泥沼の騎士 〜TSルディ子を救いたい〜   作:つばゆき

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襲撃(後)

 

 

 胸中を焦燥に塗れさせながら、エリオットは夜の森を駆けていた。

 足元は悪く、その上鬱蒼と茂る木の葉が月明かりを遮って視界はすこぶる悪い。共に森を駆け抜けるのはルイジェルドと、ドルディアの族長ギュスターヴ、そしてその嫡男にして戦士長のギュエスである。

 彼らを伴って向かう先は、大森林北部、ドルディアの集落である。

 ザントポートの役人たちとの折衝を終え、大手を振って帰還するだけで良い彼らが、何故こうまで帰路を急ぐのか。その発端は本日の昼ごろまで遡る。

 

 ドルディアの戦士団を背景に、役人の腐敗と条約違反を非難したギュスターヴとギュエスは、実に一週間に渡る交渉ののち、ザントポートからの譲歩と謝罪を引き出した。

 多少の国力差はあるとはいえ、ドルディア族の存在はミリス神聖国では無視し難い。他の獣族をまとめ上げる氏族達の長のような存在が、正式に糾弾してきたならばそれを一蹴するのは容易ではなかった。

 なによりこれはミリス神聖国の総意ではなく、あくまでザントポートの役人の腐敗である。ここで話が拗れれば、間違いなく話は首都ミリシオンまで伝わるだろう。

 そうしてザントポート側は引き下がり、謝罪と賠償金を支払うこととなった。事の次第が本国まで伝わることは免れまいが、既に話をおさめた後ならば処遇はまだマシである。

 かくして国家間の問題は一応の解決を図ったが、エリオットにはもう一つの懸念があった。

 それは当然、ルディアの存在である。

 族長ギュスターヴより、密輸組織の拠点にて人族の魔術師の少女を捕らえたと聞かされたときは憤慨したものだが、捕虜としてではなく客人としての待遇を約束され、そのための遣いも出したことでひとまず納得したのである。

 

 本日の昼、獣族の問題がようやくひと段落したあたりで、エリオットは再びルディアのことを話題にあげた。

 そのことに顔を青ざめさせたのは、誰あろうギュエスである。その様子を訝ったギュスターヴの詰問に、ギュエスは事の次第を顔面蒼白のまま報告した。

 

 集落の牢で、手を出すなという命令を無視し、ルディアを裸に剥いたこと。その際抵抗されたので縛り上げ、魔術殺しの霊薬を飲ませるように指示したこと。

 更に間の悪いことに、ギュエスはギュスターヴの出した伝令に、指示を集落に伝える間もなく戦士団との合流を優先させていた。後から聞いてみれば、その伝令の戦士も事態をさほど深刻に見ていなかったのだ。

 獣族からすれば真に重要なのは、攫われた聖獣と子供達を取り戻すこと。別段尋問を指示されていたわけでもない虜囚の扱いについては、後回しにされていたのである。

 つまり、今もルディアは集落の牢で肌を晒し転がされているのだ。

 

 その事実が明らかになったとき、エリオットはギュエスに食ってかかった。それが恩人に対する仕打ちか、と。

 当のギュエス本人、己が先走っていたことは自覚していた。だがまさか聖獣に不貞を働いていた者が、子供たちを解放した者とはどうしても彼の中で結びつかなかった。

 結果としてギュエスはギュスターヴに問いただされるまで、ルディアをエリオットやルイジェルドの仲間だと認識できていなかったのである。

 

 かくしてギュエス先導のもと、エリオットたちは一路集落へと向かっている。

 ギュエスに怒りをぶつけたい気持ちは山々だったが、それもルディアと合流したあとだ。彼の処遇はルディアの状況を見てから決めるべきである。

 整備された街道と異なり、木々の生い茂るに任せた林道はもはや獣道といっても過言ではなく、用心しなければすぐに転倒し余計な怪我を負うだろう。

 

 集落のある方角から火の手が見えたときには、一行は焦り、行軍速度を増した。

 エリオットたちの位置は集落から半刻は離れている。その距離で燃え上がる炎とそれに照らされる黒煙が視認出来るというなら、その火災の規模は相当なものだろう。それがただの火事であるはずがない。

 さらに四半刻林道を急ぐと、俄かに雨が降り出した。

 遠目の空に黒雲が渦巻き、ぽつ、ぽつとまばらに水滴が降り始め──瞬く間に凄まじい豪雨と化して火事を消し止めていく。

 雨季が近いとはいえ、余りにも不自然な降雨にエリオットはルディアの無事を確信し、森を行く脚を速めた。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 ルディアは背に冷たい汗をかいていた。

 背だけでなく、じっとりと湿った手のひらを纏った毛布に擦り付ける。だが既に装束は雨に濡れ泥に汚れていた。

 その傍らで、もう片方の手のひらは油断なく眼前に据えられている。生成されているのは岩砲弾。子供の前腕ほどの、文字通り砲弾の如き外見をしたそれは緩やかに旋転し、発射の時を今か今かと待ちわびている。

 向けられる先は、外套に身を包んだ髭面の壮年の剣士である。その手には凡庸な鉄剣が握られ、鋭利な刀身が人質に取られた獣族の子供の首筋に突きつけられている。

 

「てめぇの風体にゃ見覚えがあるぜ、魔術師の嬢ちゃんよ」

 

 低い声で(いら)うような笑みを浮かべながら、壮年の男が刃先を揺らす。

 

「貴方と面識はなかったはずですが?」

「だろうな。だがてめぇは有名だぜ? スペルド族を飼い慣らした『デッドエンド』の飼主さんよ」

「……差し支えなければ、どんな噂か聞いても?」

「魔大陸で発足した新進気鋭のパーティ『デッドエンド』……メンバーは三人。スペルド族の『番犬』と人族の少年剣士『猟犬』、んでもってそれらを纏めてるのが魔術師の『飼主』、てめぇだってな」

 

 余裕を覗かせながら滔々と口上を垂れる男の隙を探る。だが男も熟練の剣士であり、ルディアの動向を抜け目なく観察していた。

 もし不用意に魔術を叩き込んでしまえば、人質の少女はすぐさま盾とされることだろう。

 

「正直眉唾だったが、実際に見てみりゃ大したもんだ。どうだい嬢ちゃん。冒険者なんぞやめて、うちに鞍替えしてみるってのはよ。よっぽど金儲けさせてやれるぜ?」

「そんなこといって、隙をみて売り飛ばすつもりなんでしょう?」

「ま、そこは嬢ちゃんの立ち回り次第ってな」

 

 ルディアが岩砲弾を放つのを躊躇う理由はそれだけではなかった。

 男とルディアの周囲には、既に四人の獣族の戦士が転がっていた。そのどれもが眼前の男に斬り伏せられ無力化されたのだ。一人は辛うじて息を保っているが、駆け寄りたくとも状況は予断を許さない。

 獣族の戦士たちとて一騎当千の猛者とはいかずとも、集落の防衛を任された優秀な戦士であるはずだった。だが男の手練はそれらを上回った。

 四方より襲いかかる戦士達を瞬く間に制圧してのけたその手腕。対多数の戦闘に長じ、人質すら利用したその戦術。

 北神流──中でも実戦派、あるいは魔王派と見て間違いあるまい。ルディアもその流派を見かける機会はあった。魔大陸では剣神流、水神流よりも北神流の剣士の方が数で上回る。

 

「貴方のその剣、北神流と見ましたが」

「おうよ、俺こそが北聖『掃除屋(クリーナー)』ガルス様だ。今さっき特等席で見てただろ? そこらの剣士じゃ及びもつかねえよ」

「それほどの腕があれば、国に士官してもよかったんじゃないですかね」

「悪いが名声にゃ興味ねえんだ。こっちのほうが稼ぎもいいしな。

 ……それで? どうだい。うちに来る気にはなったかい」

 

 鉄剣を肩に担いだ男──ガルスの誘いに首を振る。

 その提案には乗れなかった。無垢な子供を攫う密輸組織──彼らを利用するならばまだしも、その悪行の片棒を担ぐなど言語道断である。

 

「なら話はここまでだ。俺はここらでお暇させて頂くぜ」

「……ッ」

 

 歯噛みする。

 髪を掴まれ引き摺られていく獣族の少女を、ルディアはただ見送ることしかできない。ガルスの戦闘力は圧倒的だった。聖級剣士とは策も勝算もなく襲いかかってどうにかなる相手ではない。

 背を見せれば即座に魔術を叩き込む腹ではあったが、さしものガルスもそれを警戒し、足取りだけは鷹揚に、しかし油断なく人質を盾にするように引き摺っていく。

 ルディアの戦意は半ば萎えていた。

 元より誤解を解くため、そして恩を売るための参戦である。獣族の戦士達も壊滅的な被害を受けた今、彼女が命を賭けてまで奪還戦を継続する必要はない。

 

 ルディアとガルスは、互いに意識を向け合い、警戒し合っていた。故に次の瞬間巨大な毛玉に襲い掛かられても、咄嗟の反応ができなかった。

 

「ガルゥァッ!」

「うおあっ!? なんだッ!?」

「わんちゃん!?」

 

 茂みより飛び出した白い毛玉──聖獣は、凄まじい速度で駆け寄るや、鋭い牙を剥きガルスの前腕に突き立てたのである。

 得物を取り落とし、聖獣を引き剥がそうともがくガルスに向け、ルディアは咄嗟に岩砲弾を放った。

 それを転がるように回避したガルスは、無理な姿勢もあり人質の少女を手放していた。

 

「早く! 行って!」

 

 少女を叱咤しながら振り向いた先で、鉄剣を拾い直したガルスが殺意の籠った視線を向けてくる。

 

「てめぇ、飼主ィ……手を出さなきゃ見逃してやろうってのによお……!」

「誤解ですよ……!」

「ほざけ、てめぇもまとめて売っ払ってやるよ! 腕の一本や二本覚悟するんだなァ!」

 

 咆哮と共に、ガルスが地を蹴った。

 併せるように聖獣もまた吠えながら飛び出す。

 聖獣に牙を突き立てられた前腕からは血がとめどなく滴り、剣をまともに振れそうにはない。片腕は潰したとみて間違いないが、相手は腐っても北聖である。継戦能力は三流派でも随一のはずだ。

 首筋に向けて飛びかかる聖獣を、ガルスはその股下を潜るように滑り込んだ。標的を失った牙が虚空でがちりと閉じ合わさり、聖獣が反転する頃にはガルスはルディアの眼前一〇メートルほどにまで迫っていた。

 一足一刀の間合いまであと一歩。ガルスが踏み込まんとしたその刹那、その脚が粘着質な泥に絡め取られた。

 

「んなっ!」

 

 ぐらりと傾いだガルスは、しかしその不安定な体勢から高速で迫った岩砲弾を斬り払った。

 容易く弾かれたことに目を剥いたルディアだったが、元よりそれで決着がつくと慢心していた訳ではない。ガルスが泥沼から早々に這い出る前に、水流(フロードフラッシュ)で滑るように後退する。

 なおも馳せるガルスの眼前に、妨害するかのような土槍(アースランサー)が乱立した。

 

「その程度ッ!」

 

 さながら蛇のようなしなやかさで、土槍の間をすり抜けるようにガルスが駆ける。その速度はルディアが後退するよりも速い。

 踏み込みと共に振るわれた刃を、ルディアはすんでのところで回避した。頬を撫でる剣風に肝を冷やす。予見眼が無ければそのまま斬り伏せられていたかもしれない。

 そのまま両者の間に爆風を発生させ、吹き飛ばされるように距離を取る。ルディアは魔術師であり、近接戦に勝機を望めない以上、剣士のガルスを相手にするなら徹底的に距離を取り続けるしかない。

 間髪入れずに連射される岩砲弾も、しかし必殺を期するには程遠い。並の剣士ならば瞬く間に撃ち倒す砲弾も、聖級剣士にとっては決して抗しえぬほどの脅威という訳ではない。

 危うい軌道を描く砲弾を避け、弾き、あるいはいなしながら、風を切ってガルスが馳せる。

 

「嫌らしい戦い方しやがる!」

 

 対剣士を想定したルディアの戦術は、ガルスに対しても効果を発揮していた。既に練り上がっていた戦術を、予見眼が更に押し上げている。泥沼と岩砲弾を織り交ぜるだけで、上級までの剣士ならば一方的に封殺できるほどに。

 だのに、ガルスも歴戦と見えてそのことごとくに対応してのけた。

 距離を詰められ、危ういところで攻撃を回避し、引き離し、また詰められ──

 

(やばい……!)

 

 ふらつく頭と萎えかけた脚を叱咤する。

 既にルディアは息切れを起こしかけていた。魔力残量に問題はなくとも、牢に囚われて受け続けた仕打ちによって削られた体力は、まるで快復していないのだ。

 魔術を練り上げる集中力に翳りが見え始め、視界すらもが僅かに霞む。

 岩砲弾の狙いも普段よりも僅かに粗かった。今もまた回転しながら飛来する砲弾を、ガルスは最小限の動きで回避する。

 袈裟懸けに振り下ろされる斬撃は、エリオットを彷彿とさせるほどに鋭い。間一髪、上体を逸らして回避したルディアは、無理な体勢のまま衝撃波を発生させ距離をとろうとし──

 

(こいつ……ッ! 離れない!)

 

 想定よりも距離が取れず、焦りが浮かぶ。

 ガルスはルディアの手から衝撃波が放たれるのを察するや、深く姿勢を屈めてその影響を最小限に殺してのけたのだ。

 腰を落とした姿勢から放たれた横薙ぎの一撃を飛び退いて回避する。刃先が毛布を裂くが僅かに届かない。

 

「妙に動きがいいじゃねえか!」

 

 舌打ちをするガルス。

 焦燥に身を焦がしながらもルディアは魔術を発動した。二人を隔てるような土壁がせり上がる。

 咄嗟の生成では強度が足らない。事実ガルスが数度鉄剣を叩き付けたのみで無惨にも砕け散ったが、再びガルスがルディアを視界に捉える頃には、その背に聖獣が迫っていた。

 しかしそれを予見していたのだろう、ガルスはその場に伏せて奇襲を躱すや、そのまま身体を旋転させ聖獣の無防備な腹に足刀を叩き込んだのだ。

 

「ぎゃん!」

 

 悲鳴を上げて地面を転がり、茂みに突っ込んだ聖獣に僅かに気を取られたルディアに、すかさずガルスは腰の短剣を投じる。

 

「ぅぁ……っ!」

 

 空を裂いて飛翔する短剣をルディアは避け損ねた。腿に深々と突き立った刃が血を迸らせる。激痛と苦悶に歯を食い縛りながら、倒れ込むようにして追撃の刃を回避した。

 

「終いだ、飼主ィッ!」

 

 辛くも避けたルディアだが、最早次はない。泥濘に手をつき振り仰いだ先には、勝利を確信して鉄剣を振り上げたガルスが迫っていた。

 

「──ルディアッ!」

 

 突如響いた凛烈な叫び。

 ほぼ同時に、風を裂く唸りを上げて回転する何かが飛翔し迫る。金属の甲高い衝突音とともに、振り下ろされたガルスの剣を弾いてのけたそれは、余りにも見覚えのある幅広のカトラス。

 唖然とした表情で上体を泳がせるガルスは、次の瞬間己に迫る岩砲弾を、防ぐことも避けることも叶わなかった。高速回転する岩砲弾は隙だらけのガルスの腹部を貫通し、背後の木の幹に着弾して樹皮を散らした。

 

「が……ぁ……」

 

 咄嗟に放たれた岩砲弾は、ガルスの腸を吹き飛ばし、脊椎を粉砕していた。

 最期の瞬間までガルスは己の敗北を受け入れかねたのか、信じられないとでも言うような表情のまま喀血し、崩れ落ちた。

 

「う……」

 

 顔面から突っ伏して、ガルスを中心にぬかるみに赤色が混じっていく様を、ルディアは呆然としたまま見送った。襤褸(ぼろ)切れも同然となった毛布が、どす黒い赤に汚れていく。

 

「ルディア! 無事か……!?」

「エリオット……?」

 

 駆け寄ってきた見覚えのある少年に助け起こされて、ルディアはようやくこの戦いを制したのだと理解した。

 

「うわっ」

 

 両足が骸の下敷きになっている。エリオットの手を借りて冷えていく骸の下から這い出ると、脚をもつれさせてその胸元に突っ込んだ。咄嗟に抱き留められ、支えられる。どうやら脚が萎えているらしい。

 

「え、エリオット、どうしてここに……? ルイジェルドさんは?」

 

 誤魔化すようなその問いに、エリオットは端的に答える。

 

「事情をある程度聞いたんだ。遅くなって悪かった。ルイジェルドは残党を追ってる」

「そうですか……」

 

 安堵とともに息をつく。

 修羅場を過ぎたことを実感し、強張っていた体を弛緩させる。

 

「──ぃっ!?」

 

 思い出したかのような痛みに体を折った。

 そういえば、と負傷していたことを思い出しながら、激痛に喉を引き攣らせる。見下ろせば、ガルスの投じた刃渡り一五センチあまりの短剣は、その刀身の半ばまでがルディアの白い腿に突き立っている。

 幸いにして動脈からは外れているが、それでも肌をつたう鮮血は痛々しい。引き抜こうと柄に触れると、鋭い痛みが総身を駆け抜ける。

 

「これ、噛んでろ」

 

 エリオットが懐をまさぐると手拭いを取り出し、折りたたんだそれを差し出した。短剣を引き抜くには激痛が伴うだろう。痛みに歯を食い縛りすぎると奥歯が欠ける。

 躊躇いがちに開かれた口の中に押し込むように噛ませると、エリオットは短剣の柄に手をかけた。諦めたようにぎゅっと目を瞑ったのを確認し、一息で引き抜く。

 短剣を放ると、しばらく痛みに耐えていたルディアはうっすらと瞼を開き、抗議するような視線をエリオットに向けた。

 

「……むっちゃ痛いです……」

「治癒は使えるか?」

 

 問いに頷いて、中級治癒を行使する。

 傷の深さはエリオットの初級治癒で完治するものではなかった。下手な処置では痕が残る。

 短剣に毒は塗られていなかったが、念のため初級の解毒も詠唱しておく。

 

「わふっ」

「うわっ……なんだこいつ」

 

 いつの間にか傍まで寄ってきていた巨大な毛玉にエリオットは仰天し肩を跳ねさせる。

 

「あ、その子は聖獣様です」

 

 泥に汚れた前脚を肩に置かれ、エリオットは眉を顰めたが、しきりに尻尾を振っている聖獣がカトラスを咥えていることに気付くと、「気が利くな」と言って受け取った。刀身に付着した泥を払い、腰の剣帯に納める。

 すると、聖獣はくうんと小さく悲しげな声をあげた。

 

「いや、もしかして遊びたいだけか……?」

「よかったです、わんちゃんも無事だったんですね」

 

 その白い体毛の何処にも、赤く滲んだ場所はない。

 軽く全身を検めるが、ルディアと違って負傷らしい負傷をしていなかった。

 水滴を散らすようにぶるぶると全身を振るう聖獣を眺めながら、エリオットが呟いた。

 

「間に合ってよかった」

「……ほんとですよ。助かりました、危うく死ぬところで──」

 

 言いさして、ぞわりと全身に悪寒が走った。

 死。そう、死ぬところだったのだ。

 敵対してきたモンスターや野盗が、敵意と殺意を剥き出しにして迫ってくるという状況には慣れ始めていた。それこそアスラの王都で経験し、魔大陸では飽くほどに味わってきた。だが、そのどれもがルディアの命に届きうるかと言われれば、否であった。

 今回は今までのそれとは違った。

 あわや殺されるところだった。

 聖獣がいなければ、あるいはエリオットの援護が間に合わなければ、ルディアはそのまま殺されていただろう。そうでなくとも、腕を失っていたはずだ。

 そしてなにより──己は人を殺したのだ。

 

「……う、」

 

 殺人を実感すると、猛烈な吐き気が込み上げてきた。

 湿った土の匂いに混じり、濃密な血臭が鼻をつく。嗅ぎ慣れているはずのそれが、えずいてしまうほどに不快で、目尻に涙が滲む。

 すっかり冷え切ってしまったガルスの骸が目に入る。その露わになった毒々しいほどに紅い腹腔と、零れ落ちる腸と骨を目の当たりにして、足からがくりと力が抜けた。

 

「あ──」

「──ルディア? ルディアッ!」

 

 抱き留められ、声をかけられても、その光景は脳に焼き付いて離れなかった。

 己がああしたのだ。ついさっきまで生きて呼吸をしていた相手を、物言わぬ肉塊へと貶めたのだ。

 エリオットが己を呼ぶ声も、まるで水底から聞いているかのように遠く、くぐもって聞こえる。

 

「ごめん、なさい……すこし……」

 

 意に反して体の力が抜けていき、視界がどんどん暗くなっていく。

 必死で叫ぶエリオットの顔を最後に、ルディアの視界は暗転した。

 

 

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