一週間に渡る航海を終え、中央大陸南端のイーストポートに着いてしまえば、そこは世界第三の国力を誇る、王竜王国の領域である。
ルディアたち一行は、中央大陸東海岸をなぞるように北上していった。一路目指すは、王竜王国の北部に位置する三つの小国のうちの一つ、シーローン王国である。
本来ならばそのような小国に寄り道をする必要などない。なのにそこを目指さなければならないのは、ルディアの家族であるリーリャとアイシャがそこに居るという情報を、ヒトガミから齎されたからだ。
幸いにも、ルディアが得た情報の出所を二人が質すことはなく、彼女がその説明に苦心する事もなかった。
中央大陸の海は、魔大陸の港町から見えるそれとは趣を異にしていた。
魔大陸の海が、乳白色の骨のような砂浜を噛むエメラルドグリーンだとすれば、中央大陸の沿岸の砂は石灰のような白、海は澄んだコバルトブルーだ。
街道で漫然と歩を進めるエリオットの顔を、ゆるやかに風がなぶった。荒れた魔大陸と比べ豊かな中央大陸では、運ばれてくる風の薫りすら何処か違う。だが、波に揺らめく海面がきらきらと反射する陽光だけは同じだった。
王竜王国の国土の広さはアスラ、ミリスの二大国に比べれば大きく劣るが、実際に通過するならば同等以上の時間をかける事となる。それは街道の整備がアスラ、ミリスほど整っていないということ以上に、その国土の形にあった。
中央大陸はその中心から南端にかけて先細りとなっており、それを東西に分断するように王竜山脈が聳え立っている。王竜王国はその東側に位置し、エリオットには上手い例えが思いつかないが、ルディアに言わせたならば前世で言うところのチリのように細長い。故に、アスラに行き着く行程の半分は王竜王国縦断で終わる。
西を王竜山脈、東をリングス海という天然の要害に守られ、豊富な鉱物資源と海産資源を得られる王国は、その国力に於いて中央大陸東部では他の追随を許さない。
シーローン、キッカ、サナキア王国は、南を王竜王国、北を紛争地帯に挟まれる小国群である。
国が興廃を繰り返す群雄割拠な紛争地帯に隣接しながらも、三国が安定した国体を保っていられるのは、王竜王国との同盟を結んでいるからに他ならない。その国力差ゆえに事実上の属国のような扱いを受けているが、三国の周辺には小さな迷宮が点在し、中位の冒険者で賑わう土地でもあるため、王竜王国との国交が成立する程度の国力はあった。
王竜王国がその国力にものを言わせ併合に踏み切らないのは、三国を紛争地帯に対する緩衝地帯として利用しているからという説が有力だが、それを裏付けるものはない。
「もうすぐ国境だ。明日にはシーローンに入れるだろう」
荷物を積んだ馬の手綱を引くルイジェルドが、首だけで振り返りながら言った。
馬はイーストポートで購入したものだ。獣族に融通された馬は輸送船に載せることが出来ないため、ウェストポートの捜索団に譲ったのである。
垂れた耳に黒のたてがみ、焦茶色の毛。駄馬ではないが、特段駿馬とも言い難い極めて普通の馬だ。もとより騎乗ではなく荷運びの目的で購入したので、軍馬に比べればいくらかは劣るのも仕方ない話である。
「意外と早かったな」
そう端的な感想を述べるエリオットに、ルイジェルドが応じた。
「魔大陸ほど土地が荒れていないからな。馬も歩きやすかろう」
「逆に聖剣街道は楽過ぎたかな」
「どうだろうな。魔物が出ないに越したことはないが」
一行がイーストポートよりシーローン王国まで到達するのに要した時間は五ヶ月余り。距離換算で言えば、魔大陸縦断に倍する速度である。
捜索団の援助もありフィットア領までの路銀を十二分に得ていたため、冒険者としての活動を必要としなかった事が大きい。そしてシーローンを抜けてしまえば、中央大陸の旅路は行程の半分を終えたこととなる。長く見積もって半年もあれば、フィットア領にまで辿り着けるだろう。
あと半年。これまでの二年半余りを思えばあっという間に終わってしまうだろう。エリオットがロアにいた頃は、伴をつけねば外出すら許されなかった。自分で買い物をする機会はほとんどなく、店に出向くのではなく、商人を屋敷に呼びつける立場だった。
それが今では冒険者となり、魔物や賊を相手に剣を執り、商人を相手に値切り交渉をしている。
生きる力、というものは格段についたという自負はあった。父や母はともかく、祖父ならば諸手をあげて歓迎するだろう。いずれ必要でなくなる力だとしても、それはエリオットの自信となるはずだ。
あと半年という、その道程に懸念はない。
懸念があるとすれば──
エリオットは傍らのルディアを見遣った。
ルディアは気も漫ろ、といった体で、海を眺めながら漫然と足を運んでいる。
その表情が優れないのを見てとったエリオットは、迷った末に手を差し出した。
「ルディア。荷物、持つぞ」
「どうしたんですか、急に」
胡乱なものを見るように、ルディアがエリオットの手を見た。
「いや……体調が悪いなら、せめて荷物くらいって」
「大丈夫ですよ」
「……本当か?」
「そんなに辛そうに見えますかね」
彼女の表情に陰が差すようになったのは、中央大陸に渡った頃からだろうか。
目新しい食文化に舌鼓を打つ間も、気分転換の依頼を受ける間も、笑みを浮かべる事はあっても何処かに陰があった。
「そこまででもないけど」
「なら平気です。ちょっとしつこいですよ。ほんとに辛くなったら言いますから」
「……わかった」
ルディアの表情にほんの僅かな苛立ちが混じったのを察知したエリオットは、それ以上何か言うことなく引き下がった。
だがルディアもすぐに失言に気づき、顔をしかめた。フォローの言葉を発しようと口を開くが、そのまま顔を背けてしまう。
「そう邪険にしてやるな。エリオットはお前を気遣っただけだ」
「……はい。すみません、エリオット」
ルイジェルドが窘めると、ルディアは目を伏せて素直に謝罪の言葉を口にした。きゅっと唇をひきしめて、形の良い眉を寄せている。その瞳には自責と後悔の色が滲んでいた。先ほどの発言が本意ではないのは明らかだ。
ルディアは以前にも一度だけ、エリオットに癇癪をぶつけたことがあった。王竜王国にいた頃だったか、とにかくイーストポートを抜けてさほど経たないうちの頃だった。
身内に対しては丁寧な姿勢を崩さなかったルディアが、ほんの一瞬だけでも眦を釣り上げて声を荒らげたことは、エリオットにとっても衝撃だった。
だがその事実に誰よりも狼狽したのは、誰あろうルディア本人だった。制御出来ずに噴き上がった自らの感情に戸惑っていたようだった。
その原因がなんなのか、思い当たる節がないでもない。
今までローテーションでこなしていた衣類の洗濯を、ルディアが一手に引き受けるようになったのも、露出を極力控えるようになったのも、突き詰めれば一つの原因に行き着くのだ。
そしてその問題に対し自分が無力であることを、エリオットは過たず理解していた。
×××
シーローン王国は、中央大陸東部の小国群の北端に位置する、紛争地帯に隣接した国家である。
その地政学上より軍備に割り振らなければならず、少なくない数の常備軍が北の国境を固めており、その軍の練度は大国には及ばずとも、決して低いものではない。
そんなシーローンが経済に於いて他国の後塵を拝しているかと言われれば否である。
シーローン以南のサナキア王国、キッカ王国は王竜王国の属国として知られ、シーローンもまた経済的庇護下にあった。また大国アスラと王竜王国を繋ぐ街道はシーローンを通過するため、その恩恵の一端を受けているという理由もあるだろう。
シーローン王都ラタキアは、石積みの防壁に四方を囲まれた都市である。
その点においてはロアもまた同様だが、相違点を探すとなれば、まず最初に目につくのは色彩である。
深い赤や灰色のレンガを積み上げたロアは整然と、そして重厚さを感じさせる都市だったが、ラタキアの街並みはクリーム色と茶色の入り混じった、雑多な印象を受けるものだ。
王宮の周辺と主要な道路は石畳で整備され、他は
気候は温暖なところはロアと変わらないが、幾分か湿度が高く、やや雨が多いのだという。
雑踏をすり抜けて、ルディアは大通りに面した雑貨屋に入った。シーローン王宮に滞在しているはずのロキシーに手紙を出すため、封筒と便箋が必要になるからだ。
無論、日用品を買い足す目的もある。
エリオットとルイジェルドとは別行動をとっていた。
リーリャとアイシャが王宮に囚われている──ヒトガミの言葉が真実ならば、立ち回り次第では救出後、そのまま逃走に移る必要があるからだ。そのためにも、ルイジェルドには逃走経路と早駆けに適した馬の確保を頼んだのである。
質の良い馬は非常に高価だが、今まで連れ歩いた馬を手放せば出費を抑えられる。健脚のルイジェルドは
エリオットには保存に適した食糧の確保と、衛兵の巡回の数と頻度の確認、並行して囚われている二人の情報を探らせていた。
ミリス大陸では駆け出しの
なんにせよ、ルディアは彼らについて心配はしていなかった。
扉を開けると、からん、とドアベルの音が鳴った。
四〇代から五〇代ほどの、恰幅の良い女性店主のいらっしゃい、という声に目礼を返して物色する。
王都の大通り沿いという立地もあり、店構えから品揃えまで、それなりに立派だった。
インクの匂いに鼻を鳴らしながら棚を探る。ブエナ村にいた頃から転移事件が起きるまで、ロキシーには度々手紙を出していた。以来二年半ぶりとなるかたちだ。王宮勤めという立場を考えれば紙の質は良いものを選ぶべきだ。なによりロキシーに出す手紙には、なるべく気を遣いたいという気持ちもあった。
この地域では紙は貴重だが、中産階級以上なら決して手が届かぬ値段ではない。
ぱらぱらと積まれた羊皮紙をめくる指が、不意に止まる。
「……う」
ずきり、と下腹部を襲った疼痛にルディアは背を折り曲げた。僅かに前傾姿勢となって、片手を腹に当てる。
別段珍しいものでもない。年頃の少女ならば当然の体の変化だ。
だがその煩わしさに、ルディアの顔が歪んだ。
月に一度、定期的にルディアの体を襲うそれは、彼女の精神に重く負荷をかけていた。
ルディアのそれは、一般的なものよりもずっと軽いのだろう。思い返せばゼニスも、そう重いものではなかったはずだ。そういった重い軽いは遺伝の影響が強く出ると聞いていたから、ルディアは幸運な方なのだろう。
前世の母や姉妹は、薬なしではやっていられないほどには重く、のたうち回っていた気もする。だがそれに比べたらマシだ、と自分を慰めるだけの余裕は、今のルディアには残っていなかった。
事の軽重ではなく、それが起こっているということ自体が彼女にとっての負担なのである。
煩わしい。
倦怠感や頭の重さ、そしてそれに連なる頭痛も、何もかもが煩わしかった。だが何よりも煩わしいのは胸の張りと、下腹部の疼痛だ。
自分の体が自分のものでないような感覚が酷く不快で、少女の身体から着実に女の身体に作り変えられていっているという事実が、どうしようもなく厭わしい。
二人と行動を別にした理由も、古布や月経帯を工面する場を見られたくなかったからだ。
こんなもの、無くなってしまえばいいのに。そうして、二度と来なければどんなに楽か。
「こら、あんた!」
怒りと苛立ちを孕んだ声とともに、力強く手首を掴まれたのはそのときだった。
いつの間にか傍に寄ってきていた女店主が、掴んだ手のひらになにも握られていないことを確認して、決まり悪そうに顔を歪める。
「なんだい、なにも盗っちゃいなかったのかい」
女店主の言葉に、ルディアは自分が窃盗の嫌疑をかけられていたことを察した。
商品棚を前に、何かを隠すかのように懐に手を入れていたら、確かに物取りの現場に見えなくもないだろう。
「悪かったね、疑ったりして。最近多いんだよ」
「いえ……私も、疑わしい真似をしてましたし」
ルディアは小さく息をつくと、僅かに屈めていた身を起こして封筒と便箋を手に取った。
「これと……これを。幾らになります?」
「良いやつだからね。銀貨三枚だよ。恋文かい? お嬢ちゃん」
「……いいえ、世話になった師匠に手紙を出したくて」
店主の言葉に顔をしかめそうになるのを堪え、ルディアは首を振った。
「ここら辺の子じゃないね。冒険者かい」
「はい。旅をしていて。アスラのフィットア領まで」
「長い旅だねえ。ここからじゃ半年はかかるだろうに」
「もう慣れました」
「……そうだ、ちょいと待ってな」
そう断って小物の棚を漁った店主が、豊かな胸と腹を揺らしながら振り向く。
「お嬢ちゃん、別嬪なのに洒落っ気がないからね。こういうのはどうだい」
差し出されたのはシンプルな造形ながらもチープさを伺わせない、小さな花を模した髪飾りだった。
「ミリスの方の商人が落としてった奴なんだけどね、素材が安物の割に出来がいい。併せて銀貨五枚でどうだい?」
装身具としての出来が良いのはルディアとしても同意だったが、それを自分が身につけるということを想像した瞬間、ルディアの顔が歪んだ。
「……すみません。お気持ちは嬉しいんですが、手持ちに余裕がないので」
「そうかい、残念」
特に残念そうでもなくそう言う女店主に支払いを済ませ、ルディアは鬱屈した気持ちを溜め込みながら店を出た。
「あれ、ルディア?」
「……エリオット。どうしたんです、こんなところで」
「食糧を買い込んだからな。一度宿に戻るところだ」
偶然にも出くわしたエリオットに、小さな驚きとともに応じる。
片手に抱えた袋の中には、確かにルディアが注文した通りの保存食が詰められている。
「ルディアも買い物、終わったのか?」
「はい」
「じゃあそれ、持つから」
「ありがとうございます」
慣れた手つきでエリオットに荷物を手渡そうとして、不意に眩暈がルディアを襲った。
ふらつきと視界の揺れはほんの数瞬で収まったが、その危うさは
ルディアを支えようとでもしたのだろうか。
「すみません。大丈夫です」
「……でも、」
そう言って渋るエリオットの手に、ついルディアは見入った。
少年らしい、繊細さを残しながらも筋張った固い手。対する自分の手は冒険者生活で僅かに荒れながらも、どちらかと言えば──華奢さやたおやかさの目立つ、白い手だ。
ささくれ立っていた心が、にわかにざわつくのをルディアは感じていた。
低くなりつつある声と、どんどんと伸びていくエリオットの背丈に、怒りの入り混じった嫉妬の感情を抱いている自分がいたことをルディアは自覚した。成人して長いルイジェルドよりも、成長を間近で確認できるエリオットの方がむしろ、その差を克明に意識させられて、ルディアの悋気をいっそう買うのだ。
エリオットに、ルディアの事情を慮るだけの術はない。体と精神の乖離に苦しむルディアの現状など、打ち明けなければ察するなど土台無理な話である。それが理解できぬルディアではない。
だのに──ああ、大きくなっていく身体の、離れゆく目線の遠さの、なんと妬ましく、腹立たしいことか。
持て余した
「……っ!」
ざわめいていた心から負の感情が膨れ上がり──差し出されていた手のひらを、ルディアの細い手が払った。
ぱしん、と乾いた破裂音が小さく響いた。
はっと顔を上げたルディアが、顔を引き攣らせてエリオットの顔を見遣る。
初めて手をあげられたエリオットは、驚きに目を瞬かせて、自分が何をされたのか理解できていないような表情を浮かべていた。
「あ……」
ルディアの唇がわなないた。
エリオットの手を払った自分の手に、他ならぬルディア自身が動揺し、狼狽していた。
ルディアはどうにか、謝罪の言葉を搾り出そうとして──しかし溢れたのは謝罪ではなかった。
「……エリオットは……先に、戻っていてください。私は手紙を書いて、出さなきゃいけませんから」
ルディアのただならぬ様子を察したエリオットは、それ以上何かを言い募ることなく、わかった、とだけ頷いて踵を返す。最後にちらりと向けられた気遣わしげな視線すら、俯いたルディアには届かず、エリオットはそのまま雑踏に紛れて消えた。
ルディア
情緒不安定
エリオット
実は内心おろおろ