パウロは居間の隅で小さくなっていた。
その頬には季節外れの紅葉が一葉。先ほどゼニスに引っ叩かれて出来たものだ。
今日は天気が悪く、日が差していないので部屋はやや薄暗い。
誰も食べる気が失せてしまった朝食は既に下げられ、テーブルと燭台を挟んでゼニスとリーリャが向かい合っている。
二人の表情は暗い。
片や組んだ両手に額を押し付け、片や膝に手を置いてずっと俯いたままだ。
「……それで、どうするつもりなの?」
感情のまま喚き散らしてもおかしくないこの状況で、ゼニスは努めて冷静であろうとしている。
俺としては正直、ゼニスが包丁を持ち出すことすら可能性として危惧していたから、彼女の自制心は賞賛されるべきだろう。
「奥様の出産をご助力したあと、暇を頂こうかと思います」
リーリャの声はいつも通り平静なようでいて、沈鬱だった。
俺の位置からでは俯いたリーリャの表情は伺い知れない。が、どのような沙汰でも受け入れようという姿勢に見えた。
「お腹の子はどうするの?」
「領内で産んだあと、実家を頼ろうかと」
「……あなた、確か実家はウィシルの方だったわね」
ブエナ村はアスラ王国の北東に位置するフィットア領内にあるが、ウィシル領は王国の南側。ほぼ正反対にある。
フィットア領の中でもさらに北にあるブエナ村からは、馬車を乗り継いだとしても少なくとも一ヶ月以上。
でなくば生後間もない子供を抱えたまま徒歩で帰郷を強いられることになる。それにリーリャは足が悪い。
日常生活を送る分には問題ないが、長旅には到底耐えられるはずもない。
「一ヶ月……あなたも、子供も、長旅には耐えられないわね」
「……かも、しれません。ですが、他に頼れるところもないので」
リーリャの声は先細りとなって、消え入りそうだった。
頼れる実家は遥か遠い。とはいえ裏切ったグレイラット家に金を無心できるような性格でもない。八方塞がりだ。
あとはゼニスが一言出て行けと言うだけで、リーリャと子の未来は絶たれるのだ。
家の中の重苦しい雰囲気に耐えかねて、俺は視線を窓の外に向けた。
数日前まで春の兆しを見せ始めていた気候はなりを潜め、まるで冷え切ったグレイラット家の中を表すように吹雪いていた。
来年ゼニスの出産を終えて、少ししてからリーリャが出産。そのころには秋もとっくに過ぎている。
雪の中、赤子と足の悪い母親。無茶だ。生きて故郷に帰り着ける望みは薄い。
「あの、母さん、流石にそれは……」
「あなたは黙ってなさい!」
叩きつけるような怒声に、俺とパウロは身を縮こまらせた。
無理もあるまい。が、情けなくもある。
仮にも己の女の危機なのだから、身を挺して守れ──とも言いたいが流石に無理か。今パウロが何か言っても逆効果だろう。現状で発言力のあるのが俺だけと言うのだから、頭の痛い話だ。
「リーリャ……どうして、こんな事。……信じられない……」
情けないパウロの醜態よりもむしろ、自身の怒声に驚いたように、ゼニスは再び座り込んだ。怒りと悲しみがないまぜになったような表情からは苦悩が見てとれる。
彼女とて、リーリャを雪の中放逐したいとは思わないはずだ。ゼニスとリーリャの仲は良かった。俺が産まれる前から六年間も一緒にいたのだ。
見ず知らずの相手なら情も感じまいが、非情に徹するには彼女らの過ごした時間は長過ぎる。
正直なところ、俺はパウロやリーリャに黙っていてくれと頼まれれば、それを受け入れるつもりだった。
多少悩んでも、それで家庭崩壊が免れるならそうしただろう。俺の中に蟠りが残ったとしても、リーリャが罪の意識に苛まれたとしてもだ。いっときの過ちだったと悔いてくれているなら、きっと時間が解決してくれると信じて、胸の内に秘めおいたはずだ。
少なくともその選択は、ゼニスの心に深い傷を刻むよりずっとマシなもののはずだから。
だがリーリャの妊娠という致命的な転機を迎えた事で、それでどうにかなる範囲はとっくに逸脱してしまっていた。
どう考えても、子供が口を挟める空気ではない。
あるいは俺がもう少し大人だったら、せめて事が起こったのが五年後とかだったとしたら。
追い出すことを反対しないまでも、せめて春まで待って、旅費を出すくらいの進言をゼニスにしたかもしれない。
だがこのまま手をこまねいていれば、どうなる?
(俺は……)
俺はリーリャが好きだ。
リーリャだけではない。みんなが好きなのだ。だから家庭崩壊なんて耐えられない。
なにより、リーリャには借りがある。
ロキシーのパンツを盗んだことを黙ってくれているのだ。
借りは、返すべきだ。
俺はゼニスの傍まで駆け寄って、袖口を引いた。
「母さま」
「どうしたの、ルディ」
俺相手にゼニスの声は柔らかかったが、苦悩と疲労で力を失っていた。
「お願いします、リーリャを許してあげてください」
「ル、ルディ? どうしたの? 急に」
「父さまとリーリャがやっちゃいけないことをしたのはわかってます。でも、追い出さないであげて欲しいんです」
「追い出すなんて、私は、そんな……」
予想していなかった展開に、ゼニスが目を泳がせた。
「こんな雪の中放り出したら、リーリャも、赤ちゃんも無事じゃ済みません」
「……わかってるわ。私も、そのくらい……」
「それに母さま、悪いのはリーリャだけじゃありません」
無知な子供を装って懐柔する手も考えたが、俺は時折ゼニスからミリス教の教えを受けていた。通じるまい。
俺にできるのは、ゼニスの怒りの矛先を指定してやる事だけだ。
「母さまはいつも言ってましたよね。生涯一人の伴侶を愛すべしって。母さまがミリス教徒だと知ってリーリャに手を出したのは父さまです」
唐突に話の矛先が己に向いたことで、パウロはへ? と素っ頓狂な声をあげていた。そんなパウロをゼニスはキッと睨んで黙らせる。
「悪いのは父さまです。父さまに迫られて、リーリャが断れるはずありません」
「それは……そうね……」
「父さまが悪いのに、リーリャが辛い目に遭うのは間違っています」
ゼニスは視線を伏せた。
効いている。ゼニスとてわかっているのだ。
そもそも誰が一番悪いかと言われれば、それは節操のない下半身を持ったパウロな訳だしな。
小賢しい策はいらない。あとは真摯に訴えかけよう。そして畳み掛けるのだ。
「母さま。私は産まれてくる弟か妹が楽しみです。母さまの赤ちゃんだけじゃなくて、リーリャの赤ちゃんもです」
「ルディ……」
「私、リーリャが好きです」
「……」
「私はまだ、リーリャとお別れしたくありません……」
ゼニスは目をきつく閉じ両手を組んでいたが、しばらくしてふっと力が緩んだ。
俺に向き直り、抱き締めてくる。
「まったく、ルディには敵わないわね」
その腕からは、ゼニスの体温と覚悟が伝わってきた。
なんとかなった。
その実感に俺はほう、と息をついて力を抜いた。
サンキューママン。わがままを聞いてくれて。
「心配かけてごめんね……」
「……はい」
ゼニスは俺を抱きしめたまま、リーリャに顔を向ける。決然とした表情からは、有無を言わせぬ迫力があった。
「……リーリャ。あなたはもう家族よ。勝手に出ていくことは許さないわ」
その宣言に、リーリャは肩を震わせた。
かくして緊急家族会議は閉廷。
沙汰は下された。
リーリャも、ゼニスも出ていかず、グレイラット家はただの一人も欠けることはなかった。
これで胃痛からはオサラバだ。
めでたしめでたしである。
ゼニスが自室に戻り、部屋には俺を含めた三人が残された。
座り込んだまま肩を震わせるリーリャと、部屋の隅で縮こまったまま事態の推移を見守っていたパウロだ。訳もわからぬまま事態が進み、あれよあれよという間に解決してしまったことにパウロは呆然としていた。
ちなみにゼニスはそんなパウロに台所の虫を見るような目を向けていた。
事ここに至り、俺にはもうリーリャに対する隔意はない。リーリャに歩み寄ろうとしたとき、パウロが後頭部をがしがしと掻きながら話しかけてくる。こき下ろしたが、流石のパウロも俺が上手いこと場を納めたことをわかっているのだろう。
パウロのことは嫌いではないが、流石に今回のことは株が下がった。上場廃止だ。しばらくは下半身も営業停止処分を食らうことだろう。
「その、なんだ、ルディ……」
「父さま。しばらくお風呂は一緒に入ってあげませんからね」
「ル、ルディ!? そんな……!」
考え直してくれ、と情けない声を上げるパウロからぷいと顔を逸らす。すると、いつの間にか立ち上がっていたリーリャが、ふらふらと俺の前まで歩み寄ってきていた。
「あの、リーリャ、さん?」
俺の前で膝をつくと、目線の高さがあう。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
リーリャの顔は涙で濡れていた。
いつもは冷たさすら感じるポーカーフェイスで淡々と家事をこなしていた彼女が、両目からぼろぼろと大粒の涙を零し、泣いている。
「お、お嬢様……申し訳、ありま、せんでした……!」
声を詰まらせながらなんとかそう言い切った彼女に面食らったものの、俺は優しく声をかける。
「いいんですよ。私はもう気にしてませんから」
「ですが……! わ、私は、許されないことを……」
「私、リーリャさんがいなくなるのは嫌です。だから、追い出されなくてよかった」
そう言ってリーリャの涙を拭うと、彼女はくしゃりと顔を歪め、俺に縋り付いて嗚咽を漏らし始めた。
「ごめんなさい……お嬢様……ごめんなさい……」
リーリャも俺にパウロとの不貞の現場を見られてからずっと、後悔と罪悪感に苛まれ続けていたのだろう。
リーリャの誠実な性格は知っているつもりだ。そりゃ浮気の現場を見てしまったときは驚いたが、六年間も情事を聞かされ続ければ自制心にもヒビが入る。
こうして彼女を許す気になれたのも、事情を知り性格を知り、リーリャの存在が俺の中で無視できないくらいには大きくなっていたからだ。
「母さまも許してくれました。だから、泣かないで」
詫び続けるリーリャの頭に手を回す俺を眺めたまま、所在なさげに立ち尽くしていたパウロだったが、やがて抱き合う俺たちの肩に両手を回した。
今回ばかりは俺もパウロを拒まずに、その大きな手を受け入れた。
×××
嫉妬の気持ちがなかったかと言われれば、嘘になる。
それこそはじめのうちは──雇われた当初は、そんなつもりは毛頭なかった。
栄えある王宮勤めの、王族付きの近衛侍女。
教養、礼儀作法、そして戦闘力。それら全てが基準に達さなければ務まらないその役目は、下級貴族以下のすべての女性の憧れだった。
水神流道場の一人娘だった私に、道場を継げとも言わず、大枚をはたいて教育を受けさせてくれた両親には感謝している。
だが、近衛侍女として今後生きていくのだろうという予想はいとも容易く覆された。暗殺者と戦闘になり毒剣を足に受けた私は近衛侍女として働けなくなり、アスラ後宮の構造を知るために王都にも居られなくなってからはどうにか仕事を見つけ、グレイラット家のメイドとなった。
パウロとは知り合いだった。昔から女好きで、家の道場で共に稽古をしていた頃に強引に夜這いをされたこともある。当時は枕を涙で濡らしたものだが、後宮勤めになって脂ぎった大臣に粘ついた視線を向けられるようになり、あれはまだマシな方だったと思えるようになった。
再会したパウロと、その妻ゼニス。睦まじい夫婦を支える生活は思ったよりも充実していた。
パウロはかつてよりもずっと逞しくなっていたし、ゼニスもパウロに似合わず貞淑だが、人好きのする性格で好感が持てた。
だからこんな、家族に亀裂を入れるような真似をするつもりは毛頭なかった。
とはいえ、男日照りの中六年間──夫婦の情事を聞かされれば、溜まるものは溜まるのだ。それだけならまだ良かったが、たまにパウロからされるセクハラに、女心は存分に掻き乱された。それを受け入れてしまっていた自分も自分だが。
でも、きっかけこそパウロだが、最後の一線を踏み越えたのは自分だ。性欲を持て余していたパウロを、自分の部屋に誘い込んだのは自分なのだ。
それと、ルディア。
私はルディアのことを不気味に思っていた。
物心の付かぬはずの赤子の頃から、その目は知性を宿していたような気がしたし、成長してからは理解できない行動も増えた。
時折向けてくる、粘ついた視線──あの脂ぎった大臣を彷彿とさせる目は、成長につれて向けられなくなったものの、私の意識の底に常に居座っていた。仕える家の嫡子だから、なるべく避けずにいたが、苦手意識を向けられていたことはなんとなく察していたのかもしれない。
でも、あの目を抜きにして考えてみれば、彼女は驚くほど聡明だった。よく気がつくし、メイドの私に気も遣えるし、早熟な子供というよりは大人と接している気分でいた。これで色眼鏡抜きで付き合っていけるものだと錯覚していた。
あんな顔を向けられるまでは。
身の丈に余る欲は身を滅ぼす。
破局は意外な形で訪れた。が、もとより家の中で行われる不貞は無理があったのだ。
いけないと思いながら、何度目かの逢瀬を経たときのことだ。情事を終え睦言を囁かれた後、湯で体を清めようと部屋を出ようとして、部屋の外に立ち尽くすルディアと出くわしたのだ。
はじめはどうにか言い繕おうとした。
まだ六歳になったばかりの子供だ、なんとか誤魔化せるのではという邪念が鎌首をもたげた。
だが、言い訳の言葉を発しようとする私に、ルディアははっきりと怯えの走った表情を向けた。
頭をハンマーで殴られたような衝撃に襲われ、私はその場で愕然と立ち尽くしてしまった。
どうして言い繕えると思ったのか。ルディアはゼニスからミリス教の教えを受けている身だ。特段ルディア本人が敬虔なミリス教徒というわけではないようだが、そもそもが聡い子である。現状をはっきりと認識していた。
そこでようやく、自分がどれほど罪深いことをしているのか理解した。罪悪感と、後悔がじわじわと頭と胸に沁み渡ってくる。自らの浅はかさを呪った。
でも、部屋に逃げたルディアを追う勇気なんてなかった。追いかけたとして、どんな言葉をかけたらいいかもわからなかった。
パウロは先ほどのやり取りに気付かなかったようで、平静なままだった。
どうした? と呑気に聞いてくる彼に首を振り、湯で体を清めたあと寝室に帰した。結局その日の夜は眠れなかった。
ルディアを追いかける勇気もなければ、次の日に彼女と目を合わせる勇気も出なかった。
ルディアは表面上いつも通りにしていたが、パウロの顔をちらちらと不安そうに伺っていたし、こちらに向ける笑顔も僅かに強張っていた。普段ならまるで気付かないほどの変化。でも罪悪感で膨れ上がっていた私の自意識はそれを敏感に察知した。
口止めをしようと考えた。
恥知らずにも頭を下げ、ゼニスへ報告するのは許してもらおうと考えた。でも、無垢な顔立ちの奥に覗かせる僅かな恐怖の色を見てもなお、そんなことができるほど私は厚顔無恥でもなかった。告発されるならそれはそれで仕方ないと──諦観にも似た感情を抱いていた。
ただ、話をしなければいけない。
あんな顔を子供にさせていいはずはない。それだけは理解していたのに、なんて声をかけたらいいか、何を話していいかわからず時間だけが過ぎていった。
(生き地獄だ──)
自分にも、ルディアにとっても。
でも、それはひと月もしないうちに終わりを迎えた。
私の妊娠という結果によって。
あれから誓ってパウロとの行為はなかった。だが、避妊もしなかったわけだし、何度か逢瀬を重ねていたのだから、当然と言えば当然の成り行きだ。
ただ私には、それはゼニスを裏切り、ルディアを傷つけた罰と映った。
パウロに相談する事もなく、私は妊娠の事実を朝食の場でぶちまけた。つわりで嘔吐する場面を見られてしまったから、相談する暇もなかった、が正しいが。
ゼニスはショックを受けたような顔をしていた。
怒りよりも悲しみを向けてきたのは彼女の人徳であり、そして私がゼニスと友情を育んできた証と思えば、心が締め付けられるような思いだった。
こんな人を、こんな家族を裏切って許されるはずはない。下された罰は受け入れよう。出て行けと言われれば粛々と従うつもりだった。
雪の中倒れようと、それで子供も道連れになろうと、それは当然の末路だと、そう思っていた。
だのに、ルディアが私を許してくれた。
誰も口を開けない場で、ゼニスに直談判してくれたのだ。
子供らしからぬ話術と誘導術に、ゼニスもまた怒りを飲み込んで度量を示した。上手く場を収めたが、その実彼女は必死だった。自分の持てる全てで、悲劇を回避しようという意思が見えた。
そのとき私は理解した。
あのときルディアが見せた怯えの表情。瞳の奥の僅かな恐怖。それは私に向けられたものではなく、この家庭が壊れる事に対する恐怖だったのだと。
私を許して欲しいと。私とお別れしたくないと。そう訴えた彼女の言葉は、嘘偽りのない真実だったのだ。
それを知って決壊した。
その事実はむしろ、ゼニスに許されたことよりもなお私の心に深く突き刺さった。
「ごめんなさい……お嬢様……ごめんなさい……」
そして今、震える声でルディアの胸に縋り付いて泣きながら、私は己の罪を恥じた。
「母さまも許してくれました。だから、泣かないで」
どこまでも優しいその声に、頭に回される手の小ささに、嗚咽しながら決意する。
この恩に報いなければならない、と。
感謝と、尊敬と、愛情を以て。
私で足りなければ、私と同様に救われた我が子も彼女に仕わせよう、と。
私はこの日、リーリャ・グレイラットと名を改めた。
メイドとしてだけでなく、家族としてグレイラット家に迎え入れられた日となった。
感想たすかる
モチベになります