クリーム色のカーテンが、空けた窓から入ってくる微風にそよいでいる。
時刻は夜明け前。窓の外では、白み始めた空が、明け方の群青色を西へと追いやっていくところだった。夜明けもほど近く、もう数分と立たずに朝日が王都を照らし始めるだろう。
腹の中にどろどろと煮詰まった不快感に、寝台にもたれていたエリオットはみじろぎし、固く閉じていた瞼を開けた。
気が立っていて、元々朝まで眠れるつもりはなかった。それでも身体を休めるべきだという理性の声に従って、目を閉じていただけだ。
「……ちっ」
小さく舌打ちして、腹にかけていた毛布を剥ぎ取り立ち上がった。
清潔で柔らかいはずのシーツの繊維が、今日に限ってちくちくと肌に突き刺さる。
振り返ると、寝台を占拠したアイシャがあどけない寝顔をエリオットに向けていた。とても寝るような気分ではなかったはずだが、子供の体力では徹夜に耐えられなかったようである。その目元は僅かに赤く腫れていた。
ルディアが連れられてから、既に一日が経過していた。
ごろつきどもの襲撃が止み、嘘のように凪いだままの一日を、エリオットとて無為に過ごしていたわけではなかった。
あのあとすぐに追跡をしようとしたが、アイシャの護衛が必要だとルイジェルドに諌められ、代わりに彼がルディアの追跡役を果たすことになった。
明け方に戻ったルイジェルドを質してみれば、案の定ルディアはシーローンの王城に連れられたという。
新たな宿を見繕ったあとは、エリオットは日中に少し身体を休めたきりで、どうにか王城への侵入経路を模索するため王都を駆け回っていたのである。
お姉ちゃんを助けて、とアイシャに泣き付かれたものの、現状は芳しくなかった。
言われるまでもない、と頷いて、心配をかけ過ぎないように宥めすかし、寝かしつけたが──アイシャの前では辛うじて取り繕えていただけで、エリオットの内心も大いに荒れていた。
焦燥に部屋をうろうろと歩き回りたい衝動を堪えると、窓際の小さな椅子に腰掛け、目頭を揉みほぐした。
「エリオット、少しは落ち着け」
「……」
ルイジェルドの
これが落ち着いてなどいられるか! と声を荒らげるのは簡単だったが、アイシャのむずがるような声に思い止まった。
「なんで、そんなことが言えるんだ。ルイジェルドは心配じゃないのか。ルディアが……」
溢れた声は怒りが含まれていたが、抑えが効いていた。その怒りも、自分に対するものだからだ。
「俺とて心配をしていないわけではない。思うところもある」
「なら、」
「だが今お前にできることはそう多くない。少なくとも今は、来たるべき時に備えて身体を休めることだ」
「来たるべき時って……なんだよ」
「あの場ではああするしかなかったが……ルディアとて、今の状況を無駄にはすまい。機を見れば合図を出すだろう」
エリオットは閉口した。
ルイジェルドの言うことは尤もだった。致し方なく身柄を預けたルディアだが、状況は決して悪くはない。城は外から攻めるより内側から切り崩す方が容易い。
侵入の手間を考えず、リーリャを確保したあとは脱出のみに注力すれば良いというのもある。
それがわからぬエリオットではない。
こう言うルイジェルドが、いざとなれば即座にルディアを救いに動くだろうということも。
だのに……何故、胸騒ぎが収まらないのだろうか。
自らの胸の内に問いただしてみれば、答えは簡単に見つかった。
自分は怖れているのだ。彼女がまた、ドルディアの集落のときのような目に遭うのではないかと。
「ルイジェルド。あと一日だ。あと一日待って、音沙汰が無ければ城を攻める」
それがエリオットの決断だった。
忍耐力が持続する限度でもあった。自制心も、忍耐も慎重さも鍛えられてはきたが、この不安と焦燥は耐えがたい。
「そうだな。異論はない」
ルイジェルドは頷いた。
となるとアイシャはどうすべきか。
宿に一人で置いて行くわけにもいかない。護衛が必要になる。むしろ連れて行ってしまうか。
そう悩むエリオットの視界の隅で、ルイジェルドがふとどこかに視線を向けた。宿の入り口の方だろうか。訝って気配を探ってみれば確かに、わずかな足音がする。
「ルイジェルド」
「……敵意はないようだが」
遠い足音が少しずつ近づいてくる。
軍靴の音と、鎧の擦れ合う音。腰の得物の音。
早朝の来訪者。朝が早い者は活動を始める時間帯だ。襲撃にしては時間帯がずいぶん遅い。
念の為剣帯を引き寄せると、ややもせず扉が叩かれる。
「失礼。扉を開けては貰えないだろうか。怪しい者ではない」
エリオットは窓の外を見遣った。
外から監視してくる者はいなかった。
「衛兵が、何の用だ?」
「ジンジャー・ヨークと申す者です。……ルディア殿の件について、話をしたい」
ルイジェルドと目配せする。頷きを尻目に、エリオットはドアを開けた。
×××
冷たさすら感じる石室の中、ルディアは座り込んでいた。
虜囚の憂き目に遭うのは二度目だった。状況は、服を剥かれていないだけマシだったが。
足元に光る青白い魔法陣が恨めしかった。
これさえ無ければ、衛兵が束になろうが突破は容易かったろうに。……いや、さすがに聖級以上の剣士が出張ってきたら、さしものルディアも分が悪いが。そうなれば逃げの一手を打つしかない。
まさか王級の結界などという代物を用意しているとは思わなかった。王子の言い分から察するに、ロキシーに対する備えだったようだが──魔術師である以上、もちろんルディアにも覿面に作用する。
中級や上級程度の結界なら、膨大な魔力量にものを言わせ破壊することも可能だったかもしれない。しかし王級ともなれば術式の強固さもひとしおだ。
あの馬鹿王子の偏執的なロキシーに対する執着……その片鱗を見た気分だった。
パックスとかいうあの王子に対して、ふつふつと怒りが湧いてくる。
うっすらと燐光を発する壁に向かって、怒り混じりに拳をがつりと叩きつけた。
「うっ……いったぁ……」
当然ながら痛みが拳頭に走り、顔を歪めてさすった。
ものを殴り慣れていない者の拳は脆い。ルディアの細く繊細な手も、その例に漏れなかった。闘気を纏えないのなら尚更である。
小さく悪態をついた。
ともかく、脱出の方策を練らなくてはならない。
光の差し込むことのない石室では時間感覚が麻痺しそうだった。閉じ込められてから、今の所、体感で半日近くだろうか。その間、ルディアとて石室をうろうろと無為に過ごしていたわけではない。
魔法陣を擦って無力化を試みたり、無理矢理魔術を発動しようと魔力を込めてみたりしていた。そのどれもが徒労に終わっていたが。
ルディアは視線を階段横の台座に向けた。
石の台座の上には、魔法陣と同じように青白く光るカンテラが置かれている。あれがこの結界と連動していることは明らかだ。その中心の発光体こそ、魔力源たる魔力結晶なのだろう。あの台座に魔力結晶が嵌められたカンテラを置くことで、魔力が魔法陣に供給される仕組みといったところまでは推察できる。
(これ……流石にまずいよな……)
魔法陣を物理的に破壊できるほどの腕力があればことは簡単だったろうが、残念ながらルディアは純粋なる魔術師である。そもそも魔力で防護された魔法陣はルイジェルドと同等の戦士でなくば破壊できそうにない。
返す返すも、この結界が疎ましくて仕方なかった。
王級結界があることなどどうやって予想しろというのだ。占星魔術でも学べというのか。
地震でも起きてカンテラが台座から外れればルディアは自由の身となるが、それでは神頼みと同じである。
座り込み、焦燥に爪を噛んだ。このままではエリオットとルイジェルドの救援を期待するしかない。何日も帰らなければ流石に救助にやってくるとは思うが。
「……おっと」
きゅうう、と腹が泣き声をあげ、そこでルディアは自身の空腹を自覚した。そういえば昨晩から何も口にしていない。水を少し舐めただけだ。
流石に人質を飢えさせる理由はないと思いたいが……
扉が開閉する軋んだ音に、ルディアは顔を上げた。半日前よりもささやかな音だ。次いで足音を忍ばせた兵士が素早く階段を駆け降りてきた。
「……どちらさまでしょうか?」
取り立てて特徴のない、平凡な兵士である。
ただその足取りは堂々たるものではなく、何かを警戒しているようでもあった。
「所属を話しても意味はないだろう。まずは確認を取りたい。君は水王級魔術師ロキシー・ミグルディアの弟子で間違いないね」
「ええ……そうですが」
訝りながらも肯定すると、兵士は頷く。
「いきなり言われても信じられないかもしれないが、我々は君の味方だ」
「我々?」
「誰もがあの王子に従いたいと思っているわけじゃないということさ」
それはそうだろう。
ルディアにもあのパックスとかいう樽のような王子に人を惹きつけるような人徳があるようには思えない。弱者を虐げて己が立場に悦に浸る、典型的な放蕩王子である。
「時間がない。かいつまんで説明しよう」
パックスの狼藉は今に始まった話ではなかった。
遡ればロキシーが愛想を尽かし国を後にする少し前から、己の身分の高貴なるを自覚したパックスは、思うがままに我儘を通した。王政における王子という権威の絶対性。それに逆らえるものは誰一人としていなかったのである。
現王や兄王子たちに咎められ、親衛隊の数を減らされても、それが止むことはなかった。減らされた親衛隊を補うため、奴隷市場を支配下に置き、金にものを言わせて私兵を揃える程度には狡知に長けていた。そして兵士たちの家族を人質に取り、言うことを聞かせる駒として良いように扱っていることも。
兵士からの説明は端的だった。
「……つまり私たちに協力を要請したいと?」
「そうなる。受けてくれるか?」
ルディアは閉口した。
なるほど、不憫には思うし、心情的にも受けたくもなる話だ。だがルディアとて底抜けのお人よしではない。明確なメリットを提示されずに頷くことはない。
「見返りは?」
「リーリャの解放と安全の確保を。我々なら彼女がどこに軟禁されているのか把握しているし、怪しまれずにその区画まで辿り着ける」
「……」
その提案は魅力的だ。こちらが手をこまねいていた理由がリーリャなのだから、その安全が保証されるなら派手に動きやすい。
「パックスに従う者も少なくはない。あれでいて王子だ。従順な者は重用し、密告者には褒賞も与える。金に目が眩んだ馬鹿は奴の味方だ」
「では、迂闊には動けない?」
「そうだ。不便だろうが……君には今しばらく、ここにいて欲しい」
「じゃあ貴方がたの家族が救出されるまで待つんですか?」
ルディアは不審げに眉をひそめた。
それができなかったから彼らは手をこまねいていたのではないのか?
「正直君の手は借りたかったが……今解放してしまえば我々の関与が明るみにでる。だから手は、君の仲間に借りたい」
「エリオットやルイジェルドさんなら、確かに手を貸してくれるとは思いますが……」
「アイシャちゃんを連れて逃げたエリオット……君の実力を、我々は評価している。彼が圧倒したパックスの私兵は、片方は上級剣士以上の手練だった。悔しいが、我々では複数人でかかって抑えるくらいしかできない。
家族が囚われている場所は目星をつけているが、少なくともあの少年程度の突破力は要る。……察するに、ルイジェルドという者はそれ以上の実力者なのだろう?」
「それはもう」
ルディアは頷いた。
エリオットも実力をつけてきてはいるが、ルイジェルドはそれ以上の手練だ。少なくとも帝級は下るまい。なんならもうルイジェルドだけでいいんじゃないかな、と戦闘中に思ったことは一度や二度ではない。
「彼らに頼んで、我々の家族を解放してもらう。人質がなくなれば、次は君だ。義母と合流させて、逃げる手伝いをしよう」
僅かに吟味したあと、ルディアは頷いた。互いの利が明らかな取引ほど安心できるものはない。
「それで構いません。お受けしましょう」
「ありがたい。……しかし、流石はロキシー殿の弟子だな。肝が据わっている。ごろつきどもに囲まれて、不安じゃなかったのか?」
「精々尻を撫でられたくらいですよ」
実際にはいつ襲われるか気が気ではなかったのだが、ルディアはそう虚勢を張った。
果たして兵士はその強がりを見抜いたのかそうではないのか、曖昧に頷いた。
「君とは密に連絡を取りたいが、そうも行かない。当然だが、信用の薄い者は君に近付けないんだ。君に食事を持ってくる使用人も王子の息がかかっている」
「見分ける方法はありますか?」
「いや……ただ、王子の親衛隊の中でも、ジンジャーという女性騎士は信用できる。彼女もまた人質を取られているからな。我々の指揮を取っているのも彼女だ」
「なるほど。とりあえず、私はどれくらいここに居ればいいんです?」
「長くても二日。今日中に人質が解放されれば、明日の早朝には。……君の仲間が、承諾してくれれば良いのだが」
「大丈夫ですよ。彼らは義に厚い人たちですし」
ともかく、もうしばらくの辛抱である。
魔術も使えなければ暇つぶしの手段もない部屋の中だが、致し方ない。
×××
「そういうわけで、我々の家族の救出のため、力添えを願いたく。対価は、先ほど話した通りに」
ジンジャーと名乗った女性騎士の話を聞いたエリオットは、隣に座るルイジェルドに視線を向けた。
彼らがいるのは宿屋に併設された酒場である。日のあるうちは地元民が、日が落ちると冒険者崩れで賑わう場所だった。幼いアイシャはまだ宿の一室でシーツにくるまっている。
早朝の
「断る。ルディアの救出が最優先だ」
その嘆願を、エリオットはにべもなく断った。
その頑なな態度に、ジンジャーは固い口調で、しかし慎重に言葉を選んだ。
「……彼女を心配に思う気持ちは理解できます。我々とて、大切な者を人質に取られているのです」
「だから、あんたたちの方を優先させろって?」
「それは……」
「エリオット」
ルイジェルドの諌めるような声が飛んだ。
「いや……悪かったよ」
「身勝手な願いというのはわかっています。だが、そこを押して頼みたい」
小さく頭を下げたジンジャーが続ける。
「貴殿らの救出対象はルディア殿のみではないはず。ルディア殿の義母であるリーリャも、王宮のまた別のところで軟禁されています」
「……」
「我々なら城内の構造に詳しい。救出の助けになる筈です」
エリオットは唇を噛んだ。
人質となっている兵士たちの家族を助ける。そのことに不満はない。普段のエリオットなら迷いなく了承しただろう。だが今は事情が異なるのだ。
ただ一点、ルディアが囚われているという事情が。
エリオットとてわかってはいるのだ。ルディアとリーリャ両名の救出──その主目的を果たすなら、ジンジャーの提案を飲む方が良いということも。
ルイジェルドならほんの一日もあれば兵士たちの家族を解放してのけるだろう。彼の健脚と実力があればそれは容易だ。その間待てばいい。たった一日の待機だ。
「……わかった」
「俺もそれで構わん。エリオット、お前は残ってアイシャの護衛をしろ」
「ルイジェルド……」
「連れて行くわけにも、留守に一人で置いて行くわけにもいくまい」
いいな、と言い含めて、ルイジェルドは槍を手に立ち上がった。
「……ご助力、痛み入ります」
ジンジャーが再度頭を下げた。
彼女らにとっても助勢の有無は切実な問題だった。
独力では打破し得ない相手、しかも家族の安否すらも知れぬ現状。いままでどれだけの兵士が先走って捕らえられ、命を散らしていったことか。
「そういえば、貴殿らの名前を伺っていませんでした」
話の中で把握しているはずだが、確かに自己紹介はまだだった。
ルイジェルドとエリオットが名乗ると、ジンジャーの目が訝しげに見開かれた。
「……なんだ?」
「いえ。ボレアス・グレイラットとは……よもやここで聞くとは思わず。失礼ながら、なにか証明になるものは?」
エリオットはその反応に僅かに首を傾げた。自分の生い立ちを明かす理由はないが、特段これといって隠し立てする理由もまたない。
パウロがルディアたちに渡したものは、当面の路銀だけではなかった。荷物の中から取り出したのは、ミリスの難民捜索団の拠点で渡された、円筒状の書簡に納まった身分証である。
見るからに質の高い羊皮紙に、格式ばった書体で書かれた定型の文書が並べ立てられている。
『フィットア領現当主に代行し、ボレアス家家令アルフォンスの名の下に、城塞都市ロア町長フィリップ・ボレアス・グレイラットが次子、エリオットの身分を証明するもの也──』と。
「……
「ああ。でもこれじゃあ王宮に入るには難しいんじゃないのか」
返された書簡を荷物に納めながら、エリオットはそう言った。
平時であれば必要充分なそれだが、今の自分は旅装かつ、野卑な冒険者と同等の身なりである。真っ当な手合いならそれでも信を置くだろうが、相手の粗を探したくてたまらないような輩には、些か心許なさが残る。
「……ええ」
対したジンジャーも、苦々しい表情で頷いた。
脳裏に浮かぶのは仮初とはいえ自らを支配下に置く主である。どれほど人望が薄かろうが王族の権威は馬鹿にならない。賓客として扱おうにも他の王族にはその理由がなく、王子一人の駄々によって他国の貴族を騙る精巧ななりすましとして処理されかねない。
エリオットに直言すれば間違いなく──否定はせずとも──機嫌を損ねるだろうが、彼らが魔族を連れているというのも怪しさの度合いを跳ね上げている大きな要因であった。魔大陸から遠い中央大陸では、魔族に対する偏見は根強いのだ。常に間諜の存在を疑われる紛争地帯に程近い地域では、隔意を持たれる要因が増えるということは致命的だ。
誰か、他にルディアたちの身を保証してくれる者が居ればよいのだが。ふと、かつて忠義を捧げた相手がよぎったが、ジンジャーは力なくかぶりを振った。
その人物は、自分の興味の惹かれる事柄以外は一切眼中に入らない
「話は済んだな」
ともあれ、必要な情報共有は為された。
あとは行動あるのみである、とばかりにルイジェルドは立ち上がった。
「では、すぐにでも……案内します」
「無用だ。俺にはわかる」
そう言ってルイジェルドは、槍を持たぬ方の手で鉢金に隠れた目を指し示した。
×××
リーリャがブエナ村で過ごした最後の記憶は、娘のアイシャとともに家の掃除をしていた瞬間だ。
その頃の自分は充実していて、ささやかながらも幸福に包まれていたと間違いなく断言できた。
愛する男とその妻と、子供に囲まれた日々。第二夫人に甘んじていたことも有り難く思いこそすれ、不満に思うことなどありはしない。むしろ身に余るとさえ……
唯一、少しばかり残念に思うことがあるとすれば、真に忠を捧げると決めた相手がこの家にいないことか。だがそれも、大貴族の家庭教師という門出を祝う思いの方がずっと大きかった。彼女の道行に幸あれと、そう願う気持ちに偽りはない。
受けた恩を思えば、生涯を掛けねば到底返しきれるものではないのだ。彼女に救われた命は、なにも自分ばかりではない。ならば、報いるには己のみでは足りるまい。
幸いなことに娘は利発で、飲み込みがよかった。
アイシャにはまだ早いんじゃない? という意見もあったが、リーリャはそうは思わなかった。娘には、同じ日に生まれた姉がいる。妾腹ではない、正妻の第二子だ。共に同じ屋根の下生活するなら、早いうちから立場の差を自覚させることは間違っていないはずである。
とはいえ、厳しいばかりではいけないということもまた、リーリャは理解していた。我が子を愛しいと思う気持ちは持ち合わせている。
娘は姉との扱いの差に、不満を覚えぬまでも、不思議に思っているようだった。三歳という歳では、身分の差などわからなくても仕方はない。おいおい教育を施せばよいと思っていた。娘の将来の主が──ルディアが家庭教師を務めあげ、魔法大学を卒業する頃には、娘も立派に育っているはずである。
穏やかな日々だった。昨日と同じ一日が、今日もまた変わらず続くものと、リーリャはなにも疑ってはいなかった。
そして──
指示に良く応える娘に厳しくも、しかし内心では微笑ましく思っていたその刹那、二人を襲った閃光の奔流。意識を取り戻したときには、シーローン王宮の庭園で衛兵に囲まれていたのだ。
それが実に、二年半余りも前の事である。
リーリャは寝台に腰掛けて、格子の嵌った窓から明けようとする空を眺めていた。
部屋は極めて簡素な造りで、人の温度を感じさせないほどに殺風景だ。侍女として支給された物以外の所有を許されない立場では、部屋の色彩を整えるような、居心地を向上させることもまともに出来はしない。
せめてもの抵抗とばかりに、彼女の境遇を憐れんだ他の侍女たちから贈られた花が花瓶に活けてあるが、そんな涙ぐましいまでの努力も、部屋の寂漠さを際立たせているだけた。
脱走防止のためか、窓には鉄柵が嵌められ、部屋の入り口は夜になると施錠される。外鍵しか付いていないこの部屋は、一旦施錠されてしまえば内側から開けることはできない。
人が生活するのに最低限のこの部屋こそが、今のリーリャに与えられた部屋だった。二人用のその部屋は、以前まではアイシャと共用していたものだが、今では彼女一人だけである。その不必要な広さを持て余してしまうのも仕方のない話だ。
転移した当初、リーリャとアイシャは身分を証明するものなど何一つ持っていなかった。
予期せぬ闖入者に、王宮を守護する兵士たちが容赦をするはずがない。しかし彼女たちが罪を免れたのは、旧知であるロキシーが、かつてシーローン王国の宮廷魔術師の座にあったことを思い出し、その名を挙げたからだ。
しかしそれは災難の始まりでしかなかった。
身元の保証がされ、解放されるのかと思いきや、ロキシーの名を耳聡く聞き咎めたパックスがリーリャとアイシャを拘束した。聞けば、二人をロキシーに対する人質として扱うという。以来二人は王宮に囚われたまま、外部に助けを呼ぶことも出来ずに軟禁生活を送っているのである。
扱いは王族付き侍女とほぼ同じ──これは元アスラ王国近衛侍女であったリーリャの教養と能力の高さを買われての事であり、勤務時間以外は部屋から出ることは許されなかった──だったが、アイシャを脱走させたことにより、それすら許されなくなった。今のリーリャにとってこの部屋は、座敷牢と同義である。
食事は部屋に届けられ、厠に立つには許可が入り、それにすら監視の目がつく。とはいえその程度のことは覚悟したうえで、リーリャはアイシャを逃したのである。
不便さに苦を感じることはない。むしろ、今彼女の心を病ませる要因があるとすれば──
「お嬢様……」
苦悩に満ちた声で、リーリャはそう絞り出した。
昨夜、自室のリーリャを突如連れ出したパックス。その意図を判じかねたリーリャだったが、連れられた石室に囚われた人物を目の当たりにして、全身は総毛だった。
青白い魔法陣の中に囚われた、仕えるべき少女の姿。考えうる限り最悪の事態にリーリャは戦慄した。猿轡を嵌められていなければ、悲鳴をあげていたかもしれない。
案の定、ルディアはリーリャの姿を見て、抵抗の意識を奪い去られてしまっていた。
そして散々に手こずらせられた相手が眼前にいるという現状を、あのパックスが見逃すはずもなかった。美しく成長しているルディアに思いの外食指が動いたというのもあっただろう。賢しらな態度に思うところがあったのかもしれない。
猿轡を無理矢理に外してまで、それを制したことに後悔はない。少なくとも最初のうちは、パックスにルディアを傷ものにするつもりなどなかったようだった。だがルディアの表情が嫌悪に歪み、次第にその瞳に殺意が宿るのをまざまざと見せつけられたリーリャは、なんとしても止めねばならないとそう直感したのだ。リーリャとて必死であった。結果としてパックスを制止することが叶い、ルディアもまた止まった。
リーリャはそのときのことを思い出すだに、一つの疑念が心中に湧き上がるのを感じていた。あの表情──ルディアは自分には思いも依らぬものに思い悩み、懊悩し、喘いでいるのではないか。
だがなによりもリーリャの心を締め付けるのは、それほどの苦悩の渦中にあるはずのルディアが、自身を質種として差し出してまで、自分たち母娘を助け出さんとすることにだった。
嗚呼、と溜息のような声が漏れ出る。
リーリャは実在の疑わしい神に祈らずにはいられない。
最早我が身など意中にはない。七年前のあの日、一生涯を賭けても返し切れぬ恩を受けたというのに。
娘さえ連れて逃げてくれればそれで良かったというのに。
何故。
何故私をお見捨てにならなかったのですか、お嬢様。