「あら、ポーラ。久しぶり」
「ミス・ダブルフィンガーと。いえ、それももう無駄なのかしら?」
ニコ・ロビンはバロックワークスの本拠であるレインベースへ戻った。出迎えてくれたのは、オフィサーエージェントへの情報伝達やサポートを行っていた女性エージェントの筆頭である、毒グモのザラ。仕事上、それなりに付き合いのある間柄だった。
工作活動をするためのエージェント衣装ではなく、スパイダーズカフェの店主姿だったためそう呼んだが、彼女は皮肉げにコードネームを言った。
彼女は聡明だ。自分自身よりも、ニコ・ロビンをどう呼ぶべきかを訊ねたのだろう。同時に、まだ組織の一員であるとも告げている。
バロックワークスは便宜上、解散しているからだ。仕事でもないのにコードネームとか、冗談でしかない。
あだ名で呼ぶ、をより洗練化したコードネームという技法は、情報の秘匿だけでなく、それを知る者にとって端的にわかりやすいという利点がある。
諜報技術の未発達なこの世界では、最先端だ。必要なことだったし、便利でもあった。
決して、決して恥ずかしいということはない。バロックワークスが解散して、素に戻ったとかはない。
今さら、本名で呼ばれることに、抵抗はあるけれども。
「そうね。やはり、ポーラでいいわ」
「私のことは、好きなように呼んで」
「構わないのかしら?」
「さぁ? でも、それが社長のお望みなら」
「そう、じゃあ、ロビン。おかえりなさい」
「ええ、ただいま」
そっけなくはあっても、心地よいやり取りだ。裏社会特有の気遣いと、機知に富んでいる。事情を互いに話すことなく、最低限の立場、敵味方などがわかる。常識のある世界に戻ってきた安心感がある。
あの常識が一切通じない船では、困惑するか笑い転げるしかなかった。
我慢とか無理だった。年甲斐もなく、ワクワクした。なんのてらいもなく、他人の恋バナで無責任に盛り上がった。
化粧の話。ファッションの話。お金や男の愚痴。
敵だったはずのあの船でした話は、どれも下らないものだった。楽しかった。実に青春である。
なにを口にするか取捨選択することもなく、全力で彼女をさらけ出せた。隠すことも誤魔化すこともなかった。
龍驤もナミも、誰一人、ニコ・ロビンになど価値を認めていなかった。頭の中身に用などなかった。彼女はあの船で、ただ一人の女性としてあれた。
世界的犯罪者である、ニコ・ロビンが、だ。
考古学に興味がないというならわかる。だが、そんなことはない。理解しようとしないだけで、麦わらの一味はワンピースを目指している。ワンピースには、ポーネグリフの知識は必須だ。
青春ごと教えられたのは、ニコ・ロビンである。もはや、アラバスタ以外でポーネグリフの在り処に心当たりのない彼女が役に立てることがない。
ニコ・ロビンは知らなかった。クロコダイルに言われて、初めて知った。あの宣言の後、ロジャーを超えようとした新世界の海賊たちが、密かに探していたのだと言う。ワンピースと空白の百年には繋がりがあったのだ。
しかし、白ひげが求めず、勢力が均衡するに従って、そんな夢物語は忘れられた。たかが、石一つ。見つからないし、見つけても成果にならない。
当然だ。ポーネグリフには種類がある。全てのポーネグリフを辿らなければ、真の歴史には到達出来ない。
新世界だけではダメなのだ。世界を巡り、情報を持つ石を見つけなければ、隠された真実には到達出来ない。
出来ないことをどれだけやっても、その努力は報われない。
ポーネグリフを読めない海賊たちでは、それすらもわからなかったのだろう。だから、諦めた。勢力を固めた。
だとしたら、この均衡には平和以外の意味がある。
クロコダイルはこうも言った。ロジャーは一度、グランドラインを戻っている。
ニコ・ロビンは、クロコダイルを侮っていた自分を後悔した。
ワンピースに必須であるポーネグリフ。それを探す自分が、楽園にいた。それだけで彼は察した。
新世界でなにをしても、ワンピースなど見つからないと。そんなものは、世界そのものを支配してからで充分なのだと。
この均衡は、平和のためなどではなく、ただ真実に辿り着くことを防ぐためだけのものなのだと。
国が荒れても、政府は放置する。大海賊時代を終わらせるつもりはないのだ。むしろ、続けたいのだ。
平和はまやかしである。
だとするならば、白ひげの配下が楽園を彷徨いている現状を、世界政府が許容するはずがない。
戦争が起こる。そして、同時に、自分はいらないのだ。
クロコダイルの目的は世界征服。全てを手に入れるために、世界中がワンピースを目指したこの時代にあって、全てを手に入れてから、ワンピースを掴むつもりの狂人。
古代兵器だとて、ニコ・ロビンの手を借りずとも、ゆっくり探すつもりなのだ。
そして、多分、ワンピースを手に入れるのは、ただただ白ひげを越えるついでだ。
ロジャーも白ひげも越えた。そう、認めさせたいだけで、長年の相棒であった自分すらも、不要の一言で処分出来る策を練っていた。
なんという徒労だろう。
世界を滅ぼすと言われたオハラの叡智が、こんなにまで無視される。
オハラにその意志がなかったのはその通りだが、もうちょっと野望の対象になってもいいじゃないか。
夢やロマンとして、認められもしないのか。
なんで、新世界から誰も探しに来ないのだ。簡単に諦められるのだ。別のものに目移りしてしまうのだ。
結局のところ、やはり濡れ衣に過ぎなかった。敵が多いどころか、味方すらいない。利用価値もない。そんな下らない夢だ。歴史の探求というものは。
オハラは正しかった。それがわかって、意地みたいなものがぽっきりと折れた。執念が、消えてしまった。
残ったのは、純粋な好奇心。
ニコ・ロビンは一人だ。しかし、オハラにはたくさんの学者がいた。同じものを求めてはいたが、アプローチの仕方は違った。
様々な角度から、歴史を検討したはずだ。ニコ・ロビンが継承した知識は、ほんの一部に過ぎない。
地層学というものを知った。古代を閉じ込めたはずの島が、千年に満たないほど新しい。堆積と侵食のメカニズムを知れば、リトルガーデンの不自然さを究明するのに、一年の滞在時間では足りないようにすら思えた。それは世界もだ。
常識がいかに恐るべきものか知った。真実を探究する邪魔でしかない。固定観念からは、なにも生まれない。常に疑問を持たなければならない。
それは一人では実現出来ない。限界がある。
彼らが見たものを見たい。ニコ・ロビンの内側に、猛烈な欲求が湧いた。
歴史の真実でも、空白の百年でもない。結論などどうでもいい。そこに至った過程を、余すところなく感じたい。
なにを見て、どう分析し、どのように組み合わせて、どんな仮説を立てたのか。それをどうやって証明しようとしたのか。
彼らは、オハラはなにを知ったのか。
ニコ・ロビンは、自分が求められていないと知って、初めて学者に戻れた。世界政府に呪われて、犯罪者として生きてきた半生を捨てられた。
今、ニコ・ロビンは、アラバスタにあるポーネグリフよりも、この国の歴史書が読みたい。遺跡を散歩したい。
ニコ・ロビンは暴走している。
彼女は早足に地下へ向かった。
レインベースの地下には、巨大なとっくり型の地底湖がある。クロコダイルがその能力で岩盤をくり抜き、汲み出したその水量は、歓楽街であるレインベースを支えて余りある。クロコダイルの影響力工作にも使われた。
湖面はクロコダイルの居城であるレインディナーズ・カジノに塞がれているが、実際の大きさはレインベースを丸ごと沈められるほどだ。
誰も気づいていないが、レインベースは水上の都市である。
自覚もなくクロコダイルに乗せられて、平和どころか、浮ついていた。砂漠のど真ん中にありながら、暑さから身を守る布地を減らして、民族衣装のテイストを備えたオシャレに気を使う住民たちが暮らしていた。
心配事などなにもないかにみえた。
どこか反乱にも無関心な街だったが、終わったという知らせを受けて、復興のためにキャラバンを組もうとする集団がいた。この街を離れようとする人々が、そこかしこで笑顔を交わしていた。ここも、アラバスタだった。
反乱の中でむしろ華やかに発展していた街は、平和になって寂れようとしている。
その中心もまた、寒々としていた。
水中の広間。クロコダイルの、バロックワークスの本拠。豪華ではあっても絢爛ではなく、少ない家具はこじんまりとまとまっていて、そこの居心地だけはいい。
それ以外にはなんにもない空白の目立つ空間。
クロコダイルの虚栄心が、この無駄な部屋を作り出していると思っていたが、違う。
ここも、数年を二人で仕事したこの部屋も、いざとなれば水底に沈めて捨てる気だったのだ。
だから、仕切りもなく、ガラス張りなのだ。
いくら疑い深いクロコダイルでも、そんないざは限られている。なんたって秘密結社の社長なのだ。
まずバレないし、バレてもここには迎えないし、なんなら引き払う。ガラスを割れば一瞬で、なんてギミックはいらない。
そんな状況を避ける方が優先だからだ。
ということは、広いだけで凄い落ち着かないこの仕事場は、能力者であるニコ・ロビンの裏切りや暗殺を警戒して用意された。それだけじゃないとクロコダイルは言うだろうが、それぐらいしか理由がないような無駄な部屋を作って、無駄に時間を過ごして、無駄にストレスをためていた。
ニコ・ロビンは、クロコダイルが質を要求する人間だと知っている。つまり、効率を好む。それでなくとも船乗りで海賊が、自分の手の届かない範囲にものがあって楽しいわけもない。
綺麗好きなクロコダイルは、どこかの船長のように、自分の能力を気軽には使わない。
この広間は、見せかけだ。そんなニコ・ロビンへの警戒とか、明らかに自己満足の類だ。俺は人を信用していないという、ポーズがしたいだけだ。
だって、側近をもう一人置いて、互いに監視させるだけでいい。
それをしないということは、ニコ・ロビン一人で手一杯だからだ。国や世界政府を欺き、会社やカジノを経営して七武海やりながら、女一人にキャパオーバーとか、どれだけ人を疑うのが苦手なんだ。
仕事とプライベートだと違うのかと思っていたが、全然そうではなかった。
クロコダイルは怖がりなのに虚勢を張る、ただの男の子だった。
広間を見下ろすエントランスから、残ったオフィサーエージェントを侍らすクロコダイルを眺めて、ニコ・ロビンはそんなことを思った。
Mr.1と3が背後に立っていて、ボン・クレーが回っている。黄金週間は離れた場所でお茶をしている。クロコダイルは椅子にもたれて、ダラリと足を伸ばしてる。その足元には、ダックスフンドが寝ている。
なんかあいつ、二人のときよりリラックスしてる。
「なにしに来た?」
「ちょっと手伝って」
ニコ・ロビンの笑顔を見て、クロコダイルは天井を仰いだ。
「染まりやがったな?」
「情報をあげるわ。彼らの、そう、今後について」
「ああ、クソが」
クロコダイルがヤサグレた。
なんか知らんけど、面白そうな気配を、バロックワークスの面々は感じた。
麦わらの一味は、今世紀最大の修羅場を経験していた。もはや、どうしていいかわからなかった。明らかに腰が引けていた。
「申し訳なかった!!」
七武海が土下座してる。ナミを前に、手をついている。
無駄に美しいが、でっかい。頭を下げているのに、それでも上にあるのでナミが気圧されている。というか、ドン引きしている。
ちなみに、日本における作法とは違うので、丁寧な座礼でしかない。正座じゃないし、お腹が大きいし。
「わしの責任じゃ。わしが、わしが始末をつけてやらねばならなかった」
「やめてよ」
「そ、そうだぞ。まずは頭を上げてくれ!!」
ウソップが縋りつくが、びくともしない。残りの男どもは腕を組んで、唇を結んで、龍驤を見ている。龍驤はチョッパーたちに説明をしている。
どうしたらいいんだろう。あと、丸投げしようとするのやめろ。ウソップを助けよう。
ちなみにサンジは拘束されている。シャレ抜きにジンベエを殺しにかかったので。
「アーロンは、わしの、弟分じゃった。なにかあれば、どこへでも飛んで行くつもりじゃったのに」
「キミには知らせんやろ。始末なんか出来んと、見放しとったはずや」
「そんなことは!!」
「実際、殺せんかったやろ」
「なんだと?」
「おい、龍驤。余計なことを言うな」
「ごめん」
ジンベエが歯を食いしばり、龍驤は後ろに下がった。ゾロは訝しげだが、ルフィははっとした。ビチビチしてたサンジも気づいた。
龍驤が傍観に回ってしまった。してやられた。
悔恨に満ちた表情で、ジンベエは再び頭を下げる。
「返すがえすも、申し訳ない」
「本当にやめて。あなたに恨みなんてないのよ」
「しかし、魚人のしたことだ」
「魚人とか関係ないわよ。っていうか、これはアーロンとわたしの問題じゃない。それとも、あんたの差し金だったの?」
「そんなことはない!! そんなことはないが」
「関係ないんでしょ? そうよね、龍驤?」
「懸賞金は掛け直されとる。公式には無関係やな」
ナミは呆れたように、髪をかきあげる。
「迷惑なのよ。そんないきなり、立ち入られても。わたしの人生よ。人に頭を下げられる謂れはないわ」
「だが、しかし!!」
「しかしもかかしもないわよ。弟分だかなんだか知らないけど、仇はアーロンだけよ。あんたたちにどんな事情があったかなんて知らないわ。これ以上、巻き込まないで」
ジンベエは呆けたようにナミを見た。
魚人と人間とのトラブルで、魚人の自分が関係ないと言われたのだ。種族ではなく、個人の問題だと。
なにをしても魚人が悪いと言われ、なにをされても人間だからで括られた。ジンベエは遺志を継いだはずだ。
アーロンは放逐したのだ。海賊というなら確かに関係ない。それでも、弟分だと、今でも思っている。だから、頭を下げた。関係者のつもりでいた。
違うらしい。しかも、迷惑だと言う。
その通りだ。魚人というだけで嫌われ、人間というだけで憎む。互いに会ったこともない同士が、思い込みだけで感情を募らせる。
魚人と人間が互いに傷つけ合う中で、全部がそうではないのだと、一括りに考えるのはやめなければならないのだと、命をかけてそれぞれに、別の形で伝えられた。
それをみなに伝えるにはどうすればいいか、わからなかった。とりあえず、みなの盾となって、七武海にも所属した。
ジンベエは魚人を代表した。ジンベエが魚人になってしまった。魚人がやったことでジンベエが責められ、責められるジンベエを見て、魚人がそういうものだと決めつけられる。
理不尽だと思っていて、そうではないと考えていたことを、義理人情に縛られて、自分がやっている。
嫌われているはずだと、常識を押しつける。
おかしなのは、被害者がそれを言っていることだ。
「そりゃまあ、あんたのやったことが迷惑じゃなかったとは言わないけど、そんな責任とか背負いこまれてもね」
この少女はなんの気負いもなく言った。戸惑うというか、思っても見なかったみたいな反応をした。
アーロンの事情を龍驤を通じて理解したナミは、逆に魚人海賊団の事情をあんまり知らない。
村人や麦わらの一味と自ら決別しようとしたナミにとって、なんかこう、複雑な感じがする。
「わしの兄貴は、人間に殺された」
「そうなの? お気の毒ね。なに? わたしたちは無関係だって」
呆けたままのジンベエを、ナミは訝しげに見つめた。その目から、涙が溢れた。麦わらの一味はギョッとした。
「そうか。わしは、わしは仇の名すら知らんのか」
オトヒメは人間が殺した。海賊だった。それだけしか知らない。
タイの兄貴は奴隷になった。撃ったのは海軍で、中将だった黄猿が指揮をしていたはずだが、それだけしか知らない。
いつの間にか、人間という種族に押しつけていた。
「落とし前つけるか?」
ジンベエはビクッとした。そして、驚いたように涙に手をやった。周りを見渡して、エースを見つけた。
ジンベエの友人だ。
「おい、大丈夫か?」
「いや」
考え込むように目を伏せる。沈黙が降りた。
ジンベエに声をかけた龍驤は、ルフィの背中に隠れている。ほくそ笑んで、ぴったり張りついている。ルフィは緊張している。目的はわからないけど、企んでるなあと一味は思った。ジンベエに同情した。
一番被害を受けるのは、仲間である麦わらだ。