泥沼の騎士 〜TSルディ子を救いたい〜   作:つばゆき

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 またこの展開か、と思う方もいるでしょう。
 かくいう私がそうです。
 書きたい……でも前にも似たようなのやったしな……でも書きたいし……でも書いたらしつこいよなぁ……
 まぁいいか! 書いちゃえ!(三ヶ月経過)となったのがこれ。
 おかげさまでこんなに遅くなりました。



危機

 

 

 

 衛兵の巡回を潜り抜け、エリオットたちは夜のラタキアを駆け抜けた。

 かつては剣術ばかりで隠形のおの字も知らない少年だった彼だが、今では心得のない者を欺く程度訳もない。

 早朝の秘密の会合より、実に半日余りが経過していた。人々の多くが家で床につき、あるいは酒場に入り浸るような時間帯である。

 日中のように雑踏に紛れることこそできないが、夜も更けた今は闇こそが順路だ。篝火や松明の灯りを避けながら、目的地に向けてひた走る。然程の苦労もなく、エリオットは王宮を囲む城壁を臨める場所にまで到達した。

 近くの家屋の陰から、胸壁の上で揺れる兜と松明の灯りを見遣る。街路や路地裏の闇を駆け抜けてきたが、王宮ともなれば見張りの密度は段違いだ。それだけでなく、王宮をぐるりと囲む石積みの壁は、六、七メートルに至ろうかという高さで侵入者を阻んでいる。

 並の盗人や暗殺者では、その高さ厚さを前に断念するしかないだろう。正門と裏門、ほか複数ある入り口は、多くの衛兵が目を光らせている。見張りの交代の時間を見計らうのも現実的ではない。

 

「ど、どうするんですか……?」

 

 胸元の高さからひそめた声が上がった。メイド服の上に外套で顔を隠したアイシャである。

 警護対象であるはずのアイシャがエリオットに、姉を助けてくださいと泣訴したのは記憶に新しい。迷いながらも首を振ったエリオットに、アイシャは己を連れていくメリットを提示した。曰く、自分ならばシーローン王宮の内部構造に詳しいと。そして衛兵の巡回のルートも、頻度も把握していると。

 それは幾分誇張された言葉だったが、事実でもあった。監視を潜り抜けて王宮から脱出する際、どうしても必要な情報だったのだ。今もそれが通用するかはわからないが、全くの無駄にはならないだろうという確信があった。そしてそれは、今エリオットが喉から手が出るほど欲しい情報でもあったのだ。

 服の裾を握るアイシャの視線を受けて、エリオットは小さな背嚢を下ろし、中のロープの束を覗かせた。

 

「まずは俺が登って、それからアイシャを引き上げる。待ってられるな?」

「登るんですか? どうやって……?」

 

 エリオットの言にアイシャは眉根を寄せた。

 以前、ごろつきたちから救い出され、衛兵の追跡から逃れたときとは違う。眼前に聳える城壁は、胸壁も含めれば下手な家屋よりもよほど高い。更に石積みの壁は荒いが、手掛かりに出来そうな突起はない。

 

「見てろ」

 

 そう言うとエリオットは、身を隠していた二階建ての家屋に音を忍ばせながらひょいひょいと登り、早々に屋根にまで達してしまった。

 ルイジェルドや、あるいはギレーヌであれば、城壁などアイシャを抱えたままでも一息に飛び越えてしまうだろう。ルディアなら土槍(アースランサー)の変則使用で自身をエレベートしてしまうに違いない。音を憚らないなら衝撃波(エアバースト)で飛び上がってしまうことも出来るはずだ。

 だがルイジェルドほどの身体能力も、ルディアのような卓越した魔力制御もないエリオットが臨むなら、口惜しいが一工夫必要になってくる。

 身を屈めて胸壁の上を巡回している夜廻りの兵が遠く離れたのを確認して、エリオットは呼気を一つ落とすと屋根上を疾駆した。

 充分な勢いをつけ、テラコッタ屋根のギリギリを見極めて跳躍する。高さが足りぬのであれば他で補えば良い。迫る城壁へ足から着地し、膝関節で勢いを殺しながら更に二歩、三歩と壁を駆け上がる。重力の軛がエリオットの体を縛り始めたその刹那、伸ばした手が胸壁の狭間──射眼にかかった。

 難なく身体を引き上げて胸壁の上に降り立ったエリオットは、素早くかがみ込むと背嚢からロープを取り出す。その先端にはシーツの両端を結わえたものが縛り付けられている。アイシャの握力で城壁を登攀させるのも酷だと判断したエリオットが、宿から失敬してきたものだった。

 投げ下ろしたそれにアイシャが腰掛けるようにくるまり、ロープをしっかと握ったのを確認したエリオットは、腕と背中の筋肉に力を込めて、ロープを引き上げはじめた。

 

 

 

 

 

 夜の王宮は、当然ながら静寂に沈んでいた。

 城壁の塔の螺旋階段から降り、中庭を駆け抜けたエリオットはその静寂に耳を澄ませる。聴こえるのは、衛兵たちの話し声。そして、軍靴や鎧の擦れ合う金属音。

 ささやかなはずのそれらだが、意識を冒険者のそれとして切り替えていたエリオットの鋭敏な耳に、確かに捉えられていた。

 

「パックス殿下がまた女中に手を出したらしい」

「聞いたか? 同僚が家族を人質に取られて……」

「他国の貴族にも手を出したとか。確か、ノトスだか、ボレアスだか……」

「殿下の放蕩ぶりも目に余る。陛下に諌めて頂けないものか……」

 

 物陰に隠れたエリオットとアイシャの鼻先を、何度か衛兵がすり抜けるような局面もあった。王宮ともなれば流石に警備は厳重だった。だが二人に用があるのは王族の寝所といった重要区画ではなく、中央からずっと離れた所である。無論最低限の人員は割かれているだろうが、それでも上階に忍び込むよりはよほどやりやすいはずである。

 

「この回廊を抜ければ厨房です。今の時間なら誰もいません」

「ああ。あっちは?」

「あっちは親衛隊の詰め所が近いので、近づかない方がいいと思います」

「アイシャはどこで過ごしてたんだ?」

「あたしは……」

 

 表情を歪ませて、アイシャは回廊の奥の階段へと視線を向けた。

 

「お母さんと一緒に、使用人の部屋にいました。部屋は外から鍵がかけられて、窓には格子がついていて……」

「……」

「でも、まずはお姉ちゃんからお願いします」

「……そうだな」

 

 エリオットの手が伸びて、アイシャの頭をぐりぐりと撫でた。

 ルディアを助ければ、その足でリーリャも助けに行く。足が悪いと聞いているリーリャを庇いながら脱出するためにも、その順番は覆せない。

 

「見張りがいるな」

 

 小声でアイシャに囁く。

 回廊、厨房、食堂と抜け、小さな庭園を抜けた先で、石造りの建物の入り口を封鎖するように、衛兵の姿が見える。

 巡回の兵ではない、明らかに警備の任を帯びている風体の衛兵が二人。

 

「あの建物か?」

「たぶん……そうです。あそこはパックス殿下が奴隷市場で買った反抗的な奴隷とか、逆らった親衛隊とか兵士の人が捕まってる場所ですから」

 

 見たところ、入り口はほかに無さそうである。牢という特性上、侵入に使えそうな窓もあるまい。

 

「アイシャ、隠れてられるか?」

「え?」

「来た道を戻って、食堂か、厨房あたりに隠れていろ。ルディアとリーリャを助けたら、迎えに来る」

「わ……わかりました」

 

 有無を言わせぬ指示に、アイシャは頷いた。一人で隠れていることに不安はあれど、それは当然の用心とも言えたからだ。

 万が一戦闘になったとしたら、エリオットは増援を呼ばれる前に衛兵を黙らせなければならない。その際アイシャを庇ってはいられない。

 もと来た道を用心しいしい戻っていくアイシャを見送って、エリオットは建物に向き直った。

 流血沙汰は望んでいない。まずは見張りを二人、殺さずに無力化しなければならない。

 

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

「……もう、よい。さっさと退がれ」

 

 先ほどまで組み敷いていた下女が、苛立ち混じりに吐き捨てられた言葉を受けて、のそりと身体を起こす。

 無言のまま頭を垂れ、最低限の肌着をつけて部屋から少女が出ていく。その背中を一瞥することすらなく、パックスは舌打ちした。

 茶色の髪を肩ほどで切り揃えた、一三、四ほどの少女である。一年ほど前に手籠めにしたときは散々に泣き喚いたものだったが、今ではろくな反応を見せない。伽をするよう命じても、侮蔑と諦観混じりの表情で、諾々と従うだけだ。多少乱暴に扱ってやれば、苦悶の声もあげるのだが。

 

「……気に食わん」

 

 気に食わない。下女の態度だけではない。嫌々己に従う兵士も、己の所業を視線のみで咎める親衛隊も、耳障りな諫言を時折落としていく兄たちも──

 皆が皆、己を煙たがり、侮蔑するのだ。言葉に依らずとも、態度や視線で。

 かつては侮られるだけだった。父や兄に似ず寸胴で、お世辞にも優れた容貌とは言えぬ己を、教師や使用人たちは軽んじた。

 見返そうと思ったことはあった気がする。それなりに努力をし、だが奮起するには至らず、無為に日々を過ごした。そうなったのはいつからだったか。自分が努力を放棄してしまったきっかけは、なんだったのか。

 忘れるはずもない。ロキシーだ。

 

 三年前に己の元から去った青髪の魔術師。王宮の中でも隔意なく、比較的己を認めてくれた家庭教師。彼女の気を引きたくて努力をしたが、返されたのは溜息一つ。

 それでパックスはすっかり消沈してしまった。すべてが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。それまでの己の態度も悪行も顧みず、パックスは一丁前に傷ついた。

 その後のパックスは荒れに荒れた。己の権力を自覚し、思うままにそれを振るった。

 己の権威に服従し、媚びて(へつら)う者も幾らかはいた。その者はパックス個人を見ているのではない。王子という立場に諂っているのだ。それも気に食わない。だがそれで良いのだ。その態度こそ、己の身体に流れる血の高貴たるを、その権威の絶対性を証明するものなのだから。

 何よりも気に食わないのは、ロキシーだ。思い起こせばロキシーは、パックスに見向きもせず、遠いアスラの弟子と文通ばかりしていた。卑しい魔族の癖に(おもね)りもせず、王子という立場を歯牙にもかけずに出て行った。

 そして今、その直弟子が王宮にいる。

 

 ルディアだとかいうあの小娘を見ると、ロキシーを思い出す。ロキシーは自分におざなりに指導をしながら、あの小娘のことを思い出していたのだろう。仮にも同じ弟子でありながら、ロキシーは明らかにパックスを軽んじていたのだ。

 

(許せぬ)

 

 沸々と胸の内に怒りと憎悪が湧き上がる。

 高貴な血筋ゆえ手が出せぬだと? 他国の大貴族に睨まれるやも知れぬと? 知るものか。

 何がノトスだ。何がラトレイアだ。余は王子であるぞ。

 

「くくく」

 

 そうだ。

 余は偉いのだ。余はシーローン王族に名を連ねる、高貴なるもの。何故に侮る。何故に軽蔑する。

 余を軽んじるものは許さぬ。断じて。

 

 パックスは誰に見られることもなく、下卑た笑みを口元に刻んでいた。それはロキシーに見限られて以来、鬱屈した人情の中で醸成された加虐心の発露であった。

 思い返せば、あの小娘──先ほどまで嬲っていた下女とは比べものにならぬほど、良い表情(かお)をしていた。あの顔をもっと歪ませてやれば、ロキシーも考えを改めるだろうか。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 待つだけというのも、存外に精神を消耗するものである。そのことについては知っているはずだったのだが。

 自分の力が削がれているという現状が、思いの外ストレスをかけているのだろうか。魔術を使えないから暇つぶしもろくにできない、というのもあるだろう。

 うつらうつらと牢の隅で、硬く冷たい石畳の上で船を漕いでいたルディアは、声と足音にゆっくりと意識を覚醒させた。

 

(……誰だろう……?)

 

 採光窓の一つもない半地下の牢では時間の感覚などなくなりそうなものだが、配膳される食事の間隔からある程度の判別はつく。朝まではまだ時間があるのだ。

 眠気に抗いながら身体を起こす。

 ルイジェルドたちが兵士の家族たちを救出したとしても、ルディアが解放されるのは早くとも数時間は後である。となると、この足音は彼らのものではない。

 眠気に冒された脳でその答えに行き着いたとき、ぎい、と軋む音と共に扉が開かれる。

 階段を降りてきたのは、人相の悪い男が二人……

 ルディアの視線に気付いた一人が、口の端を釣り上げた。

 

「とんだ災難だったな、お嬢ちゃん」

 

 表情を嗜虐の色に染めた男が、歯を剥き出しにして双眸をぎらつかせている。その男の右手は、手首から先がない。ほつれて色褪せた包帯が幾重にも巻かれ、つい最近の傷なのか僅かに血が滲んでいた。

 

「な……んの、ご用でしょう」

 

 見るからに堅気ではない雰囲気の男であった。警戒も露わに問いかける。

 

「馬鹿王子のご命令でな、嬢ちゃんに世の中の厳しさってもんを教えてやって欲しいとよ」

 

 ルディアの顔が険しくなった。男二人を前に逃げ場などない現状。牢の中では法も正義もない。ならば力なきものは蹂躙されるしかない。

 昼間パックスは、リーリャの懇願を前に止まった。ルディアの身に流れるノトスとラトレイアの血を恐れたのだ。それで危険は去ったものだと、ルディアは早合点していた。野卑な男たちを遣わせて、気骨を折ろうという心算なのだろうか。

 

「ま、運がなかったと思って諦めてくれや」

 

 その境遇を憐れみながら、強張る少女の表情に嗜虐心をそそられた男が、結界を維持するカンテラに手をかける。なるほど、あの色狂いの王子が執心する程度には上物である、と。

 くだらない正義感、倫理観を後生大事に抱えている衛兵どもには、この小娘を嬲るのはよほど心が痛むのだろう。おかげでおいしい仕事が回ってきたのだから感謝しかないのだが。

 もとよりろくな蓄えもなく、利き腕を喪ったごろつきには仕事を選り好みする余裕もない。

 だが……と男は舌舐めずりをするように口元を歪ませた。

 元よりこの国からは早々に出るつもりだったのだ。

 そして前金は貰っている。『自分が女だということを嫌というほど思い知らせろ。ただし処女は散らすな』などというしち面倒な指図になど、馬鹿正直に付き合うつもりはなかった。

 

 当然ルディアには男の内心など測る術はない。

 彼女にあったのはより切迫した危機感という、この状況下に置かれた少女として当然のものだった。

 

(やばい……)

 

 ともかく、逃げなくてはならない。

 それなりに腕に覚えがあるのだろうということは、男の物腰を見ればわかる。この状況下で、男二人を制して逃げられるか?

 活路があるとすれば、それは結界が解除されたその瞬間である。再度魔術が使えなくなる僅かな間隙を突いて二人を無力化、ないしは結界の外に逃れなくてはならない。

 

「不憫だねえ、あの王子に目をつけられなきゃ、こんな思いをすることも──うおっ!?」

「──なっ……」

 

 結界が解除され、燐光が途切れる。その瞬間を狙い澄ましたかのように、岩砲弾(ストーンキャノン)が風巻く唸りと共に男に迫り──消失した。

 ルディアの態度が完全に観念したものではないと訝っていたもう一人の男が、魔術の発動を察するや、咄嗟に魔力結晶の納まったカンテラを、台座に置き直したのである。

 まずは一人を昏倒させるという目算を狂わされたルディアは絶句して動きを硬直させた。

 対して男は嬲るばかりだと思っていた獲物が牙を剥いてきたことに、そしてそれに一瞬でも身を竦ませてしまったことに激怒した。

 

「このクソガキが……ッ!」

 

 牢の壁に背を預けた少女に大股で詰め寄って、拳を振り上げ、叩き下ろそうとする。だがルディアは無抵抗のまま打擲を受けるのを良しとしなかった。

 慌てて離れたルディアに拳が空を切る。それにほっと安堵したのも束の間、切り返すような裏拳が鼻先を擦過し、拳圧が前髪をなぶった。

 

(魔眼が……効かない……!?)

 

 新たに発覚した事実に慄然とする。体内の魔力を乱すという“魔術師殺し”の特性に特化させた結界は、魔眼すらをも無効化させるらしい。

 背中が冷たい石壁にぶつかって、ルディアはいよいよ恐懼に震えた。片や鍛えられた大人の剣士。片や自分は──矮躯の魔術師だ。せめて魔眼が効いて、腰に剣の一つでも帯びていれば、状況はまた違ったかもしれない。

 狭い空間で逃げ続けることは叶わず、腕を掴まれたルディアは、大人の膂力でいとも容易く石畳の上に引き倒された。

 

「うぐっ……や、やめろッ!」

「やめねえよ」

 

 体格の差で圧されて、瞬く間に覆い被される。粘ついた臭い息が頬をなぶった。

 女として生まれたことを後悔させてやる──男の目はそう言っていた。良心の呵責などなんら感じていないような、獣慾に染まった表情が近づいてくる。

 はあ、はあと息が浅く、荒くなる。顔が青褪め、震えが大きくなる様は男にはどう見えているのだろうか。

 逃げなければ。その一念に支配され、ルディアは遮二無二身体を(よじ)り、手足をばたつかせた。

 

「ぃ、嫌だッ……放せ!」

「てンめ……ッの、暴れんじゃねぇ!」

 

 腕を掴む力が強くなる。男の握力に細腕が軋む。

 抵抗できない膂力に己の非力さを否応なしに実感させられる。

 嫌だ、やめろ、放せ、と力の限りもがきながら口にした言葉は、どこ吹く風とばかりに受け流され──否、それは燃え上がった男の加虐心に油を注ぎ足すようなものだった。

 やめろ、ふざけるな、やめろ、やめろ、やめろ……!

 

「ぅ、ぁあっ!」

 

 ばたつかせた膝頭が、偶然鳩尾に入ったらしい。

 苦悶の表情で息を詰めた男の拘束が僅かに緩み、それを無理やり振り解いて、ルディアは男の下から這い出る。

 

「何逃げられてんだよ」

「こいつ、抵抗しやがってよ……」

「ったりめぇだろ。片手じゃ辛いか? 手なら貸すぜ」

「うるせぇ!」

 

 どうして、この身は女に生まれてきてしまったのか。

 それはこの数ヶ月、幾度となく繰り返してきた自問だった。せめてそうでさえなければ、このような責め苦など味わわずに済んだだろうに。

 ああ、そういえば、と。この数週間の出来事がルディアの脳裏をよぎる。

 そういえばまだ、エリオットに謝っていなかったっけ。

 

「はっ……はっ……!」

 

 虚空を彷徨っていた指先が、冷たくざらついた石室の壁に触れた。もとより狭いこの空間に、逃げ場など存在しない。

 恐怖と、焦燥と、心細さの中に、後悔が滲み出す。

 何故自分はエリオットに、あんな態度を取ってしまったのか。

 何故こうもままならないのか。謝罪の言葉一つもうまく言えず、そのまま別れてきてしまったのか。

 

「おら、逃げてんじゃねえ!」

 

 背後から伸びてきた手がルディアの髪を掴んだ。

 無遠慮な手つきと力に耐えかねた髪が、幾本もぶちぶちと抜けていき、鋭い痛みを発する。

 

「大人しくしやがれ。朝まで可愛がってやるからよぉ」

「ぃっ……嫌だ! 誰か……! 誰かっ!」

 

 助けを求める声が、狭い石室に反響し消えていく。

 飢えた獣と化した男に全身を掴まれ、引きずり倒される。節くれだった指が力任せに服を破りにかかった。

 王宮の離れの、王子の私設牢。こんなところに、こんな時間に誰も助けなど来るはずはない。それは百も承知だというのに、助けを求めずにはいられない。

 誰か。誰でもいい。この状況から逃れられるなら、誰でも。

 パウロ、ゼニス、リーリャ。

 ギレーヌ、ルイジェルド。

 

「エリオット! エリオットぉ!」

 

 そのとき響いた短い絶叫が、ルディアを嬲ろうとする男の手を止めた。

 次いで甲高い破砕音が響き渡り、石室を照らしていた魔法陣が消え失せる。

 主要な光源が失せ、瞬く間に明かりの落ち込んだ部屋の中、泡を食った男が何事かと背後を振り仰いだ。

 

「なっ……なん──」

 

 湿った刺突音。

 虚空に向けて罵声を飛ばそうとでもしたのか。だがそれが叶うことはなく、その胸に突き込まれた刃がそれ以降の言葉を封じている。

 

「ぁ……が、が……ッ!!」

 

 男は不幸にも即死しなかった。それが更なる苦痛の皮切りだった。

 刃は肺と気管支の一部を突き破っており、血走った目を向けた男が口角から血の泡を吹き出しながら、胸元を掻きむしっている。刃の主人たる紅髪の少年は、殺意に凍った絶氷の視線をもがき続ける男に向け──曲剣の柄に全身で圧するように、満身の力を込める。

 ずぶぶ、と身の毛もよだつような湿った音とともに、曲剣が肉を臓腑を(あばら)を圧し斬っていく。胸に突き立っていたはずの刃が腹部まで達したとき、男の眼球は上転し、断末魔の痙攣を残すのみとなっていた。

 

「ぁ──え……エリ……」

 

 その光景を、飛沫いた血の一端を頬に受けながら、ルディアは呆然と見上げていた。

 殺意を総身に漲らせた少年の姿は、薄暗がりにぼんやりと浮かぶシルエットも相まって、幽鬼や死神のようにも見える。曲剣を乱雑に引き抜くその視線に込められた憎悪と赫怒は、これ以上の苦痛を与えてやれない事への後悔さえ滲んでいた。

 エリオットの背後には、背中を袈裟懸けに斬り裂かれ絶命している男と、粉々に破壊されたカンテラが、ランプの頼りない灯りに照らされている。

 

「……ごめん。遅くなった」

 

 力を失った骸を脇に押しやったエリオットに強く抱きしめられて、ルディアは唇をわななかせながら、震える手を背中に回した。

 

「ごめん……」

 

 頭上から(こぼ)れてくる謝罪の声に、恐怖に(こご)っていた感情がじわじわと溶け始める。

 未だに荒い呼吸のまま、何処か覚えのある感触と体温に包まれて、そこでようやく危機が去ったという実感が湧き始めた。

 だが、湧いた実感によって生まれたのは安堵ばかりではなかった。

 何故だ。

 この身は、どうして……

 

「ルディア……?」

 

 震える少女の、尋常ならざる気配を察したエリオットが視線を落とした。

 胸元に縋り付く手に、より一層の力が込められる。そのたおやかな指先はあらん限りの力が込められ、白くなって震えていた。

 眼下からエリオットを睨めあげる眼差しには涙が湛えられ、憤怒と嫉妬と哀切の入り混じった感情が渦巻いている。今やエリオットにもなお劣らぬ激情が、ルディアの総身を支配していた。

 

「嫌なんだよ……!」

 

 なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのだろうか。

 抵抗できないうちに獣慾の為すままに襲われ、組み伏せられて、寄って集って貪られそうになり──危ういところで助け出された。

 ……すべては、この身が女に生まれ落ちてしまったからだ。

 冒険者たちの己を見る目に、若さに因るものだけではない侮りが含まれるのも。

 毎月のように生理の苦しみに苛まれるのも。

 乏しい筋力では到底抗し得ぬ力に無理矢理組み伏せられるのも。

 

「何もかも、もう嫌なんだ……! 望んでもいないのにこんな身体にされて! 自分の身体じゃないみたいで!」

 

 エリオットに『俺』の苦しみがわかるものか。

 何不自由のない、健全な少年の身体を、何の疑問もなく享受しているくせに。精神と身体の乖離の板挟みにされる苦しみなど。まして、その精神が身体の性に屈服し、女のそれに変容しつつあることなど、その恐怖は到底わかるまい。

 

「なのに……なのに、なんで……!」

 

 なぜこんなにも安堵するのか。

 この少年の腕に抱かれて、なぜどうしようもないほどに安心してしまうのか。

 胸元に顔を押し付けて、彭湃と涙を溢しながら、ルディアは嗚咽した。思考が千々に乱れて、まるで形を為していない。

 押し込めていた本音が、意地でも溢さなかった内なる声が、決壊して溢れ出てくる。

 腕から伝わってくる困惑の気配──それも当然だ、と思う。だがいくらルディアが喚いても、胸元を涙で濡らしても、無言のまま己を抱きしめる力だけは決して緩むことはなく、それが余計にルディアの癇癪を誘起する。

 俺は。

 私は……

 

「わっ……わた、私は……なんで……」

 

 冷たく血臭に澱んだ石室の中で、少年の体温だけをよすがに、ルディアは咽び泣いた。

 

 

 

 

 

     ×××

 

 

 

 

 

 空が白みはじめている。

 夜が明けようとしていた。

 泣き腫らしたルディアは心労もあってか、エリオットの腕の中でそのまま意識を失ってしまった。

 そっと足音を忍ばせて、エリオットが石室の階段を登る。錆の浮いた扉はどれほど静かに押そうとも、ぎぃと耳障りな軋みを上げる。

 終わってみれば、ルディアが散々に泣き、喚き散らした時間も精々が十分やそこらだったらしい。

 だがその時間は万金に値した。

 明けの時刻の薄闇の中、王宮に響く慌ただしい軍靴の音。

 

「……そうか」

 

 ぴいいい、と甲高い警笛の音が、ルディアを両の手に抱えて牢を出たエリオットを出迎えた。

 

「そうかよ」

 

 エリオットの潜入に手落ちはなかった。

 だがそれもこの牢に至るまでの話である。衛兵の巡回を巧みに逃れてここまで辿り着いたものの、牢から響く悲鳴に、昏倒させた見張りを隠す暇すら惜しんで突入したのだった。

 気絶した衛兵が発見されれば、侵入者の存在も明るみに出る。

 

「──貴様ッ! 何者だ! 何処から侵入した!?」

 

 敵意と警戒の念に満ちた誰何だった。

 その後方からも応援の衛兵たちが、腰の得物を抜きながら駆け込んでくる。

 今のエリオットにとって、これほど煩わしいこともなかった。

 泣いていた少女を、一秒でも早くこの場から連れ出したいというのに。アイシャとリーリャを連れて、この国から出て行きたいだけだというのに。

 ルディアを傷つけただけでは飽き足らず──

 いっときは落ち着いたはずの怒りが再度、エリオットの中でうねった。

 俺の。俺たちの邪魔を、するな!

 

「──退がれ、衛兵ッ!!」

 

 エリオット本人にも予期せぬ衝動が、総身から迸る。

 理不尽に対する怒り、掛け替えのない存在を傷つけられたことに対する憎悪、躰を巡る貴種の血、それらの命ずるままにエリオットは包囲する衛兵たちを喝破する。

 

「我が名はエリオット・ボレアス・グレイラット! アスラ王国はフィットア領主サウロスが孫にして、城塞都市ロア町長の実子! 王宮に招かれし我が師を迎えに参った!」

 

 眦を釣り上げ、なんら臆することのない姿勢は、断じて不逞の侵入者としてのそれではなかった。

 

「ボレアス・グレイラットと事を構えるを恐れぬなら、我が行手を阻むがいい! さもなくば退()けッ!」

 

 下郎共!

 衛兵たちは顔を見合わせて、一瞬だけ脚を止めた。

 あまりにも堂に入った物言いに違和感を覚えたからだ。だが腰に差した得物、冒険者と同等の旅装を見て眉を顰めた。王宮への侵入者風情が、何を血迷ったのか?

 だが偶然にもその場に居合わせた王族付き親衛隊の面々は、衛兵たちとまた違った類の違和感を持った。

 これが治安維持や検問に従事する兵士ならば止まらなかっただろう。日常的に王族に傅き、仕えている親衛隊だからこそ、そして教養の深い騎士階級の面々であるがゆえの停止であった。

 なんら怯む事なく放たれた己たちへの喝破に、凛然とした佇まいに、紛れもない上位者としての、貴種としての威厳の片鱗を感じ取ったからである。旅装の違和感をあるいは覆すほどのそれに、よもや、という想いを抱かせたのであった。

 

「待て、本物だ! 手を出すな!」

 

 一〇名に及ぼうかと言う衛兵を掻き分けて、ジンジャーが息せき切って駆け込んでくる。人質の救出後、ルイジェルドと共に拠点に戻るもエリオットたちの姿がなく、先走ったものと察しをつけて急ぎ駆けつけたのである。

 

「しかし、ジンジャー殿」

「その者は武装も……」

「わかっている。全ての責任は私が負おう。この者の身柄は私が預かる」

 

 不承不承ながらも納得の気配が場に満ちたとき、背後の牢の中から声が響く。

 

「おい、誰か死んでるぞ!」

「隊長! 建物の中に死体が!」

「なに……?」

 

 報告を受けた親衛隊も、今度は不審の色を宿した目をジンジャー(同僚)エリオット(侵入者)に向ける。

 

「ジンジャー、どうやら咎めなしで解放とはいかないようだな。その者が何をしていたのか、吐いてもらう」

「待て」

 

 制止しながらジンジャーはエリオットをちらりと見遣った。

 衛兵たちが確保に動けば、当然エリオットは抵抗するだろう。騒ぎが大きくなれば城外で待機しているルイジェルドも駆けつける。そうなればこの場にいる兵は殲滅され、《デッドエンド》はお尋ね者だ。

 

「この建物が──パックス殿下の私設牢ということはわかっているはずだ。お前たちも面倒ごとに巻き込まれたくはないだろう」

「……」

 

 パックスの名がジンジャーの口から出たことで、衛兵の何人かが顔を顰めた。

 親衛隊の面々には鼻薬を嗅がされた衛兵が昏倒させられている時点で、ある程度の察しをつけている者もいたのだ。

 

「ボレアスの縁者というのは本当か?」

「この者の身分は私が保証する。尋問などしてみろ。対応を誤れば国際問題だぞ」

「……いいだろう。ただ、取り調べは受けてもらう」

 

 隊長と呼ばれた親衛隊士が手を挙げると、背後の衛兵たちが揃って剣を鞘に納めた。

 

「ではエリオット殿。腰のものを」

 

 エリオットは一度視線を衛兵たちに向けて一巡させ、敵意がないことを確認し、しばし躊躇してからようやくジンジャーに曲剣を剣帯ごと預けた。その途中で声を潜めて囁く。

 

「アイシャが厨房の方で隠れてる」

「わかりました。後でこちらの者を向かわせて保護させましょう」

 

 ジンジャーは小さく頷いてエリオットを促した。

 衛兵の間をすり抜け、回廊に抜けながら先導するジンジャーの背にエリオットは言う。

 

「謝らないぞ」

「……わかっています」

「俺が来た時には、襲われてた。この国にはもううんざりだ」

「エリオット殿……」

 

 エリオットは腕の中で目元を腫らしたまま気を失っているルディアに視線を落とし、血が滲むまで唇を噛み締めた。

 

 

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