前回の反響が凄まじく、わりと驚いています。
みんなルディ子が酷い目に遭うのが好きなんですね
冷ややかな空気に満ちた闇の中、ルディアの意識は覚醒した。
身じろぎをしようともままならなず、闇と相まって数瞬ルディアは、それが未だ夢の中であるのかと錯覚した。だが素肌に突き刺さる板材のささくれと、ただ陽の差さぬ夜であるという以外には説明のつかない肌寒さが、これが夢ではないのだということを突きつける。
素肌──そう、ルディアは今、裸に剥かれ、牢に転がされているのだ。
「んむ……」
口に枷が付けられている。
声を上げようとしても、漏れ出るのは呻き声だけだ。
身を転がして、状況の把握に努める。両手両足がロープに戒められ、まともに身動きがとれない。口枷を咥えさせられ、雁字搦めにされたルディアは、冷えた檻の中に放置されている。
己を寄ってたかって押さえつけ、服を剥いた男たちは、今は見える範囲には居ない。だがそれは安堵をもたらすことはなく、むしろ来たる尋問に対する漠然とした恐怖を与えるだけだった。
(くそう……なんで、俺がこんな目に……)
己を襲った理不尽に、遣り場のない怒りが湧いてくる。スペルド族の汚名返上という、こちらなりの目的意識があったとはいえ、それでも義憤に駆られての行動に仇で返されたようなものなのだ。
まずは、己を縛めるロープを焼き切ろうとして……魔術が発動せずに瞠目する。
(え……? な、なんで)
再度魔術を練るも──発動させようとした魔力が体内で蓋をされているかのような、不快な感覚に阻まれて終わる。蟠り滞る魔力が、行き場を失って逆流している。
なにか、そういった魔術師の魔術を阻害するような薬品を投与されたのかもしれない。口枷のみで十分とされていないのがその証左だろう。
(どうして……? 無詠唱魔術を見られたから……?)
ここにきて、僅かな後悔が滲む。
魔術を封じるなど、周囲にそれらしい魔法陣などは見られなかった。あれば、聖獣が囚われていた部屋のように仄かに発光していただろう。
だが、あの状況では全力で抗う他に処方はなかった。今にして思えば、群がる戦士たちに獣欲は無く、確かな規律があったかのように感じられたが、それでもあそこで無抵抗など考えられない。
こちらの言い分をまるで聞かず、力任せに押さえつけられ、服を破り捨てられて──
「ふっ……ふっ……!」
その情景がフラッシュバックし、恐怖が押し寄せてくる。動悸のように鼓動が早まり、浅い呼吸を繰り返した。
衣服を剥がされ、牢に放り込まれる──虜囚になるというのは、己の正義を信ずる者からすれば、多少の不安を覚えようが然程恐れるものではない。男であれば尚更に、裸に剥かれることは羞恥を感じるのみで、扱いの不当さに怒りを感じこそすれ、恐怖を感じる必要はない。
だのに──押し寄せてくる恐怖は留まることを知らなかった。女の体であるというだけで、先ほど己を襲った暴力が、これからこの身に降り注ぐかもしれない災いが、こんなにも恐ろしい。
(くそ……)
今の己はどうしようもないほどに無力だ。
魔術もなく、得物もなければ、己など剣術を多少齧っただけの非力な少女に過ぎないのだ。
A級冒険者として、強力な魔術師として塗り固められていたはずの己の本質が、抗いようのない力によって暴かれている。抵抗できない。これから身を襲う理不尽に、ただ身を震わせる他に処方のないという事実が、どうしようもなく恐ろしいのだ。
「ふぐっ……ぅ……っ!」
目尻が熱くなり、視界が滲んだ。涙が溢れる前に瞼をきつく閉じて堪える。
泣いてはいけない。泣いてしまったら、嗚咽を堪える自信がない。
(泣くもんか……)
まだ耐えられる。前はもっと辛かったはずだ。
周囲の静寂が耳に沁みた。
節目の荒いロープが素肌に食い込み、擦れて痛みを発している。
闇の中、地面に這いながら、ルディアは己の無力さを噛み締めた。
×××
数日経っても、ルディアの抗弁が看守に聞き入れられることはなかった。
冤罪であると、密輸組織との関係もないと訴えた。しかしルディアの主張に看守は耳を貸さず、憎々しげに顔を歪め、頬を張った。
面と向かって侮蔑の言葉を吐かれ、桶に入った冷水を浴びせかけられる。
獣族は全裸に剥かれ、冷水をかけられることを何よりの屈辱と感じ、忌み嫌うのだという。後者はともかく、今の所前者は覿面に効いている。
俯いて、己の境遇を噛み締める。
痛いほどに冷たい水が体に沁み、栗色の髪からぽたぽたと水滴を垂らした。
(惨めだ──)
ぶるぶると頭を振って、少しでも水気を飛ばす。
服を剥かれ後手に縛られ、文字通りの濡れ鼠とされて、これがアスラの上級貴族の血を引く少女だと、誰が信じるだろうか。
ただ、肌を見られただけだと、水をかけられただけだと、そう内心で笑い飛ばし、誤解が解けるのを待つには、先日受けた狼藉がルディアの心に刻んだものはあまりにも大きかった。
魔術が使えなければ、濡れた体を乾かすことも、寒さから身を守ることもままならない。季節は冬ではないが、既に秋口に入り始めているのだ。夜は冷える。
このままでは凍傷を起こすかもしれない。
幸いにして食事は与えられていた。
口枷を外され、流動食のようなものを、半ば無理やりに口腔に流し込まれる。水もまた同様に。
喉に詰まらせ吐き戻すと、怒声と容赦のない打擲が襲った。口の中を切っても、治すこともできない。再び口枷を噛ませられれば、詠唱すらできなくなる。
(……はは)
乾いた笑いが浮かんできて、口枷に阻まれ消える。
いくらなんでも、やりすぎだ。
SMプレイを強要するにしても、彼らは初心者に対する手心というものを弁えていなさ過ぎる。
貞操の危機はないということと、ひとまず命は保証されているという状況は、辛うじてルディアに自嘲するだけの余裕を与えていた。
(……まったく。懐かしいね。こんなふうに見せ物にされるなんて。三〇年振りかな……)
瞼をきつく閉じ、濡れた板材に額を擦り付ける。
エリオットたちとは合流の場所と算段はつけていたが、こちらから放り出した形となってしまった。ギュエスと一緒にいた老戦士が後を追ったのならば、ザントポートで既に合流し、ルディアの誤解も解けているはずだ。
子供達の親を探すのに手間取っているのだろうか。だとしても獣族は伝令の一つでも出して、ルディアの境遇の改善を図ってもいいはずだ。
全てが終わって、エリオットやルイジェルドと合流できるまで、どれほどの時間がかかるだろうか。
三日か? それとも四日か。あるいは一週間経っても待遇は変わらないのではないか。それに己は耐えられるのか?
(は、は……冗談じゃない……)
牢には申し訳程度の木のベッドと穴の空いた薄い毛布があったが、両手両足を縛られていれば這ってそこに辿り着くことすら困難だ。今のルディアには、身を転がして空想に浸る以上の自由も許されていない。
冷水が、濡れた体から体温を奪っていく。
体の芯まで冷やすような寒さに震えながら、ルディアは膝を丸めて蹲った。
×××
葉の隙間から差した曙光が、きつく閉じていた瞼を照らした。
「ぅぅ……」
唸り声は、眩しさにではなく、痛みに対してのものだ。
昨夜は、一段と冷えた。
集落の牢には、暖房器具などといった気の利いたものもなければ、夜風を防ぐ壁もありはしない。
突き刺すような痛みに微睡むことすら出来ず、ルディアは歯をかちかちと打ち鳴らしながら震えることしか出来なかった。
(寒い、痛い……! あいつら、容赦なく冷水を浴びせやがって……!)
ルディアのつま先は、赤黒く腫れて、痛々しさすら感じる有様だった。紛れもない凍傷の症状である。後手に縛られているため彼女には見えないが、両手の指先も同様の症状に見舞われていた。
それは集落の夜が特別冷えたというだけではない。食事の度にルディアに冷水を浴びせかけ、体温を奪っていること、そしてきつく縛り上げたロープによって、体の末端に対する血流を悪化させていることが要因だった。
(こんなの、魔術が使えれば、すぐに……!)
体に蟠る霊薬の影響がなければ、このような寒さなどなんとでもなるはずだった。風呂にも入れない不衛生な状態も温水を出せれば改善できる。なんとなれば看守を人質にとって脱出すら見込めただろう。
だが現実は非情で、込めた魔力は制御すらままならず、霧散して消えていく。
日が差して気温が僅かにでも上昇したことで、症状は改善されるかと思われたが、赤黒く腫れた患部は一向に回復の兆しを見せない。それどころか、血流が良くなったことで痛みは増し、激痛となってルディアの神経を襲う。
(いたい……。くそ、いたい……!)
痛みに歯を食いしばる。
指先が床材に触れている感覚はまるでないのに、痛みだけを絶え間なく送ってくる。
その日も容赦なく冷水を浴びせられそうになり、ルディアは訴えた。
「水は……やめてください。手が、指が痛いんです。凍傷を起こしていて──」
それはもはや泣訴に近かった。
激痛に耐えかねての懇願だった。
ルディアが口を開けるのは、食事の際に口枷を外されるタイミングしかない。流動食に近いそれを、顎を掴み無理やりに流し込んだ看守は、咳き込みながらのルディアの泣訴に顔を歪めた。
「何を言い出すかと思えば……聖獣様に不貞を働いた貴様の事情を、何故我々が慮ってやらねばならん?」
「だから、それも冤罪で……」
「飯をくれてやっているだけでもありがたいと思え!」
「うぶっ……!」
罵声と共に容赦なく冷水が浴びせかけられ、歯を食いしばって耐える。
看守はルディアの状態になどまるで頓着しなかった。
信仰の篤い地域では、神前に供えられた食物に手を付けた罪人は、手を切り落とされることすらあるという。
獣族にとっての聖獣とは、すなわち獣神に次ぐ信仰の対象である。既に集落内でそれを穢したと噂されていたルディアには、毛ほどの慈悲も持ち合わせてはいなかった。
戦士長からの下知により、己たちで手を下すことはない。だが牢の中でどのような状態になったとしても、関知する気もない。
「おい、あれを持ってこい」
「……!」
思わず、引き攣ったような声が喉から漏れる。
看守の声に促されて、獣族の男が牢に入ってくる。彼が携えているのはすっかり馴染みのある小瓶──魔術殺しの霊薬である。
あれは──嫌だ。魔術を封じられ、己の無力さを突きつけられているようで、どうにも耐え難い。
「放せ……やめろっ! それはっ!」
「抵抗するな! 大人しく飲め……!」
「んぐぅッ!?」
ここにきて、ルディアは初めて声を荒らげた。しかし冷え切った体では抵抗すら虚しい。
無理やりに口を開かされ、突き込まれた小瓶から流れる霊薬をなす術もなく受け入れる。霊薬は胃の腑に落ちた先から灼熱感をもたらし、苦悶のあまり身を捩る。
「うぐ、ぅぅ……!」
「ふん……今が雨季の前で良かったな。我々の発情期に入ったなら、集落の若い戦士にでも嬲らせているところだ」
看守の声も、何処か遠い。
もはや怒りも湧いてこない。
ルイジェルドなら、自分の境遇に怒ってくれるだろうか。エリオットなら、心配してくれるだろうか。
水溜まりに転がり、力無く項垂れながら、ルディアは口枷を噛み締めた。
×××
屈強な戦士二人に物理的に脇を固められ、牢に蹴り込まれた猿顔の魔族は、まず最初に己の扱いに対し不平を愚痴り、次いで先客の存在に気付いたのか向き直った。
「畜生! もっと丁寧に扱いやがれ!」
その男は、先客──ルディアを見るや驚愕に目を見開いた。
それも無理からぬことである。全裸の少女が、冷え切った全身から水を滴らせ、両手を両足を節目の荒いロープに戒められて、床に転がされているのだから。
(あ……)
自身の境遇について半ば以上に諦観を抱いていたルディアは、予期せぬ闖入者に硬直し、はっきりと怯えの入った視線を向けた。
ルームメイトが増えたなどと、そんな呑気なことを言っている場合ではないことは瞭然だった。
抵抗など出来るはずがない。
魔術は使えず、身体の自由も効かない。否、これだけ体が凍え、冷え切っていれば、この縛めがなくともまともに動けはしない。
「ぐっ……ぅ、ぅぅ……!」
身体が、寒さ以外の要因によってがたがたと震え始める。
ついにこのときが来たのだと、観念しながらも心の奥底の恐怖まで呑み込めるわけではない。
不躾で無遠慮な視線──記憶は既に霞み、色褪せ始めていたが、かつては自分もまた
無防備なまま、閉鎖空間で男と閉じ込められるという恐怖──そんなものは知りたくもなかったし、眼前に突きつけられるまでは知らずに済むものと思っていた。己が下手を打たなければ回避できた事態なのだ。
「……あ?」
「……っ!!」
血相を変えた猿顔の魔族が、険しい眼でずんずんと歩み寄ってくる。
身を震わせたルディアは、恐怖と諦観がない交ぜになり、絶望に凝った視線を向ける。これからこの身を襲う陵辱に、己はただ耐えることしか出来はしない。
そう思っていたばかりに、猿顔の魔族の行動の意味を、ルディアは一瞬判じかねた。
「おいおい、凍傷起こしてるじゃねえか。しかも服剥かれて、水までぶっかけられたのかよ? 誰がこんな……って聞くだけ野暮な話だよな。
嬢ちゃん、とりあえず猿轡と縄外すぜ」
牢の外で、看守が怒りの声を上げる。
それに男はうるせぇ! と一喝するや、きつく縛られていた縄を素手で魔法のように解きほぐした。
そしてルディアの肌が、唇が紫色に変色するほどに冷え切っていることに気付き、慌てて着ていたベストを羽織らせる。
看守は悪態をつきながら去っていく──他の戦士を呼びに行ったのかもしれない。だが男はそんなことには頓着しなかった。
「ひでぇな、指先が壊死しかかってるぜ、これ。とんでもねえ……こんな小娘にやることじゃねえよ。
──おうコラ! そこの獣族の姉ちゃん! あんただあんた!」
男が牢の外に散々がなり立て、毛布やら湯やらを要求する様を、ルディアは呆然とした表情で見遣った。そして交渉という名の恫喝によりそれらを強奪すると、向き直った。
「嬢ちゃん、怖がらせちまって悪いんだが、手と足、出してくれ」
「は、はい……」
男の手際のよい処置に、苦痛に顔を歪める。
ルディアの赤黒い指先や、痛々しい縄の跡を不憫そうな顔で見遣った男は、口を開いた。
「なあ嬢ちゃん。お前さん、どんくらいここにいたんだ?」
「五日……くらい」
「五日だあ? ……冗談だろ、おい。凍死しててもおかしくなかったぜ」
清潔な毛布に身を包んだルディアは、久方振りの柔らかな感触に、滲む涙を必死で堪えていた。
眼前の男が己を害する存在ではないと理解して、緊張の糸が切れたのだ。
己が死ぬ間際にいた。それは紛れもなくそうだろう。漠然とそう感じながらも、それに然程の恐怖を抱いていなかったのは、これ以上己の境遇が悪くなりようもないと、心のどこかで思っていたからかもしれない。
「私……し、……死ぬかもしれないって……」
唇が戦慄き、声が震える。
双眸に湛えられた涙に、男は仰天して仰け反った。
「おい、泣くなよ。俺ぁ女を泣かせる趣味なんかねえってのによ」
「……すみま、せん」
肩を震わせる嗚咽を噛み殺し、涙が溢れる前に身を包んでいた毛布で拭い取る。
身の芯まで凍えさせるような寒さはもうない。指や足先に感じる熱いほどの痛みも、生を実感したがゆえだ。甘んじて受け入れよう。
×××
猿顔の魔族は、名をギースと名乗った。
ルディアの脳裏に長髪の陸軍将校の姿がよぎったが、それを口に出すことはしなかった。
彼は冒険者であり、同時に生粋の遊び人であるという。旧友を訪ねにドルディアの集落を訪れたはいいが、その友人はおらず、何を思ったか集落の博打でイカサマに手を出し、そこを捕らえられたのだそうだ。
その自己紹介の時点でルディアのギースを見る視線は大分胡乱なものになっていたが、それでも彼はルディアにとって命の恩人である。邪険にすることはせずに、誠実に対応すべきであった。
「その……先程は助かりました、ギースさん。
私はルディア・グレイラットと申します。こんな格好ではありますが、どうぞよしなに」
毛布に包まったまま頭を下げると、ギースはなんとも形容しがたい表情に顔を歪め、そして虫か何かを払うような仕草で言った。
「よせよせ、んな畏まんなくていいっつの。ま、礼は受け取っとくけどな?」
「そうだ、あとこれを。助かりました」
「いいっていいって。気にすんな」
毛布に包まっていたルディアは、毛皮のベストをギースに返却した。ギースはそれを受け取り、これまた形容しがたい表情でそれをつまむと、着直さずにそばに置いた。
(え……なに、傷付くんですけど。俺、そんなに汚かったかな)
汚くないはずはないか、と視線を落とす。
牢に叩き込まれて数日、風呂に入ることはおろか、髪を洗うことすらできなかったのだ。冷水をかけられはしたがそれで汚れが落とせるはずもない。
不幸中の幸いと言うべきか、汗をかけるような環境ではなかったが。
実は見目麗しい少女が地肌の上に直接着ていたそれを、ギースはどうにも持て余しただけなのだが、ルディアにそれを察するだけの精神的余裕はなかった。
「なあ、嬢ちゃん。一体全体どうしてこんなとこにぶち込まれたんだ?」
ギースは心底不思議そうな顔で水を向けてきた。
彼としては、この礼儀正しい少女に犯罪を犯すという姿がまるで想像できなかった。食うに困って食べ物をくすねた程度では、裸に剥かれて水をかけられることもないはずだ。
「ザントポートで銀色のでかい子犬に抱き付いたら、ここの戦士長殿の不興を買ってしまったようでして」
「なんだそりゃ」
まるきり要領を得ない説明に、ギースは首を傾げた。
まあそうだろうな、と当然の反応に苦笑したルディアは、事のあらましをぽつぽつと説明しはじめた。
苦労してウェンポートからザントポートに渡ったこと。船に攫われた子供たちが囚われていたこと。それを義憤で助けた事。そして聖獣を解放しようとした所で、獣族の戦士長と出くわしたこと。
「……んだよ。てことは何か? 嬢ちゃんは全くの冤罪で、ここにぶち込まれてたってことか?」
「そうなりますね」
ギースはしかめっ面のまま、不機嫌さを隠そうともしなかった。
ルディアの言をそのまま鵜呑みにするのだとしたら──彼女は義憤によって子供達を解放したにも関わらず、これほどの仕打ちを受けたことになる。ともすれば命にも関わっていたほどの仕打ちだ。
服を剥かれ牢に放り込まれるだけでも、この年頃の少女には、消えないトラウマが植え付けられるほどの体験だったはずだ。つい数時間前の衰弱っぷりを目の当たりにしていたギースには、この少女がそうでないとはとても思えなかった。
現に──本人が自覚しているのかはともかくとして──ルディアのギースを見る視線はどこか落ち着かず、そわそわと忙しない。近くに男がいることに恐怖心を抱いているのかもしれない。
「……その手」
「はい?」
「後遺症が残らねえといいな」
「ああ……」
ルディアは毛布の下の手を見つめた。
痛々しく包帯の巻かれた指先。処置の最中、痛みの余り叫びだしそうになったほどだ。だが今はそれほど悲観してはいない。最低限の処置を受けた今、この指も快方に向かう他はない。
それに、今は望むべくもないが、エリオットやルイジェルドと合流できれば魔術による治療も可能になる。
「たぶん大丈夫ですよ。私こう見えても魔術師なので、ここを出られたら自力で治せますし」
「あん? 嬢ちゃん魔術師だったのか?」
ギースは腕を枕に横になりながら言う。
「もう猿轡は外してあんだろ。治せばいいんじゃねえのか?」
「いえ、それがですね……」
そのとき、牢が開錠される音が響き、錆の浮いた扉が耳障りな音で開かれる。果たして入ってきたのは、先程男に湯と毛布を差し入れた獣族の女戦士だった。
「……食事だ」
「……え?」
当惑の声はルディアのもの。
その理由は彼女の手元にあった。差し出された木のプレート……今まで無理やり口に捩じ込まれていた、流動食まがいのものではない。
干し肉や山菜、パンといった固形物であり、木製のフォークも一緒についている。
「お、なんだよ。期待しちゃいなかったが、案外まともなもん食わせてくれんじゃねえか」
これはどうしたことか、と女戦士を見遣るが、ルディアが言葉を探しているうちに、身を起こしたギースがさっさと己のぶんに手をつけ始めてしまった。
「……いただきます」
つられてルディアも手をつける。痛む指先での食事は難儀だが、フォークを使うくらいならば一人でもできる。
出された食事は魔大陸のそれよりもずっと美味で、ルディアは感動に打ち震えながら完食した。魔大陸での食事は基本的に酷く生臭く、えぐみがあるか、口内の水分を根こそぎ持っていくほど乾燥しているかのどれかであった。この一年半あまり、ルディアにとって食事とは苦痛でしかなかったのだ。
頭を下げて空になった木のプレートを差し出すと、女戦士は無言のまま受け取った。
瞬間、ルディアの表情が引き攣った。
見覚えのある獣族の男──ルディアを散々冷遇した看守が、女戦士を押し除けるように牢に入ってきたからだ。その手には当然、魔術殺しの霊薬が握られている。
「あ? なんだあんた。まだ用でもあんのかよ」
剣呑な様子を察したのかギースが立ち上がる。
男はそれを一瞥して鼻を鳴らすと、ルディアの前まで歩みよった。途端にびくついたルディアを見下ろすと、不機嫌も露わに吐き捨てる。
「……貴様、自分の立場を弁えているのか? 小娘」
冷厳とした声に威圧されて、ルディアは思わず視線を伏せた。
「縄を解き、傷の治療に、毛布まで与えられ……そのどれもが、貴様の如き大罪人には到底許されるものではない」
「……」
「戦士長殿は、貴様には手を出すなと仰っていた。裸に剥いて冷水をかけ、屈辱を与えろとは言っていたが、尋問は己が戻ってからすると」
苛立たしげにルディアの後頭部を睨め付け、転がった木のフォークを靴の底で踏みにじる。
腕を組んだ男は、侮蔑も露わにギースに視線をやると、鼻で笑う。
「同じ牢に放り込めば、猿のように盛ってくれるものかと期待したんだがな。使えん男だ」
震えながら、ルディアはどこか冷めた思考で得心した。案の定、この男はギースに己を穢させるつもりでいたらしかった。聖獣に手を出した大罪人など、博打にイカサマを持ち込むような無頼の輩に嬲らせるが相応、といった態度が透けて見えた。
「おうあんた、黙って聞いてりゃ好き放題言ってくれるじゃねえか、ええ? 大体この嬢ちゃんだって冤罪──ぐえっ!」
「黙れ! 弁えろ囚人が……!」
「ギースさん!」
看守は詰め寄るギースの頬を裏拳で打ち抜いた。
体格差もあってかギースは牢の壁に背を強かに打ちつけ、脳を揺らされたのかそのまま頽れてしまった。
「貴様もだ、ラクラーナ。罰するどころか、止めることもせず、乞われるままに物を与えるなど……」
「……申し訳、ありません」
「またぞろ暴れられたらかなわん。さっさと飲ませるぞ」
憎々しげな視線を戻した看守に対し、ルディアは口を開いた。
「その薬は勘弁してもらえませんか。もう反抗はしませんし、暴れたりもしないので……」
「信じられるか。貴様のおかげでギルバドとギンバルが全治二週間の怪我を負ったのだ。貴様ら人攫いの襲撃に警戒せねばならんこの時期にだ!」
「……じゃあ、せめてギースさんを治療するまで待ってください。彼は今ので頭を打っていますし……」
丁寧なルディアの口調も、看守からすれば慇懃なものに映ったらしい。ルディアにその気がなくとも、ギースの怪我について言及することで、己の行動にけちをつけられたように感じたのかもしれない。
「そうやって我々の油断を誘う気だろうが! 騙されんぞ。お前の魔術の威力は身に染みているからな。
その気になればこの牢程度容易く破ってしまえるものを、どうして易々と許せる!」
「違います! 私はただ……」
「くどい! そもそもお前には服を着ることすら許されていないのだ、まずはその毛布から──」
「──ひっ」
「おやめください!」
看守が怒声とともに手を伸ばし、縮こまるようにルディアが身を包んでいた毛布に指をかける。
だが毛布が剥がれる寸前で、女戦士がその手を掴み、制止した。
「ラクラーナ、貴様なんのつもりだ」
「どうか考え直してください。このような仕打ちは行き過ぎています」
女戦士の諫言に、看守は信じかねるかのような声で反駁する。
「馬鹿な。こいつは子供を攫っただけでなく、聖獣様に不貞を働いたのだぞ!」
「ですが……彼女は十二分に苦しみました。これ以上の辱めを与える必要はありません!」
「それは貴様が決めることではない!」
「──貴様ら! そこで何を揉めている!」
一喝し、ルディアに向き直った看守の前に、女戦士が割り込む。いよいよもって眦を釣り上げた看守が、更に怒声を放つ寸前、それを第三者の声が遮った。
「……ち。ラクラーナ、貴様覚悟しておけよ」
「……」
牢の外に視線を向けた看守は舌打ちを一つ落とすと、吐き捨てて足早に去っていく。
遅れて入ってきた壮年の獣族が、何事か尋ねるのをいなした女戦士は、牢に静寂が戻ると大きな溜息をついた。
「あの……」
「なんだ」
「……すみません。庇っていただいて……」
「気にするな。……お前の境遇には、同情しないこともない」
ルディアは意外そうな表情を隠さずに、女戦士の顔をまじまじと見つめた。
ラクラーナと呼ばれたこの食事係の女戦士は、聖獣を穢されたという噂に怒りを感じながらも、しばしばルディアに憐憫の入り混じった視線を向けていた。
それは同性ならではの同情であったのかもしれない。まだ年端もいかぬ少女であるルディアが、苛烈な気性の看守に対し肌を隠すことも出来ずに冷水を浴びせられるという境遇は、己なら耐え難いという思いがあったのだろう。
「お前の扱いが改善されるよう、私の方から上申しておく」
「あ、ありがとうございます……?」
女戦士はだが、とそこで言葉を切る。
「お前がしたことは許されることではない。それだけは覚えておけよ」
「……わかりました。お気遣いありがとうございます、ええと……ラクラーナさん?」
ルディアが頭を下げると、ラクラーナは鼻息を一つ落として、さっさと牢を出ていってしまった。