鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
「
17歳となったギンの佇まいは、もはや東の海(イーストブルー)に蠢く凡百の海賊どもとは明確に一線を画していた。
過酷な修行と数々の死線によって研ぎ澄まされた肉体は、無駄な脂肪の一切を削ぎ落とし、鋼のように引き締まっている。肩幅は広く、二本の鉄球トンファーを腰に下げる姿からは、すれ違う無法者たちを言葉もなく圧迫する凄絶な
「……おいギン、次の寄港地なんだがな。少々きな臭い情報が入ってるぞ」
中型帆船の船長室。薄暗い部屋の中で海図を広げていた
「クロネコ海賊団の船長、『百計のクロ』の野郎だ。懸賞金16,000,000ベリーの切れ者で、その頭脳と速度は東の海でも頭一つ抜けてる。……だが、最近どうも不可解な動きを見せてるらしい。海軍の追撃を警戒するふりをして、何やら巨大な裏の工作を進めてるって話だ」
「……クロか」
ギンはトンファーの鉄球部分を布で静かに磨いていた手を止め、暗い光を宿した瞳を細めた。
(5年前……モーガンを欺いて自身の偽者を捕らえさせ、世間的に『百計のクロは死んだ』と誤認させる偽装工作。そしてシロップ村の大富豪の屋敷へ、執事クラハドールとして潜伏する計画か)
前世の知識を持つギンにとって、クロがこれから打とうとしている一手など全てお見通しだった。
己の緻密な知略に自惚れ、同時に海賊としての命懸けの日々に疲弊した末の「平穏への逃走」。だが、あの「無音(シャクシ)」と称される圧倒的な速度と、冷徹に物事を見通す頭脳は、田舎村のおままごとで腐らせるにはあまりにも惜しい素材であった。
「少し、その頭脳《男》の面を直接拝みに行くか」
ギンが静かに立ち上がると、船長室のドアを威勢よく叩いて巨大な男が姿を現した。16歳となり、ますます巨体と装甲を増した「鉄壁」のパールである。
「ヘッ、また血生臭ぇ用事か? ギン! 俺の鉄壁の見せ所ならいつでも行ってやるぜ!」
「……ついて来い、パール。余計な手出しはするなよ」
「分かってるっての! お前の指示なしに暴れたりしねぇよ!」
ローグタウン近郊に位置する、潮の香りと湿気が立ち込める静かな港町。
真夜中の月明かりすら届かない裏路地の廃棄倉庫街で、黒いコートを身に纏った眼鏡の男――キャプテン・クロが、部下のジャンゴたちを前に静かに指図を出していた。
「……手筈に狂いはないな、ジャンゴ。海軍の巡視船を特定の海域へ誘導し、用意した偽者を捕らえさせる。これで『百計のクロ』という存在は、世界から完全に抹消される」
「フゥ〜! さすがクロ船長! 完璧すぎる計画だぜ! これで俺たちも……」
怪しげなリングを指で回しながらジャンゴが称賛の声を上げた、まさにその瞬間だった。
コツ……、コツ……、と静寂を切り裂く足音が、暗闇の奥からゆっくりと近づいてきた。
「誰だ!?」
クロの眼光が鋭く光り、一瞬で体勢を低く落とす。その両手には、指先に十本の長い刀身が装着された異形の武器――『猫の手』が滑らかに構えられていた。
静まり返る夜の空気の中、暗闇から現れたのは、身の丈を超える巨大な鉄盾を背負ったパール、そして腰に二本の鉄球トンファーを下げた17歳のギンであった。
「夜風を浴びながら、随分とスケールのちっぽけなおままごとの打ち合わせだな。『百計』の船長さんよ」
ギンの低く通る声が倉庫内に響き渡る。
クロの眼鏡の奥の瞳が、殺意を含んだ冷酷な光を帯びて細められた。クロは掌で眼鏡を押し上げる独特の癖を見せながら、静かに告げる。
「……私の顔と、計画の一端を知っているようだな。どこぞの海賊か知らんが、私の『完璧な計画』の邪魔をする者は、誰であろうとここで命を落としてもらう」
シュッ……!!
次の瞬間、クロの姿が視界から完全に消失した。
地面を蹴る音すら聞こえない超高速の移動術――
常人の動体視力では捉えることすら不可能な速度でギンの死角へと回り込み、クロの十本の『猫の手』が、ギンの首筋を無慈悲に切り裂かんと振り下ろされる。
「消えろ」
だが――
ガキンッ……!!
甲高い金属音が夜の闇に弾けた。
「……なっ!?」
クロの目が見開かれた。
ギンは振り返りもせず、背後へ伸ばした右腕の鉄球トンファーの側面で、クロの鋭利な十本の刃を完璧な角度で防ぎ止めていたのだ。
鍛え上げられた反応速度と、死線を潜る中で研ぎ澄まされた気配の察知能力――
「な……なぜ私の動きが読める……!? 無音の
「速度は悪くねぇ。……だが、お前が背負ってる『迷い』と『殺気』がダダ漏れなんだよ、クロ」
ギンは腕を力強くひと振りし、その圧倒的な腕力でクロの巨体を軽々と吹き飛ばした。
ドサリと着地し、低く構え直すクロ。その額からは、うっすらと冷や汗が滲み出ていた。ギンの全身から溢れ出る底知れぬ圧倒的な「武」の威圧感に、クロの直感が警鐘を鳴らしていた。
(何なんだ、このガキは……!? 東の海にこんな規格外の化け物が存在していたというのか……!?)
ギンはトンファーを構え直すこともなく、冷ややかな、だがクロの存在全てを見透かしているかのような瞳で見下ろした。
「平和な村に隠れて執事ごっこか? お前がどれだけ知恵を絞ろうが、己の牙を捨てて平穏に逃げようとしている限り、その計画は必ず破綻する」
「……貴様、どこまで私の計画を――!」
「お前は海軍の追跡から『逃げたい』だけだ。だがなクロ、一度海に出た人間が爪を隠して生きていけるほど、この海は甘くねぇぞ。お前が隠したつもりでも、その凶暴な爪は内側からお前自身を苛むだけだ」
クロの顔が怒りで引きつり、激しい殺気が爆発した。
「狂人が……! 私の『完璧な知略』を身の程知らずの妄言で汚すな!
視界の全てを差別なく切り刻む狂気の超高速殺戮術――
その瞬間、ギンが一歩前へ足を踏み出し、周囲の空間の重力を変えるかのような凄絶な覇気を放出した。
ズシン……ッ!!
「ぐっ……!? あ、身体が……!?」
クロの動きがピタリと止まった。全身の皮膚が針で突かれたような錯覚に襲われ、膝が恐怖でガクガクと震える。ギンの眼光は、まるで己の魂を直接叩き潰してくるかのようだった。
ギンは動けないクロの目前まで悠然と歩み寄り、その耳元へ静かに、だが一生消えない言葉を刻み込んだ。
「殺しはしねぇよ。お前がどんなくだらねぇおままごとをしようが勝手だ。……だが、覚えておけ」
「……何……だと……?」
「もしもお前のその『完璧な計画』が、ゴムのようにしなるバカなガキに打ち砕かれて絶望したら……その時は思い出せ。俺はお前のその頭脳と速度を、まだ諦めちゃいねぇぞ」
「――ッ!?」
ギンはそれ以上、一度も振り返ることなく背を向けた。
背後でパールが「おいクソメガネ、死にたくなきゃギンの言葉を肝に銘じときな」と凶悪な笑みを浮かべ、二人は闇の奥へと姿を消した。
残されたクロは、全身に嫌な汗をびっしょりと掻いたまま、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
(ゴムのようにしなるガキ……? 計画が破綻する……? 戯言だ……! 私の計画は完璧だ……誰にも邪魔などさせん……!)
しかし、ギンの放った圧倒的な存在感と、未来を予言するかのような恐ろしい言葉は、クロの精神の深層に拭い去ることのできない巨大な楔として深く突き刺さったのであった。