鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
荒地の風は、いつでも潮と赤土の匂いがした。
崖下に打ち寄せる白波の音が、絶え間なく鼓膜を揺らしている。
「ふぅーっ……ふぅーっ……ふぅーっ……!」
荒い息吐きとともに、視界が汗で揺れる。目に入った塩分が強い激痛を痛みに変えるが、それを拭う余裕すら俺にはなかった。泥に塗れた拳を、ただひたすら目の前の空間――己の影に向かって突き出し続けていた。
この世界に“鬼人”のギンとして転生してから、半年という月日が経過していた。
あの日、吐き気と全身の激痛に塗れながら始めた地獄のトレーニングは、いまや俺の日常そのものとなっていた。
毎朝の腕立て、腹筋、背筋は各三百回を超え、荒地のランニングは二十キロにまで伸びている。前世の現代日本人の感覚ならとっくに靭帯が切れ、骨が悲鳴を上げて壊れているはずの負荷だ。だが、この『ONE PIECE』の世界の人間が持つ異常な肉体潜在能力と、血と汗を吸い上げるたびに太くしなやかに再生する筋肉は、13歳の少年の身体を急速に「生きる兵器」のそれへと作り替えつつあった。
(だが……素手と基礎トレだけじゃ話にならねぇ。俺が目指しているのは、単なる格闘家じゃないんだ)
突き出した自分の拳を見つめる。
皮膚が何度も破れ、血が滲んでは黒ずんだかさぶたとなり、それが削れては固いタコへと変わった掌。だが、己の肉体をどれだけ鍛え上げようと、俺には絶対に手中に収めなければならない「象徴」があった。
“鬼人”ギンの真骨頂――あの独特極まりない武器の体得だ。
俺は荒地に置いた布袋から、その「武器」を静かに取り出した。
この半年間、修行の合間に港町の酒場で荒仕事を受け、泥臭く稼ぎ溜めたベリーをすべて叩き込んで打ってもらった特注品だ。町外れの偏屈な古い鍛冶屋に何度も断られ、最後に土下座まがいの交渉をしてようやく作らせた代物だった。
両手に握る、二本の鋼鉄製のトンファー。
だが、通常のトンファーとは根本的に構造が異なる。その先端には、ズシリとした途方もない重みを持つ二つの鋼鉄の球体が、太い鍛鉄の鎖で繋がれていた。
前世で漫画のページ越しに何度も目に焼き付けた、あの凄絶な武器そのものだった。
「……くっ……!」
足腰に力を込め、右腕を大きく振り抜く。
ブウンッ、と空気を切り裂く重低音が響いた。しかし、先端の鉄球が持つの重密な遠心力に引っ張られ、軌道が大きくブレる。すかさず手首を返して左のトンファーでその反動を受け止めようとしたが、慣性速度を制御しきれず、右の鉄球が俺自身の左前腕の骨へと容赦なく激しく打ちつけられた。
ガツンッ――!
「ぐあッ……!?」
骨が軋む嫌な音と共に、鈍い激痛が全身の神経を突き抜けた。たまらず膝をつき、左腕を強く抱え込む。
打ちつけた場所が一瞬で紫色のあざとなって腫れ上がり、視界がチカチカと点滅した。
「ハッ……ハッ……クソが……ッ!」
激痛に顔を歪ませながら、俺は膝をついたまま自笑した。
この半年間、毎日毎日この鉄球に自分自身の身体をぶん殴られ続けている。全身から打撲の青あざが消えた日など一日たりとも存在しない。
原作でギンが見せた、あの滑らかで破壊的なトンファー捌き。あれは漫画のご都合主義で簡単に身についたものでは決してないのだ。あの男が血反吐を吐くような凄惨な修羅場を潜り抜け、己の骨格と肉体の一部として馴染ませた果ての到達点だったのだ。
「自分の武器すらまともに扱えずに……海賊団の船長になんてなれるかよ……!」
歯を喰いしばって立ち上がり、再び二本の鋼鉄トンファーを低く構える。
遠心力を力任せでねじ伏せるんじゃない。手首の絶妙な返し、肘の押し引き、そして全身の体重移動のタイミングを合わせることで、鉄球の自由奔放な軌道を「誘導」してやるんだ。
振り下ろし、手首を返し、円を描く。
何度も、何千回も、何万回も。皮膚が擦り切れ、鎖の手応えが掌のタコに染み込むまで振るい続ける。
半年の過酷な鍛錬で、ようやく一撃の威力だけは巨岩を砕くレベルに達した。だが、実戦で縦横無尽に振るい、相手の刀や銃撃を捌きながら隙を突くという極致には、まだまだ程遠い。俺はいまも泥臭い「修行の途上」にいる未熟者に過ぎなかった。
夕刻、日が傾き始める頃。俺は汗と血混じりの汚れを川の水で洗い流し、古びた上着を羽織って港町の路地裏へと移動した。
修行の合間、俺は定期的に街の酒場や裏通りへと足を運び、泥臭く生計を立てながら情報収集を行っていた。
酒場の樽運び、船の荷揚げ、時には泥酔した荒くれ者の喧嘩の仲裁。13歳の少年にしては異質な体つきと鋭すぎる眼光は、裏通りの連中から一目置かれるようになっていた。
東の海の最新情勢。海軍の基地の配置、噂される海賊たちの動き。強くなることと同じくらい、この世界の「現在地」を知ることは生き残るために必須だった。
そして今日、酒場の裏口付近で仕入れ用の重い酒樽を運んでいた最中、商人たちの潜めた囁き声が俺の耳に留まった。
『――おい、聞いたか? 近々、ゴア王国に世界政府の偉い貴族様が訪問されるらしいぞ』
『あの“東の海で最も美しい”と言われる国か。だが、裏じゃ何やら不穏な噂も聞くがね……』
その会話を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たい緊張が走った。持っていた酒樽を地面に下ろし、気配を殺して耳を澄ます。
(ゴア王国……天竜人の訪問……!)
間違いない。
原作の歴史において、もっとも凄惨で、もっとも重大な分岐点の一つ。
ゴア王国の愚かな貴族たちが世界貴族天竜人を迎えるために、国の「汚点」とされる
そして――幼きサボが、天竜人の砲撃を受けるあの悲劇の時期。
(今が……12年前の『あの瞬間』なのか……!)
握りしめた拳が、微かに震えた。
サボが天竜人に撃たれる事件は、ルフィとエースの人生を決定づけた。
そしてその裏で、革命軍のトップである“革命家”ドラゴンが動き、瀕死のサボの命を救い出しているはずだ。
(いまの俺の力じゃ、世界政府や王国の軍隊と正面から渡り合うなんて到底不可能だ。武器の扱いだって、まだ完全に手中に収めちゃいねぇ……)
自問自答する。己の無力さは、この半年間の傷だらけの身体が一番よく知っている。
だが、だからといってこの平和な街でぬくぬくと木偶の坊のように素振りを続けているわけにはいかなかった。
(理不尽な世界の闇を……天竜人という存在の圧倒的な歪みを、この目で直接見ておかなきゃならねぇ。それに……)
修行の場を、あの過酷なゴア王国の外縁――コルボ山や不確かな物の終着駅の周辺へ移せばいい。
無法者が蠢くあの場所なら、生き抜くための実践的な鍛錬ができるはずだ。そして、サボを失って心を閉ざすことになる、10歳のエースの気配を追うこともできる。
「……行くか」
俺は腰のトンファーの柄を強く握り直した。
半年間で貯めたわずかなベリーと乾物などの食料を抱え、俺は小さな一隻の小舟を買い取り、夕闇の迫る海へと漕ぎ出した。
目指すは、ゴア王国。
未熟な技術と、発展途上の肉体。
だが、胸の中にある野望の火だけは、誰よりも強く燃え盛っていた。