鬼神と呼ばれた男 作:鬼人
死闘の翌朝。
燃え盛っていた不確かな物の終着駅の炎は、焼き尽くすものをすべて奪い去り、白く不気味な煙だけを空へと吐き出していた。
「クッ……カハッ……!」
海岸沿いの暗い洞窟の中で、俺は己の荒い息遣いで目を覚ました。
全身を襲うのは、叫び出したくなるほどの猛烈な激痛だ。
ブルージャムとの死闘で負った、左肩の削られた弾傷と、右脇腹を貫いた銃創。そして全身の至る所にある激しい打撲と火傷の跡。
手持ちの古い布を破り、酒で創口を洗って固く縛り上げてあるが、少しでも身体を動かすたびに激痛が走り、傷口からにじんだ血が布を真っ赤に染め上げていく。
(死にかけた……。前世の知識や、自分なりの修行だけで調子に乗っていた俺の甘さだ……)
壁に背中を預け、冷や汗を流しながら自嘲気味に笑った。
ブルージャムという東の海の三流海賊一人に、ここまで追いつめられ、命を奪われかけたのだ。
この世界には、あの程度の無法者など吐いて捨てるほどいる。ましてやグランドライン、そして新世界となれば、化け物たちが蠢いているのだ。
(強くならなきゃならねぇ……。技の精密さも、身体のタフさも、命を張る覚悟も……すべてにおいて、いまの俺じゃまだ足りねぇ……!)
俺は固く拳を握りしめ、痛む体を引きずるようにして立ち上がった。
洞窟の外へ出ると、冷たい海風が頬を撫でた。
今日だ。
原作の歴史通りなら、貴族の家へと連れ戻され、心の底からこの国の腐敗と狂気に絶望したサボが、小さな小舟を盗み出して一人で海へ出出航する日は。
俺はトンファーを腰に差し直し、足元をふらつかせながらも、海岸線の小高い丘へと登っていった。
「ハッ……ハッ……ハッ……」
脇腹の傷が激しく痛み、一歩踏み出すごとに意識が遠のきそうになる。
だが、俺の足は止まらなかった。
あの優しく、誰よりも自由に憧れていた金髪の少年の旅立ちを、そしてその過酷な運命の瞬間を、この目に焼き付けなければならないという強い想いが俺を突き動かしていた。
港を見下ろす断崖の陰に身を潜め、水平線を見つめる。
ゴア王国の港は、朝から異様な緊張感に包まれていた。
世界貴族である「天竜人」の視察船を迎えるため、豪華な飾り付けが施され、兵士たちが厳重な警戒態勢を敷いている。
そして――街の港から、小さな一隻の小舟が静かに滑り出してきた。
遠目からでもわかる。黒いシルクハットをかぶり、自分で作つた下手くそな海賊旗を掲げた、小さな少年。サボだ。
(やっぱり、行くんだな……サボ)
俺は息を殺し、丘の上からその小舟を見つめた。
サボは笑顔だった。窮屈でヘドロのような貴族の暮らしを捨て、広大な海へ飛び出した解放感に胸を躍らせているのが、遠くからでも痛いほど伝わってきた。
だが――運命の悪戯は、あまりにも残酷だった。
沖合から、見上げるほど巨大で豪華絢爛な天竜人の視察船が近づいてくる。
サボの小さな小舟は、その巨大な船の進路を遮る形になっていた。
「おい……避けろ! 逃げろサボ……ッ!」
声にならない言葉が、俺の喉から漏れ出た。
知っている。この後に何が起きるのかを、前世の知識として知っている。
だが、いまの俺の距離と、傷ついたこの身体では、叫んだところでサボの元へ届くはずもなかった。
巨大な視察船の甲板の上に、奇妙な仮面と衣装を着けた男――天竜人が姿を現した。
男は大砲の照準を、ただ自分の前を横切ろうとしただけの、サボの小さな小舟へと向けさせた。
「下等生物の分せいで、余の船の前を横切るなど……許さんえ」
無慈悲な声とともに、大砲の引き金が引かれた。
ドォォォンッ――――!!!!
腹に響く凄まじい砲撃音が、穏やかな海を揺らした。
「サボォォォーッ!!」
俺の視界の中で、サボの乗った小舟が激しい爆煙とともに吹っ飛んだ。
海賊旗が引き裂かれ、燃える船の木くずが、真っ赤な炎となって海面へと散らばっていく。
たった一発。
ただそこにいたという理由だけで、世界の頂点に立つ者の気まぐれと理不尽によって、一人の少年の夢と命が踏みにじられたのだ。
「う……あぁ……っ……!」
俺は断崖の土を、爪が割れるほど強くむしり取った。
胸の奥底から、ブルージャムとの戦いの時とは比べ物にならないほどの、ど黒い殺意と怒りがドロドロと溢れ出してくる。
(これが……これが天竜人……! これが、この世界を支配する『理不尽』の正体か……!!)
歯が砕け散るほど強く噛み締め、口の中に血の味が広がる。
悔しかった。己の無力さが、弱さが、情けなくて仕方がなかった。
目の前で幼い知人が撃ち抜かれ、海に沈んでいくのを、ただ丘の上から指をくわえて見ていることしかできない己の存在が、許せなかった。
(覚えておけ……! 覚えておけよ天竜人……ッ! いつか……いつか絶対に、この鉄球でお前たちのその腐った頭をぶち砕いてやる……!!)
俺が胸の中で狂おしいほどの誓いを立てていた、その時だった。
ザァッ……。
突如として、背後から気味が悪いほどの強い風が吹き抜けた。
ただの海風ではない。周囲の空間そのものが歪むような、異様な圧迫感を伴った突風だ。
「……!?」
俺は激痛の走る脇腹を押さえながら、素早く振り返った。
いつの間にそこに立っていたのか。
断崖の縁、風に緑色の大きなコートを激しくなびかせながら、一人の男が静かに海を見下ろしていた。
顔の左側にある、独特な赤い刺青。
鋭く、すべてを見透かすような鷲のような眼光。
立っているだけで周囲の空気を重く押し潰すような、狂暴なまでの存在感。
(革命軍……モンキー・D・ドラゴン……!!)
俺の心臓が、ドクンと跳ね上がった。
世界最悪の犯罪者と称される男。ルフィの父親であり、世界政府を倒そうとする革命軍の頂点。
ドラゴンは、背後にいる俺の存在に気づいているはずだった。だが、男は振り返ることなく、ただ悲劇の起きた海を静かに見つめていた。
「……身勝手な理不尽に、腹が立つか。少年」
ドラゴンが、低く、重厚な声で呟いた。
俺に向かって放たれた言葉なのか、それとも己の内に秘めた怒りを漏らしただけなのかはわからない。
「……当たり前だ」
俺は全身の激痛に耐えながら、鋭い眼光でドラゴンの背中を睨みつけた。
「上が腐ってるから、下の人間が踏みにじられる。……そんな世界、反吐が出るほど嫌いだ」
俺の言葉を聞き、ドラゴンはわずかに口元を和らげたように見えた。
「そうか。……なら、生き延びろ。己の足で立てぬ者に、この世界を変えることなどできん」
直後、バサッと緑のコートが大きく翻った。
猛烈な一陣の風が吹き荒れ、俺が思わず目を細めた一瞬の隙に――ドラゴンの姿は、まるで煙のように消え去っていた。
見上げると、一筋の黒い影が、サボの沈んだ海域へ向かって凄まじい速度で海面を滑っていくのが見えた。
(サボを……助けに行ったのか……!)
歴史通りだ。サボはここで死なない。ドラゴンによって救われ、革命軍として第二の人生を歩むことになる。
その事実を確認し、俺は深く、重く息を吐き出した。
「ハッ……ハッ……」
緊張の糸が切れた瞬間、全身の激痛と血の喪失による激しい眩暈が俺を襲った。
視界がグラグラと揺れ、膝から崩れ落ちそうになる。
だが――俺の心の中の炎は、燃え上がっていた。
「生き延びろ……か。言われなくても……生き延びてやるさ」
俺は腰の二本の鋼鉄トンファーの柄を、固く、固く握りしめた。
サボの命は繋がった。
そして俺もまた、この地獄のようなゴア王国で己の「甘さ」を捨て、世界に対する本当の「敵意」を抱いた。
夕刻、俺は血を流しながらも小舟へと乗り込み、ゴア王国の港を後にした。
向かうは、東の海の広い大海原。
傷を癒やし、己の技と肉体をさらなる高みへと昇華させ、自分だけの「覇道」を進むための旅が、いま本当の意味で始まったのだ。