは辞典を贈られ、この世界で五年を過ごしたという感慨に浸っていた。

 そしてロキシーから初級魔術師の証として杖を贈られて、感激に身を震わせていたルディアにとってはその言葉は正に晴天の霹靂であった。

 

「ルディ。──明日、卒業試験を行います」

 

 唐突に向けられたその言葉を飲み込めず、ルディアは途方に暮れたような顔をするしかなかった。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 部屋の窓から外を眺めるたびに思い出していた。

 それは庭に出て敷地の外を眺めるようになってからも変わることはなかった。

 自分の知る世界の外──家と家族に守られた結界の外を眺めれば、その記憶はすぐにも脳裏に蘇る。

 体感で二〇年近く経過し、当時の記憶は風化し輪郭を失ったが、かつて向けられた悪意の視線だけは鮮明なまま、色褪せることなくルディアを苛んできた。

 

 溜息をつけば、唇が恐怖にわなないていることに気が付いた。じっとりと手に滲んだ汗を衣服で拭う。気を抜けばそのまま蹲ってしまいそうだった。

 

 前世で全てが狂ったのは高校の頃だ。

 優秀な父や兄に比べ、次男の自分はせいぜいが並程度の頭の出来だった。

 コミュニケーション能力はお世辞にも高いとは言えなかったため学校でもカーストは下の方だったが、別段腐らず、かといって見返してやろうと奮起するわけでもなく日々を送っていたのだ。

 

 親の期待は兄や弟に向かっていた。

 そのことに不満はなかった。

 割と自由にさせて貰っていたという自覚はあった。

 中学時代はそこそこの成績だったが、パソコンにかまけるあまり、受験期には成績は壊滅的になっていた。おかげさまで通うのは県内有数のFラン高。少しばかり後悔はしたが、それでも自身の選民意識を拭うには至らず、更なる黒歴史を作った。

 高校自体には危なげなく合格したが、通い始めてから少しだけ後悔した。クラスにたむろする、自分の苦手な陽キャ──リア充たち。ガラの悪い人間はどこにでもいるが、もう少し真面目に勉強して、そういった類の少ない進学校に進めばよかったと遅まきながら思った。

 

 きっかけは購買で昼飯を昼食を買おうとしたときだ。

 高校でも特にガラの悪い連中が横入りをしてきて、黙っていればいいのにわざわざ文句を言ったのだ。

 すぐにそいつらに目をつけられた。

 放課後にそいつらに絡まれて、散々に殴られたあと服を剥かれた。そしてそのガラの悪い連中は校門に磔にしたのだ。

 そのとき撮られた写真は彼らの短慮により、いとも容易く校内にばら撒かれた。

 あるいは写真がばら撒かれなければ、それをネタに脅されて奴隷にでもされていたかもしれないが。

 その短慮のツケは、奴らが犯罪者として裁かれることで支払われた。だが、それでこちらの心の傷が癒えるはずもない。

 高校は退学した。

 人間不信となって、当然の如く引きこもった。

 

 外を出歩けなくなった。

 人と会話ができなくなった。

 家と近い高校を選んだことが仇となり、近所の人も事のあらましを知っていた。

 

 最初の数年は誰も責めなかった。

 心理カウンセリングを受け続けた甲斐もあって五年が経つ頃には人間不信は改善されたが、五年と言う時間は世間から自分を置き去りにするには十分すぎる長さだった。

 社会復帰できず引き篭もりを続ける自分に父と兄は、勇気を出せだの、頑張れだの言い始めた。

 苦痛だった。

 引き篭もりが五年から一〇年に延びる頃には、擁護の意見は減り責めるような視線が増えた。一〇年の間に人間性は腐りきっていた。

 二次元にのめり込み、ギャルゲやエロゲに手を出し、ネトゲに課金をして日々を過ごしていた。

 母だけは甘かった。

 甘やかしてくれた。

 嬉しかったが、煩わしくもあった。

 

 ずっと後悔はしていたのだ。

 だが言い訳ばかりしていた。

 両親が死んだあとも葬式にすら出なかった。

 堪忍袋の緒が切れた兄や弟たちと言い争いになり、殴られ、パソコンを破壊されて家から放り出された。

 

 引きこもりのクズニートには、当然のように行くあても働く伝手もなかった。

 雨脚を強める街の中、ずぶ濡れのスウェットを着たままあてどなく彷徨い──

 そしてトラックに轢かれてその生涯にあっさりと幕を下ろしたのだ。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 恐怖は鉛のように、ルディアの両足を縛っていた。

 

 卒業試験は外でやる、というロキシーの言葉を聴いてから、ルディアは一睡もできなかった。

 それはロキシーとの別離に対する抵抗であり、なにより外界に対する拭い難い恐怖であった。

 

 理性では、あのときとは違うということを理解している。

 

 奮起したはずだ。

 この世界に転生して、新たな環境と新たな家族を得て、今度こそ己に恥じない一生を──本気で生きてみよう、と決意したのだ。

 だのに、両足は地に縫い付けられたかのように動かない。頭にも重石が載せられてしまったかのように、目線すら下がっていた。

 

 幾度か、家の外に出ようとした事はあった。

 無意識のうちに避けていた思考を見つめ直し、今まで逃げていたことに、これ以上背を向けるのはやめようと、柄にもなく前向きになった。

 自分は変わったのだと、新生したのだと。

 ルディア・グレイラットとして過去と決別しようとした事もあった。

 だがその思考も、家の外に出て、塀の切れ目に手をかけた瞬間に崩れていった。まるで、塀に手をかけたところから凍りつき、そこからじわじわと恐怖に侵食されていくかのような錯覚。

 

 今だってそうだ。

 どれほど自分に言い聞かせても、心の中でいくら奮起しても、決意に体がついてこないのだ。

 

 叶うならば──ここの陽だまりのような敷地の中で、外の厳しさなんて知らずずっと過ごしていたい。

 耳触りの良い言葉を吐いて無理をして傷つくくらいなら、外の世界なんて知らなくていい。

 心の底で小さく縛り付けていた本音を少し認めてやれば、弱音は幾らでも漏れてくる。

 

 結局のところ、本質はなにも変わっていないのだ。

 暗い部屋の中で殻を被ったまま、肥大化した自意識を抱えて蹲っていたあの頃と。

 

 

 

 俯いたまま一歩も動こうとしないルディアに、ロキシーは怪訝そうな顔を向けた。

 

「どうしたんですか?」

「あの……その、師匠。本当に外でやるんですか?」

「はい、村の外です。パウロさんにカラヴァッジョも貸してもらいましたし」

「家の中ではできませんか……?」

「できません」

「……うぅ」

 

 プレゼントした小さなロッドを握りしめたまま動かないルディアの顔をロキシーが覗き込む。

 理知的で爛漫な常とは違う、強張った表情。

 その理由に心当たりがなく、首を傾げる。

 

「魔物が怖いんですか?」

「いえ……」

「ここらでは森に近づかなければ出てこないですし、居ても弱いですよ。ていうかルディでも倒せます」

 

 渋るルディに怪訝そうな顔をしていたロキシーだが、ここにきてパウロたちから聞かされていたことに思い当たると、微笑ましいものを見るような表情でふっと笑った。

 

「ルディ、そういえばあなた、外に出たことがないって聞きましたが」

「はい……」

「さては怖いんですね? 馬が」

「へ? いえ、馬は別に怖くはないです……よ?」

 

 ロキシーはその反応にははぁんと言いたげな表情で笑うと、ルディアの背後にするりと回り、脇に手を入れて持ち上げて肩車してしまった。

 

「ほいっと」

「うえっ!? し、師匠っ?」

「ルディにも子供っぽいところはあるんですね。すこし安心しました。でも大丈夫です、カラヴァッジョは大人しい子ですよ」

 

 ほい、という掛け声とともに待機していた芦毛の馬に載せられ、ルディアは観念した。

 抵抗しなかった理由には諦観もあった。

 一人では──自力では踏み出せなかったことに対する諦念。だからロキシーに体を預けた。

 彼女の期待に応えたいという気持ちもあった。導いて貰ったぶん信じてみようと。

 だから体の震えを抑えつけ身を任せる。

 ルディアの後ろに乗ったロキシーが、カラヴァッジョの腹をとん、と軽く蹴った。

 カラヴァッジョはぶるりと小さく嘶くと、承知したとばかりにかぽかぽと歩き出す。

 

「あ……」

 

 あんなに遠く、恐ろしかった外の世界。

 手綱を握るロキシーの袖を、無意識のうちに握りしめる。

 そんなルディアの内心をまるで斟酌することなく、二人を乗せたカラヴァッジョはあっさりと敷地から出ていた。

 

 

 

 馬の背にルディアを載せたまま、ロキシーは村の中をゆっくりと回り始めた。

 家の中と、窓から眺める視界が世界の全てだったルディアにとっては全てが未知の世界だった。

 右を見ても、左を見ても小麦畑が広がっている。

 その奥に在るのは野菜を栽培している畑だろうか。他にもパティルスとかいった綺麗な花を栽培していると聴いたことがあった。

 自分の住む村のことなのに、なにも知らなかったのだと改めて思い知る。

 馬の背に揺られ、いつもと違う高い視点で見る光景は新鮮だった。

 外もそんなに悪くないのかな、と思ったとき。

 ルディアの視界の奥で人影が揺れた。

 それはどんどん大きくなり、近づいてくる。

 道をすれ違う形で、農夫と思しき人影が鍬や鋤を持って歩み寄ってきた。

 

 大丈夫だ。

 こんな村に、自分を馬鹿にする者なんていない。悪意を持つ奴もいやしない。

 そう自分に言い聞かせる。だのに──

 

 ルディアの総身をぶるりと震えが走った。

 村人二人の視線が、無遠慮にルディアに向けられる。

 その瞬間、思わず顔を伏せた。

 息が荒い。

 唇が乾燥してかさついている。

 気付けば背中にじっとりと脂汗をかいていた。

 

 見るなよ。

 こっちを向くな──

 

「こんにちは」

「ああロキシーちゃん、こんにちは」

(……えっ?)

 

 ルディアはおそるおそる顔を上げた。

 前には誰もいない。

 振り返ると、先ほどロキシーに挨拶した農夫たちが去っていくところだった。

 見上げると、ロキシーが穏やかな顔で微笑んでいた。

 

 そのあと何度か農作業をする大人や村を駆け回る子供とすれ違った。そのたび彼らはロキシーに声をかけ、ロキシーもまた笑顔で応じた。

 

「ロキシーちゃん、この前は助かったぜ。また旱魃(かんばつ)がきたら、そんときはもっかい雨頼むよ」

「ええ、お安い御用ですよ」

 

「ロキシーちゃん、さっきいいお野菜とれたのよ。パウロさんのとこに持ってって」

「いいんですか? ありがとうございます、ゼニスさんも喜ぶと思いますよ」

 

 村人たちの笑顔に邪気はない。

 余所者を見る目ではなかった。それは彼女を既に村の一員だと認めている証だった。

 苦労はあったろう。

 アスラ王国ではミリス神聖国ほどではないにせよ、魔族に対する偏見は未だ根強い。ましてや村という閉鎖的なコミュニティでは尚更だ。

 胡乱なものを見る目で見られただろう。心無い言葉を吐かれたかもしれない。

 だのにロキシーは折れず、腐ることなく彼らと向き合った。彼女は、ルディアが家の中に篭っていた二年の間に村の中での立場を確立させていたのだ。

 それはきっと、彼女の心が強かったからだ。

 かつてルディアが心折れたその視線を、ロキシーは受け止め、乗り越えた。

 

 それを理解すると、ルディアは自分を抱えるこの中学生くらいの背丈の少女が、急に頼もしく感じられた。

 そしていつのまにか、体の奥底に蟠っていた恐怖が薄れている事に気がついた。

 

 強張っていた体の力を抜くと、背後のロキシーに体重を預ける。彼女の体温が背中に心地よい。

 

「──もう怖くありませんか?」

 

 ロキシーの声はひどく優しかった。

 泣き疲れた子供をあやすような声だった。

 思わず涙ぐみそうになりながら、控えめな胸に押しつけた後頭部から彼女の鼓動を感じ取る。

 視線を上げると、吸い込まれるような蒼い瞳がこちらを見下ろしている。

 

「もう大丈夫です」

「……ふふ、そうですか。ほら、大丈夫だと言ったでしょう?」

 

 ロキシーは見上げてくるエメラルドグリーンの瞳に、もう恐怖の色が無いことを悟ると騎首を巡らせた。

 

「カラヴァッジョが上機嫌です。ルディを乗せられて嬉しいみたいですよ」

 

 賢い馬だ。

 この馬も特段名馬というわけではないが、人の心の機微に聡い。世話こそしていたが、実際に乗るのはこれが初めてだ。確かにいつもよりも足取りが軽いように見える。

 たてがみを撫でると、ぴんと立っていた耳がぱたぱたと揺れた。それが可笑しくて小さく笑ってしまう。

 パウロが溺愛する気持ちもわかる気がした。

 

 それからロキシーとルディアは一通り村を回った。

 不思議と沈黙は苦にならなかった。カラヴァッジョの背で揺られながら、ずっと互いの体温を感じていた。

 時折思い出したように他愛のない話題に花を咲かせ、すれ違う村人と挨拶を交わす。

 カラヴァッジョが歩を進めるにつれ、景色は移り変わっていく。

 家屋がちらほらと見えていた村から、一面の小麦畑と野菜畑に。そしてそれらが途切れ、風のそよぐ草原へと。

 

 卒業試験。

 昨夜語られたその言葉を噛み締める。

 

 ブエナ村で共に過ごした二年間余り。

 ロキシーは多くのことを教えてくれた。

 魔術を。知識を。心構えを。

 そしてなにより、一歩を踏み出す勇気を。

 

 彼女には感謝してもしたりない。

 閉じ切っていたルディアの世界を広げてくれたのは他でもないロキシーだった。

 一日教えを受けるたび、視界がひらけていくかのようだった。

 彼女は真摯だった。だから懸命に応えようと思った。

 かけがえのない二年間だった。

 背中のロキシーも同じことを考えてくれていたらいいなと、そう思った。

 

 ロキシーが馬をとめた。

 馬に一時間は揺られただろうか、見渡す限りの草原地帯だった。後方の村も遥かに遠い。

 

「このあたりでいいでしょう」

 

 ロキシーはカラヴァッジョの手綱をぽつねんと一本立っている木に結わえた。

 そしてルディアと視線を合わせる。

 

「これから私は水聖級魔術《豪雷積層雲(キュムロニンバス)》を使います。私がブエナ村からここまで離れた理由がわかりますか?」

「聖級以上は秘伝だから……とかですか?」

 

 首を傾げて応えると、ロキシーは小さく首を振った。

 

「違います。これから使う魔術は、規模が大きすぎて周辺に被害が出るからです。一分ほど実演しますので、真似して使ってみてください。

 ──いきますよ」

 

 ロキシーはおもむろに、手にとる杖を掲げた。

 他のどの得物よりも手に馴染むそれに魔力を注ぎ込みながら、詠唱を紡ぐ。

 それは今まで使っていたどのような上級魔術よりも長く、精緻で、文言の節々に力を感じさせるものだ。

 

「師匠……」

 

 ルディアにとって、これほどまでに真剣な表情で魔術行使に臨む師は初めてだった。

 その集中の度合いを感じ取り、固唾を飲んで見守る。

 

 詠唱が完成していくにつれ、風がそよぐだけだった草原に、にわかに暴風の兆候が現れ始める。大気がうねり、漂っていた雲が色を変え、形を変える。

 それは世界の連環の中に閉じ込められていたはずの自然現象が、魔力と魔術という超常現象によって捻じ曲げられていることの証左だ。

 時間にして一分以上。ロキシーの集中具合、乱舞する魔力の密度を思えば、ルディアからすればその数倍の長さにすら感ぜられた。

 そして今、杖に法外の魔力を注ぎ込んだロキシーが、決然とした表情と共に、秘匿されし秘蹟の文言を紡ぎ上げる。

 

「──豪雷積層雲(キュムロニンバス)!!」

 

 詠唱の完成と共に、杖に注ぎ込まれていた魔力が奔った。ルディアにはそう見えた。

 世界が暗転する。

 白く揺蕩っていた雲が黒く不吉な色に濁り、その体積を肥大化させ、渦を巻くようにうねりながら集まっていく。

 降り注いでいた陽光が遮られ、暴風が吹き荒れる。

 立っていることすらままならない風の暴威に膝をおり、体勢を低くすることで難を逃れる。

 世界が変容したのはほんの数秒の間の出来事だった。

 一瞬ののち、叩きつけるような豪雨が降り始めた。

 もはや雷雲は視界すべてを覆ってなお余りあるほどに成長を遂げていた。黒々と不吉な色に変化したそれは、ばちばちと弾けるような音と共に雷光を孕み──稲光が奔った。

 耳を聾する雷鳴。眩いほどの閃光が大気を切り裂いて、木に落ちる。

 

「──うあぁっ!」

 

 落雷は思ったよりも近かった。

 視覚と聴覚に叩きつけられた閃光と大音響に、ルディアは耳を抑えながらたまらず転倒する。

 

「えっ? ルディ、大丈夫ですか? ──ああっ!」

 

 雷雲を散らして駆けつけたロキシーがルディアを助け起こし、そして声を上げた。

 その視線の先を追う。

 真っ二つに裂け煙を上げる木と、その下で身を横たえ痙攣させるカラヴァッジョ。

 

「あわ、あわわわ……」

 

 顔を真っ青にしたロキシーが、慌てて駆け寄って詠唱する。

 

「母なる慈愛の女神よ、彼の者の傷を塞ぎ、健やかなる体を取り戻さん──エクスヒーリング!」

 

 何度か慌てた様子で中級治癒魔術をかけられた馬が蘇る。その様子にロキシーとルディアは安堵の息をついた。

 いかな治癒魔術とはいえ、即死してしまってはどうしようもない。ましてやカラヴァッジョは家に一頭しかない馬である。

 

「あ、危ないところでした……。あの、ルディ、このことは内緒でおねがいしますね……」

「わかりました。言ったりしませんから」

「うう……お願いします」

 

 特大のうっかりをやらかしたロキシーは涙目だった。

 かわいい。嫁に欲しい。もはや女同士でも構わないのでは……?

 

 怯えたような表情を浮かべる馬の手綱を引いて、ロキシーは木から離れると、咳払いをした。

 

「……んん、ではやってみてください。カラヴァッジョは私が守っておきます」

 

 ロキシーが手綱を引いたまま詠唱すると、彼女の周囲の土が盛り上がり、小さなドームを形成する。

 急に閉じ込められて悲鳴を上げるカラヴァッジョを抑えながら、ロキシーはびし、と空を指差した。

 ああ、馬にさらなるトラウマが植え付けられていく……南無三、と手を合わせ、ルディアは昨日ロキシーに贈られたロッドを取り出した。

 

「雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!

 我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を見せつけよ!」

 

 先ほどロキシーが詠唱した呪言──それを一字一句違わずなぞりながら、魔力をロッドに込め始める。

 彼女の教えを受けた二年間の集大成。

 一言一言を紡ぐたび、彼女との記憶が脳裏に蘇る。

 家庭教師の募集を見て来てくれた彼女との出会い。魔術の実技のほかに、夜には部屋で歴史やその他の講義もしてくれた。毎日、次の日の授業の準備をして、空いた時間に談笑に花を咲かせた。セクハラ紛いのスキンシップや口説き文句にも、たまに叱られたが──笑顔で、あるいは照れに頬を染めて応じてくれた。

 初めて無詠唱魔術を使ったとき、ロキシーの頬が少しだけ引き攣っていた。夜に部屋を覗くと無詠唱魔術の練習をし、やはりできないとため息をついていた。

 彼女の努力を知っていた。

 彼女の劣等感を知っていた。

 彼女の物腰を、仕草を、性格を知っていた。

 その全てを知った上で、好ましいと、もっとそばにいて欲しいと思った。

 

「神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽くせ!

 ああ、雨よ! 全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ!」

 

 詠唱をなおも続ける。

 少しだけ──ほんの少しだけ迷った。

 彼女はこれを卒業試験だと言った。ならば、合格しなければ彼女はもう少し家にいてくれるのではないかと。

 ミスを装って魔力の供給を切れば、今にも集積を続ける雷雲は霧散するだろう。そうすればロキシーとの別離に、今少しだけ猶予ができる。

 その誘惑を振り切って続ける。

 もし合格できなくても、彼女はルディアを責めるまい。何も言わずに「では、後日またやり直しですね」と苦笑いで応じてくれるかもしれない。

 だがそれではだめなのだ。

 別離のときはいずれ必ずやってくる。免れることはできないのだ。ならば、彼女と過ごした日々の中で、ただの一つでも胸を張れぬものがあってはならない。

 いつか笑顔で再会をするために、この輝かしい記憶の中に一片の瑕疵も残してはならないのだ。

 だからこそ──

 

「──豪雷積層雲(キュムロニンバス)!!」

 

 詠唱が完成した。

 なおも魔力を注ぐ。精緻に。緻密に。大胆に。

 成長した黒々とした雷雲は、ルディアの魔力とその制御によって天空を覆い尽くした。

 それは離れたブエナ村からもなお巨大に見えたという。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 翌日、ロキシーは早々に荷物をまとめると玄関に立った。

 パウロやゼニスに別れを惜しまれながら、外に出る。ルディアはその背を追いかけて家の敷地の外に立った。

 外はもう怖くない。

 昨日ロキシーに教えてもらったことだ。

 

「その、師匠……」

 

 何を言ったらいいのかわからず、ルディアは口淀む。

 

「これを、あなたに渡しておきます」

 

 ロキシーは懐からペンダントを取り出すと、ルディアに握らせた。三つの槍が絡み合う、深藍のそれをまじまじと見つめる。

 

「これは……」

「ミグルド族の御守りです。卒業祝いを準備する時間が無かったので、こんなものしか渡せませんが……」

「大切にします」

 

 そうしてください、とロキシーはルディアの頭を撫でた。

 その優しい手つきに、温もりに視界が滲む。

 

「師匠……」

「ルディ、ではさよならです」

「師匠!」

 

 澎湃と頬を涙がつたう。

 その熱さに自分自身で驚きながら、ルディアはロキシーを呼び止めた。

 

「また、会えますよね」

「……はい。また、いずれ」

 

 よく見ると、ロキシーの目尻にも僅かに涙が溜まっていた。それを拭うと、ロキシーは背を向けて今度こそ旅立っていった。

 ルディアは泣きながら、いつまでもその背中を見つめていた。

 貰ったペンダントを両手で握りしめて、ロキシーがみえなくなるまで、ずっと。

 

 

 

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