蒼銀の蛮族、筋肉にて運命を破る   作:飴玉鉛

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第13話

 

 

 

 

 嗚呼、嗚呼! 神々の滅亡を予言しよう!

 

 過酷な飢饉が先触れとなる。春も夏も秋もなく、三度続きし大いなる冬――狼の冬(フィンブルヴェト)により人々は飢え、家族同士ですら殺し合い奪い合う凄惨な戦が起こるだろう。

 憐れなるかな。人間世界(ミズガルズ)の全ては人の手により破壊され、三冬の苛烈な雪と風で人間世界は閉ざされる。人々の倫理や自制、理性は崩れ去り、神秘ならざる生物は死に絶え、斯様な景色を見るまで最後の時が訪れたのだと神々は知る術がない。

 おお、おお。ノロマな角笛の持ち主よ。ギャラルホルンを吹きしヘイムダルよ。太陽が恐るべき氷狼の子スコールに呑み込まれ、その兄弟ハティに月が粉砕され。大地は脆く儚くなり、豊穣を約束せし樹木は腐り倒れ、山は支えを失くし平らに均される。星々すら地に流れ落ちた斯くなる時、あらゆる神々の施せし戒めは力を失い、あの氷狼フェンリルがグレイブニルを食い破り解き放たれる! 世界蛇ヨルムンガルドが氷狼の雄叫びに呼応して海底を離れ陸地を目指す! 自由を手に入れるのだ! その時ようやくノロマなヘイムダルは角笛に口づけ終わりの時を報せるだろう!

 

 世界蛇の這いずりで津波が起こる。大地を洗い、押し、地上を無に帰す。ああ、ああ! 悍しい! 津波に乗り巨人族とヘルの死者を乗せた船がやって来るぞ! 囚われていたはずの悪神ロキが軍勢を率いている! 南を見よ! ムスペルヘイムから炎の剣を持つ最も強大なスルトが世界を焼き払うぞ! 神々は滅びに対抗する為に勇者エインヘリヤルの軍を率い、決戦の地ヴィーグリーズの平野に向かうだろう。遅きに失する、先頭に視えるぞ、黄金の兜と輝く鎧を纏った大神の姿が!

 

 勇壮なるかな。光輝なるかな。眩き大戦は誉れと永遠を約束する。だが忘れることなかれ、終わりもまた約束される。神々の世は終わる。人の世界は終わる。全てが灰となり、然る後に再生し、神の失墜と終焉により人の時代が訪れるだろう。全てが終わる、多くの神は死に絶える。私には視えるのだ! 予言の成就する時が、私には視えているのだ!

 人間も巨人も、妖精も小人も、怪物も動物も、悉くが絶滅する。空を灰が塞ぎ、大地は海の底へと沈んで消え、再生と復活に長い時を要する。滅びは約束された、ならば再生の時を希望とせよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予言を知るのは。

 

 未来を視たのは。

 

 大神オーディンと、黄昏を予言した女亡霊。そして一握りの傍観者。

 

 しかし、予言は一柱を除いて気づかぬ内に狂っていた。魔術神、智慧の神、主たる神オーディンだけが狂いを察知していた。

 予言の時が、黄昏の時が早まったのだ。

 オーディンは探した。運命の歯車が狂った要因を。そして見つけた。

 人の身にありながら人を超え。倒されるべき邪悪でありながら英雄であり、英雄でありながら正義に反する悪逆だった。為すのはありふれた悪事。略奪、殺戮、陵辱、王権の侮辱。だがありふれて俗に過ぎぬ者でありながら、成るのは凡の規格に収まらぬ暴虐である。

 悪の光。野蛮なる自由。蒼き外套を翻す、白銀の戦斧を携えた邪な(ひじり)。言葉を知らぬ白痴であり、背信を呪う力の化身。人の想う壮絶な暴力の概念の体現者にして、白痴でありながら叡智を宿す野生の賢者。大神は見つけ出した、この正義と悪を併せた光と闇の暴力を。人の規格を人のまま超え、末に既存の規格を超克する此の世の歪を。

 

 神々の世は終わる。神代は終わる。後に、人の世が始まる。

 

 この運命を受け入れ、人の世へと時代のバトンを渡そうとしていた決心が、揺らいだ。

 叡智を誇る魔術神に野心が芽生えたのだ。ささやかで微かな、運命の空隙を見つけた故に。

 果たしてそれは野心であるのか。判然としないが、欲であることに変わりはあるまい。一度芽生えた欲を自制するのは、智慧あるからこそ神でも難しいことをオーディンは識っていた。

 

 予言の時が早まった。ならば、狂いは正さねばならぬ。が、何も正す必要はあるまい。運命が狂ったのなら狂ったまま時を進めよう、狂いに狂った末に、僅かな空隙は広まるか、閉ざされるか。

 賭けてみよう。狂いが自ずと正されたなら、運命に従う。正されずに空隙が広がりを見せるのなら従わない。己の視た、今も視える未来があてにならないことにオーディンは歓喜していた。

 視えない光、反英雄にして大英雄ヘルモーズ。肉眼でしか見えず、未来視では視えぬ者。すなわちこの歪の根源こそが、真に運命が白紙の者! 視えないことが、視えぬモノが在ることが、これほどまで心を踊らせるとは! 叡智を手に入れる代わりに手放したモノが、ここまでこの平らな心を熱するとは! オーディンをして、見えなくなっていた命の喜びだ! 未知への恐怖だ!

 

 知らぬことは恐ろしい。恐ろしいのに楽しみだ。何をする、何を成す、見てみたい――人の身の強さの果てを。同じ舞台(時間)に立つ喜びを。

 

 

 

 果たして義悪の闇光、蒼銀の戦狼が馳せる。

 

 

 

「あれは……何者(なん)だ」

 

 名を残した勇士エインヘリヤルの軍勢が大暴の気配を感じて空を見上げた。

 ヴィーグリーズの平野にて干戈を交わす巨人の軍勢もまた戦慄と共に止まり空を見上げる。

 血で血を洗う死闘の最中、束の間の空白が奇妙な沈黙を齎した。

 

 恐るべき神狼、大吹雪を齎す冬の化身、冬狼フェンリルと大神オーディンが壮絶な一騎打ちを演じている最中のことである。

 全てを凍てつかせる氷狼と、神槍グングニルとあらゆる魔術を行使し戦う場へと、雑多な軍勢を飛び越え参じるモノがある。それを見たエインヘリヤルのシグムンドが呆然と呟いた。

 もしも戦乙女の長姉が使命を果たしていればエインヘリヤルとなり、父と共に戦っていたであろう戦士王シグルドが此処にいたなら、父王シグムンドの呆然とした懐疑に答えていただろう。そして仮に答えなかったとしても、アレを知る者が戦慄きながら答えていた。

 

「あれは、ヘルモーズだ」

 

 あれがヘルモーズ。あれこそがヘルモーズ。ミズガルズの全ての勇士が生者と死者の区別なく耳にする伝説的威名。未だ健在なる生身の勇者。生きとし生ける者、死せる勇士達が憧れ、恐れ、悪なるに構わず自由に力を示す巨雄。ミズガルズ最強の戦士!

 エインヘリヤル達はその名を唱える。嫌悪で、侮蔑で、恐怖で、そして敵ではない安堵で。

 大いなる勇名を馳せ、戦士の館ヴァルハラに招かれたほどの勇士だからこその、圧倒的な力への敬意と憧れを込めて盾を打ち鳴らした。勇士の軍勢は剣を握り締めた。槍で地を叩いた。

 

「ヘルモーズ」

「ヘルモーズだ」

「ヘルモーズが来たぞ!」

「ヘルモーズ――ッ!」

 

 

 

雄々々々々々(ギィィイイイイ)――――圧々々々々々々々(ヤァアアアアアア)――――ッッッ!!」

 

 飛来した。襲来した力が凍てつく冬の化身の頭蓋を叩きつける。振り下ろされた戦斧がフェンリルを大地に叩き落とした。目の前の獲物、オーディンだけを見て、全神経を傾けていたからこそ反応できなかったフェンリルは地響きを伴う轟音と共に地に伏せる。大山に伍する巨狼の頭上に着地した蛮神は、白銀に輝く戦斧を片手に空に在る魔術神を見上げた。

 香り立つ武威。積年の研鑽により完成した力。

 漲る暴力のオーラを纏う狂気なき()戦士の眼光を、どこか狂喜に光っているようにも見える隻眼で魔術神は受け止めた。オーディンはグングニルを下ろす。凶狼は魔術神に片手を差し出し、強く、強く、恐ろしく強く、明確に要求した。殺気を隠そうともせずに。

 

 寄越せ。

 

「――よかろう」

 

 オーディンは躊躇せず、もったいぶらず、そして命じず、交渉しようともせずに虚空へ指を這わせ文字を刻む。刻まれた魔術が溶けて消え、何者かに課していたあらゆる戒め、制限を解除し、永遠に手放す措置を下した。それを見届けた蛮神は鼻を鳴らし、差し出していた手を握り締め、中指だけをおっ立ててオーディンに不服従を示す。怖い怖いとオーディンは笑った。

 

 なるほど、解ってはいたが、赦しはしない。後で半殺しにする、か。

 この大神たる身を。人が。混ざりはしても人のままある者が。

 

 だが。

 それは。

 後で(・・)だ。

 つまり。

 即ち。

 今は(・・)

 

 僅かな意識の断絶。目覚めた獣が我に返る。

 地を嘗めている? 数秒とはいえ気絶していた?

 ……誰が? 誰に? 己の頭の上に立つ――立ちながら凍らず、屹立する小さな人間?

 意識を覚醒させた冬の化身が屈辱に身を震わせ、跳ね起きる。反動で弾き飛ばされた蒼銀が、不幸にも着地先にいた巨人を撲殺して止まった。

 見上げるは巨峰。雪積もる蒼白の大狼。総身を侵す氷の波動を、筋肉の圧だけで粉砕する。

 確かに効いた。気絶した。だがそれは、意識の外からの英雄的殴打だったから。意識の内に捉えた今はもう無様は晒さない。神代最高峰の神獣、神をも喰い殺し得る極北の極寒。戒めから解放され自由を得た冬狼は遠吠えを上げた。悪神より課されし使命を果たす為、己を生み出し自由を与えたモノへの義理を果たす為、どこか己に似ていながら決定的な差異を匂わす蒼銀を睨む。

 

 冬狼はたかが人間などと侮りはしなかった。獣の本能ゆえか? それは、ある。だが何より冬の化身に警戒心を捨てさせなかったのは、その嗅覚が捉えた匂いが警戒を訴えていたからである。

 この蒼銀の正体が謎だ。人間である、だが違う。いや違わない? 獣であり妖精であり巨人であり精霊であり星であり神である。だが違う、違わない。人間の匂いと他の匂いが雑多に混ざり、血と肉の全てが混ざった悍しい雑種だ。後天的に獲得したものが全て、一切の矛盾や対立なく束ねられ、桁外れの力を持っている。神の域にあると、冬狼は感じた。

 獣に侮りはない。冬狼は認めた。これは、敵だ。脅威だ。そして闘争の相手たり得ると見ながらも確信を抱いていた。一対一で戦ったなら、己が勝つ。己がこれを食い殺すだろう、と。

 

 力の格差の天秤は、己に大きく傾いている。負ける要素はない。

 

「生憎」

 

 ニヤリと嗤うのは智慧の神。大神にして魔術神、そして戦神としての側面も持つオーディンだ。――対峙しているのは一体の敵だけではない。蒼銀を前衛に、後衛に下がったオーディンが神槍を振るう。神槍グングニルは武具だ、しかし本質は違った。魔術神オーディンが振るう魔術師にとっての杖、礼装。彼の扱う魔術の効力を甚大に跳ね上げる神杖なのだ。

 オーディンの魔術が蒼銀の力を強化する。神の援護を受けた蒼銀は、しかし拒まなかった。これは戦である、そして戦とは勝つ為にやるもの。勝利にも貪欲な蛮神に、オーディンの齎す力を拒む理由はなかった。オーディンを殺すと決めていたなら拒んでいただろうが、そうでない以上はオーディンの力も己の力として計上する強かさが蛮神にはある。

 

 緊迫した空気が満ちる。睨み合う冬狼と戦狼。この瞬間――冬狼は逡巡したのだ。まだ蛮神より己が強いのは間違いない、だが、しかし、背後に控える魔術神が邪魔だ。どうする、どうする。

 頂点に座す神獣は迷いを捨てた。魔術神に余計な時間を与えてはならない。大きさで言えば蟻と象、如何に手強くとも一個の生命であることに変わりはあるまい。この瞬間、フェンリルは捨て身の覚悟を固めた。深手を負うのを許容し、恐るべき蒼銀と魔術神を屠り去る為に全力を振り絞る。吹き荒ぶ嵐が世界を純白に染め上げ、降り注ぐ雪嵐がフェンリルの姿を消した。

 世界を染め上げる白き災害は温度を奪い、視界を塞ぎ、命を侵す。幻のように消えたフェンリルの姿を見つけ出すことはオーディンにすら能わなかった。

 これこそが冬狼フェンリルの本領、認知を奪い熱を奪う氷の権能だ。炎の巨人スルトと双璧を成す獣の頂点は、確かに蛮神の目をも欺いている。

 フェンリルに実体はない。冬となった、雪となった、嵐となった。雪粒の一つ一つが氷狼フェンリルであり、嵐の全てが息吹である。体皮が霜に覆われ、吐く息が白くなり、内臓はおろか血すらも凍りつかんばかりの寒さに蛮神は目を細める。あらかじめこの権能を見越していたオーディンの援護がなければ、あるいはこのまま氷像と化していたかもしれない。それほどの力。

 

 生きたまま丸呑みにするのは危険だ。フェンリルは正面から蒼銀に突進し、彼を撥ね飛ばした。骨という骨が粉砕され、内臓の全てが破裂し、即死しかねない衝撃に蛮神は血反吐を吐いて吹き飛ばされる。魔術神の張った結界に受け止められねばどこまで飛んでいたか。不可解さに蛮神は舌打ちした、接触の瞬間に確かに戦斧を振るったというのに当たっていない。

 実体のない敵との交戦経験はある。殺した経験だ。敵からの攻撃の瞬間は実体化しているもの、その瞬間に殴り殺したのだ。だが、フェンリルには通じない戦法だった。フェンリルからの突進は当たるのに己の戦斧は当たらない。一方通行である。なぜ? しかも接触の瞬間に熱を奪われ凍りついている。気合いを込めて身を覆う氷を破砕したが、何度もできることではない。

 後数回で熱量の全てを奪われ死ぬだろう。攻撃は一方通行、当たれば即死級の暴力的な質量と力。熱を奪う冬の化身。これがフェンリルだ。予言通りならオーディンですらも敵わず、食い殺される瞬間にフェンリルの実像を固定し、自らが食い殺された直後に息子のヴィーザル神に逆撃による一撃を加えさせ、そのまま倒し切らねばならなかったほどである。

 

 奇しくもオーディンとヘルモーズの見解が一致する。

 

 勝負は一瞬、勝機は一つ、機会は一度。逃せば死。戦士は戦斧を投げ捨て、無手となる。武器を振るうというインターバルは致命的だ。己が剛力を振るうことこそ必殺の術。肺が凍り、破れるのを許容してまで蛮神は深呼吸する。体内を侵す冷気で命が縮まった。

 雄叫び。命を燃やす。否、己を燃やすのは邪竜の炎。

 蛮神を中心に噴出した獄炎は、しかしフェンリルの齎す極寒の冷気の前に無力である。だが確かに、ほんの微かに、蛮神の心臓が脈打つ熱量を確保した。息をするだけ、命を繋ぐだけで喪失していく力。結界を自らの周りに張り身を守るオーディンですらも同じだ。フェンリルは間断なく突進する。シンプルな攻撃こそが付随する権能を活かす最適にして最強のワンパターン戦法。シンプル故に破る隙が少なく、対抗手段も複雑なシステムの介在を赦さない。

 オーディンの結界が軋む。同時に複数体存在しているかのように、フェンリルの氷幻がヘルモーズに攻撃する。ヘルモーズは体を丸め、ただただ防御に徹さざるを得なかった。まだか、まだか、まだか! 己だけでは完封されるのは最初の一撃で悟っていた。故に場を整える役を魔術神に投げて耐えている。加速度的に弱まる命の火――蛮神は魔術神の逆転の一手を待った。

 

 なぜだ。らしくないにも程がある。己の力だけを恃み、戦うのが蛮神の誇りではないのか。そう詰るのは彼に踏み躙られた怨嗟だろう。だが浅い理解だ、蛮神を真に理解している者なら分かる。

 魔術神オーディンをあてにしているのは、義理があるからだ。通すべき筋があるからだ。かつて踏み倒していた恩を清算しておこう、娘を()()()義理として共闘してやろう、そうして過去と現在の義理を果たすことが矜持である。さもないと後で半殺しにできない。

 

 やがてオーディンの身を守る強固な結界が破られる。ヘルモーズの持つ熱量も底を突く寸前だ。あと一息で冬狼は獲物を仕留められる――だがオーディンは準備を整えきった。

 いくぞ。応。叡智持つ者達は合図なく、言葉なく、間を読んだ。獣はトドメの瞬間に最大の力を溜め渾身の一撃を放つもの。その本能が生んだ僅かな隙をオーディンは逃さなかった。

 神槍を掲げ、神が用いる原初のルーンが解放される。宣言した。

 

大神宣言(グングニル)――大神刻印(オホド・デウグ・オーディン)

 

 北欧神話の主神オーディンの魔力が唸りを上げた。辺り一帯、フェンリルの権能が覆う極冬の領域全体を範囲とした大規模な神炎が発される。

 生存している敵対者の能力に干渉して全解除し、更に対象の各能力値を大幅に減退させ、常時発動型の権能やそれに類する異能を発揮していた故に――冬狼の身動きが強力に阻害された。

 何――声なき驚愕は獣のもの。雪嵐が掻き消え、実体化させられたことに動揺した――したはず。するはずだ。だが、()()()()()

 魔術神こそが動揺した。こうなるのを獣の本能は嗅ぎ取っていたのだ。冬獣は敵を易々と仕留められるとは最初から考えていなかった。相手がオーディンだけなら勝ちを確信して隙を晒し、彼の後継たるヴィーザル神に殺られていただろう――だがここには蛮神がいる。

 

 油断などない。あるはずもなかった。

 

 炯々(ギラリ)と蛮神の目が光る。冬が晴れ、姿を現した眼前の獣の額に全力の拳が放たれた。彼我のサイズ差ゆえに針に刺されたようなもの――しかしその一撃は確かに致命のそれで。

 フェンリルは己を襲う針の威力に脳漿を弾け散らした。脳髄すら溢れた。だが鮮血に濡れながらも冬の化身は息絶えない。まだ死なない。来ると解っていたなら耐えられる。深手を負うのは織り込み済みだ。獣の嗅覚は叡智を超えた。そして顎が開かれる。丸呑みにするのではない、己を殺す蛮神の上体と下半身を噛み分けて寸断し逆に殺し返すのだ。この蛮神は命の宝庫、喰えばこの程度の致命傷は治る、然る後にオーディンを殺す。強かで狡猾な冬獣の顎が閉ざされて――ヘルモーズは咄嗟に下顎を足で踏み、両手で上顎を掴んだ。足を貫く鋭利な牙、両手を霜焼き凍らせる牙。

 

「ギィィイイィヤャャアアアアアア――――ッッッ!!」

 

 咆哮は断末魔にも似て。顎と剛力は拮抗するも、付随する冷気がヘルモーズから力を奪おうとした。

 力の限りを尽くす。だが、及ばないのか。赫怒を燃やしヘルモーズが奮起した。全身が膨張する、まだだ、まだ俺は出し切っていない――その声なき声をフェンリルは嘲笑う。敵に力を出し切らせる馬鹿があるか、と。吐き出される冬の塊の直撃を受けた。蛮神は口腔の目の前にいるのである。避けられる道理はない。力が弱まる。目を見開き、ヘルモーズは天と地を支えた。

 このままでは数秒の後に凍りつき噛み砕かれて終わるだろう。だが彼は、反英雄だ。反英雄だが大英雄なのだ。悪なのに義を為すことがある。英雄である故の光明が差したのを逃さなかった。

 

「――終末幻想・少女降臨(ラグナロク・リーヴスラシル)ッ!」

 

 彼に付き従う戦乙女が、全ての戦乙女達を引き連れ参陣する。白き衣を纏い高速で飛来し、『偽・大神宣言』なる光槍の雨をフェンリルの背に降らしたのだ。

 フェンリルにとっては虫の一咬み。だが、慮外の群れ。

 絶対強者である故に、同じ強者しか見ていなかった、認識していなかった神狼は、取るに足りない弱者の放った決死の特攻に気が散った。散った気は、蛮神を噛み砕かんとする顎の力を緩めた。

 遮二無二。我武者羅だった。蒼銀の戦狼は上顎を拳撃でカチ上げ、足を貫く牙を圧し折り、主の呼び声に応じて飛んだ戦斧を掴むとほんの刹那の隙間に身を踊らせた。振り抜いた戦斧がフェンリルの口の中心から、頭頂部に至るまでを斬撃する。脳が掻き斬られる。

 

 ガ、と呻いた。

 

 それだけ。それだけで、魔術神を食い殺すはずだった神獣は絶命した。

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 喘声を漏らし、息切れした。吐く息は白い。体温が極度に低下している。0度に近い。普通の人間ならもっと早くに死んでいるだろう。

 だが生きている。人間が、生きている。生身で、生きていた。

 全身を濡らす血と付着した脳髄を口に含む。習性だ。ヘルモーズはそうしなければ死ぬとばかりにフェンリルの遺骸から舌を切り取り、喰った。本当なら丸ごと喰いたい。だが消化する体力がまるでない。これが限界だ。彼の隔絶した生命力が体温を上げていき、なんとか呼吸を整えると、渾身の魔術を放って停止せざるを得なかった魔術神を見た。それから己に最後の一撃を出せる隙を生んだ救い主を見上げた。拳を突き出す。戦乙女達は――スルーズ達は頷き、地に落ちた。『白鳥礼装』という心身の絶対性を保持する宝具を纏いながら、ほんの一瞬接近しただけで瀕死になったのだ。限界だった。

 

「アスラウグ……」

 

 囁くような小さな声でヘルモーズが呼ぶ。マナガルムを保護する為に離れて見ていなくてはならなかった半神はスルーズ達を抱きかかえ、離脱していく。

 悔しさで泣きそうだった。共に戦場に立てない屈辱に震えていた。弱い、自分は弱い。強くなりたい。女の渇望は、しかし届かない。

 

「……よもや」

 

 オーディンは……呆然としていた。

 もしかして。あるいは。可能性はある。その程度に考えていた。

 だが――よもや、だ。こうして――生き残っている。

 たかが一人の英雄の介入で、死すべき運命にあったオーディンが、生き残ってしまった。

 

 運命が、破られた。予言が、外れた。無意識に頬が緩み、オーディンは笑っていた。

 

「見てみたくなるではないか」

 

 定められた運命の覆った未来(さき)を。

 成すべき仕事はある。人理の妨げにならぬこと、剪定を避けること。

 己が生き残ったのにそれは成せるのか。死して神霊とならぬまま。

 成せる。なぜなら彼は智慧の神。魔術神オーディンである。

 

 だが今はそれよりも――

 

「見事」

 

 確かに一つの運命を破った戦士を、オーディンは心底からの敬意を払って讃えた。

 

 黄昏は未だ終わらず。されど罪人は踊るだろう。ならば今は、今は、どこまで運命を狂わせるのか。狂気なき狂戦士が何処まで運命と未来を狂わせるのか。これこそまさに冠位の偉業、己を狂わぬまま狂わせ、関わった運命を狂わせる冠位の資格。

 

「ッ……ゥ、ゥウ――ッ……――ゥゥウウウォォオオオ――!!」

 

 冠位(グランド)()戦士。その産声をオーディンは聞き届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




オーディン
 見つけた。期待した。狂喜した。
 自らの生存に。有り得ず赦されぬはずの未来に。
 定めよう、固めよう。このまま剪定されたのでは申し訳ない。
 生まれた冠位の資格の持ち主に敬意を払おう。
 そして讃える。お前こそが、ユグドラシル最強の戦士だ。

アスラウグ
 情けない。情けない。見ているだけ。見ているだけか、私は。
 戦いたいのだ。本当は隣に立って戦いたいのである。
 赦してくれなかった。お前は弱い。来るなと。守るのは苦手だと。
 偉大な父(シグルド)よ。偉大な母よ。聞いてほしい。強くなりたい。
 偉大な師。最悪の下郎。最低の伴侶。憧れの戦士ヘルモーズよ。
 強くなりたい。共に戦わせてくれ。

スルーズ・ヒルド・オルトリンデ
 他の姉妹達を率いての決死の特攻を敢行した。
 フェンリルに近づいただけで一時的に機能停止するほどの瀕死になる。
 弱い。私達は、こんなに弱かった。
 でも助けになれたのなら本望だ。

マナガルム
 見ていた。ただ、見ていた。父の戦う背中を。

ヘルモーズ
 一人では勝てなかった。二人でも勝てなかった。
 恥辱に吼える。もっと力を――もっと強くならねばならぬのだ。
 己の無道は力がある故に通せたもの。力を付けるのだ。
 もっと、もっと力を。
 己の力だけで勝利する為に、蛮神は怪物に挑む。
 かつて己より奪った天に、手を届かせる為に。

 冬の化身は己を仕留めた人間に敬意を払った。
 強き者、己を喰らいどこへいく。
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