鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
木造の小さな一隻の舟が、東の海の穏やかな波を押し分けて進んでいた。
手に入れたのは、数人も乗れば狭く感じるような無格好な中古の小舟だ。風を孕む小さな帆がひとつと、左右に一対の櫂。だが、いまの俺にとっては、己の意思で大海原へ乗り出すための唯一の翼だった。
「……ハッ!」
船の上、狭い甲板に踏ん張りながら、俺は腰の二本のトンファーを交互に突き出していた。
波の揺れに足元を奪われそうになるのを、下半身の筋肉で強引に抑え込む。不安定な足場だからこそ、体幹のブレが顕著に出る。
風を読み、波の揺れを吸収し、その動きを打撃の威力へと変換する。船上での鍛錬は、陸地での修行よりも遥かに過酷で、そして実践的だった。
(波に乗る感覚……これが、後の海戦で生きるはずだ)
汗を拭い、トンファーを腰のベルトへと収める。
海に出てから数日。干し肉と水で空腹を満たしながら、俺はひたすら西を目指して舟を走らせていた。
目指す場所は、ゴア王国。
“東の海で最も美しい国”と称えられる、巨大な障壁に囲まれた王国だ。
船を進めるにつれ、海の色がどこか淀み、空気の匂いが変わり始めた。
遠く水平線の向こうに、大地を切り裂くような白く巨大な王国の「外壁」が姿を現す。王族や貴族たちが暮らす「高台」と「中心街」、そして一般市民が暮らす「端の町」。徹底された身分制度と過剰なほどの隔離政策によって成り立つ、美しき偽りの国。
だが、俺の目的はその華やかな街並みではない。
「……見えてきたな」
俺は櫂を強く握り直し、小舟の舵を王国の巨大な外壁の「外側」へと切った。
そこに広がっていたのは――視界を覆い尽くすほどの、巨大なゴミの山だった。
不確かな物の終着駅。
国中から出た大量の不要品、ガラクタ、そして人間の生活廃物が無造作に捨てられ、積み上げられた死の町。
風に乗って漂ってくるのは、腐敗臭と焼却の煙、そして饐えた人間の汗の匂いだった。
砂浜に小舟を乗り上げ、周囲の様子を伺いながら上陸する。
足元には、壊れた家具や割れた瓶、謎の鉄くずがどこまでも埋め尽くされていた。
「おい、見ろよ……新顔だぜ」
「ガキが一人……いい身なりをしてやがる」
ゴミの山の陰から、ハイエナのようなギラついた視線がいくつも俺に向けられる。
ボロ布を纏い、痩せこけた体でナイフや錆びた鉄パイプを握りしめた男たち。この場所で拾い集めたゴミを漁り、その日暮らしを繋いでいる「無法者」たちだ。
だが、俺がゆっくりと歩みを進め、腰のトンファーに手をかけると、男たちの視線が徐々に恐怖へと変わっていった。
(なめられるわけにはいかねぇ)
鋭く目を光らせ、全身から醸し出す殺気を一切隠さずに放つ。
半年間の地獄の鍛錬と、無数の打撲を作りながら手に入れた筋骨隆々の肉体。そして何より、転生前から抱く「死線を超えてやる」という狂気が、13歳の少年の域を超えた圧倒的な圧となって周囲を威圧した。
「ヒッ……な、なんだあのガキの目つきは……!」
「関わるな……あれはヤバい奴だ……!」
男たちは蜘蛛の子を散らすように、ゴミの山の中へと姿を消していった。
俺は息を静かに吐き出し、不確かな物の終着駅の中へと深く足を踏み入れた。
歩けば歩くほど、前世の漫画で読んだ知識が生々しいリアルとなって俺の五感を打ちのめす。
ゴミに埋もれて横たわる病死者。わずかな食べ物を巡って殴り合う子供たち。高台の上に聳え立つ白い壁の向こうからは、何一つその悲惨な声は届かない。
「これが……世界の歪みか」
胸の奥が、冷たく冷え切っていくのを感じた。
ゴア王国は、世界政府の理念を極端に凝縮したような縮図だ。
美しいものを守るためなら、汚いものを壁の外へ追いやり、存在しないものとして扱う。
そして、数日後に迫っている「天竜人」の訪問。
この美しい国に「不要なゴミ」が存在することを恥じた貴族たちは、このグレイ・ターミナルを住人ごと、ゴミごと火を放って焼き払おうとしているのだ。
(狂ってる……だが、これがこの世界の『日常』なんだ)
拳を強く握りしめる。
自分が今いるのは、平和でぬるま湯のような前世の日本じゃない。弱者は理不尽に焼き殺され、強者だけが踏みにじって笑う、弱肉強食の地獄だ。
(強くなければ……自分の足で立ち上がらなければ、いつか俺もこのゴミのように焼き捨てられる)
その時だった。
「――おい! 待て待て待てぇ!!」
遠くゴミの山の裏から、騒がしい叫び声と怒号が聞こえてきた。
「逃がすか、クソガキども! 俺たちの獲物を盗んでただで済むと思うなよ!」
「ヒャハハハ! 追いついてみな、間抜け!」
足音が急速に近づいてくる。
俺が足を止めると、ゴミの山を飛び越えるようにして、二人の小柄な影が跳ね出すように姿を現した。
一人は、大きなワニの肉の塊を背負った、黒髪の少年。
もう一人は、黒いシルクハットをかぶり、大きな鉄パイプを両手で握りしめた金髪の少年。
「……ッ!?」
俺の息が止まった。
目の前を風のように駆け抜けていくその姿。
すれ違いざま、金髪の少年――サボが、驚いたように俺と視線を交錯させた。その隣で、鋭い眼光をギラつかせながら走る黒髪の少年――10歳のエース。
「サボ! 前に誰か……ッ!?」
「気にすんなエース、突破するぞ!」
二人とすれ違った瞬間、強烈な命の躍動感が俺の皮膚を刺した。
まだ幼く、傷だらけだが、どこまでも自由を求めてギラギラと輝く、生き生きとした命の力。
彼らの後ろから、長刀や斧を持った大人数の荒くれ者たちが怒号を上げて追いかけてくる。
「待ちやがれ、コルボ山のガキども!!」
荒くれ者の一人が、目の前に立っていた俺を邪険に蹴散らそうと手を伸ばしてきた。
「どけ、ガキ! 邪魔すんじゃ――」
その手が俺の肩に触れるより早く。
ガツンッ――!!
「がはっ……!?」
俺の右のトンファーが、男の腹めがけて容赦なく叩き込まれていた。
重い鉄球の衝撃が男の体内に突き抜け、大きな男の体がくの字に折れ曲がって宙に浮く。そのまま十メートルほど後方へ吹き飛び、ゴミの山へと激触して沈んだ。
「……あ?」
足を止めたエースとサボが、目を見開いて振り向いた。
追いかけていた荒くれ者たちも、何が起きたのか理解できず、凍りついたように動きを止める。
俺は腰のトンファーをゆっくりと旋回させ、鉄球の重みを手のひらで受け止めながら、冷たい視線を男たちに向けた。
「……うるせぇな。人が考え事してんだよ、失せろ」
13歳の鬼人が、ついに物語の渦中へと足を踏み入れた。