一見、大王アッティラに変調はなかった。
常の如く軍勢を指揮し、築き上げた大帝国の拡大に腐心し、ヨーロッパ世界に破壊と恐怖、略奪の悲劇を振りまいた。もはや悪魔と神を抱き合わせた神々しさをも幻視させる、まさに神の鞭なる威名を体現する暴れようだった。その威厳は遂にヨーロッパ世界を襲う恐ろしき災害にすら手綱を掛け、自らに忠実な無敵の戦士に仕立て上げたという。
災害の名はヘルモーズ。彼が当初振るってきた暴虐は鳴りを潜め、何時如何なる時にもアッティラの傍を離れることはなくなっていた。その変わりようには味方は困惑し、特に不気味に感じていたのは敵であるはずのローマ帝国だったという。戦勝を重ねようともフン帝国の略奪に加わらず、国政の場ですらヘルモーズはアッティラから離れようとしなかったのだ。
東西のローマ帝国をして帝国最大の脅威と見做していた悪魔の沈黙は、却って両帝国の不安を煽り、わざわざ使節団まで組織して大王アッティラへ謁見を申し込み機嫌を伺ったというのは余りに有名な話だ。それほどまでにローマがヘルモーズを危険視していたという証左である。特に東ローマ帝国の新帝は、即位する前からヘルモーズの名を聞いただけで挙動不審になっていたらしい。
新帝は没するまでの間、病的なまでに警戒心を強く持ち、複数の秘密の脱出路のある都市でなければ安眠できず、また複数の影武者や腕の立つ護衛を集めるのに執心し、更には教会を宮殿の中に建てると毎日祈りを捧げていた。その振る舞いを諌めた臣下や、ローマ教皇レオ一世にまで新帝は喚いたという。お前たちはヘルモーズを見たことがないから分からないだけだ、と。
新帝はかつてテオドシウス二世が亡くなった、首都を襲った災害の数少ない生き残りだった。彼の怯えようが都市伝説、戦場伝説に過ぎなかったヘルモーズの神話的武勇に一定の信憑性を持たせることになったのだが、それはさておくとして。
ヘルモーズは大王の命令も聞かず、アッティラから離れることを断固として拒絶した。あの強欲で貪欲な悪魔が金品に目もくれず、色香を漂わせる美女に反応せず、影の如く大王に寄り添っていたと言えば、史に詳しい者にほど驚嘆と不審を芽生えさせるだろう。
常に傍にいたと言っても、ヘルモーズは甲斐甲斐しく大王の世話をしていた訳ではない。身辺の世話は侍女達に任せきりで、本人はただ近くにいるだけで平然と昼寝をし、飯を食い、衆目を気にせず筋トレしていた。そして気に入らない者は味方でも、他国からの外交の使節であろうと撲殺したという。大王は軽くヘルモーズを叱責するだけで罰することがなく、また周囲の者も甘い大王を諌めようともしなかった。ヘルモーズが周囲から特別視されていたのは間違いないだろう。
神の災い、神の鞭、大進撃。サタンの角、
私的な時間となると大王は信頼する戦士と隠れ、人払いをして二人きりで過ごすことが多かった。気になった臣下が二人で何をしているのかと問うと、大王は戦をしていたとはぐらかしたという。どんな戦なのかまでは語らず、臣下は気を揉んだ。
また戦士は二度、大王の命を救っている。とある侵略戦争で敗退した東ローマ帝国が、なんとか一時の停戦と和睦を求めて派遣した使節団の中に刺客が紛れ込み、大王を刺殺しようとしたのだ。
だが完璧に使節団員になりすましていた刺客を戦士は見ただけで見破り、交渉の最中であろうとお構いなしに服を剥いで、持ち込みを禁じられていた短刀を奪い取り、刺客の首を捻じ切った。
更には食事に盛られていた毒にも勘付いて、毒を盛った者を自ら捕らえると強引に毒を食わせて苦しみ抜かせて殺している。以来、ますます大王は戦士を傍から離そうとしなくなり、彼の所業を咎めることすらなくなったのだ。
とはいえ、その頃になるとそもそも咎められるようなことを滅多にしていなかった為、大王が戦士を特別扱いするのを諌める者は現れなかった。
ある時、宴の席で大王は戦士に笑いながら言ったという。これまで大王が笑顔を見せたのは戦士にだけだった為、臣下はたいそう驚いたらしい。
「行儀のいいフリが上手くなったな」
献身と忠誠への褒美として、大王は獅子を贈ろうとしたが、戦士はその場で獅子を縊り殺して周囲を驚かせたという。獅子を簡単に、しかも素手で殺してのけたのもそうだが、大王からの褒美を無用だと無言のまま態度と行いで示して、その忠心にフン族は感動したのだ。
「アレは皮肉はやめろという意味だ」
大王は戦士の態度をそう訳したが、一部の忠臣は戦士の行いに倣い、以後は大王からの褒美を固辞するようになった。現地調達という名の略奪は規模を増したが。
しかし蜜月の時は終わる。大王が病床に臥せったのだ。時は西暦453年――大王アッティラが没する一週間前のことである。唐突に史へ現れ、唐突に去った戦士は三度目の運命を遂げる。
「んんっ……! ぅぅううう――!」
想像を絶するわけではない。だが今まで体験したことのない未知の激痛に、アルテラは満面に大粒の汗を浮かべ、歯を食いしばって耐えるしかなかった。
アルテラが台頭する以前、最初期から仕えていたフン族の老婆が産婆として手を尽くしている。その老婆はアルテラの性別、正体を知る数少ないフン族の一人であり、彼女の状態を把握する部外者の一人でもあった。――そう、部外者である。同席している俺は無言で生みの苦しみに耐えるアルテラを見詰めつつ、しくじれば殺すという凄絶な殺気を老婆に突き刺し続けている。
アルテラが懐妊し、今に出産しようとしていることを知っているのはこの産婆と宮廷魔術師だけだ。宮廷魔術師は膨らんでいたアルテラの腹を誤魔化す為に魔術を使っており、用済みとなった今は秘密を守る為に俺が始末している。魔術師は信用してはならない、余計なことをされる前に殺すのが一番だ。産婆は俺に殺されたくない一心で、死に物狂いでアルテラの出産を手伝っているが、事が済めばコイツも殺すつもりでいる。
「へ、へる、もぉず、ぅ……!」
「………」
「て、手っ、握って、くれ……」
差し伸べられた手を、黙って握る。
俺は何をしている。何を見ている。そう自問する時期は過ぎていた。
ただ確実に、着実に迫る運命の時を前に心が凪いで、神聖な場で重苦しく沈黙している。
アルテラの力は知っている。だが限界を超えて強く握られる手が、ギチギチと異音を発していて、途方もない痛みに耐えて生きた証を残そうとする様を俺は見届けようとしていた。
「あぁっ! ぁ、ンンっ……ぅあ……!」
手が痛い。悶える女の力はかつてなく、この瞬間のアルテラは俺よりも力が強いのではないかと錯覚させるほどだ。それこそあのハンマーの男に殴られた時よりも、ずっとずっと強い。痛い。
喘ぎ、苦しむ。拷問されているかのように、内臓を掻き回されているかのように、男が同じ痛みを味わえば途中でショック死するであろう、灼熱の炎の海を泳ぐかのような、凄惨な様だ。
血が流れている。このまま死んでしまうのではないかと思うほど、アルテラが血を流している。俺は何も言わず、力も込めず、ただただアルテラの苦しむ様を目に焼き付けた。
――あ、ああっ! う、生まれない! 生まれません! ややこが、出てきません! 逆子で!
産婆が悲鳴を上げている。股から片足が出ている。頭から出てきていない。
まるでこの世に生まれるのを拒むかのように、母の胎内に縋りついていた。生まれてしまえば永遠の別れが来るのだと理解しているかのようである。
「っ……! おねがい、おねがいだ、たの、む……生まれて……くれ……!」
アルテラが産婆の言葉を聞いて必死になる。
こうまで、何かに必死になる女だったか。
何人も殺してきたのに。何人も踏みにじって来たのに。破壊者とは悪魔だ。鬼畜だ。外道だ。なのに何を必死になる。他人にしてきたことの一部が返ってきただけのことだろう。
心の中で誰かがそう言った。それを踏み潰して殺しながら、俺は一瞬瞑目すると腕を払い、赤子の脚を掴んで引っ張る産婆を退かした。
アルテラ。踏ん張れ。俺がやる。一気に行くぞ。
「……! わ、かっ……た……! 来て……!」
赤子の脚を掴む。ぎくりと強張ったような反応があった。誰が触れてきたのか解っているらしい。
やだやだと、やめてと、お願い、と。赤子の声がした。
聞こえたのは俺だけだ。俺は構わず、容易く赤子を引き出す。アルテラが、かはっ、と空気を吐き出し痙攣する。片脚を掴んでぶら下げた赤子はしわくちゃではあったが、歯が生え揃い、赤い髪も豊かで、肉付きもよく体格に秀でていた。
赤子が雷鳴のように泣き喚く。ひどい、ひどいよ。どうして? 父さん。ねえ……帰してよ。赤子はそう泣いている。俺は冷めた目でそれを見ながら清潔な布で包み、こちらを見るアルテラへ赤子を渡した。その前にへその緒を手刀で切っておくのは忘れない。
「ああ……ああ……生まれたん、だな……」
アルテラがはらはらと透明な涙を流す。赤子を抱いて、自覚のない涙を溢れさせている。
俺は産婆を睨んだ。何をしている? 我に返って慌ただしく動き出した産婆を尻目に、赤子を見詰め続けるアルテラを一瞥して、俺は退室した。
「――この子の名前は、マナガルム。太陽狼、マナガルムだ。アレスとマルスのどれにしようか悩んだが、お前は狼だからな。ヘルモーズ、お前の
男のガキを抱いて、柔和に微笑む母親。
ガキは安心したように寝入っており、母親に抱き着いて離れない。
マナガルムか。名前だけは勇ましい。
母親は子供を俺に渡してくる。やめておけと思った。すぐに泣き出すぞ。
押し付けられた。案の定、すぐに目覚めて俺を視認し、大気がビリビリと震える大音声で泣いた。
生まれてすぐのガキは目が見えないもんだが、コイツはもう目が見えているらしい。乳歯も髪もしっかりあるし、肌にも張りがあって到底0歳児には見えなかった。いつもなら五月蝿いガキだと投げ捨てているところだが……そうする気に、ならない。
赤子は、ピタリと泣き止んだ。
「………」
ジッと、俺の目を見ている。
俺とアルテラのガキなのに髪は赤い。肌は褐色だ。瞳は琥珀色で、既に小さな知性の光が宿っている。俺が色んなモノを食って混ざり過ぎている影響だろうか、純粋な人間ではない。
いやアルテラ自身が人間ではないのだ、父母が人間から遠ければガキもそうなる。当然だ。
やがて、マナガルムは笑顔を咲かせた。きゃっきゃっ、と無邪気に笑っている。
困惑した。俺に笑いかけるガキなんざ、見たことがなかった。アルテラが愉快そうに笑う。
「ふふふ、父親だと解っているらしい。自分を庇護し、愛してくれる奴だと」
……どうだか。俺は何人もいた自分のガキを殺した奴だぞ。
俺はマナガルムを、無言で付いてきていたアスラウグに渡した。途端に泣き喚くマナガルムに無言のまま動揺して慌てている様を無視し、アルテラと並んで平野を歩いていく。
歩幅が違う。合わせてやった。アルテラは普段の格好に戻っていて、麗らかな日差しの下を歩く。
まるで唄うように、誇るように、恥じるように、アルテラは言った。
「私は破壊者だ。文明を破壊し、平らにし、踏み均すばかりで、何も作り出しては来なかった」
サァァ、と穏やかな風が吹く。吹き抜けた風にさらわれヴェールが彼方に飛んでいき、短い白髪を晒したアルテラは目を細めて風の往く果てを見通した。
太腕を見下ろす。俺はどうだ? アルテラと同じだ。いやもっと酷い。なのに後悔がない。
なぜだ。知れたこと、俺は自由だからだ。同時に、最後は誰よりも何よりも酷い責め苦に遭い、永遠に苦しみ続けるべき悪魔でもある。だがそんな客観視をしてくるはずの、心の中の小さな誰かも今はいない。少し前に、踏み潰して殺したからだ。
俺は自由だ。だからこそ不自由で、地獄に落ちたとしても責め苦は負ってやる気はない。逆に地獄の奴らを責め殺してやる。死んだ後でまた死ねるかはともかくとして。
「破壊してばかりだったから知らなかったよ。創ることは、こんなにも……大変だったんだな」
「………」
「なあ、ヘルモーズ」
次第にアルテラと距離が離れる。
俺は東北に、アルテラは東南に歩く先を変えていたから。
少しの距離を開けて対峙し、アルテラの顔を見た。
綺麗だった。美しかった。今まで見た何よりも、手に入れてきたどんな財宝よりも。口元を伝う赤い線も、鼻から溢れた命の赤も。今に散りそうな華のようで。
神剣を抜き放つ。戦斧を肩に担ぐ。
「約束して欲しい。マナガルムが一人前になるまで、守ってくれ」
「………」
「その後はいい。生きるも死ぬも自己責任だ。だから……頼む」
頷いた。元からそのつもりだった。
安堵したように吐息を溢し、アルテラは俺の目を見る。
俺も見た。
言葉を探している。アルテラは何かを、なんとか、必死に、追い立てられるように探っていた。
未練がある。執着がある。恐怖が、あった。アルテラは震え出す。ガクガクと情けなく。
わなないて、唇を震えさせ、双眸を濡らし、言葉を――
「――わ……私はっ、し、しにたく――」
戦斧の先端で、地面を叩きつけ轟音を響かせた。
言うな。言葉は不要だ。その言葉は呪いだ。
ビクリと震えた後、俺の目を見たアルテラから震えが消える。
深呼吸をしていた。震えている手に、力を込めている。
「……すまない。ありがとう。謝る、感謝する。危うく――お前を呪ってしまうところだった。呪いで縛り付けようとしてしまった」
「………」
「だから、これが最後だ。最後に――これだけは言いたい。これだけは――言わせてくれ」
凛として神剣を虚空に薙ぎ、アルテラは透明な微笑みに満開の華の色を添えて、言葉を紡いだ。
俺はそれを聞き届ける。
何がすまないだ、何がありがとうだ。呪いだと? 馬鹿が、その言葉も呪いだろうに。
だが遮らなかった。言いたいことを言えばいい。アルテラも、自由だからだ。
殺気のない、透徹とした剣気と戦気。母親は、女は、最期の最後に大切な呪いを遺した。
「愛していた。愛している。愛を、捧げよう。
――さらばだ。私の、愛」
アルテラ
破壊の容易さを知った。創造の苦しさを知った。
しに■く■■。
見届けたい。
叶わない願いだ。だから託した。呪いを遺して。
ヘルモーズ
言葉は、やはり不要だった。
だが不要でも捨てずにいる自由がある女を知った。
一度目は運命を逃した。二度目は運命がついてきた。
三度目は、捕まえた。
そして四度目の運命がヘルモーズを待つ。
愛した女の遺体は、丁重に、容赦なく、細胞の一片も残さず焼却した。
その女は自由だ。さらばと言われたのなら、共にはいけない。