空白の島と、ハザマダ ブンガク   作:木下望太郎

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最終話  空白の島と、ハザマダ ブンガクと、彼と私と。

 

 何度もカーブを曲がり、坂を上る。木々の影が不意に裂けた。光が白く、道の先から降り注いでいた。

 上り坂を抜け、山上を走る道路へと出たらしかった。その道の周辺は木々が途切れ、広く景色を見渡すことができた。切り立った谷、波のようになだらかな山すそ。その向こうに広がる、マッチ箱で作ったような町。

 

 空は青かった、海も。それらは遠く、同じ色をして溶け合っていた。おかげで、遠くの島は空に浮かんでいるようにさえ見えた。船もそうだった。雲が海に浮かんで見えることもあった。

 頭上を流れる雲は未だに不穏な色をしていたけれど、それは太陽の光を受けて、燃えるような金色に端から染まりつつあった。

 

 アクセルを緩める私に男がささやく。

「もう少し先へ、そう、もう少しだけ」

 

 景色に目をやりながらゆっくりと進む。と、景色ではなく、私の目を引くものがあった。

 辺りに木々の茂った急なカーブだった、ごく細い道だった。その道には黒く、急ブレーキをかけたようなタイヤの跡があった。辺りには細かく光る、ガラスの粒が散らばっていた。

 そして。カーブの内側、谷と言っていい斜面と道路を隔てる、細い手すりのようなガードレールは、根元から抜かれたような形で折れ曲がっていた。斜面に生えた草や細い木はどれも折れていた。その上を大きくて重い何かが滑り落ちていったように。

 

 私が何か考えるよりも早く男は言った。言ってくれた。

「事故だったのです、事故だったのですよ。無論貴女がいたとして、どうなるものでも一切なかった」

 思考が追いつくより早く、男は続けてくれた。その手の上にはなぜか、あの黒い本が開かれていた。

「免許を取ったのですよ、彼は。バイクのね、何度も不合格になっていましたが。どうにか受かった後、自分でバイクを買いましてね。練習に走り回っていたのですよ、島を。この辺りもね。……対向車でした、猛スピードの、見通しの利かない細道、どうしようもなく……ええ、もろとも。苦しまずに、彼は」

 

 私は車を停めていた。降りる。

 口が開いていた。体に力が入らなかった。へし折られたガードレールに近づくこともせず、ただ車の横で、その場所を見ていた。

 

 胸の中の言葉の渦は、ほどけかけて読み取れないまま、その動きを止めていた。目の前の光景に押し潰されたように。

 その塊からあぶくのように浮き上がった一つの言葉が、胸のあるべき場所へ、すとん、と収まった。

 

 死んだのだな、彼は。

 

 そう思った。悲しい、という言葉とは違っていた。

 

 目を閉じる。彼の姿が浮かぶ。子犬のように抱きついてくる彼。疲れて帰ったとき、部屋でご飯を作ってくれていた彼。私の肩に頭を預けて眠っていた彼。

 

 私は黙って、頭を下げた。ありがとう、今までありがとう。ただそう思った。

 

 男も車から降りていた。車体を挟んで反対側から私に声をかける。顔はガードレールの方を向いていた。

「不粋ではありますが。わたくしから申し上げておきましょうか。なにせ貴女は、頻繁に書店に立ち寄る方とは思えませんのでな」

 

 男は何かを誇るように、そしてそれを悟られまいとするように、薄く薄く笑っていた。黒い本を開いたまま。

「彼。口だけではございませんでしたよ。意外にもね。本にしていただけることが決まりまして」

 

 抑えきれないといった笑みを、男は私に向ける。

「そう文庫本に、新人賞で。いやいや、彼のは金賞(きん)でも銀賞(ぎん)でもなく、審査員奨励賞――見所無きにしも非ず、だとか、大きく欠けたれど大きく見所もあり、とかそういう賞ですな――でございましたがね。そう、あの作品を何度も書き直しまして。貴女をモデルとした、例の」

 

 あのときの。私の誕生日に、彼が持ってきた話。そう思うと、わけも分からず顔が熱くなる。

「あの話を?」

「ええ、あの話を」

「二年も書き直して?」

「審査期間もございますので、実質的には一年少々」

「人を勝手にモデルにして? ……ずっと?」

「ええ好き勝手に、ずっと好き放題に」

 

 何も考えられず、気がつくと。息がこぼれていた。笑うように、顔の筋肉が緩んでいた。

「キモい」

「まったくもって」

「ウザい」

「実にそのとおり」

「意味が分からない」

「そこについては一流でございますな、彼」

「本当に――」

 吹きこぼれそうな笑い声をこらえながら、私はうつむいていた。車体に手をついて、目をつむっていた。

「――バカバカしい、全然意味分からない……」

 

 気がつけばしゃがみ込んでいた。きつくつむったまぶたの間から、涙がにじんだ。

 

 彼は彼のままでいた、二年間。二年前のそのままでいてくれた。

 それとも、別の話を考えるのが面倒だっただけ? 免許を取ったのは?

 分からない。何も分からない、どう考えたらいいのかも。喜ぶべきか悲しむべきか、誇るべきか嘲るべきかも分からなかった。

 

 胸でわだかまっていた言葉の塊が、ほどけていく。端から端から、許されたようにほどけて、白く温かく溶けていく。

 

 胸の中には、何もなかった。そこには空白が満ちていた。言葉の塊とは違う、それ以上何も入らない空白が、胸いっぱいに満ちていた。

 その空白がただ、温かい。

 

「お顔を」

 近くで男の声が聞こえた。目元を拭って顔を上げると、男はそばにいた。

「もしも、そう、もしも。分かりたいとおっしゃるなら、彼のこと。方法は無きにしも(あら)ず、でございます」

 

 言うと、手にしていた本を示す。タイトルのない、黒い革の装丁の本。真新しいその表紙には大きなかき傷がついている。

「人は誰しも、一冊の書物でしかない……のでございまして。無論彼も……でございまして。お望みならば読まれますかな。彼という名の、一冊の書物」

 

 ぱらぱらぱらと、男の手がページを繰る。その手が音を立てて本を閉じ、しゃがんだままの私へと差し出した。

 

 手にした本は、温かかった。体温のように。脈打つように震えたのは本だろうか、私の手だろうか。

 

 両手で握って、少し迷って。立ち上がって、男へ返した。

「もう、読みましたから。分からないところも込みで」

 

 男は口を開け、それから笑った。何度もうなずきながら。

「なるほど、なるほど。実に、実に」

 

 男は姿勢を正す。本を小脇に抱え、ゆっくりと左足を引く。ひざまずくような姿勢で右手を胸につけ、礼をした。かぶっていたシルクハットを、その手に持って。

「豊かなる行間、暖かな空白にございます。よき読み手を得られたようだ、彼は……ええ、もうお嘆きではございますまい」

 

 男は顔を上げて小さく笑う。

「正直申しまして、彼がうらやましゅうございますな。文学は常に、読み手によって完成させられるものでございますので」

 

 立ち上がり、シルクハットをかぶる。そして言った。

「さて。此度(こたび)の貴女の物語、これにて終いとなりましょう。こちらのお役もこれにて御免、しばしの別れとなりましょう。ただしゆめゆめ忘れぬように、この一章が(しま)いとて、先の一生まだ続く。わけても決して忘れぬように、人は誰しも一人とて、文学からは逃れ得ぬこと。それはまるで自身の影から、いやいやまさに自身から、決して逃れ得ぬように。えぇ、決して」

 

 私は尋ねた。何度も尋ねたことを。

「あなたは、何なの。本当に」

 答える気があるのか、空を見上げて男はつぶやく。

「いえ、ね。本当はないんでございますがね、こんなこと。今回限りは特別で」

 ンフフ、と笑って続ける。

「貴女が奇蹟を信じずとも。奇蹟の方で、貴女を信じてみたわけでして。文学でございます、わたくしはただの。人がどう呼ぶかはともかく。文学は人に読まれるものですので。たまには文学の方でも、人を読んでみたいと思うもので。――それより」

 

 突然顔を近づけ、口元に手を添えてささやいてくる。妙に力のこもった表情だった。

「そんなことより。悔しかったのでございますよ」

「え?」

 

 鼻から息をこぼして男は笑う。怒ったような固い顔で。

「二年前のお誕生日、あの作品。大胆に飛ばし読みして下さったお陰でね。会えず仕舞(じま)いでございましたよ」

「は?」

「何も、何もでございますね! よりによってわたくし初の出番の行、その直前で飛ばさなくてもよろしいじゃございませんか! その後も何の偶然だか、うまいことわたくしの場面だけお飛ばしになって! こう見えても重要な役目を持った人物なんですがねわたくしは!」

 

 歯をむき出し、唾を飛ばして男は言い、その後大きく息をついた。歯を見せて笑う。

「ま。その辺も含めて、今日は愉快でございました。ああ、彼の本ですがね、来月辺り書店で探すとよろしいでしょう、彼の名を。小さな書店には多分ありませんがな。ま、その時にまた、ということで。今は、しばしの――」

 男は右手を掲げる。

「ちょっと、待って、あなたは――」

「――お別れを」

 男の手が指を鳴らす。その音がなぜだか耳鳴りのように響き、頭の中で何度も鋭く跳ね返り、私は思わず目をつむる。

 

 目を開けたとき、男の姿はどこにもなかった。

 風が吹いた。

なぜだか笑った。

 空を見上げる。金色の雲と光に満ちた空の間で、何かが光るのが見えた。それは天から降る美少女だったのかも知れないし、空を駆ける竜だったのかも知れない。ブンガクと名乗る男だったのかも知れないし、私に似た誰かだったのかも知れない。

 きっと幻には違いなくて、けれど、彼の見ていた世界だったのだと思う。

 

 私は息をついて、車にもたれて空を見ていた。

 携帯を取り出す。彼の家に立ち寄るため、家族から場所を聞くため、彼の携帯へ電話をかけた。

 

 

(了)

 

 

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