泥沼の騎士 〜TSルディ子を救いたい〜   作:つばゆき

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間章Ⅱ
薄闇の底で


 

 

 一年半前──

 

 

 荒れた大地を吹き渡る風の中に、複数の人影があった。

 武装した人馬の影が一つに、同じく武装した徒歩(かち)の影が九つ。それらは例外なく手に剣を携えて、籠手や胸当てといった鎧に身を包んでいる。

 一〇人からなる一個小隊は道無き道を行軍するでもなく、腰の得物を抜き放ち、油断なく円陣を組んでいる。その中央には、明らかに毛色の違う男が一人。

 

「ここはディクト王国領である! そこな男! 何者か、名を明かせ!」

 

 馬上にて手綱と剣を取る部隊長が、円陣より一歩引いた位置から低く威圧的な声で誰何した。

 中央大陸東部、紛争地帯──人心は荒れ果て、たった数ヶ月のうちに小国が誕生と滅亡を繰り返す地方。同じ中央大陸であっても、険しい赤竜山脈に隔てられただけで、裕福なアスラ王国とは一線を画す地方である。

 小隊の行き当たった場所は、ディクト王国、ブローズ帝国、マルキエン傭兵国の三ヵ国の国境に位置する荒れた街道であった。

 

 ディクト王国とブローズ帝国は互いに同盟を結び、侮れぬ力を持った新興国家、マルキエン傭兵国に対し戦端を開き戦局を優位に進めている。

 だがその二国が互いに友好的かと問われればそれは否である。無数の小国が興廃を繰り返す紛争地帯は、さながら戦国時代の様相を呈している。新興国家とは思えぬ国力と軍事力を兼ね備えるマルキエン傭兵国への対策は喫緊の課題とはいえ、その後に控えるのは二ヵ国間での血で血を洗う闘争である。紛争地帯の覇者として君臨するのを目論むならば、その備えをするのは当然の帰結であった。

 そうして、二国は同盟を結び戦争を継続しながら、互いに牽制し合っているのである。

 つまり三ヵ国の国境線とほど近いこの街道は、いつ各国の大部隊が通過するやもしれぬ危険地帯(ホットゾーン)であり、そこを堂々と歩いている男は、各国の兵士に見つけられ次第有無を言わさず殺されてもおかしくはないほどに怪しいのである。

 

「おや。ここはつい一ヶ月ほど前までは、マルキエン傭兵国の領土だったと記憶していますが」

 

 円陣の中央に囚われた人影は、一〇人もの数に四方を囲まれるという、常人ならば観念するような状況に身を置きながらも竦むことなく、むしろ飄々とした様子であった。

 その緊張感の欠片もない物言いに、部隊長は鼻白んだものの、それなりの戦線を生き延びた兵士としての経験に従い、男を観察する。

 

 このあたりでは珍しい黒髪に、歳の頃は四〇代の半ばほどの壮年。身の丈は一八〇センチほどだろうか。

 厚手のシャツとズボンに、やや草臥れたブーツ。胸や肩、膝といった要所を包む革鎧は長旅によって埃と砂塵に汚れている。だが背に負ったその得物が一際異質であった。

 その男の身の丈より僅かに短い、金属の棒であった。

 おそらく鈍器として扱われるのであろうその棒──棍は、柄の部分に滑り止めとして生物の皮が貼り付けられているが、それ以外に取り立てて目立った特徴はない。

 そも、この世界において剣以外の近接武装はおおよそ全てが異質なものだが、中でも棍を得物とする神経は理解し難い。

 なるほど長物という点では、剣に対して間合いにおける有利が取れる。だがそれを目論むならば、穂先に刃を取り付けて槍として扱う方が合理的だ。槍は悪魔の武器として知られているが、わざわざこの紛争地帯においてそれを気にするような者がいるはずもない。

 よくよく観察してみれば、その革鎧に包まれた身体が非常に良く鍛えられていることがわかる。淀みない足取りから察せられる鍛え抜かれた体幹を思えば、伊達や酔狂というわけでもなさそうだ。

 警戒を更に強め、部隊長は男を睨み据える。

 

「通してくれ、と訴えて通してくれそうな雰囲気ではないようですね」

「貴様のような怪しい男を素通りさせるわけがなかろう。マルキエン……否、さてはブローズ帝国のスパイか?」

 

 厳しい声で質したあと、いや、と部隊長はかぶりをふった。

 相手の素性がどのようなものであれ、ここで見かけた以上は殺す以外の処方はない。何より、この街道を通る者が尋常の輩であるはずもない。まず間違いなく、祖国に仇を為すものである。

 ならば、対応もすでに決まっていた。

 

「おや」

 

 部隊長が手を挙げると、兵士たちが一斉に戦闘態勢へと移った。

 

「やめておいた方が良いと思いますがね」

「戯言を……我々に見つかった自分の迂闊さを悔やむのだな」

「本当にスパイではないのですが……言っても無駄でしょうね」

「──やれッ!」

 

 最早問答の必要はない。

 部隊長が手を振り下ろしながら一喝すると、その下知に従った兵士たちが、鬨の声と共に一斉に襲いかかる。

 数秒後には、膾に刻まれた男の骸が荒野に崩れ落ちるものと疑っていなかったばかりに、次の瞬間起こったことを、部隊長は俄かには信じかねた。

 兵士たちが男を刃圏に捉える前に、男は一瞬のうちに一人の兵士の内懐まで詰め寄っていたのである。その手にはいつの間にか金属の棍が握られており──

 泡を食った兵士が剣を振り下ろすに先んじて、唸る棍の一撃が兵士に叩きつけられる。顔面に鋼鉄の棍を叩き込まれた兵士は、血と涎を撒き散らしながら吹き飛んだ。

 下顎を砕かれた兵士の両側の二人は、唐突に出現したように見えた男に動揺し、狼狽していた。

 剣神流の兵士のように、ただひたすらに疾かったわけではない。まるで意識の隙間を縫われたかのような、人間のもっとも反応しづらいタイミングを突かれたかのような一歩。男は生じた隙を余すことなく十全に使い、更に二人を棍で打ち倒した。

 

 残り六人の兵士たちも、たった数秒の出来事とはいえただ黙って見ていたわけではない。瞬く間に三人を減じたとはいえ数の利は未だ健在である。

 

「……野郎ッ!」

 

 距離を詰めながら裂帛の声を上げる兵士たちに、男は包囲の綻びを突くように動いた。更に二人が打ち倒され、その間に背後に回り込んでいた兵士の一撃も、まるで後頭部に目がついているかのようにいなされる。あらぬ方向に斬撃を逸らされ、隙を見せた兵士の脚が棍で鮮やかに払われた。

 倒れ込んだ兵士の鳩尾に抜け目なく膝を落としながら、男が棍を両腕で握った。その上腕部に縄のような筋肉が浮かび上がる。

 

「せいッ!」

 

 気合いの声とともに、腰溜めに構えられた棍がぐるりと一回転した。

 風切り音と共に振るわれた棍は、防御するように立てられた剣を粉砕しながら兵士たちに叩きつけられ、ただの一撃で以て三人を打ち倒す。

 剣を棄てて慌てて飛び退いた最後の一人は、その範囲から辛うじて逃れることに成功していた。だが兵士に出来た抵抗はそれで最後だった。何故ならば、体勢を立て直すより前に、その喉に棍の先端が突き込まれていたからだ。

 男は一回転させた棍を手元に引き戻し、流れるように柄の上で手を滑らせるや、先端付近を持ってさながら槍の如く兵士の喉に突き込んだのである。

 安全圏であるはずの距離から常識外の射程の一撃を喰らった兵士は、潰れた喉を掻きむしりながら崩れ落ちた。

 

「ばっ……馬鹿な……」

 

 動揺に引き攣った声が漏れ出る。

 円陣より一歩引いた場所にいた部隊長は、その一部始終を見届けていた。

 ほんの十数秒の間に、男が九人余りの兵士たちを残らず無力化してしまったことを。性質の悪い冗談としか思えなかった。

 ただの巡回の任務のはずだった。

 自国領に潜り込もうとする斥候やスパイを狩り、あるいは敵国の侵攻を自国に報せる役目。それは、たった一人で一個小隊を瞬く間に殲滅してのけるような相手を想定したものでは断じて無い。

 

「だから止めた方が良いと言ったんですよ」

 

 血に汚れた棍を一旋させた男が、やれやれとばかりに肩を竦めた。

 

「まあ私としても、貴方がたを見逃す気などなかったわけですが……」

「貴様、一体……何者なんだ。何処の国の……」

 

 喘ぐような吐息を漏らしながら、部隊長が再度誰何する。

 

「名乗っても良いですが……あなたが私の名を知る必要は、もう無いでしょうね」

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 冷ややかに湿った闇の中で、フィリップ・ボレアス・グレイラットの意識は覚醒した。

 ()えたような匂いが部屋に充満し、口腔には鉄錆の味が滲んでいる。

 

「ぐ……」

 

 ぎしり、と手首に繋がれた鎖が軋みをあげた。

 喉から漏れ出てくるのは、掠れたような呻き声だけだ。

 湿り気を帯びた石造りの壁に(もた)れかかる形で、フィリップは鎖に繋がれた虜囚として項垂れていた。

 何故このような場所で、虜囚の憂き目に遭っているのか──事の因果を遡るだけでも、重く熱を帯びた頭は割れたような鈍痛を響かせる。

 

 その日のフィリップは、普段と変わらぬ一日を過ごしていた。

 城塞都市ロアの町長として、上がってきた書類を捌き、謀を巡らせ、メイドに手を出した事に嫉妬する妻を宥める──平素と変わらぬ日常。

 それが何故崩れ去ってしまったのか、幾ら思考を巡らせても答えに行き着くことはない。

 ただ憶えているのは、空模様の怪しさと、ロアを覆い尽くすほどの光の洪水。それに呑まれた次の瞬間には、フィリップは妻のヒルダと共に、ディクト王国の陣地の只中に放り出されていたのだ。

 唐突に現れた二人は身分を証明するものも何もなく、混乱のうちに兵士たちに拘束され、それからは凄惨を極めた。

 

 間諜と疑われた二人を襲ったのは、取り調べという名の苛烈な拷問だった。

 ディクト王国を取り巻く国際情勢は混沌としており、戦争中のマルキエン傭兵国だけでなく、同盟中のブローズ帝国の間諜の存在も警戒せねばならなかった。特に帝国に対しては、マルキエン傭兵国との戦後ほぼ確実に矛を交える事になる間柄であり、兵力、国力のみならず、情報戦においても優位に立つことは王国にとって至上命題であった。

 故に尋問官を兼ねた兵士たちの打擲は苛烈を極めた。

 

 赤竜山脈を隔てた向こう側では、大国アスラの法の手も届かない。フィリップとヒルダが幾ら己の素性を訴えたところで、初めから二人を間諜だと決めてかかっていた兵士たちが、確認のための労力を払うはずもない。

 ろくな情報を得られぬ兵士たちは、躍起になって二人を痛めつけた。

 フィリップの身体は至る所が内出血を起こし、無事なところを探す方が難しい。水責め、石打ち、焼き(ごて)──環境の整っていない前線陣地で出来る拷問のほぼ全てをフィリップは受けた。

 左の腕と脚は度重なる拷問により既に無い。傷口は焼け爛れて止血が施され、じくじくと狂死しそうなほどの激痛と掻痒感を脳に送り込んでくる。鎖に繋がれた右腕は脱臼し激痛を発しているが、左半身の痛みに比べればあってないようなものだ。

 苦痛に幾度も絶叫を絞り出した喉は裂け、血痰の入り混じったふいごのような喘鳴を繰り返すことしかできない。

 

 この暗闇に監禁されてから、どれだけの日数が経ったのか。陽の光を浴びたのがどれほど昔のことなのか、時間の感覚を失ったフィリップにはまるで判断がつかなかった。

 一週間か。一ヶ月か。一年か。それともまだ捕えられて数日も経っていないのではないか。

 共に囚えられたはずの妻の悲鳴も、既に途絶えて久しい。

 無事を願うことがどれほど虚しい試みなのかを理解していたフィリップは、ただ諦観の虜となるしかなかった。

 

 

 

 

 

 ディクト王国の兵士兼尋問官は、有益な情報を一切齎さないフィリップに苛立っているようだった。

 怒りと焦燥と蔑みの入り混じった表情を浮かべた兵士は、鎖に繋がれたフィリップを苛立ち混じりに蹴り付けた。興廃を繰り返す紛争地帯の情勢など、山脈の向こうのアスラ貴族に知る由はない。

 無駄な労力とも知らず無知な虜囚を痛めつける兵士に嘲笑を浴びせかけてやりたいが、そうするにはフィリップはあまりに体力を消耗しすぎている。

 

 光の差さぬ暗闇の中、だがフィリップの五感は異変を感じ取っていた。

 慌ただしく走り回る兵士たちの足音。怒号がフィリップを囚える牢に遠くから忍び込んでくる。怒号も罵声も、最前線ではないものの前線陣地では珍しいものではない。

 部隊が陣地転換をしようというのだろうことは、遠くから微かに聞こえてくる兵士の会話で、辛うじて聞き取れた。時間の感覚を失ったフィリップには、それが数時間前の事か数日前のことかは判然としない最近(・・)の出来事でしかなかったが。

 

 長い拷問に晒された己の身体が消耗し、衰弱しきっていることを過たずフィリップは理解できていた。

 もうじき己は死ぬ。

 それが確定された未来だ。冷えた石畳の肌触りを感じながら衰弱死するのか、あるいは痺れを切らした兵士たちに嬲り殺されるのか、些細な違いしかない。

 

 結局のところ、己が何故こんなところに飛ばされ、果てるのかは分からずじまいであった。

 抗い得ぬ死の予感と共に脳裏に去来するのは、後悔とついぞ果たせなかった野望。そして家族の顔。

 実父サウロス。妻のヒルダ。我が子エリオット。

 彼らの顔を思い出すだけで突き刺すような鋭い痛みが、鈍器に殴られたような鈍痛がフィリップを襲い、その面影を痛みで容赦なく染め上げる。

 

 エリオット……エリオット。

 本家に奪われた息子たちの中で、唯一舞い戻った次男。

 諦めかけていた次期当主の座を、再び手の届くところまで引き寄せた光明。

 だが思い返せば、己は真に父親として、エリオットを愛せていたのか? 正しい父親像を知らぬフィリップよりも、ただ母としてエリオットを慈しんだヒルダの方が、余程親として正しい在り方だったのだろう。

 

「許せ、エリオット……許してくれ」

 

 嗄れきった喉から懺悔の言葉が零れ落ちる。

 政略の為に結婚し、我が子すらも利用する──そこに一切の愛が無かったとは言わない。己は貴族としては正しかったが、夫として、父親としては間違っていた。

 それに気付いたのが死に瀕した今とあっては、皮肉に思うしかない。

 

「……」

 

 静寂を掻き乱す気配に、フィリップはうっすらと瞼を

開けた。

 こつ、こつと革靴が石畳を叩く音。

 死神の足音だ。

 兵士たちがとうとう痺れを切らしたのだろうか。

 重い鉄扉を押し上げる軋んだ音と共に、足音が近付いてくる。

 

「そろそろ……用済みかい?」

 

 薄笑みを口元に貼り付けて、掠れた声で問う。

 だが帰ってきたのは罵声でも拳でもなく、柔らかな落ち着いた声だった。

 

「どうやら、随分と苦労されたようですな。ご主人」

 

 兵士らしからぬ声音で気遣われ、フィリップは顔を上げた。

 牢の入り口からうっすらと差し込む明かりを背景に、壮年の男が跪き、視線を合わせてくる。暗闇に慣れ切ったフィリップの目では、僅かな逆光すら疎ましく、眼前の男が茫洋とした影にしか見えない。

 

「これも何かの縁。見捨てるのも私の主義に反します。お助けしましょうとも」

「君は……?」

「通りがかりの旅人ですよ」

 

 曖昧な答えを返しながら、男は鍵束を取り出した。

 黒髪の、引き締まった体つきをした男であった。

 真新しい血のついた鍵束を鳴らしながら、フィリップの手枷に合う鍵を一つ一つ探っている。

 

「一体なにが……他の兵士たちは……?」

「日頃の無理が祟ったのでしょう。おやすみしてますよ。半数ほどは、もう目覚めることもないのでしょうがね」

 

 弱り切ったフィリップは気付かなかった。

 兵士たちの上げる叫喚が、常よりも切迫した色を帯びていたこと。そしていつの間にかそれらが途絶え、前線陣地に静寂が訪れていたことに。

 

「肩を嵌めますよ。少し痛みますが、耐えてください」

「──ぐうっ!」

 

 脱臼した肩を無理矢理に嵌めなおされ、痛みに呻く。応急処置とばかりに患部を固定し、男はフィリップを抱え上げた。

 

「近くの街までお送りしましょう。とはいえ、ここら一帯は戦闘地域なので少し時間はかかってしまいますが」

「待て……少し、待ってくれないか」

「ふむ?」

 

 最後の気力を振り絞り、フィリップは男の肩を掴んで訴えた。

 

「妻がいるんだ。……最後に、会いにいかなければ」

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 陣地が敷かれていた場所はかつて村が存在しており、フィリップ達が捕えられていた場所は食料を保管する石造の大型倉庫だったらしい。

 それをディクト王国軍が接収し、拡張したのが敵兵を捕える牢であり、情報を吐かせる拷問室だったのだ。

 石畳の廊下には、捕えられた他の間諜達を無理矢理引き摺った血の痕が、まるで道の様に残っていた。

 

 男に肩を貸され、半ば以上意地で立ちながら、暗く湿った拷問室に入る。

 石室の隅には、獄死した間諜の死体が複数転がっている。傷んだ木製の台の上には針や鋸、金属製の輪や焼き(ごて)といった見慣れた拷問器具が、血錆に塗れて乱雑に並べられていた。

 暗く乱雑だが、さほど広い部屋でもない。時間をかけることなく、ヒルダは見つかった。

 

 首を括られ、天井から吊るされながら、ヒルダはフィリップを出迎えた。

 物言わぬ妻に、しばしの間フィリップは()っと見入った。

 死体に囲まれながらも、彼女の姿は目を引いた。生前の存在感の為せる業か、他の死体とは明らかに違う、貴種の片鱗が感じ取れた。

 その身体には、暴行と拷問の跡が痛々しく残っている。

 

「妻を、下ろしてやってほしい……頼む」

「……承知しました」

 

 男が作業する様を、フィリップは台に寄りかかりながら見つめていた。

 妻のヒルダがどれほどの辱めを受け、どのような最期を迎えたのか。フィリップには想像することしかできない。

 

 愛の介在する余地などない婚姻だった。

 跡目争いに敗れたあと、彼女の実家の財力とコネクションを目当てに結んだ政略結婚だった。

 結婚し、三人の子を儲けた。寝物語に愛を囁き、時折嫉妬され、それを宥め、夫婦仲は良好だったが──果たして彼女は本当に幸福だったのだろうか。

 本家に息子達を預けることに彼女は最後まで反対していた。子を奪われるたび、ヒルダの精神状態は不安定となった。エリオットが帰ってきた時、最も喜んだのも彼女だ。

 妻としての役目を果たしてくれた彼女だが、母親としての仕事を全うさせてやることは出来なかった。

 最後の数年は笑顔も増えたが、やはり沈んだ表情を浮かべていた時の方が長かった。

 

 後悔ばかりが滲み、フィリップを苛んだ。

 娶った妻の幸福すら確信できぬ己の不明を詰った。

 

 もはや全てが遅かった。

 過去の失態を贖う相手は、半身とともに奪い去られた。

 今のフィリップに出来ることは、未来に向けて何かを積み上げることしかない。

 彼女が出来なかったことを、彼女に代わり。

 彼女の遺した息子を、彼女に代わって愛するのだ。

 そうしてはじめて、フィリップはヒルダを偲ぶことができるのではないか。

 

 冷たい石畳に降ろされたヒルダの傍に、(くずお)れるように跪く。

 

「ヒルダ。今まで苦労をかけたね……すまなかった」

 

 青痣の浮かぶ冷たい頬をそっと撫ぜ、フィリップは妻との決別を済ませた。

 男の手を借りて身を起こし、向き直る。

 

「すまない、手間をかけたね」

「構いませんよ。奥方とは、もう良いので?」

「ああ。気を遣わせてしまった。

 手間ついでに悪いんだが、妻を埋葬したい。頼めるかな」

「手間などとは思いませんよ」

 

 ヒルダを丁寧な手つきで抱き上げた男に、謝意を込めた視線を向ける。

 

「そういえば、名を聞いていなかった。

 私はフィリップ・ボレアス・グレイラットという。

 貴殿は?」

 

 男は僅かに逡巡したあと、その赤い瞳に僅かに稚気を宿らせて言った。

 

「そうですね。私の名はシャンドル。シャンドル・フォン・グランドールと申します。

 以後、お見知りおきを」

 

 




【朗報】フィリップおいたん、九死に一生を得る

 た、ただいま……(小声)
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