鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
「クソガキが……調子に乗ってんじゃねぇぞォ!!」
狂乱したブルージャムの咆哮が、燃え盛る火の粉とともに夜空へ轟いた。
目の前に立つ大男の巨体から放たれるのは、長年東の海(イーストブルー)の裏社会で泥と血に塗れながら生き抜いてきた者だけが纏う、粘つき、腐臭のするような本物の『殺意』だった。
半年間、独りきりで鉄球を振り回して得た修行の手応え。
そんなものが一瞬で吹き飛ぶほどの圧迫感が、十五歳の俺の全身の皮膚をピリピリと刺し貫く。
(これが……本物の海賊……命を奪い合う『実戦』の重みか……!)
ゴクリと唾を飲み込む。喉の奥がカラカラに乾いていた。
心臓が肋骨を内側から破らんばかりに早警報を鳴らし、汗がドッと全身から吹き出す。
冷や汗ではない。命のやり取りを前にして、肉体中の細胞が急速に覚醒していく熱い汗だ。
「死ねぇッ! 細切れになりやがれぇーッ!」
ブルージャムが身の丈ほどもある大刀を力任せに振りかざし、地を蹴った。
大人と十五歳の少年という圧倒的な体格差。伸びてくる間合いが、予想以上に広い。
ズバァンッ――!!
「っぐ……!?」
上空から振り下ろされた大刀の刃先を、俺は咄嗟に右のトンファーの柄で受け止めた。
直後、腕から肩、そして背骨へと抜ける尋常ではない衝撃波。
ドサリと足元のゴミ山が沈み込み、俺の膝がガクガクと激しく震える。
(重ぇ……! なんだこのバカ力は……!?)
「ハハハッ! どうしたガキ! さっきまでの威勢はどうしたァ! ガキの腕力でこのブルージャム様の斬撃を受け止めきれると思ってんのかァ!」
ブルージャムが凶悪な顔を歪め、さらに上から体重を乗せて大刀を押し込んでくる。
へし折れそうな腕の骨、軋む関節。刀身がじりじりと俺の首筋へと迫り、刃の熱気と血の匂いが鼻をついた。
「舐めるな……っ!」
俺は全身の筋肉を激しく収縮させ、軸足をわずかに外側へ滑らせた。
正面から力で押し返すのを諦め、トンファーの角度を斜めに傾けて刀身を受け流す。
ガシィンッ!
火花を散らしながら大刀が俺の肩先をかすめ、足元のゴミへと深く突き刺さった。
「ぬぁっ!?」
体勢を崩したブルージャムの隙を見逃さず、俺は左のトンファーを振るい、先端の鋼鉄球を奴の頬へ向かって叩きつける。
ガツンッ――!
「ぶふっ!?」
鈍い手応え。ブルージャムの顔面から鮮血が舞い散り、大男の巨体がわずかに横へとたじろいだ。
入った! 一撃で脳を揺らしたはずだ――そう確信した瞬間だった。
「――甘ぇんだよ、クソガキがァ!!」
「なっ……!?」
血を吐き出しながら、ブルージャムの濁った瞳が俺を睨みつけていた。
効いていないわけがない。だが、長年の修羅場で死線を潜り抜けてきたこの男は、激痛と衝撃を強引に肉体の狂気でねじ伏せてきたのだ。
ガッ!!
ブルージャムの空いた左拳が、大砲のような重さで俺の側頭部を捉えた。
「ぐはぁっ……!?」
視界が激しくグラリと揺れ、世界が真横に回転する。
激しい打撃の衝撃で脳が揺れ、耳鳴りがキーンと脳裏に響き渡った。
体が浮き上がり、そのまま数メートル後方の燃えるゴミの山へと豪快に叩きつけられる。
「カハッ……ごほっ……!」
口の中に熱い血の味が広がる。
崩れ落ちてきた燃える木くずが体に降り注ぎ、着物がじじじと焦げる匂いがした。
脳が揺れて立ち上がることができない。手足に力が入らず、指先が微かに痙攣する。
(ヤバい……! 意識が……飛びかける……!)
「ハハハハッ! 惨めだなァ、ガキ! たかが半年修行した程度の小僧が、海賊の命の奪い合いに首を突っ込んでくるからそうなるんだよ!」
重い足音が近づいてくる。
ブルージャムが足元の大刀を引き抜き、肩に担ぎ直しながら、あざ笑うように俺へ迫ってくる。
「終わりだ。その小生意気な頭をぶち切って、炎の中に放り込んでやる!」
死が迫る。
前世の知識も、綺麗事の理論も、目の前の凶器と殺意の前には何の役にも立たない。
ここで死ねば、俺の二度目の人生も、鬼神としての覇道も、すべてこのゴミ山で灰になって終わるのだ。
「誰が……終わるかよ……ッ!!」
俺は自分の舌を思い切り強く噛み切った。
ズキ筋ッ――!!
口内に広がる猛烈な激痛と血の味が、白濁しかけていた意識を強制的に覚醒させる。
揺れる視界を気合で押し戻し、俺は泥と血に塗れながら、必死に立ち上がった。
「ほぉ……まだ立つ根性だけはあるらしいな」
ブルージャムが不気味に目を細め、腰の大型拳銃を引き抜いた。
「だが、これで死ね!」
バンッ! バンッ! バンッ!
至近距離からの連続射撃。
逃げ場のない距離。脳揺れが残る身体では、完璧にかわし切ることなど不可能だ。
(かわし切れないなら――叩き落とす!!)
俺は死の恐怖を脳内から完全に締め出し、二本のトンファーを前方に交差させた。
目ではない。肌で感じる死線、空気の振動、引き金を引き絞る指の動きから軌道を察知する。
ガキンッ!
「な……!?」
一発目の鉛の弾丸が、奇跡的に右のトンファーの鋼鉄球に当たり、甲高い音を立てて弾け飛んだ。
だが、二発目、三発目を防ぎ切ることはできない。
ズバッ! ズバッ!
「ぐあっ……!」
二発目の弾丸が左肩の皮膚を深く削り取り、三発目の弾丸が右脇腹を浅く撃ち抜いた。
激痛が走り、鮮血が着物を真っ赤に染め上げる。
だが――死んではいない! 骨も臓器も外れている!
「もらったァァァッ!!」
銃弾で怯んだと確信したブルージャムが、勝利を確信して大刀を大振りに振り上げた。
懐が隙だらけになる、完全な大振り。命を奪うことだけに囚われた、三流海賊の隙。
「死ぬのは……お前だァッ!!」
俺は吐血しながら、残された全身の全全力を足裏へ集めた。
右脇腹の激痛を無視し、死力を尽くして前へ踏み込む。
ブルージャムの大刀が振り下ろされるよりも、ほんの一瞬早く。俺の肉体は奴の懐深くまで潜り込んでいた。
「なにっ……!?」
驚愕に目を見開くブルージャムの顔。
俺は腰の捻り、体幹の回転、そしてこの半年間で血反吐を吐きながら磨き上げた手首の返しのすべてを、右腕の一撃へと乗せた。
トンファーの先端、重密な鋼鉄の球体が、空気を圧縮して重低音を鳴らす。
(砕けろォォォッ!!)
ガツゥゥゥンッ―――!!!!
みぞおちへの直撃。
ただの打撃ではない。鋼鉄の球体が持つ圧倒的な質量と、極限まで練り上げられた遠心力が、ブルージャムの分厚い腹筋と肋骨を押し潰し、内臓へと直接破滅的な衝撃波を叩き込んだ。
ゴバァッ――!!
ブルージャムの口から、吐血どころではない大量の血と胃液が激しく吹き出す。
巨体がくの字に折り曲がり、背中の服が衝撃波でバリバリと破れ散った。
「が……あ……っ……!?」
ブルージャムの目が完全に落ち、眼球が白目を剥く。
数秒前までの凶悪な威圧感は完全に消え去り、大男の巨体はまるで崩れる砂の城のように、豪快に音を立てて泥の中へ膝から崩れ落ちた。
ドサリ……ッ。
不確定物終着駅を長年支配していた無法者、ブルージャム。
その男が、十五歳の少年の振り下ろした鉄球の一撃によって、沈黙した。
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ……!」
膝を折りそうになる足を気合いで踏みとどまらせ、俺は荒い息を吐き続けた。
右脇腹と左肩からの出血が止まらない。全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界がちかちかと点滅している。
トンファーの先端から、ぽたり、ぽたりとブルージャムの血が滴り落ちて地面を染める。
(勝った……のか……俺は……)
手のひらに残る、骨と肉を砕いた生々しい感触。
命を懸けた殺し合いの末に掴み取った、あまりにも重く、泥臭い勝利。
「ひ……ヒィィィッ! ブルージャム船長が……やられたぞーッ!」
「化け物だ! あのガキ、化け物だァーッ!」
残っていた部下たちが、完全に恐怖で発狂し、武器を投げ捨てて炎の向こう側へと逃げ惑っていく。
静寂が訪れる。
炎が燃えるバチバチという音だけが響く中で、俺はゆっくりと振り返った。
そこには、傷だらけの身体で立ち尽くすエースとルフィがいた。
二人は足元に転がるブルージャムの巨体と、血塗れになりながら仁王立ちする俺の姿を、言葉を失った顔で見つめていた。
「おい……お前……」
エースの声が、微かに震えていた。
生意気で、野犬のように鋭かった十二歳の少年の瞳に浮かんでいたのは、恐怖でも警戒でもない。
己の命を救ってくれた者への、そして圧倒的な「強者」に対する、隠しきれない畏怖と敬意だった。
「……死にかたな……三流海賊が……」
俺は掠れた声で強がりを言い、足元の血をトンファーで払うと、静かに腰のベルトへ収めた。
命を奪い合う死闘を潜り抜けた。
十五歳の鬼人・ギンの中にあった「甘さ」は、この炎と血の中で完全に焼き尽くされたのだ。