亜蓮は仮眠に使っていたソファからゆっくり身を起こした。
キャスターが去った後、亜蓮は結界の復元と呪詛による土地汚染の洗浄に夜明け寸前まで掛り切りになっていた。すべてが終わってから二、三時間の仮眠を取ったものの、やはり疲労を抜き切るには足りていない。
脳にかかった靄のような眠気を、首を振って追い払う。
「ん……」
ふと、亜蓮はどこからか良い匂いがしてくることに気付いた。食欲をそそる香りだ。出処を探してダイニングルームに向かった亜蓮の視界に、丁寧に並べられた和風の朝食が飛び込んできた。
クラシカルな洋風の食卓に和食が並べられているというのは些か不思議な光景だったが、それ以上に不可思議だったのは、エプロン姿で配膳をしている黎花の姿だった。
「あ、おはよう亜蓮君」
「えっと……鈴ヶ峰、これは……?」
料理について尋ねると、黎花は照れ笑いの表情を浮かべた。
「亜蓮君、疲れてると思って。食材は私の家から持ってきたから安心して」
要するに、戦闘の後始末に追われてろくに睡眠も取れないであろう亜蓮を気遣って、代わりに朝食の用意をしていたということらしい。
キッチンを勝手に使ったことを咎めるべきなのかもしれないが、今回ばかりは素直に有難かった。ちょうど空腹に襲われる時間帯だったのは元より、料理自体の出来栄えがかなりのものだったので、どうしても怒る気分になれなかったのだ。
……冷静に考えると、ストーカー一歩手前の付きまといを繰り返している相手が、家のキッチンで勝手に料理を作っているというシチュエーションである。本来ならもっと警戒して然るべきだが、今の亜蓮は危機感が少なからず麻痺してしまっていた。
「まぁ……うん。助かるよ」
「よかったぁ。食事が終わったら、例の報告もするね」
黎花は嬉々として配膳を済ませた。
例の報告――聖杯戦争の主催者と面会して情報を得てくるという頼み事、その報告だ。キャスターの件で先送りになっていたが、やはり早いうちに聞いておいた方がいい。情報には鮮度がある。消費期限が切れた情報は何の役にも立たなくなってしまう。
「そういえば、バーサーカーとランサーは? 今朝から見てないんだけど」
「ランサーは偵察に。バーサーカーも勝手について行っちゃったみたい。何か調べたいことがありそうな態度だったかな……」
「偵察……キャスターの居場所でも探すつもりか……」
坂田金時の伝承は亜蓮もよく知っている。中でも源頼光配下の頼光四天王の一人として、大江山の酒呑童子の討伐に参加した逸話は有名だ。
酒呑童子は頼光四天王と同じく熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四体の鬼を四天王として従え、更に四天王とは別に腹心の部下を抱えていたという。
それこそが茨木童子――キャスターのサーヴァントだ。
茨木童子は大江山の戦いで生き残り、美女や老婆に姿を変えて、頼光四天王の渡辺綱を襲ったと伝えられるので、少女の姿で現界しても不思議はない。また、伝承によってはそもそも女の鬼であったとも伝えられている。
キャスターがバーサーカーを恨むのも当然だ。首領格の源頼光や因縁ある渡辺綱ほどではないかもしれないが、坂田金時もまた仲間の鬼を討った怨敵。最大限の憎悪を抱くのも理解できる。
――理解できないのは、バーサーカーの反応である。
かつて倒した敵と再開して驚くのは分かる。だが、それだけで戦いを忘れるほどの衝撃を受けるものなのだろうか。伝承には残されていない、本人達しか知り得ない事情があるのではないだろうか。
「ほら、早く食べてしまいましょ」
黎花に促され、朝食に箸をつける。
料理は期待以上の味だった。その感想を本人に伝えると、まるで別人のように表情を崩して喜んでいた。
食事を終え、暫くの休憩を挟んだ後で、亜蓮は客室の一つに黎花を案内した。昔からの悪い癖で、亜蓮は頻繁に使うスペースこそ几帳面に掃除するのだが、使う頻度の低いスペースの清掃は後回しにしてしまう。客室はその典型例で、複数ある客室のうちまともに使える部屋はここだけだった。
「ここなら映像も出しやすいだろ」
「そ、そうね……カーテンも厚手だし!」
妙に上ずった声で答える黎花。以前そうしたようにカーテンをしっかり閉めて部屋を暗くし、映像投射用の仔フクロウの人形をセットする。
「マスターの透視力の映像までは記録できてないから、その辺は口頭で説明するわね」
黎花は前髪をかき分けると、おもむろに右の眼窩に指を入れた。ぐぽ、と湿った音がして、黎花の右眼が取り外される。それは人形用の
取り出した眼球を仔フクロウ人形の胴体に収めてから、代わりに黒い瞳の眼球を眼窩に嵌める。長く伸びた前髪のせいで分かりづらかったが、つい先程まで黎花の瞳は左右で色違いになっていたのだ。
「
以前と同じように、煙水晶の眼が白い壁紙に映像を映し出す――
――ひどく傷んだ教会。礼拝堂の最奥部。質素な椅子に腰掛けた色素の薄い女。亜蓮にとっては見慣れた顔。白銀継都。
『ではお話いたしましょう。この聖杯戦争に関わる物語を』
継都が行方を晦ましてから数ヶ月程度しか経っていないはずなのに、亜蓮は久しぶりに姉の声を聞いた気がした。
『事前に布告してあるとおり、此度の聖杯戦争は、私、白銀継都ともう一人の魔術師が連名で主催の立場を担っています。もう一人の素性は盟約により開かせません。ただ、その方はマスターとしても聖杯戦争に参加している、とだけ申し上げておきます』
『白銀よ。お前はどうした? そのサーヴァントはお前のものだろう』
『彼はサーヴァントではありますが、聖杯戦争の参加者ではありません。経緯についてはこれから詳しく説明させて頂きます』
映像の視線が動き、被写体が切り替わる。コートを羽織った男だ。亜蓮が事前に入手していた情報にも、この男と同じ風体の人物について記載があった。
「秋御宮!? こいつも参加してるのか!」
「サーヴァントはライダー。隣に立ってる奴よ」
すかさず黎花が補足を入れる。
ライダーといえば剣闘士風のサーヴァントが戦ったと自称していた相手だ。ライダーがあれほどの破壊を撒き散らせる宝具の持ち主なのだとしたら、相当な強敵になるだろう。そんなサーヴァントが秋御宮縣の手に渡っているのは脅威でしかない。
『私ともう一人の開催者……仮に”彼”と呼びましょう。事前にお伝えしてあるように、私と”彼”はそれぞれ独自の亜種聖杯システムを構築し、これを連結させることで七騎のサーヴァントによる聖杯戦争を実現しました』
ここまでは亜蓮にとっても既知の情報だ。
本当に重要なのは、ここから先。
『私は西洋錬金術を元にした西洋基盤の聖杯を、”彼”は東洋魔術を元にした東洋基盤の聖杯を。召喚可能数はそれぞれ四騎……つまり西洋の英霊と東洋の英霊を各四騎ずつ、合計八騎召喚可能な準備を整えました』
『それが七組の参加者のサーヴァントと、そこにいる”八騎目”か』
『はい。私は聖杯で願いを叶えるつもりはありませんから、聖杯戦争を円滑に進めるため
黎花からライダーとジャスティスのステータスについて補足説明を受けながら、亜蓮は継都の解説について思索を巡らせた。
東洋基盤聖杯と西洋基盤聖杯の並列稼働。それこそが東洋の英霊であるバーサーカーやランサーと、明らかに西洋の英霊だった剣闘士風のサーヴァントが同じ聖杯戦争に召喚されている
誰が考えたのかは知らないが、手の込んだ真似を思いついたものだ。
しかしそうなると、ひとつ気になることが浮かんでくる。
「……この仕組みだと東洋英霊を召喚した方が有利なのか」
サーヴァントは聖杯戦争の舞台となる土地との相性や、現地における知名度によって性能が変動する。いわばホームゲームが圧倒的に有利なシステムだ。現にバーサーカーは狂化なしでも高いステータスを誇り、茨木童子はキャスターでありながら三騎士の最低水準を上回っている。
聖杯戦争が公平な戦いだとは一切思っていないが、格差が大きくなり過ぎては儀式が成立しなくなるのではないだろうか。
そんな亜蓮の懸念を、黎花はあっさり否定した。
「大丈夫。それなら――」
『白銀。要するに東洋のサーヴァントを召喚した者が有利ということか?』
『もちろん配慮はしてあります』
秋御宮は当然のように問い、継都は当然のように答えた。亜蓮の思いつくようなことは織り込み済みだったらしい。
『東洋由来のサーヴァントには能力上限を儲けています。具体的には、本邦で極めて高い知名度を持つ西洋由来の英霊と同程度の性能までしか引き出されません』
『なるほど、それならば妥当だ』
『たとえヤマトタケルノミコトをセイバーのクラスで召喚しても、性能的には日本で召喚されたアーサー王と肩を並べる水準になるでしょう』
用意周到とはこのことだ。聖杯戦争の儀式を成功させるために心を砕いているのがよく分かる。
だが、どうして――
『話は充分だ。我々は失礼するとしよう。ライダーも、いいな?』
『構わん。元より儂には興味のないことだ』
――どうして白銀継都は聖杯戦争を成就させたがっているのか。これほどまでの時間と労力を費やしてまで。亜蓮はそれを知らなければならない。そのためだけにこの地へ送り込まれたのだから。
亜蓮が動機の推察に思考回路を集中させていると、隣に座る黎花が顔を覗き込んできて、大丈夫だとばかりに頷いた。
秋御宮が教会を去った後で、映像の中の黎花が改めて継都と向かい合う。
『継都お姉様。私からも質問よろしいでしょうか』
『ええ、どうぞ』
『お姉様は何故――聖杯の完成を目指しているのですか?』
それはまさに亜蓮が訊ねたかった問い掛け。
継都は少しだけ困ったような顔をしたが、すぐに口を開いた。
『錬金術師の本懐を遂げるためよ』
――亜蓮は思わず眉を顰めた。
『本来、錬金術とは魂の昇華を目指すもの。病んだ金属である非金属を完全な貴金属である金に変える手段を、人間の肉体や魂に用いることができれば――あるいは、金の錬成の過程で金属の
徐々に亜蓮の表情が険しくなっていく。
隣に座る黎花は、まるで自分に落ち度があったかのように不安そうな顔をしていた。
『数ある方法論の中には、不完全な金属が完全な金属へ変わる過程に間近で居合わせることで、自らの魂も昇華させられるというものもあってね。これ自体は大した効果が得られないと分かっているのだけれど、もしも金程度の錬成ではなく、もっと高位の存在を完成させる過程に立ち会えたなら――』
『聖杯の降霊、ですか』
映像の中の継都が頷く。
亜蓮は小さく首を横に振った。
『そう。それも劣化コピーの亜種聖杯ではなくて、あのアインツベルンが目指した七騎のサーヴァントによる聖杯……その成就に立ち会えば、願いを託さなくても私の望みは成就されるはず。だからこそ、私には聖杯を争う理由がないのよ』
その答えを区切りに、
映像が消えたところで、亜蓮は深く息を吐いた。
「ご、ごめんなさい。上手くいかなかった、かな」
「いや、本当に助かったよ。ありがとう」
亜蓮は偽らざる本心を口にした。黎花には何の落ち度もない。むしろここまでやってくれるとは思っていなかったくらいだ。
問題があるとすれば、それは継都の回答の方である。
金の錬成によって魂に良い影響を与える――それ自体は確かに存在する手法だ。しかしそれは、あえて言うなら神道の禊や基督教の礼拝のように、宗教的儀式によって精神を浄化する行為に近い。短絡的、短期的に目的を達するための行為ではないのだ。
簡潔に言い切ってしまえば、継都の説明は”街の教会ではなく歴史ある大聖堂に礼拝すれば、それだけで天国行きが確定する”と言っているようなもので、本職の錬金術師にとっては不可解この上ない発言だった。
「分かりやすく説明するのは難しいんだけど、姉さんの説明は多分嘘だ。本当の目的を隠してるんだと思う」
「やっぱり私は役に……」
「まさか。最高の成果だったよ」
隙あらばネガティブな発想に走る黎花を引き止めつつ、亜蓮は自分なりの推理を口にする。
「重要なのは、姉さんは嘘を吐いてでも隠したい目的を抱えてるってことだ。これが分かったのは本当に大きい。あくまで想像だけど、姉さんは――限りなく本物に近い聖杯を欲しがってるんだと思う」
亜蓮は半ばそう断言した。
物的証拠はないが、情況証拠から可能性は高いと睨んでいる。
第一に、単独開催ではなくわざわざ共同開催に踏み切ったこと。
亜種聖杯で充分なら、自分で用意した四騎分の聖杯を使って小規模な亜種聖杯戦争を開けばいい。そうしなかったからには相応の理由があるはずだ。
第二に、審判役を標榜する
進行役に徹するつもりなら、冬木の聖杯戦争の監督者がそうであったように、自分がマスターになる必要などない。マスターとしての権利、つまり聖杯を獲得する資格をキープしたまま『聖杯は求めていない』と言っても信憑性は薄い。
しかも、契約相手のジャスティスは単独行動スキルをAランクで保有しているという。召喚だけして契約を切り、令呪を放棄すれば、余計な疑いの目を向けられることなく、ジャスティスと共に進行役に徹することができたはずだ。
そうしなかったということは、やはりマスター権を維持しておきたい理由があるはずなのだ。
「それにしても、大急ぎで鈴ヶ峰に行ってもらって良かったよ。俺が行ったら確実に警戒されてたし、俺と鈴ヶ峰の繋がりがバレてからだと適当にはぐらかされてたところだ」
「で、でしょう? 私、役に立つんだから」
自慢気に胸に手を当てる黎花。ついさっきネガティブな思考に傾いていたばかりとは思えない変わり様だ。
黎花から報告を聞いたことで急ぎの用事の一つが消化された。他に優先して済ませておくべき案件といえば――
「――よし、あの用事も済ませておくか。鈴ヶ峰、俺はこれから暫く地下室に籠もるから、地下には近付かないようにしてくれないか」
「いいけど……だったら、その間にお屋敷を掃除していいかな」
亜蓮はすぐには返答しなかった。
ここは魔術師の一族としての白銀家の別邸だ。事実上の同盟関係にあるとはいえ、他の一族の魔術師、それも表向きには敵対関係にある家の当主に歩き回らせて良いのだろうか。
しかし、屋敷内の環境が劣悪だという現実からは逃れられない。使用頻度が多いであろうスペースだけが清掃され、残りは埃まみれで放置された状態では、急遽新たな空間が必要となったときに困るに決まっている。
そして亜蓮は、自身の性格上、必要となるまで清掃に手がつけられないだろうと理解していた。
「……大事なものが入ってる部屋には結界とトラップが仕掛けてあるから、その部屋以外を頼んでいいか?」
「任せて! 見違えるくらい綺麗にしてあげる」
「本気のトラップだからな。命に関わる出力だ。絶対に無理やり入らないでくれよ」
念入りに警告を重ねておく。脅しではなく本当に危険なのだ。侵入者の命を確実に奪うべく、堅牢な結界と致死性の多重トラップが仕込まれている部屋もある。まかり間違って黎花を死なせてしまったら、亜蓮個人としても白銀家としても申し訳が立たない。
人形を片付け、鼻歌交じりに客室を出て行く黎花。
亜蓮は必要な道具を集めてから、バーサーカーを召喚した地下室へ向かった。錬金術の行使には、やはりこの空間が一番適している。
「さて――」
地下室備え付けの作業台の上に素材と道具を広げる。
フラスコと溶液が複数。水銀と硫黄が必要量。砂金が一袋。赤い粉末がひとつまみ。
加えて、事前にバーサーカーから受け取っておいた頭髪が数本。
「霊体への性質転写形成法は何度か成功させたけど、サーヴァントの霊体を使うのは初めてだな……当然だけどさ」
水銀と硫黄をそれぞれ専用の液体に溶き、羊皮紙に複雑な魔法陣を描いていく。四隅と中央には赤い粉末。
魔法陣を拵えた次は、頭髪と砂金を魔法陣の所定の位置に配置する。
「――
精神のスイッチを切り替え、魔術回路を励起させる。
「
呪文詠唱が進むにつれ、バーサーカーの金色の頭髪が解れ、光の粒子と化して霊体へ姿を変えていく。
赤い粉末が発光する。砂金が不可視の何かを赤い粉末に吸い取られ、端の方からグズグズに崩れた非光沢の粒子に変わり果てる。
「
魔法陣が赤色と金色の入り混じった光に包まれる。
砂金から吸いだされた金の性質が、赤い粉末を触媒としてバーサーカー由来の霊体に転写され、物質化した霊体としての黄金を形成する。
「
光が弾けて消えた後には、朽ち果てた羊皮紙と変質し尽くした砂金の成れの果て、そして拳大の金塊が幾つか転がっていた。
この黄金はサーヴァントとしてのバーサーカーの一部も同然。バーサーカーが望めば肉体と共に霊体化させることも、逆に実体化させることも自由自在なはずだ。
「……ふぅ。上手くいった……というか大量過ぎるだろ。普通はこんなにできないんだけどな……。やっぱりサーヴァントの一部を使ったからか?」
魔術行使の成果をぶつぶつと呟き反省する。
何はともあれ十分な量の材料は確保した。後はこれを材料に使ってバーサーカー好みのアクセサリーを仕立ててやるだけだ。貴金属の形状操作は錬金術師の得意分野だが、やはり問題はデザインセンスか。
苦労して用意するのだから、完成品を贈ったら、少しはこちらのことを考えて動くようになって欲しいものだ――叶いそうにない願いを思い浮かべながら、亜蓮は金塊の加工に着手することにした。