鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
呼吸ができない。
喉の奥に焦げついた鉄のような味が広がり、粘り気のある吐き気が込み上げてくる。俺は猛烈な勢いで体を起こすと、床に散らばる冷たい水を肺いっぱいに吸い込んだ。
「ハッ……! ガハッ、ゲホッ……!」
激しくむせ返りながら、床に両手をつく。
掌に触れるのは、湿った木目とザラついた砂の感触だ。鼻を突く強烈な磯の匂いと、安酒の混ざり合った腐臭。周囲を見回すと、そこは薄暗く湿気た木造の小部屋だった。足元には倒れた手桶と、そこから撒き散らされた水たまりがある。
(ここは……どこだ……?)
頭が割れるように痛む。前世の記憶――いつもの見慣れた自室、PCの画面、日常の景色――それらと交差するように、見知らぬ景色と感情の濁流が脳内に流れ込んできていた。
俺はふらつく足取りで立ち上がり、部屋の隅に置かれた小さな姿見へと這うようにして歩み寄った。
ひび割れた鏡面に映っていたのは――。
「……ッ!?」
言葉が凍りついた。
そこに立っていたのは、前世の俺ではなかった。
短く切りそろえられた黒髪。鋭く釣り上がりながらも、どこか深く暗い影を宿した瞳。頬は削げ落ちるように引き締まり、首筋には鍛え上げられた男特有の太い筋肉が浮き出ている。
見間違えるはずがない。
何度も何度も、漫画のページをめくってはその生き様に痺れていた男。
東の海を震撼させる凄腕の海賊にして、首領クリークの忠実なる右腕――“鬼人”のギン。
「嘘……だろ……」
自分の口から漏れた声に、鳥肌が立った。
低く、どこか掠れた、しかし芯の通った独特の声音。それは紛れもなく、鏡の中に立つこの青年の声だった。
俺は震える手で己の頬を強く叩いた。
パンッ――!!
乾いた音が狭い部屋に響き渡る。強烈な痛みが脳を突き抜け、視界がじんわりと赤く染まった。
夢ではない。現実だ。俺は、本当にあの『ONE PIECE』の世界に、それもギンの身体に転生してしまったのだ。
(落ち着け……考えろ。今の状況を整理するんだ)
俺は床に座り込み、深く息を吐き出しながら頭を整理し始めた。
自分の手を見る。右手の掌には固いタコができているが、原作のギンほど巨大な体躯でもなければ、全身に修羅場を潜り抜けたような傷痕があるわけでもない。
部屋を捜索すると、手垢のついた革の袋に数十枚のベリー硬貨と、この町の古い地図が出てきた。さらに、机の引き出しにあった新聞の日付を目にして、俺は息をのんだ。
――新聞に印字された日付。
(この日付……間違いない。ルフィが出航して原作の物語が始まる『12年前』だ……!)
鏡をもう一度覗き込む。
先ほどは自分の感覚で「15歳前後」に見えたが、前世の記憶と原作のタイムラインを頭の中で必死に照らし合わせ、俺は思わず息を吐き出した。
(そうか……! 原作開始時の25歳から逆算すると、12年前のいま、俺はまだ13歳か!)
13歳。まだ声変わりが始まったばかりで、骨格もできあがっていない少年の肉体だ。
そして何より重要な事実が判明した。
この部屋にも、ギンの記憶の中にも、まだ「クリーク海賊団」という言葉はどこにも存在していなかった。
(クリークは……まだ勢力を拡大している途中の弱小海賊か、あるいはまだ旗揚げすらしていない時期だ。俺はまだ、あいつの部下になっていない……!)
途端に、背筋を冷や汗が吹き抜けた。
原作における“鬼人”ギンの結末を、俺は痛いほど知っている。
首領クリークへの絶対的な忠誠と義理。その過酷な命に従い、騙し討ちを重ね、最後はグランドラインの洗礼を受けて壊滅寸前まで追い詰められた。餓死寸前のところをサンジに救われ、料理人への恩義と首領への忠誠の間で激しく葛藤した末に――毒ガス弾『M・H・5』を吸い込み、壊滅した海賊団と共に消えていったのだ。
(あんな死に方……冗談じゃねぇ)
拳を強く握りしめ、爪が皮膚に食い込む。
(俺はギンが好きだ。あいつの義理堅さも、あの凄絶な強さも尊敬している。だが……誰かの駒として使い捨てられ、毒ガスで死ぬ運命なんて絶対にゴメンだ!)
クリークの部下になる気は毛頭ない。
だまし討ちで成り上がるような不条理な男に命を預けるつもりもなかった。
(なら、どうする?)
選択肢は一つしかなかった。
(俺自身が、自分の足で立ち上がる。クリークの影になんて隠れない……俺の海賊団を作るんだ!)
胸の奥から、熱い塊が爆発するように湧き上がってきた。
ルフィが海へ出るまで、あと12年。
それまでに仲間を集め、船を整え、
だが――その熱い昂ぶりは、冷徹な現実に一瞬で打ち砕かれた。
(待て……今の俺に、何ができる?)
冷や汗が頬を伝う。
ここは東の海とはいえ、弱肉強食の海賊の世界だ。一歩町を出れば、山賊や荒くれ者が刃物を振り回している。グランドラインに入れば、山を削るような剣士や、天候を操る怪物、そして『悪魔の実』の能力者たちが手ぐすねを引いて待っているのだ。
今の俺の身体は、多少筋力がついた程度の13.歳のガキに過ぎない。
『剃』も使えなければ、『覇気』の「は」の字すら出せない。そんな状態で海に出れば、最初の海賊船に沈められて魚の餌になるのが落ちだ。
「……甘くねぇな。だが、やるっきゃねぇ」
俺は部屋を飛び出し、港町の外れにある人目のない荒地へと向かった。
赤土が剥き出しになった崖と、激しい波が打ちつける断崖絶壁。誰も来ないこの場所を、俺の「鍛錬場」と定めた。
「まずは……肉体改造だ」
前世の知識を掘り起こす。
『ONE PIECE』の世界の人間の肉体ポテンシャルは、前世の地球人とは比べ物にならない。だが、それは「正しく極限まで追い詰めた者」だけに与えられる恩恵だ。
「腕立て100回、腹筋100回、背筋100回……そして、この荒地を10キロ走る」
地面に手をつき、腕立て伏せを開始した。
「1、2、3……ッ!」
最初はスムーズだった。だが、30回を超えたあたりから、腕の筋肉が焼けるような熱を持ち始める。50回を超えると、肘がガクガクと震え出した。
「70……80……っ、くそっ……!」
前世の感覚なら、ここで諦めて身体を休めるところだ。しかし、ここで甘えれば待っているのは「死」だ。毒ガスに塗れて倒れる自分の姿が脳裏をよぎる。
「90……っ! 99……100……ッ!!」
地面に崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、次は腹筋、そして背筋へ移行する。
すでに汗が滝のように吹き出し、視界が明滅し始めていた。呼吸は浅く荒くなり、心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりに激しく脈打つ。
「ハァ……ハァ……最後は、ランニングだ……!」
重鉛を仕込まれたかのような両足を動かし、走り出した。
凸凹の赤土に足をとられ、何度も転倒する。膝や肘を強く打ち付け、皮膚が破れて血が滲む。それでも泥を舐めながら立ち上がり、前へ、前へと足を動かした。
喉が渇きで張り裂けそうだ。肺が引き千切れるような激痛が走る。
「もうやめろ」「休め」と脳が悲鳴を上げて叫んでいる。
「誰が……やめるかよ……ッ!!」
血の味がする唾を地面に吐き捨て、俺は夕日に向かってがむしゃらに走り続けた。
10キロを走り終えた頃、俺は荒地の草むらに倒れ込み、空を見上げた。
指一本すら動かない。全身の筋肉が断末魔のような叫びを上げている。だが、赤く染まる空を見つめる俺の心には、前世では一度も味わったことのない凄まじい「生」の実感が宿っていた。
(覚悟しろよ、この世界……。俺は絶対に、死なねぇ)
13歳、“鬼人”ギンの物語が、いま泥と汗の中で静かに動き始めた。